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JR化後の思い出 Feed

2014年1月12日 (日)

昭和62年6月、秋田にて。

昭和62年、国鉄の分割民営化に僕は参加せず、自ら違う道を歩くことになるのだけれど、その最初で躓いた。 よく考えると、自分の為すべきことへの方向性が定まらず、がむしゃらに進もうとしていたわけで、まず、リセットの必要性もあり、北海道への旅行を突然に思い立つことになる。

そのとき、大阪駅から乗車した「きたぐに」を新潟で降りて、そこから先、青森までの間に秋田の鉄道散策をしたのが今回のエントリーだ。

新潟から「いなほ」に乗車し、秋田を目指したが車内は混んでいて、どのみち、青森には「白鳥」の時刻に着けば良いわけで・・途中・・象潟に向かってみようと思った。 象潟(きさかた)は松尾芭蕉の句にも出てくる景勝地で、地殻変動でかつての松島のような風情はとうに失われているのだけれど、その面影は残っているらしい・・

一度、象潟の情景を見ておくのも悪くないと思ったのだ。

「いなほ」を羽後本庄で下車して普通列車に乗り換える・・ 

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普通列車は電気機関車牽引の50系客車で、そのおおらかなゆとりと軽やかさを併せ持った列車は、究極の旅情かもしれないと・・日本海から鳥海山に向けて吹く軽やかな風を存分に吸い込みながら思ったことだ。

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象潟の風景は良くも悪くも箱庭的で、それがこの当時でも生かさせているあたり、日本人の生真面目さも感じることができた。

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485系「いなほ」が不思議な箱庭的風景の中を通過していく。

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 その列車のあと追い・・ 象潟駅周辺では都市化も進んでいた。

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 走り去る貨物列車。 この頃はまだ、緩急車のない貨物列車に違和感を覚えていたものだ。

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次の列車で秋田へ。 秋田駅ホームに停車中の485系「いなほ」。

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こちらは「つばさ」

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「つばさ」の反対側。 先頭改造された車両であるのが、運転台すぐ後ろの客用扉でわかる。

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 「つばさ」と並ぶのは「たざわ」、東北新幹線との接続により、脚光を浴びた田沢湖線特急だったが、当初の利用者は少なかった。 この当時、先頭車改造を施した485系3連の運用だったと思う。 個人的にはカーブの連続する田沢湖線より、線形の良い北上線を秋田へのフィーダーとして使ったほうがよかったのではないかと思うが、やはり、盛岡の存在が大きいのだろうか。

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DD51744が牽引する立派な普通列車は男鹿線列車だ。 夕方ラッシュ時の輸送力列車。

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 その列車の機関車を客車側から。男鹿線は思ったよりずっと、印象的な路線だった。 八郎潟のなんともいえない広大な干拓地風景、寒風山の夕焼けの中の威容など・・ いま思い出しても鮮やかによみがえる。 客車はなんと50系7両・・今のローカル線では考えられない「大きな」列車だ。

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 男鹿に着いた普通列車。 50系客車は旧型客車の旅情を褒める人が多いがゆえか。。その存在がうすくなり勝ちだが、旅情も快適性も十分に旧型客車以上のものを持っていた。

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 男鹿駅、構内踏切とそこを渡る人々。

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 男鹿駅駅舎。 構内側。

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 男鹿駅駅舎、外側から。

この旅行では「北海道ワイド周遊券」を使ったので、秋田・男鹿間は別途料金を支払った。

男鹿から秋田へ戻った僕は、「暖簾」が出ていた駅構内の食堂へ夕食を求めて入るも・・「営業がまもなく終わりです」と無碍もなく断られ・・ 結局、夕食にありつけず・・当時の日記には「関西では暖簾を出している限り、店は客を受け入れるものであるが・・」と戸惑っている。 この旅行では「白鳥」車内でも酒は手に入るものの、まともな食い物にありつけず・・青森の青函連絡船待合室でカップヌードルをすすったのが・・ 今になれば懐かしい思い出でもある。

 

2013年11月17日 (日)

117系電車の変遷

11月21日で拙ウェブサイト「こうワールド」http://www4.ocn.ne.jp/~e-maiko/が丸10年を迎えます。

このウェブサイトのコンテンツの一つとして用意したのが「国鉄の思い出」でした。

後に、このコンテンツの記事をブログに移設、さらに、ブログ運営会社の都合によるアドレス変更で移設される際に、私鉄の部分をあわせ、「国鉄・私鉄の思い出」としました。

この間、10年にわたるご愛読に深く感謝申し上げます。

ありがとうございました!

今後もより一層の充実を期していく所存ですので、よろしくお願いいたします。


**********

国鉄117系は、最初に投入された京阪神用、それに名古屋地区用、そして京阪神増備100台、名古屋地区短編成化増備100台と、基本的にはあまり多くのバリエーションを持たずに製造されている。

けれど、JR化後は、運行様式の変更、後継車の登場、他線区への転出、他系列への改造が行われ、実にさまざまなバリエーションが登場した。

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まずは投入前の、公開展示回送。 宝殿駅にて。

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須磨付近、電車線を行く新快速。

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須磨付近、震災復旧なり、221系化されていた新快速が増発、再び117系の雄姿が見られるようになった頃。

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名古屋地区、投入当初の「東海ライナー」

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JR東海カラー。

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こちらもJR東海カラー。 廃車直前の頃。 悪くはないが軽い感じがする。

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福知山色。 正面に帯が回らず、間延びした印象がある。

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福知山色の新快速。 これも震災直後の増発列車で。

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岡山地区のサンライナー。

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サンライナーカラー、倉敷駅での様子。

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紀勢線用オーシャンカラー、和歌山駅で。

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オーシャンカラー、和歌山線五条駅にて。

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オーシャンカラー編成が吹田工場からの回送、大阪環状線野田を通過する。

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岡山地区の黄色い117系。 ワントーン化は117系にも及ぶ。 いくらなんでも正面窓回りの黒塗りを廃したのでは、117系独特の気品が失われる。 (これは、サンライナーがすでに廃していたのではあるが)

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岡山地区、115系の中間に挟まれている117系改造、115系3500番台。

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こちら、山口地区の黄色い117系。 イエローの彩度が岡山地区と異なるほか、正面窓回りの黒塗りが存置され、同じワントーンでも岡山地区のものほど違和感がない。

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山口地区、100番台による原色編成。 正面の種別幕は使われていない。 せめて「普通」と入れてほしい。

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京都駅における緑色の117系。 これまた・・なんとも言いがたい雰囲気だ。

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京都駅、原色の117系。 この色合いの117系は、本当に格調高い。

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湖西線で緑色の113系と並んだ原色117系。 どちらも完全に緑色になる日も近いか。

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車内。 まずは東海所属車の廃車前の車内。 ほとんどオリジナルのまま。

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オーシャンカラー編成の0番台車の車内。

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京都地区の100番台の車内。

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300番台の車内。 元は福知山線ラッシュ対応に改造されたもの。 京都に残る117系は団体輸送用と一部中間の100番台を除けばこの形態ばかりだ。

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岡山のサンライナー用の車内。 こちらも枕カバーと吊り輪以外はオリジナル。

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山口地区100番台の車内。 座席生地が広島・山口地区独特のものに張替えられている。

117_18

最後に・・ 去っていく117系。 出来れば1編成でも原色で残してほしいと願うが・・

 

 

2013年11月11日 (月)

改めて、加古川駅。

加古川駅は以前にもエントリーしているけれど、今回、別のネガフィルムが見つかり、これを見ればかつての構内の様子も分かるので、改めて、以前紹介した写真も含めてまとめてみたい。

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国鉄時代の写真から。 117系下り新快速が1番線ホームに入る。

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加古川線ホームのキハユニ15、これはキハユニ15 3で、正面窓が独特の雰囲気。 側面も客車のような一段窓。

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こちらはキハユニ15 6で大きな窓が愛嬌。 側面はバス形の二段窓。

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583系の寝台特急、「彗星」が通過していく。

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EF58 43牽引、14系客車の急行、「阿蘇」あたりか・・

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153系の新快速。 正面大窓タイプの初期型で、僕はこのタイプが好きだった。

Photo

夕方の加古川駅に西から入る気動車急行。 「みまさか・みささ」あたりだろうか。

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中線に貨物列車が停車する。 夕方のラッシュ時でホームには大勢の乗客の姿。

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1番線には改札口があった。 改札と跨線橋入り口の様子。

1_2

改札正面。 この右側にも新しい跨線橋があった。

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加古川線ホームにはキハ40の姿が。

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1番線2番線の間の跨線橋。

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2番線4番線の間の跨線橋。 留置線を越えるために跨線橋は長かった。 古レールを使った建築物も今となっては貴重だったと思わずには居られない。

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外観正面。 昭和63年ごろか。

Photo_4

外観をやや斜めに。 神姫バスは当時、どの路線も混雑が激しく、乗り入れる本数も大都市のバス並みに多かった。

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バブル期に加古川駅前が再開発され、巨大な百貨店が駅前に出来た。 その頃はまだ、駅舎そのものは旧来のままで、美しくライトアップされた駅舎は格好がよかった。 駅舎を正面から。 バス停の上屋が折角の駅舎を見る邪魔になる。

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やや斜めから。

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噴水と駅舎。 今思っても加古川駅はこの当時が最も美しい。

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駅舎全景の俯瞰。

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駅前広場の様子。

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駅前の再開発ビル、「そごう」加古川店。 すぐに経営破たんした。

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日中の駅前の俯瞰。

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駅の大時計。

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さて、今の様子だ。

加古川線ホームに103系電車。

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223系が3編成並ぶ。

実はこの撮影している後ろにも同じ223系が1編成、全て12連で都合48両の223系が集結している。

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225系と221系。

高架ホームはゆったりしたつくりで、安全面からも非常に優れた設計だと思う。

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キハ189系「はまかぜ」がゆっくりと通過する。

加古川市というところは非常に古い歴史を有していながら古いものをあまり大切に出来ない気風があるのかもしれない。

奈良駅では高架工事の際に、貴重な駅舎を改めて新駅の表玄関として使ったし、同じやり方が浜寺駅でもなされるという。

加古川駅の木造駅舎を思い返すとき、あの重厚な得がたい建造物を壊してしまったことに・・元、加古川市民としてはやるせない思いがあるのだが・・

2013年6月16日 (日)

音別の海と列車。

国鉄がJRとなったそのときからまもなく、6月の北海道に僕はいた。
写真業界にいったん道を定めたものの、はて、そこから先に道が見えなくなった・・
人の勧めで本屋に就職したものの、やはりそこは自分の世界ではなく、思い切って何もかも捨てて「きたぐに」の乗客となったのは若き日の思い出である。

行った先は北海道。
根室や釧路を訪ね、そこから札幌へ戻る途中、車窓の景色に心奪われた音別へと下車したものだ。

このあたりの感覚は長崎本線東園を訪れたときと似ているかもしれない。

Photo_4 音別の駅は意外に構内が広く、貨物線もあった。
音別駅の構内の様子。

Photo 列車を迎える駅員氏。

この列車はこのあとに乗車した「狩勝」か・・

Photo_2 跨線橋からの「おおぞら」キハ183系。
通過風景。

Photo_3 去っていく「おおぞら」
国鉄最末期の傑作で、その性能は新時代にふさわしいものだ。

Photo_5 音別の駅舎。
如何にも北海道の・・ローカル駅といった風情だ。

音別はかつて大学もあったらしく、町の作りは若々しく、けれど・・町は賑わってはいなかった。

Photo_6 音別の海岸。
黒っぽい砂浜が延々と続く。
ここで初めてキタキツネと出会った。

Photo_7 巨大なタンポポとフキ。

Photo_8 海岸すぐ傍に線路が敷かれている。

Dd51 DD51重連の貨物列車が太平洋を望み走る。

40 キハ40とキハ22の「ぬさまい」

4022 その連結部。
JRのロゴがまだ新しい。

22 去っていく「ぬさまい」キハ22。

Photo_9 上り、キハ183系特急「おおぞら」がやってきた。
黒っぽい砂浜、茫洋とした海岸風景。

Photo_10 列車の側面。
広大な北海道に似つかわしい雰囲気の特急列車だ。

Photo_11 その列車中間のハイデッカーグリーン車。

Photo_12 去っていく「おおぞら」
キハ183のこのカラーリングはとても似合っていて好きだ。

Photo_13 このあと、根室線経由の急行「狩勝」で札幌へ向かった。
その列車の出入り台。
帯広にて。

2013年3月17日 (日)

宮津線・宮福鉄道・北近畿タンゴ鉄道とタンゴエクスプローラー

   宮津線に通うようになったのはやはり、福知山線が電化され、面白みが減ってからだろうか。
平成に入った年から頻繁に出かけている。
ただ、この路線に神戸から行くのは鉄道ではどうしても大回りを強要され、最初の一回を除いてはいつもクルマで現地まで行ってから撮影なり乗車なりをしていた。
今回はJR化後の宮津線・宮福線と、先だってのダイヤ改正で定期運用が終了した看板列車「タンゴエクスプローラー」を取り上げたい。

287 まずは、まだ宮津線がJRの管轄だった頃の写真から。
由良川の橋梁が好きで、ここでよく撮影した。
まずは急行気動車キハ28系列による7連の長大編成。

287_2 気動車の急行列車をサイドから全景。
キハ28系列と言うのは、どう撮っても絵になるし、日本の風景にベストマッチングの気動車だと思う。

282 キハ28系列の2連普通列車だろうか。
なんともほっとするような光景・・僕らはかつて、こういう鉄道風景を持っていた。

28 急行列車前2両のサイドビュー。
橋の袂付近をアップにして撮影すると如何にも漁港のようなイメージが漂う。
その中を瀟洒な急行列車が行く。

Me100 建設途中だった宮福線は、昭和63年、第三セクター宮福鉄道の手によって開業した。
その宮福線開業当時の写真から。
切通しを行くMF100形気動車。
軽快気動車ながら、新幹線の座席を転用した車内にはずいぶん驚いたものだ。

65 新線開業と同時に走り出したのが週末運行の気動車特急「エーデル丹後」。
福知山まで485系(後のJR西バージョン183系)に併結されて、福知山から単独運行だった。
大江付近にて上り列車か・・

65_2 こちらは後追い、ただし撮影日は別。

Mf200 赤い車体のMF200形。
大江のやや北だろうか。
クラシックモダンを象徴したデザインは他の第三セクターとは一味違う。

Mf200_2 MF200をややソフト気味に・・
こういう撮り方がしたかった頃だ。

Mf100 福知山駅のMF100形。
こちらもソフトフィルター・・

Mf10089 MF100形が山間を走る。

Mf100_2 MF100形、夕方の光線を浴びる。

Ktr001 宮津線開業時にデビューしたのが画期的なハイデッカー気動車KTR001形由良川を渡る

Ktr001_10 大江付近で。
架線柱のない広々とした雰囲気を見ているとかつての大陸の特急列車を思い浮かべると書けば言い過ぎだろうか。

1818 その頃の宮津線由良川橋梁をわたるキハ181系「あさしお」
8連の長大編成は今では考えられない。

Ktr001_2

「タンゴエクスプローラー」をサイドから。

284 やや短くなった編成の急行列車。
キハ28系列。

1815 同じく、やや短くなった特急列車。
5連だ。

28_2 JRから譲渡されたキハ28系を改造して投入したKTR1000・2000形による2連の普通列車

ちょうど、上記写真のキハ28系2連と似たような運用だった。

28_3 KTR1000.・2000を遠望。
銀に塗られた車体が午後の光に反射する。
なお、この系列の第二編成はJR「エーデル」シリーズと同じ前頭形状だった。

Ktr700 KTR700形。
宮福線MF100をサイズアップ、クラシックモダンは引き継ぎながら、新しい感覚を見せた気動車だ。
キロ28に近い印象の側面窓だが、経営には緊密な関係にある阪急の京都線特急の印象も被さってくる。

Ktr001_3 野田川付近を行くタンゴエクスプローラー。
迫力と気品、斬新さを兼ね備えた好デザインだ。

Ktr001_4 タンゴエクスプローラーの車両が、クルマで通りがかった久美浜駅の構内に見えた。
なんとしてもじっくり見たく、駅員さんにお願いすると、気持ちよく写真撮影を許可してくれた。
そのときの写真で、こちらが上り側の前頭部。

Ktr001_5 こちらが下り側前頭部。
といっても、当時の運用ではこの車両は運行毎に車両の向きが変わり、だから・・上り下りどちらに使っても同じになるように設計されていたそうな。

Ktr001_6 下り側先頭部を斜め下から。
非常に美しい流線型は気動車特急の中では白眉ではないか。

Ktr001_7 プラグドア。
細部までこだわったデザイン・・
それが現場で使いやすいかどうかは別の問題でもある。

Ktr001_8 ハイデッカーの中央部分。
北近畿タンゴ鉄道に賭けた地元の想いが伝わってくる。

Ktr001_9 運転室。
流線型車両の特徴である運転室の広さ・・
この気動車もまた例外ではない。

1133 平成8年には宮福線全線と宮津線宮津・天橋立間が電化され、自社の電車は持たぬものの、JRから電車が乗り入れて来るようになった。
3連で運用される113系電車。

485 既出だがこちらは485系「文殊」。

181

そして架線の下を走るキハ181「あさしお」

20110227 北近畿タンゴ鉄道の看板列車だったKTR001は今月のダイヤ改正で定期列車から引退した。
デザインを重視するあまり、使いづらかったとのことで、特にエアコンの効きの悪さと、バリアフリー対応に出来ない完全なハイデッカーデザインは特急列車としては使い勝手が悪かったとの事。
デザインと性能を重視して、乗りやすさを犠牲にした乗用車のスーパーカーと一脈通じるものを感じる。
写真はJR乗り入れから撤退直前、尼崎駅で。

20101227 今のこの鉄道の看板はこの車両。
「タンゴディスカバリー」と呼ばれるKTR8000形で、この写真は本来KTR001の運用の列車を、臨時にKTR8000が代行している様子。
大阪駅で。

183 上記「文殊」廃止直前の様子。

宮福鉄道を引き継いだ北近畿タンゴ鉄道は第三セクター鉄道としては日本一の赤字で知られる。
今後は全線を維持する必要があるのかどうか・・特に兵庫県区間の維持については予断を許さない。
それでも、立て続けに新車を導入し、JRと相互乗り入れをする活発さは他の第三セクター鉄道にはないものかもしれない。

どうか、沿線経済化成果とともに、鉄道事業が発展するよう祈るばかりだ。

Photo 写真は宮福線開業直後のレール。
いったんは挫折しかけた鉄路を地元の熱情が実現へと導いた。

その熱情がこれからのこの鉄道の大きな力になることをし信じて・・

 (なお、私鉄ではありますが、今回取り上げた初期の写真は第三セクター転換前なのでカテゴリーは「JR化後の思い出」とさせていただきます。)

2012年9月 9日 (日)

須津(すど)の東海道新幹線

岳南鉄道を見に行ったあと、須津駅から程近い新幹線の線路沿いに出てみた。
ちょうど、富士山がくっきりと見える朝だ。

000 0系の編成が駆けていく。
今から20年少し前、東海道・山陽新幹線といえば0系が中心で、100系が新鋭として気を吐いていたころ。

0002 0系の編成の下り側。
2両が写っているが、先頭車は小窓、次位の中間車は大窓だ。

0001 0系編成の上り側。
こちらは大窓の古いタイプ。

001002 100系が駆ける。
富士と同じ色合いの新鋭はこの当時、まさにクイーンだった。

00100 100系の中間ダブルデッカー。
高速化、ダイヤの均等化で捨て去られた新幹線の「遊び」の部分だが、今考えても惜しい・・
ダブルデッカー二階のグリーン席で、ゆったりと富士を眺めたいものだが、既にその望みは叶わない。

現地に居たのは数十分だろうか。
時間が押し、長くとどまれなかったのが心残りの、独身最後の一人旅途中の写真である。

2012年5月24日 (木)

瀬戸大橋開業直後の四国

昭和63年夏だと思う。
四国へ旅行をしているポジが見つかった。

どうやら瀬戸大橋を通り、高松から土讃線の夜行快速に乗車したらしい・・
らしいというのは、記憶が極めて曖昧で、では、夜行快速の発車時刻まで何をしていたか・・
記憶が定かではないのだ。

Photo だが、岡山駅の写真が出てきている。
初代マリンライナー、展望クロを連結した213系だ。
隣にキハ185の「うずしお」が並ぶ。

Photo_2 キハ185「うずしお」のアップ。

Photo_3 213系展望クロの正面。
引退が早かったのが惜しまれる好デザインだと思う。

211165 211系マリンライナーがなんとクハ165の快速と出会う。

165 クハ165、電動車は153系だろう・・その快速列車のアップ。
山陽本線優等列車華やかなりし頃を思わせる列車で、今の「サンライナー」の前身。

111 児島駅では111系を撮影していた。
静岡にいた111系で、四国で電車が足らず、中古車を購入したもの。
ここで撮影しているということは、以前に出した下津井電鉄を見に行ったのがこのときなのだろうか。

Photo_4 深夜の高松駅の風景。
宇高連絡船は廃止された後だが、観光船の桟橋として使われていたのではないだろうか。
連絡船への乗換え口だ。
デイライトのポジで夜の撮影をしているものだから、色温度が異常に高いが雰囲気はかえってあるように思う。

Photo_5 こちらは静まり返る夜のコンコース。
発車案内には多度津まで併結運行される宇和島・窪川行きの夜行列車の時刻が表示されている。
列車は気動車で、全国的にも珍しい気動車による夜行列車だった。

さて、その気動車に乗ってたぶん・・窪川まで行ったのだろう。
このあたりの記憶も非常に曖昧である。

32 窪川だろうか、キハ47の後ろに可愛いキハ32が繋がっていた。

181 キハ181の「南風」
この塗装は似合わなかったと思う。

Photo_6 土佐くろしお鉄道の列車に乗り換え、立派なローカル気動車に感嘆しながら中村まで行った。
中村付近で鉄橋を渡る土佐くろしお鉄道の普通列車。

185 折り返し、予土線に乗る前に若井で降り、少し列車の撮影をした。
キハ185による「南風」がやってくる。

185_2 そして駆け抜けていく。
国鉄が贈った最後のプレゼント、新型特急だったが、この後、いくばくもしないうちに振り子気動車に追われスターの座から降りてしまった。

54 予土線キハ54。
おなじキハ54でも、北海道のものはクロスシートで、一部に急行仕様もあったが、四国のものは純然たるローカル仕様。
セパレートタイプのロングシートで今も健在。

この列車で宇和島へ出た。
確か、青春18切符を使っていて、この日は松山泊りだったと思う。

54_2 既出だが宇和島での気動車の並び。
まだ急行が健在だった頃。

113 松山で少し伊予鉄道を撮影している。
伊予鉄道にはこの前にも何度か訪問しているが、このとき以来、未だに行くことが出来ずにいる。
松山市駅で川重タイプの113号。

702004 市内線70号と京都からやってきた2004号の出会い。

2006 京都市電出自の2006号。
伊予鉄道での改造は垢抜けしているように感じることが多い。

さて、どのように帰ったかも記憶になく・・
121 写真はいきなり坂出あたりになる。
駅名詳細は不明だ。
これも国鉄型最後の121系電車。
一段窓は上昇式で、何故そうなったか、今もって不思議な電車でもある。

185121 キハ185「うずしお」と121系電車が並ぶ。
国鉄最終期の車両の出会いだ。

58 そして塗装変更されたキハ58を先頭にした普通列車。

このあと、僕が四国へ行くのはなんと15年ほど後になる・・
激変期の四国を見れなかったこと、それは僕が写真という非常に忙しい仕事をしていたためだったが、15年後に訪れたときは、まさに浦島太郎だった。

2011年11月10日 (木)

新幹線100・300系引退に寄せて

僕が鉄道ファンであることは幼少時から一貫していて、それが本格的に写真の方向から鉄道ファンとして活動していくのは、国鉄に入社する直前からになるのだけれど、その僕にも過去に数度、鉄道趣味活動からある程度遠ざからざるを得ない時期があった。

その最初の時期、結婚し、家庭を持ち、子育てや生活、それに多忙を極めた写真の仕事で、まったく鉄道趣味人としての活動が出来ない時期・・それが平成に入ってすぐ訪れたわけだ。

子育ても落ち着き、趣味活動というほどではないが、ようやく写真撮影から趣味を再開した頃の、山陽新幹線加古川橋梁でのある日のシーンだ。

300系が「のぞみ」として博多へ乗り入れながら、JR西日本独自開発の500系が世界最速を謳っていた頃だ。
このブログの記事としては非常に新しい時代の記事になるけれども、この時代からもすでに15年の月日が経っている。

0 まずは0系16連、往年の華やかさを残す「ひかり」
この当時、すでに0系による東京「ひかり」は風前の灯だった。

Photo 同じく0系の短編成6連による「ウェストひかり」
今の「ひかりレールスター」の前身といえる列車で、アコモ改造されたデラックスな車内と軽快なビュッフェなどが話題を呼んだ列車だ。一時、僕にとっての「シンデレラエクスプレス」だった。

100 100系16連の「ひかり」
100系には中間2両がダブルデッカーの編成と、中間4両がダブルデッカーの編成があった。
これは前者。中間4両がダブルデッカーのV編成は「グランドひかり」と呼ばれ、最高時速270キロを可能にした列車だったが、騒音問題の絡みで、これは実現しなかった。

300 300系による「のぞみ」
新幹線として初めて本格的にスピードアップに取り組んだ系列で、当初の「のぞみ」は全車座席指定、簡単な食事もセットされていたはずだ。

500 500系による「のぞみ」
僕はこの500系が、100系と並んで新幹線で最も好きな系列だけれども、実際に乗車したことはない。
世界最速時速300キロで疾走して、岡山・広島間の表定速度はギネスブックにも掲載された。

Photo_2 0系「ウェストひかり」のサイド。
団子鼻の愛嬌溢れる横顔こそ、僕ら世代の新幹線のイメージだ。

100_2 100系のサイド。
0系のデザインをリファインし、シャープさを強調したデザインで、今見ても惚れ惚れとする。

300_3 300系のサイド。
いかにも合理的で、メカニカルな印象を持ち、機能美に溢れたデザイン。
良くも悪くも時代を表しているような気がする。

500_2 500系のサイド。
究極の流線型、まさか日本に登場するとは思わなかった好デザイン。
この格好よさがどうして今のN700の無骨さにつながるのか・・

仕事の合間、一瞬の営業活動の隙間で撮影した写真だ。
ただ、ネガフィルムの劣化が激しく、掲載にあたっては相当の画像処理を要した。
このあたり、モノクロやポジフィルムならこういう苦労がないことを思うと、ネガカラーというのは、やはり保存には向いていないフィルムだったのだろう。

Photo_3 話が逸れた。
その写真のちょっと後の時期・・
大阪モノレール車中から見た鳥飼車両基地。
700系も2編成見えるが、あとは100系と300系で、今、改めてこの写真を見ると、新幹線ってのは美しい乗り物だったんだなと・・実感もしている。

来年3月のダイヤ改正で、東海道山陽新幹線から300系が、山陽新幹線から100系が引退するという。
0系の引退がつい、この間であったような気がするのだが、0系は同じ系列でその初期車両を置き換えた時期があり、新幹線としては300系の経年18年程度での引退は標準的なものだろう。
そうなると実は100系の寿命の長さが、延命工事を得意とするJR西日本であったにしても・・新幹線の歴史上、ものすごいことなのかもしれない。

500_3 500系の「のぞみ」が西明石駅を通過する様子。

500系が「のぞみ」から撤退直前の撮影。

300_4 300系が加古川橋梁を通過するごく最近の様子。

100_3 最後に国鉄カラーに復元された100系が、岡山以東で最後の活躍をしていた今年3月の西明石での撮影。

2010年12月 5日 (日)

震災前後の須磨・塩屋間

この区間については最近もこちらでエントリーしたけれども、221系が走り始めたころと、かの阪神淡路大震災後、しばらく鉄道写真を撮影しなかった僕がようやく撮影を再開したころのポジフィルムが出てきたので、これを見ていただこうと思う。
「国鉄の思い出」ではあるけれど、時代はJRになってからだ。
一部に既出のものがあるがご容赦願いたい。

なお、撮影についてはすべて軌道敷地外からの撮影で、海岸よりからの撮影については今は鉄柵に囲まれている橋梁脇からの望遠レンズによる撮影であること、ご承知おきくださればと思う。

221 当時は221系全盛期で。新快速はほぼ全列車、快速も大半が221系で運行されていた。
この221系新快速の写真。

撮影場所は今では絶対には入れない柵の向こうだけれど、当時は線路敷地以外は自由に出入りできたし、ここで撮影をしたり、釣りや海水浴の準備や休憩をする人も多かった。
線路工事によって崩された別荘の跡地が、まるでエーゲ海のような雰囲気をかもし出していて、鉄道ファンならずとも訪れたくなる場所だった。

そんな場所だから今では絶対に撮影できない写真集ということになる。

221221 221系新快速と快速の出会い。
これは国道脇からの撮影だが、ここも高い鉄柵で覆われ、撮影など不可能になってしまった。

Photo その国道脇から「スーパーはくと」下から見上げるような写真。
バックには神戸市の開発行政の象徴、ベルトコンベアが写っている。

Photo_2 さて、これは短期間しか走らなかったキハ181の「はくと」
モノクラス5両編成だった。

Sunin いきなり走ってきたのはたった2両の「ほのぼのSUN-IN」キハ58だ。

115221 また海岸側に移り、朝の列車たち。
一時的に関西の車両不足を解消するために岡山から応援に来ていた115系の快速が221系とすれ違う。。

Ef81 トワイライトカラーのEF81が牽引する12系の団体専用列車。
多分、金光臨ではないだろうか。

Photo_3 シュプール号で走っていた381系オリジナルカラー。
381系がこの区間を走るのは珍しい。

Photo_5 当時のスター、寝台特急「なは」
まだ編成が長く、夜行列車の貫禄に満ちていたころ。

Photo_6 その客車。
青く長い編成はまさに寝台特急の名に相応しい。

221207201 221系、207系、201系の出会い。
207系はオリジナルカラーだった。
すっかり今のカラーを見慣れてこの色合いを忘れてしまう。

117 震災直後の車両不足を補うためにこの時期も117系が一部列車に使われていた。
その福知山線カラー。

117_2 そして上りはオリジナルカラー。
117系はこの区間によく似合った。

JRの線路侵入対策として、高い鉄柵に囲まれて、二度とこのような撮影が出来なくなってしまった撮影名所。
今一度とは思うが、よほど高い脚立でも使わない限り、ここでの撮影はもうだめだろうなと思うとやはり寂しい。

205kei この路線で希少価値があったのが205系で、それを海をバックに国道から。

Photo_4 最後に思いを込めて117系の夕景。