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国鉄部内の思い出 Feed

2011年10月12日 (水)

福塩線、府中電車区の70系。

僕たちがレンタカーで福塩線を訪問したのは、昭和54年ごろだったと思う。
国鉄時代の同期で、電車好きが集まって、当時、置き換えの噂が出ていた福塩線70系電車を見に行こうと言うことになった。
免許取立て、今思えば無謀でもある。

当日、新幹線で福山駅に到着、駅前のレンタカー会社で「スターレットSE」を借りて、これで沿線を回った。
そして、ついには府中電車区を訪問して、撮影させてもらったものだ。

当時は支線区の車両基地も、独立した立派な組織になっていた。
特に福塩線、可部線、宇部線、加古川線などはかつて私鉄であったその名残からか、しっかりとした自前の車両基地を有していて、府中電車区もそういった私鉄の面影を残す車両基地ではあった。

ここに阪和線で活躍していた70系電車のうち、比較的新しい車両が集められて使われていたのだ。

写真が福塩線を走行する70系電車。
70 大半が全金属製の300番台で、一部にごく初期の車両も入っていたはずだが、当日の僕らは300台ばかり見ていたような気がする。

20 当時、日に数本、塩町方面から福山へ直通する気動車列車も運行されていた。
写真はその気動車列車。
キハ20だ。

762 府中電車区におけるクハ76307と、更にもう一本。
当時の福塩線電車は70系に統一されていた。

76 別のクハ76。
70系電車は、80系のデザインを踏襲したものであることは確かだが、そのデザインセンスは80系よりはるかに優れていると思う。
湘南形二枚窓に、側面には国電近距離タイプの大きな二段窓、そして明るい横須賀カラー・・
こういったことがこの電車を洗練されたデザインに見せているように思う。

76_2 これもクハ76307だろうか。湘南形スタイルで僕が洗練されていると感じるのは、この70系とともに国鉄ではEF58、そして私鉄では南海11001、京王3000だ。塗装と言い、その近代感覚溢れるサイドビューと言い、この電車の洗練はもしかしたら横須賀線がその投入の嚆矢だったことに因するのかも知れない。

32000_2 府中電車区には当時、クモハ32も1両だけ居て、この電車もつぶさに眺めることが出来た。
クモハ32000で、モハ42を2ドアから4ドアに改造した戦時型車両でもある。
これは車両の右側。

32000こちらは左側。
徹底的に整備され、茶色の塗装も輝いていたこの電車。
せめて保存できなかったのだろうかとも思う。

32000_3 正面。
古武士の貫禄十分であり、この電車区の主として申し分ない。

32000_4 サイド。
府中電車区ではこの電車を営業には使わず、ほとんど救援車代用として保管していたようだ。
元は関西急電モハ42であり、戦時に通勤用に改造したものの、結局改造両数も少なく異端車のようになってしまっていた。
横須賀線モハ32とは、全く別物の形式でもある。

70_2 府中駅に停車する70系電車。

よく見ると、この電車は300台ではない。
阪和線快速で見慣れた70系電車が、支線区でのんびり余生を送っているのを見るのは楽しいものだった。
けれど、この楽しい風景も数年で一変する。

国鉄がその最晩年に投入した105系電車がこの路線の主になっていったのだ。

Photo 最後に当時の府中駅舎の様子。

2011年9月19日 (月)

国鉄高砂工場外部向けパンフと、車両たち

予定を変更して国鉄高砂工場の第4弾。

私鉄ファンの皆様には、もう一回だけご勘弁ください。

というのは、こういうブログをしていると、不思議に片付け物などで昔の資料などが出てくることもあって、今回も実家の片づけをしていて国鉄高砂工場の外部向けパンフレットが出てきたし、これまでの3回のネガで出せなかった車両たちの写真も出して行きたいと思う。

Photo まず、そのパンフレット表紙だ。
「案内のしおり」と題された表紙には木工建屋をバックにしたキハ82が写っている。
なぜか、貫通扉は開いたままで、車両の説明ではなく工場の説明なのだからこれで良いということだろうか。

1ページのサイズは13㎝×19cmで、四つ折り、B6判4枚と言うことになろうか。

表紙の続きは工場の平面図だが、裏表紙を表紙とあわせてスキャンした。
担当車両の運行区間と受け持ち両数が案内されていて、青森から西鹿児島まで、東日本の一部を除いて本州・九州のほぼ全域の幹線に担当車両が走っていたことになる。
客車、気動車合わせて1600両あまりの受け持ち両数ということは、当時の阪急よりずっと車両が多く、近鉄に匹敵する両数を一手に引き受けていたことになる。

なお、貨車の3227両と言うのは、国鉄工場で貨車を担当する工場としては少ないほうだと思う。

Photo_2 表紙の続きになっていたのが平面図。
広大な工場敷地の大半が遊休地だった様子が見て取れるが、末期には一部空き地を駐車場として整備して、国鉄現場では珍しく自家用車でほぼ全職員が通勤できるようになっていた。
画面左下部の空き地は廃車解体作業場とその留置線だ。

旅客車主棟が建屋の大半を占めるが、木工建屋には製材工場とエンジンの検修場があって、関西一円の気動車エンジンをここでまとめて整備していた。

Photo_3 この「しおり」を裏返すと沿革、事業内容、組織、施設の簡単な説明がある。
沿革では陸軍の工場として戦前に設立、昭和21年に鉄道工場として発足したことが記されている。

時代を感じるのは巨大な製材工場の存在で、関東以西の鉄道用材木の加工処理を一手に引き受けていた。

Photo_4 職員数1148人だが、僕が入社した頃にはすでに950人までリストラも進められていた。
客車、気動車、貨車の修繕日数や検査周期も書かれていて、今となってはこれも貴重な資料なのかもしれない。

高砂工場の職員、昭和52年当時の平均年齢は37歳、国鉄職場としては若い方だったろう。

さて、車両の写真には既出ものもあるが、改めてスキャンもやり直しているので、じっくりご覧いただきたい。

55102225 まずは入場待ちの車両から。
ナハネフ2225で、尾久にいたクルマだが、「だいせん」20系化での転属車だろうか。

551020240 ナハネ20340と読めるクルマ。
屋根布の張替えが終了して入場を待っている状態。

501030156558 姫路のスエ3015が全般検査で入場待ちしている。
キハ65、キハ58の姿の見える。

55102557 オハネ2557と読めるクルマ。
宮原の所属だったから「日本海」用だろうか。

5010342007 軌道試験車マヤ342007。
試験車も自分が検査してもらわねば走ることは出来ない。

5510641 オハ641。
和田岬線の通勤客車。
座席は中央ドアの向かいに数人分あるだけで、あとはずべて立席だった。
これから思うと、今の和田岬線103系は相当なサービスアップになっているかも・・

5510806 キシ806。
入場待機の様子。
堂々とした車体、特急が特急であった時代を感じる。

551060140 マニ60140。
このマニは一般客車の改造車。
窓配置が不揃いなのはそのため。

540907612012 スロフ622022だろうか。
お座敷客車への改造ではなく、一般の全般検査入場。

5409078000 ワキ8000番号不明。
高砂工場ではワキ8000は貨車職場ではなく旅客車職場、客車組の担当だった。

次は廃車解体の順番を待っている悲しい様子。

5510102032 オロネ102032。
「きたぐに」からの撤退時だろうか・・
まだまだ使えるきれいな車だった。

現場には評判のよくない10系でもオロネはまったく別物だった。

5010102066 オロネ102066。
これと、この前にもう1両、同じオロネ10があって、この3両が夜行列車1往復とその予備ということか。

501010 オロネの車内。
通路。
カーテンもシートカバーもない状態で、営業線では見ることが出来ない裸の姿。

501010_2 オロネの寝台。
下段の座席枕を上げると、寝台使用時の鏡や照明、小物入れのネットが出てくる。

501010_3 オロネの喫煙室。
決して広い空間ではなかったが、国鉄が詰め込みだけを考えていたわけではないその証拠の施設。

55101213 オハネフ1213。
新宮のクルマで、「はやたま」用だったのだろう。
下降窓付近の大修繕のあとが見える。

551012 そのクルマか判別できないが10系寝台車の内部。
寝台の読書灯は小さな白熱灯、廊下に折りたたみ椅子はなく、通路には立つしかなかったが、下降窓の旅情は捨てがたいものがあった。

なお、鏡はすでに外されている。

551012_2 寝台の様子。
中断ベットを降ろして座席背もたれにする設計はこの系列だけで、20系では中段は跳ね上げて、背もたれは別に固定されていた。

551041354 オハ41454。
オールロングシートの通勤客車だが、元は由緒正しき優等客車。
これはスロ53がその原型。

551041351 オハ41351。
こちらはスロ51がその原型。

55104154 オハ4154。
これは広窓が特徴のオロ40がその原型。

55104154_2 その車内。
窓が異様に広い。

551033455 オハフ33455。
戦後製造のグループで屋根が鋼板製。

551035 オハ35番号不明。
戦前製のオリジナルタイプかと思われる。
オハ35一党に関しては、戦前製のもののほうが戦中、戦後製のものよりも出来が良かったように思う。
材質の関係だろうか。

5510602416 マニ602415。
このグループは当初から荷物車として製造されたため、窓の配置が美しい。

55107028 オエ7028。
救援車だが、元は戦災国電を叩きなおした戦災復旧客車。
電車の二段窓の面影がある。
原型は17メートル級国電。

551010103 ナハ10103。
軽量客車の廃車はオハ35あたりよりも早かった。
粗製濫造、劣悪な材質は戦時設計の車両にも通じるものがあるのか・・
デザイン的には非常に優れたデザインであるだけに惜しい存在だった。
仕事の上では老朽化が隠せなく、まさに大変な思いをしたものだ。

5510153 キハユニ153。
加古川線の名物車両も、荷物輸送、郵便輸送の廃止で、解体の憂き目にあうことに・・

551017130 キハ17130。
ローカル線近代化の立役者だが、電車や新型気動車に追われて廃車。
大阪口では意外に遅くまで残っていた。

551017 番号不明、朱色のキハ17。
朱色への塗装変更もキハ17シリーズ全ての車両に成されたわけではなかった。

551020285 キハ20235。
二段窓、後期形のクルマも早々と廃車に・・

551020 キハ20前期形、番号不明加古川所属。
鉄道ファンには人気のあるバス窓タイプだが、個人的には後期形が好きだった。
乗り心地も含めて・・

551026267 キハ26267。
準急気動車の代表格、キハ28シリーズとは違った好デザインで、好きな車両の一つ。
子供心に南海の「きのくに」に憧れたからか・・

5510 トラ45253。
三角のマークは「廃棄」の意味。
木製の側をもつ小型無蓋貨車の用途がなくなっていく時代。

580037 そして新車の職員研修のために入場したキハ37。
キハ47をさらにランクダウンしたような設計だったが、基本デザインはよく、もっとこの車両が増えていればと・・今は思う。
撮影場所は出車作業場。

551060 高砂工場の一番奥、ジャングル化した雑草に埋もれて時を過ごしていたのがスロ601。
記念すべき特別二等車の第一号車で、廃車後も永くこの場所に鎮座していた。
周囲の雑草は人が近づくのを阻み、車内には蜂の巣や巨大な蜘蛛の巣もあって、虫たちの楽園と化していた。

この客車が解体されず、ずっと残っていたのには、この車両廃車当時の高砂工場関係者が誰か、意思を持ってここに残したのだろう。
けれども、結局、痛みがひどく・・
この撮影の数年後には解体されてしまった。

2011年9月 7日 (水)

国鉄高砂工場、昭和54年出車作業場ほか

国鉄高砂工場のシリーズは前回の旅客車主棟、前々回の入場待機線に続いて今回、出車作業場での写真。
工場に入場した車両は解体、修繕、塗装の工程を経て、組み立てられ、新車同然のコンディションになって最後に検査、試運転を経て出場していく。

55071630 さて、今回、出車(でぐるま)作業場の話をする前に、まず、この写真を見ていただこう。
オヤ30で、これは吹田操車場の通勤用に使われていた車両だ。
原型はオハ31で、本邦最初の鋼製客車、最近、津軽鉄道に残っていた1両が徹底的な復元作業のすえ、鉄道博物館に所蔵されているのでそれを思い起こされる方もあるだろう。

実に貴重な車両でもあるけれど、老朽化著しく、細部の部品もすでに手作りするしかない状態だった。
一応、全般検査の予定で入場したけれど、結局、当時50系の投入で余剰が出ていたオハフ33が廃車入場してきたのを幸い、この車両と取り替えることになった。

55070630 写真が出場時のオヤ30だ。
これを知ったファン諸氏は驚愕したことだろう。
17メートル級、リベット止めの車体が戦後製のオハ35と同型になって戻ってきてしまったのだ。

54090728 さて、ちょうどキロ28の更新工事の写真が出てきた。
前回記事でキロ28の当初の更新工事が原型に戻す工事だったと書いたが、原型に戻されたのは多分、1~2両で、それ以後は二段窓に改造して出場していった。
写真は改造工事中の車体。
車体の腰から下はすべて新品の鋼体になっている。

54090728_2 これが新品のユニット窓。
製造もしくは輸送の過程で、ゆがみが出ていたようで平面を出すために置かれている感じだ。

54090728_3 車内から見たユニット窓の様子。
窓の構造そのものは12系のユニット窓と似ている。

54090728_4 車内の工事の様子。
壁の内張りはすべて新品になっているほか、床にもロンテックスが流されて新品同様とされ、その上に保護シートを敷き詰めている様子。
なお、天井は冷房改造時に更新されているのでそのままだ。

54090728_5 ユニット窓を取り付けた様子。
腐食に泣いた下降窓とおさらば・・
でも、デザイン的にも雰囲気も下降窓が圧倒的に良いのではあるが・・

550706282190 これは違うクルマだが、キロ28更新修繕が完了、出車作業場での出場直前の様子。
和歌山のキロ282190だ。

541082 こちらは出車作業場でのキハ82。
ヘッドマークがないから営業車両である雰囲気には欠けるが、塗装も新たに一新された姿。

541080 キロ80。
現場ではペンキのにおいも真新しく、新品同様によみがえった。

5510805 キハ805。
この車両自体はキハ81と同期の車両。
キハ82、キロ80とともに3両で出場、いずれも和歌山所属の車両だった。

551022 ナハネフ22。
全般検査で窓周りのゴムを交換した車両だが、窓周囲の鋼板が痛んでいた。
修繕をしても外板の傷みはどうしてもその跡が残ってしまう。

まだまだ国鉄工場も忙しい時代、手早く、きれいに車両を仕上げるのが至上命題だった。
昨今の車両とは異なり、鋼板の耐用命数や設計上の腐食対策の不備などの問題もありながらも、現場では精一杯の思いを込めて車両を送り出していたと言うのは決して誇張ではないと思う。

2011年9月 4日 (日)

昭和54年5月8日、国鉄高砂工場旅客車主棟

昭和54年5月8日前回記事の続きだ。
まず断っておくが、当時の国鉄と言えど業務中に趣味の写真撮影などできるはずもない、
このブログで公表する写真はすべて昼休み、もしくは終業後の撮影だ。

その当時、鷹取工場には名だたる鉄道ファン諸氏がいて、彼らによって発表される記録もあるが、高砂工場では鉄道ファンと言える人とは出会えず、趣味としてではなく生き方として鉄道が好きな人が多かったように思う。
その表れが何より丁寧なその仕事ぶりで、他工場ではゴマカシで済ませてしまうようなことは、こと高砂に関してはほとんどなかった。

5405082538 さて、入場建屋で作業のための解体を施された車両はアントと呼ばれる小型の牽引車で主棟に送り込まれる。
写真はオハネフ2538を送り込むところ。

こういった牽引車やトラバーサー、あるいは入れ替え機関車を使った作業は、工場の場内に作業者がおらず、そのために気を遣うことのない、しかも工程に影響しない昼休みや休憩時間、始業前、終業後に行われることが多かった。

54050812 入場建屋脇の鉄工職場作業場で修繕中のスハフ12。
この場所でガスや高圧電気を扱う鉄工職場が気兼ねなく作業できるようになっていた。
もっとも、工程の都合上、各職場入り乱れてやや危険な思いをしながら作業せざるを得ない場合も多々あった。

54050862 同じ作業場でスロ62の鉄工部分の改造工事・・
これはお座敷客車スロ81への改造工事で、洗面所周りなどに結構規模の大きな工事が成されている。

540508 主棟の外にはさまざまな部分も保管されていた。
これは通風器でいわゆるガーランド型。
ただし、当時の高砂工場では「ガーランド型ベンチレータ」などといっても誰もそのことを理解してくれない。
工場内部では「標準型通風器」である。
廃車や改造工事で捻出されたもの、あるいは破損などで取り替えたものを、修繕を済ませてこうしていつでも使えるようにする。

540508_2 こちらはバッテリー。
これはたぶん客車用で、部内ではもちろん「蓄電池」だ。
旧型客車、あるいは後の50系も車軸に簡単な発電機が備えられていて、車内の照明などはこの電力を使用していた。
今から見ると、なんとエコな設計であったことか。

54050880 さて、主棟に入場すると、まずジャッキアップして気動車や電源エンジンつきの客車ならエンジンの取り外しが行われる。
キシ8034がジャッキアップされているところ。
ただし、通常の客車はジャッキアップはせずに、クレーンを使って台車抜きをし、そのまま、作業線の仮台車に乗せられる。

5405088034 そのキシ8034をサイドから。
エンジン、モーターなどは国鉄の場合、現車に使っていたものは専門の職場でオーバーホールされるが、部品を共通化しているので、わざわざその部品の仕上がりを待つまでもなく、すでに仕上がった完成品をこの場所でつけてしまう。

54050880_2 取り付け準備が出来た完成品のエンジン。
このあと、午後の作業で現車に組み込まれる。

54050828 主棟の中では主に車体内外の修繕作業が行われる。
キロ28の外板取替え、更新工事をしているところ。
キロ28は下降窓が仇となって車体の腐食が早く、老朽化が著しかった。
最初は完全に原型に戻す工事が成され、後に2段窓への改造工事に変更されている。

5405085833 キハ5833と読める車両。
ただ、不思議なのは当時受け持ちにはこの車両は居らず、当時は九州に、このあと、七尾に配属されているはず・・
何かの改造工事だろうか。

54050835 手前にいたのがキハ35。
現場ではこの外吊りドアの保守に手を焼いた。

54050823 ナハネフ23の外板修繕。
この車両は僕の組の担当で、車内では破損した化粧板の張替えなども行っていた。
外板部分の工事をしたのは同期の友人で、最初は手直しくらいのつもりだったのが、車体の腐食が思わぬ進行をしてしまっていて、結構大きな工事になってしまった。

540508_3 作業用の運搬車「モートラック」
これはエンジン付だが、後にバッテリー式のものも登場した。
場内の荷物運搬に大活躍した縁の下の力持ちだ。

540508622070 スロ622070。
お座敷客車スロ81に改造工事\が進行中。
外観は洗面所付近の窓の形が変更され、アルミサッシが更新されたくらいだ。
けれど車内ではそれこそ大工事が進んでいる。

540508622070_2 スロ622070の車体側面に書かれた作業用の表記。
チョークで「山城」と大書きされている。

車両はこのあと、塗装工程、そして組立作業のある出車作業へと移され、完成となる。
それらはまた別の機会に。

2011年9月 3日 (土)

国鉄高砂工場、昭和54年5月8日入場待機線。

これまでホームページ本体「こうワールド」においてコンテンツ「国鉄高砂工場」を掲載してきたけれども、どうしても紹介できる写真点数が限られ、説明も詳細に出来ないこと、すでにこのコンテンツを作成したときのソフトが供給されなくなっていることもあり、今回から時折、「国鉄の思い出」カテゴリーで改めて国鉄部内での写真なども紹介していこうと思う。

最初は昭和54年5月8日、僕が高砂工場旅客車職場に配属されて一ヶ月後のネガからだ。
このネガフィルムはモノクロ36枚撮りで、情報量も多いことからその前半部分、高砂工場入場待機線当たりでの撮影部分だ。

540508815 このときの撮影目的はまさにキハ81にあり、番号はキハ815、名古屋「くろしお」で使われていた最後の車両のうちの1両だ。
まずはマニ60、ナハネ20を従えているかのように見える全景から。

入場待機線は高砂工場に入場し検査、修繕、改造などを行うためにここでいったん留め置かれる場所であるのだけれど、キハ815は多分、部品取りのためにいったん入場線で作業されたのではないだろうか。

540508815_2 やや後ろから見たサイドビュー。
すでに車番は取り外されていて、この車両が廃車であることが分かる。

背景の立派な建屋は隣の神戸製鋼所。

540508815_3 正面。
ヘッドマークがなく、それだけでも車両が生きていないように見える。

高砂工場の入場待機線、その後方には広大な廃車置場がある。

はるか遠景に見えるのは三菱重工業の建屋。

540508815_4 右側サイド。
まだJNRマークは外されていない。
背景にキハ17やオハネフ12も見えるがあちらは紛うことなく廃車解体の待機だ。

540508815_5 左斜めから見た様子。
泥臭いデザインで、このあとのキハ82の洗練さとは比較にならないが、それでも、パノラミックウィンドウの角度も美しく、それぞれの部品の設計はさすがで、いわば美人になる素質を持っているのにバランスを欠いた親しみやすい表情と言うところだろうか。

540508815_6 キハ815の運転台。
タブレットキャッチャーも取り外されている。

廃車車両が入場すると材料係が真っ先にまだ使える部品を取り外して別に保管する。
それにしても、運転台正面ガラスの角度が美しい。

540508815_7 テールライト。
ガラスも電球も取り外されている。
しかし、デザインには国鉄最初の気動車特急を少しでも格好よくしようという意気込みも見える。

テールライトと標識灯は最初はかなり意匠的、意欲的なデザインだったようだ。

540508815_8 台車。
特急気動車の台車はよく出来ていたように思う。
特にこの80系シリーズは乗り心地も柔らかだった。
もとより、今の振り子気動車のような高速運転をするわけではないが。

54050881543573 スハ43573を背景にキハ815の左サイド。

スハ43は全般検査で入場の車両。

540508815_9 キハ815の前で記念撮影。
国鉄標準の菜っ葉服、上回り作業者はヘルメットは着用せず、布製の帽子だった。
手前が筆者、運転台に友人がいる。

540508431 他に入場線付近の様子など。
これはマヤ431。
乗務員の教習用で、車内はアルミデコラの壁面、それに大きな固定窓だけの何にもない車両だった。
もとはマロネ41で、オロネ10や20系客車に合わせた改造工事が行われた車両を教習車に改造したもの。

54050850 スユニ50。
50系客車の一員ではあるけれど、台車は旧型客車、スハ43あたりのものを用い、国鉄工場で製造された。
高砂での製造車両はないはずで、この車両は名古屋工場製。

当時、高砂では気動車のキユニの製造、お座敷客車の改造など多忙を極めていたからかもしれない。

5405082085 キハ2085。
バス窓、初期タイプで加古川気動車区所属の車両、通常の重要部検査で、外板の修繕をしているところ。
全般検査の場合は、窓もすべて取り外される。

54050820 キハ20の修繕部分と友人。
上記と同じ車両と思われる。
この外板修繕はきちんと鉄板を切り接ぐもので、高砂ではほとんど補修はきちんと行われていた。

一部工場ではこういった切り接ぎが面倒だったのか、通称「パチ当て」と言われる腐食部の上から鉄板を直接貼り付けてしまう「補修」もされていた。
強度、長持ちのためには当然、きちんとした補修をすることが必要だ。

540508 入場作業のための入場建屋。
キハ28の大規模な補修作業が見える。
客車もここで屋根の張替えなども行っていた。

54050880 入場建屋はトラバーサーをはさんで2棟あった。
前作業をした車両をトラバーサーで移動させる。
車両はキハ80。

高砂工場には入場側と出場側に二つのトラバーサーがあって、後に主棟内部にももう一箇所設けられた。
背景に見えるのは神戸製鋼所。

このフィルムの主棟内での様子は次回記事に・・

2011年7月15日 (金)

昭和51年、姫路機関区でのDD54ほか。

関西鉄道学園鷹取分所での生活が始まってまもなく、担任であり国鉄部内ではディーゼルの専門家で通っていた高部先生と話をしていて、僕がDD54をじっくり眺めてみたいと言ったことがきっかけだったと思う。
先生の紹介で姫路機関区を公式に訪問するチャンスが与えられた。
もっとも、課外授業の一環であり、時間帯は先方が指定する時間帯、訪問時の服装は学生服となったけれども、鷹取・高砂工場以外の国鉄現場を見せてもらう非常に良い経験となった。

姫路駅からちょっと距離のある機関区へ歩いていき、まずは区長さんを訪ねて挨拶に伺う。
「DD54が見たいそうですね、ちょうど2両がありますから、安全に十分注意してご自由にご覧ください」
そう気持ち良く言ってもらった様に思う。

DD54はその精密極まりない駆動システムが仇となって、廃車が決まっていた頃だろうか。
鷹取工場では全国で唯一のDD54検査修繕システムを稼働していたけれども、特に複雑きわまるエンジンの解体・修理には随分てこずっていたようだった。

Dd5433 機関区の一番目立つところに停車していたのがDD5433だ。
当時の僕は運転台窓回りをゴム支持とした後期形よりも前期形の方が好きだったからちょっとがっかりしたものだ。
こちらは1エンド側。

Dd5433_2 そして2エンド側。
この機関車はDD54のなかでも調子が良い事で知られ、今も交通科学博物館に当時のままの姿で保存されている。
保守整備に手を焼いた国労から「欠陥機関車」として残すように言われたそうだが、事実はどうだろう・・
非常に鉄道趣味人が多かった国鉄部内でそういう屁理屈をつけて残された貴重な1台ともいえるかもしれない。

Dd5411 やや離れたところにDE10とともに停車していたのがDD5411。
個人的にはメタルサッシのこの前期形が好きで、この機関車が来てくれたことは非常にうれしかった。

マイバッハのエンジンを搭載した意欲的な設計で、亜幹線での輸送力増強に多大な期待がかけられた機関車だったが、設計に詰めの甘さ、日本人には適していなかったかもしれない非常に複雑な構造が災いして早くに姿を消すことになった。
いわば国鉄の無駄遣いの象徴である。

ただし、当時の国鉄労使の関係悪化がその背景にあると指摘されているとおり、鷹取工場では内燃機職場・機関車職場を中心として手間取りながらもその保守に誇りを持っていたように思うが日常の点検整備を行う機関区にとってはとても維持できないと組合側に判断されていたようだ。

De101065 さて、ついでに撮影したDE101065だ。
隣に並ぶのは1063で、これらは当時の最新鋭機関車だった。
DD51と同じエンジンを1基搭載して、駆動軸を5軸として軸重の軽減を図りながらスーパーチャージャーにより1350馬力を実現するなど、運用の利便性・保守性と高性能を見事にマッチさせた高性能機関車であり、現場でも評判が良かった。
最も最高速度は時速85キロであり、優等列車牽引には向かなかった。

30 高砂工場採用の僕として忘れてならないのが機関区の片隅にあったスエ30。
当時の姫路にはスエ3015が居たので多分これだろうと思う。

17197 もっと片隅にあったのはキハ17だが、事故で大破した哀れな姿。
車番はキハ17197と読める。

鉄道学園に入学してすぐの頃の・・
まだまだ鉄道に希望があると信じて疑わなかった頃の一瞬の思い出である。

2009年8月20日 (木)

「なにわ」と「みやび」

ホームページ中のコンテンツ「国鉄高砂工場」で公開されている写真も含め、「サロンカーなにわ」「お座敷客車「みやび」の二つの写真を改めてここで公開していこうと思う。

このブログでも「サロンカーなにわ」それに「みやび」のエントリーで過去に書いているので合わせてごらんいただきたいと思う。

まずは「サロンカーなにわ」から。

Photo 改造中の姿。

14系客車スハフの前後を反転させ、便所、洗面所を撤去してそこに展望室を作る。

もっとも、反転とは言っても編成の前後を入れ替えるだけで、客車の向きを変えたわけではない。

Photo_2 完成した展望車の車内。

非常にシンプルで座席定員も少ない。

Photo_3 展望車のビュッフェ。

古典的な喫茶店のよう。

Photo_4 展望車の外観。

連結側の妻面。

半流線型の妻面を切妻に改造、編成で違和感が無いように配慮されていた。

Photo_5 展望車の全景。

Photo_6 工事開始第1号車の車内。

国鉄としては思い切ったつくりではある。

天井右側、斜めになっている部分は暖房装置。

Photo_7 第1号車完成。

高砂工場塗装職場にて。

塗装は徹底的に磨き出しされた。

Photo_8 完成、プレス公開。

Photo_9 東加古川ー加古川間を行く完成記念、公開試運転列車。

Photo_10 こちらはついでに・・

同じ時期に東京で完成した「サロンエクスプレス東京」

安土駅付近にて。

ここからは「みやび」だ。

高砂工場での「なにわ」スタッフによる工事で、場所は移転しても高砂最後の仕事とも言える。

Photo_11 工事中の「みやび」車内。

格子天井、引き違いの障子、掘りごたつ式の座席、常時使える通路など従来のお座敷客車とは一線を画すものだった。

Photo_12 掘りごたつ式座席テーブルにある小型モニター。

これまでの大型モニターから各自で調節できるモニターに変更された。

Photo_13 カラオケのコントローラー。

当時最新の機器が導入された。

Photo_14 仕切部分。

赤いふすまはなにやら遊郭を思わせる。

全体に高級料亭の雰囲気でまとめたそうだ。

Photo_15 引き違いの障子、14系の面影を残す窓。

窓の内側はFRPのカバー。

障子は全開できない。

Photo_16 いったんこの状態で完成した。

ただし、まだホロが取り付けられている。

Photo_17 ホロは撤去、埋め込みされた完成直前の姿。

Photo_18 完成した「みやび」

塗装はグレーに茶色、国鉄117系と似た雰囲気だったように思う。

2008年12月31日 (水)

国鉄工場の年末年始

Emaiko_127 今だから書けることかもしれない・・
国鉄の現場、運輸を司る部門では全職員が一律に休むことなど不可能だからこれは工場という国鉄としては特殊な現場だけの話だ。

11月になるとだいたい、その年の年末までの仕事がほぼ確定する。
目標は「1両の車両も工場に残さない」だ。
年末年始の繁忙期に1両でも多くの車両を営業線に出す。
そのためには工場の中に検査中の車両が居てはいけないのだ。
もっとも、業務用の車両や改造工事などで入場する車両は別だが、一般の車両はほとんどを工場に残さず、車両基地へ返さねばならない。

キハ35やオハ41という通勤型の車両であっても同じことだ。
これらを活用することで生み出される車両を使って年末年始の臨時列車や増結車として使える車両を生み出すことが出来る。

だから、工場・・特に高砂工場は旅客車両が中心だから、年末輸送が始まるまでは年に一度の大繁忙期となる。

だいたいの目処が立つころを見計らって各職場で忘年会をする。
僕たちの職場では12月はじめ頃までに1泊旅行をするのが常だった。
行き先はだいたいが温泉地だ。
酒を浴びるほど呑み、女の体に触れ、1年の憂さを晴らす・・
けれども、僕が入社した頃にはすでに自家用車で通勤するような人も多く、そういう人は基本的にお酒をあまり飲まないし、そういった宴会を嫌う。
若い人もすき好んで脂粉の香り漂う温泉宿に女を求めなくても、若い人たちらしく自由で飾らない男女交際を好む人も増えてくる。

僕が国鉄に入った頃はそういった古いものと新しいものとが入れ替わる時期だったのではないだろうか。

僕が入社した年の忘年会は北陸の山代温泉。
翌年は東海の三河三谷温泉・・
僕が入社する前年には山陰の皆生温泉に行ったとの事だ。

往復の電車の中は居酒屋と化し、若い者は列車内でまず、大酒を飲まされて・・つぶされる・・
温泉宿では馬鹿騒ぎの宴会の最中に職場の大先輩方が女中とともに消えていく。

こんな宴会を喜ばない人たちの世代・・
忘年会も様変わりしていく・・

3年目の宴会は若い人たちによる示しあわせで山陰の香住へ「蟹づくし」の旅となった。
冬の山陰海岸・・ネオンなるものはほとんど存在せず、ただ、見渡す限りの雪と浜に打ち上げる波の音だけだ。
「女はないのか」そう訝しがる年配の方々に「そんなん、あらへん」と胸を張って若者が答える。

暇を持て余した先輩方にはかえって酒で苦しめられるというおまけは付いたが、食べきれないほどのカニ料理は参加者を満足にさせた。

それでも、忘年会は自分たちでの積立金で参加するのだし、日程も仕事に影響がないように組まれていたから、時代の香りがあるとはいえ、批判されるべき筋合いのものではないのかもしれない。

ただ、時代を表すのは仕事納め、仕事始めの儀式だろうか。

12月29日・・仕事は午前中のみ、それも大掃除だけだ。
午後から職場全員で集まって乾杯をする。
もちろん・・日本酒だ。
飲めない人にはオレンジジュースなどもあったし、飲まないという人には無理やりには飲ませないのも自由な気風の国鉄だからか・・

袋菓子やするめなどの簡単な酒の肴のほか、職場によっては車両の鉄板を重油ストーブに乗せて焼肉をするようなところもあった。
いやいや、午前中からおでんや鍋を用意する猛者も居た。

定時になると開放だ。
年末の町へ呑みに繰り出すものも居る。
当時から飲酒運転は厳しく戒められていて、車通勤のものでもこの日ばかりは自転車や路線バスで出勤していた。
酒には余し職場だが、自動車による交通事故を起こしたものには退職という厳しい掟も存在した。

新年が明けると、今度は朝一番に職場で新年の挨拶。
もちろん、乾杯つきだ。
少しゆっくりして、呑めるものは呑んでから仕事にかかる。
とはいっても、工場内に仕事をするべき車両はほとんど在場していない。
年始輸送が一段落するまで工場は比較的暇な時期を迎える。

国鉄が解体される前、国鉄部内における酒への認識の甘さゆえ、大事故が頻発し、世間の強い糾弾を受けた。
当たり前のことだ。
幸い、工場では大事故はおきていないけれども、だからといって業務中に飲酒することが半ば慣例化しているのはおかしいし、それをオカシイというほうが正常な感覚だ。
国鉄ではその解体前ごろから、飲酒に厳しい目が向けられるようになったが時既に遅し・・

職場の規律の乱れが赤字の元凶であるかのようにマスコミに報道されたのも自業自得といえばまさにそうだろう。

今、鉄道各社では乗務員でなくともアルコールチェックを実施する会社が増えているという。
僕は今、タクシーの乗務員をしていて、毎日、アルコールチェックを受けているが、乗務員以外でもアルコールチェックをするというのは運輸という仕事に携わるものであるならば・・これは今考えれば当然の帰結かもしれない。

けれども、時に、あの、馬鹿馬鹿しい国鉄の酒浸りもまた懐かしく思い出される。
どんなことも懐かしく思い出されるというのはそれだけ僕が年を取った証拠かもしれない。
そういえば、もう数年で僕が国鉄に居た頃の定年退職年齢・・に自分が差し掛かることを思い出してしまう。

2008年6月17日 (火)

スエ3015と出会った日。

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スエ3015高砂工場入場線にて


1979年、夏頃だったか・・

高砂工場で車両の入場待機線を散歩していると、なんとも古めかしい車両が目に留まった。
二重屋根、そして他の車両より一回り小型のその車両がスエ3015だった。

所属は大ヒメ・・姫路機関区だ。
スエの表記が示すように救援車で、普段、この車内には事故復旧の祭に必要な様々な道具が備えられているのだろうが、工場への全般検査入場とあって、それら備品類はすべて外されていた。

車内に目をやると車掌室の年季の入ったダルマストーブ、天井櫛板にある大きな花弁の紋が入った何かの蓋・・
そして外からはふさがれていて見えなかった二重屋根の造作も完璧に残っていた。

車内の作りからはこの客車が荷物車か郵便車であったろうことは想像がつく。
外観も二重屋根のモニター部分が板でふさがれ、二個所の出入り口のうち、1個所が鉄板で溶接されてふさがれている他は原形を止めているように感じた。

当時の高砂工場では、新鋭だった25形客車などに混じって戦前の中型客車や戦災復興客車が時として見られることもある趣味的には大変面白い状態だった筈だが、僕自身はそれほど多くの記録を残しているわけではなく、個人的な趣味は国鉄以外の鉄道に振り向けられていた。
今思えば勿体無いことだ。

さて、スエ3015はその入場作業も僕の班の仕事となった。

一般の客車と異なり、走り装置以外にはほとんど予算をかけられない業務用車両とあり、修繕にはかえって気を遣う。

窓も動くようにはするが、解体修繕などはしない。
側樋は、いかにも昭和初期の車両と言う感じの優美な曲線が入ったものだった為、腐食している個所も交換部品がなく、結局、腐食のひどいところだけを現車合わせで新しい米松材をあてがって、鋸とカンナで形を整えると言うやり方をするしかない。
これらの仕事の中心は古株で木材に詳しいMボーシンが中心になって行った。

けれども、それだけの仕事でも、随分と見栄えがするようになっていくからこの仕事は面白いと感じたものだ。
「昔は、この屋根の明かり窓の調整が大変やったな」
室内で天井を見上げ、Mさんが呟く。
「しかし、見事に天井の造作が残っているなぁ・・」
自慢のパイプを咥え、感慨深げに天井を見上げるMボーシンの横顔には職人の魂が宿っているように感じた。

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スエ3015の室内





室内には汽車会社東京支店昭和4年製造の銘板が残っていて、あとで様々な資料を漁って調べたところ、この車両は原形を47600形、改番でスユニ36200、更に改番でスユニ30となった形式の末裔であることが判明した。
小倉工場昭和26年更新の銘板が室外に残っており、更に記録では昭和35年に救援車への改造が成されていることも判明・・

昭和4年の製造から半世紀・・
平凡な1両の車両が戦災を経験し、戦後の混乱を経験し、後継の大型車両の台頭で第一線を離れ、隠居生活とも言える救援車として余生を送る様子が、この車両の姿から見えてくるような気がしたものだ。

頑丈で無骨な昭和一桁生まれ・・
物言わぬ車両の横顔が頑固なボーシンと重なって見えた。

2005年8月17日 (水)

工作一科

昔は大手の企業ならばどこも中卒者を受け入れ、それを訓練するために養成所というものを持っていた。
国鉄も例外ではなく、中卒者に徹底的に鉄道の基礎を学習させ、鉄道員としての連帯意識を高めさせ、将来の現場の中枢になることを目指して、運営されていた。
けれども、世間一般では中学で社会に出る人は減ってきていて、その分、高卒の新卒者を受け入れていくようになっていく。
国鉄も例外ではなく、僕が入社したころには中卒者受け入れのシステムは工場にのみ残っていた。
それは昭和42年ごろから鉄道学園のシステムに組み入れられていて、工作一科生と呼ばれるようになっていた。

僕は昭和51年に高砂工場に採用され、鷹取工場構内にあった関西鉄道学園鷹取分所に入所した。
ここで3年間の基礎教育を受けて高砂工場に正式に配属されると言うわけだ。
国鉄は生活の面倒も見てくれた。
一人6万くらいだったと思うが、学資金というものを支給してくれた。
ただ、普段は寮で生活しているのであまりお金は使わない。
その分は天引きで貯金してもらうことも出来た。
3年になると正式に国鉄職員として採用されるので給料が支給された。

鉄道学園は基本的に全寮制だ。
共同生活をすることで連帯感を養い、鉄道マンとしての意識を高めるためだろうか・・
しかし・・工作一科の生徒達は所詮は高校生の年頃だ。
遊び盛りの少年達にブレーキなどは存在しない。

入寮したその日、いきなり、先輩の部屋に呼ばれた。
そして、いきなり殴られた。
意味などない。
ただ、そういうしきたりだったからだ。
鉄道員の子息なら、そう言ったこともある程度は理解していただろう・・だが、僕などは鉄道マンとの縁故はない。
殴られたことによる精神的ショックの方が大きかった。
いじめもあった。
弱いものはとにかく、先輩からも同級生からも殴られる。
ノイローゼになり、退学するものもいる。
それでも、僕のように逃げる場所のない人間は耐えるしかなかった。

肝心の授業は面白かった。
鉄道が好きでたまらない人間が鉄道のシステムを様々な角度から学んでいくのだ。
面白くないはずはない。
今思い返しても教科には「鉄道車両」「客貨車」「電気車」「内燃車」「工業計測」「製図」「機械工学」「電気工学」などがあって、それぞれに現場の第一線で智恵をめぐらせていた講師達が自身の体験を基に語るのだ。中には話しベタで、眠くて仕方のない授業もあるにはあったけれど・・
実習では最初の2年間は鉄工などの基礎を学んでいた。
やすりかけ、ハンマーうち、やがて精度の高い真鍮製品の仕上げ・・
これが3年目になると現実に鷹取工場の現場に出て、実際に作業をさせてもらうわけだ。

ただ、これだけでは高卒の資格は取れないので、近くの定時制高校に通った。
技術の授業は鉄道で学んでいるから免除され、一般教科だけを学びに行っていた。
1,2年の内はそれでも別に疲れも感じなかったけれど、3年で現場の仕事をするようになると疲労感は段違いに大きくなり、定時制高校へ通うのは苦しかったし、定時制は4年間通わなくてはいけないため、残りの1年は現場からの通学となった。
僕の場合、高砂工場からの通学は、疲れた身体には厳しく、よく電車の中で寝てしまい、そのまま大阪駅や新大阪駅まで行ってしまったことも何度もあった。

工作一科も2年になると後輩が出来、先輩達の鼻息はそれほど気にならなくなってきた。
スポーツが盛んで、ぼくも今では考えられないが陸上部に所属して、定時制高校に行かなくても良い日には鷹取から塩屋まで走って往復したり、須磨の背山を早朝に縦走したりしていた。
いじめは卒業するまで続いたけれども、それが還って友情を深めてもくれた。
それに、いじめをする側に居た者たちも現場に出ると人間がとても穏やかになり、友人としてはかけがえのない存在になっていった。
寮の部屋は6人部屋で、2段ベッドのある寝室と6人分の机がきれいに並べられている学習室とに分けられていた。
窓からは板宿あたりの町並みが良く見えた。

新規の設備投資が行なわれ、工作一科には立派な新寮と、3階建ての実習場がつくられた。
このころが最盛期だったのではないだろうか・・
新しい寮は4人部屋で、この寮が出来たときには、僕たちは3年になっていたこともあり、部屋は気のあった仲間同士で入ってもよいと言うことになった。
503号室に入った僕たちは、卒業後も友情を深めた。

卒業式は関西鉄道学園の吹田の本園で行なわれた。
先日の夜・・卒業前夜祭と称して僕たちは例外なく飲みふけった。
もちろん酒をである。
酒を飲んで大暴れし、喧嘩をするものもいた。
これは例年受け継がれた悪しき慣習でもあったわけだ。
僕も大酒を飲み、二日酔いで吐き気がするのを堪え、卒業式に臨んだ。
僕は当日、学園長から何か忘れたけれど表彰をしていただくことになっていて、学園長の前に出たけれど、うっぷと吐きそうになった息からは自分でもわかる酒の匂いがした。

卒業後すぐ、503号室の4人で山陰と九州への旅行をした。
松江から乗車した「さんべ5号」は20系で、空いている車内で一つのコンパートメントを寮に居た時の並び方で使った。
工作一科の話に花が咲いて、殆ど眠らなかったように思う。

JR化の前から工作一科は募集を中止していた。
大きな建物は余剰人員の教育センターに活用された。
けれども、あの震災だ。
思いで深い寮は2階部分がひしゃげたように潰れ、やがて解体された。
今、鷹取工場も既になく、そこは小学校になっている。