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国鉄部内の思い出 Feed

2015年8月 3日 (月)

Photo Archive キハ80系賛歌

このブログでは以前に485系583系381系キハ181系を個別に取り上げてきたけれど、キハ80系に関してはブログ初期の文章中心の頃にしか特集していなかったように思う。

Facebookグループ、「国鉄・私鉄の思い出」でときに日付を意識してその日付に合わせた番号の形式や車両を出し合って遊んでいるけれど、8月ということでキハ80系の在りし日の姿を多くの方々から見せていただくことができる。

そこで、今回は国鉄特急形写真集として5番目、キハ80系としていきたい。

基本的にPhoto Archiveとしてブログ過去ログからの出典とするけれど、まだ未公開だった写真もいくつか入れていきたいと思う。

最初に登場したキハ81を先頭としたグループは画期的な日本初の気動車特急というシステムなのに、現場での習熟も十分ではなく、「第二回アジア鉄道首脳会議」にいわば強引に間に合わせた感もあり、結果として初期故障が多発、新聞ダネにもなってしまったけれど、この後改良がすすめられ、現場ではそれ以後、好評だった。 キハ80系の最大の功績は、新時代の鉄道をイメージさせる全国特急列車網を拡大していくうえでの主力となったことで、これにより日本全国の主要幹線に特急列車が走ることになったわけだ。

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天王寺駅でのキハ81、「くろしお」 僕はこのクルマが営業運転している姿を撮影できたのはこれ一度きりだ。

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 同じ「くろしお」キハ82、海南駅にて。

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 昭和57年梅雨入りの日、山陰本線東浜で「はまかぜ」

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 同じ日の「まつかぜ」

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 その反対側。

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 函館本線、豊平川橋梁の「おおぞら」

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同じ場所で「北斗」

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大阪駅での「まつかぜ」

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大阪駅で「はまかぜ」がDD54と並ぶ。

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福知山線武田尾にて、キハ82「まつかぜ」

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 城崎駅にて、「まつかぜ1号」と「だいせん2号」が並ぶ。

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「まつかぜ」が発車する。

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城崎の温泉街を通過する「まつかぜ」、食堂車、グリーン車の姿も見える。

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長駆博多へ向かう「まつかぜ」、13両編成の威容。

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改築中の山陽本線宝殿駅にて、「はまかぜ」

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余部橋梁におけるキハ80系列車。

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その列車が谷あいの空中を通過する。

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餘部駅での通過後の「あさしお」と少年たち。

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友人、K君撮影、倉敷駅を通過する「かもめ」

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高砂工場における検査の様子。 キシ806、入場待ち。

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ジャッキアップされる。

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その妻面。

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キシ80の車内。

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トラバーサに乗るキハ806。

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全般検査完了後のキハ806。

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完成し試運転を待つキハ82。

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 こちらはキロ80。

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キハ81の3と5が高砂工場に廃車解体で入場してきた。 工場の誰しもが「ほんまに解体するのか」と首をかしげる・・工場職員にはこのクルマの「値打ち」が分かっていたのだ・写真はキハ813・・このあと、交通科学館で急遽保存されたクルマだ。

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 こちらはキハ815全景、すでに解体前提で3ともども、主要部品が外されつつあった。

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左側の様子。

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キハ815の正面。

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運転室付近。

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右後方から見た様子。

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筆者(下)と友人、せめてもの記念撮影。

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キハ815の台車。

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JR化後の前に、すでに西日本エリアからキハ80は消滅していた。 東海で残ったキハ80系「ひだ」

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JR化前、すでに「ひだ」と並んで最後の活躍をしていたキハ80系「南紀」、多気にて。

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キハ28系急行「志摩」と並ぶキハ80系「南紀」。

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キハ80は初期高性能車の宿命で、軽量車体が災いし、これが寿命を縮めてしまった感がある。 特に北海道での厳しい自然環境では、本州と同じ設計の車両ではやはり無理が生ずるのは致し方ない。 なぜに、急行用やローカル用気動車は特別な設計をしていたのに、特急気動車のみ、本州と同じものをもち込んだのか・・

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末期の北海道での傷み具合は相当なもので、高砂や向日町による、手入れの行き届いた車両しか見ていない僕には北海道のキハ80系が老骨に鞭うつ姿を見るのは辛いものがあった。

そこで後に専用設計のキハ183が登場するわけだが、その少し前の時期になぜ電車特急として本州の485系を少し味付けを変えただけで送り込んでしまったのか・・ 結局、国鉄はキハ80系の北海道での惨状からなにも学ばなかったわけだ。

言葉を変えれば、キハ80系の失敗は気動車故にキハ183として結実し、電車特急485系はそこで失敗しなければ何も分からなかったということだろうか。 その後、781系の登場と相成ったのは読者諸兄の知るところだ。

だが北海道での厳しい自然環境による老朽化の進展を別にすれば、この気動車は優秀な車両だった。 現場では扱いやすく、非力ではあっても当時としては考えられる最高の高性能、当時としては燃費も良く、1000キロ超の運用でも無給油で賄える。 乗り心地は良く、車内は極めて静かで、この点では後継の181系の及ばない部分でもあった。 独特の浮床構造に加え、窓周りの部材に木材を多用したことが乗り心地と静粛性の向上につながったのは間違いがない。

僕は国鉄の名車として20系客車や153系電車とともにキハ20・キハ28とこのキハ80系列をトップに挙げるけれども、国鉄気動車というのはそれほど木目の細かい優しい作りであったということだ。

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福知山線、武田尾付近でトンネルから飛び出るキハ82「まつかぜ」。

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別の日、反対側のトンネルに吸い込まれていく「まつかぜ」

名車の記憶は色あせない。 そこにこそ、国鉄の、日本国有鉄道の良心と輝きがあったのは間違いがないことだから。

 

2014年8月14日 (木)

横川で国鉄軽量客車三種を見る。

つい先日、「ムーンライトながら」往復乗車が主目的の弾丸旅行をおこなった。 ムーンライトで東京へ行く以上、その先には訪問先が必要なのであって・・今回は長年、是非訪問したいと念願していた群馬県、信越本線横川駅すぐ近くの「碓氷峠鉄道文化むら」訪問を成し遂げることができた。

ここは日本最大の電気機関車保存両数で有名だが、僕の主目的は電気機関車ではなく客車、それも、3種あると聞いていた軽量客車だ。 このブログでもすでに、片上鉄道・大井川鉄道の旧型客車は紹介しているけれど、軽量客車は保存そのものが材質的に難しいために、特に一般型は保存が極めて少ないのだ。

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さて、「碓氷峠鉄道文化むら」ではかつてのここのクィーンだった特急「あさま」に迎えられる。

 

Ef58172

その奥の、屋外展示場へ歩みを進めると、非常にたくさんの電気機関車、その中のEF58172につながれた編成に目が行く。 この前寄りがオハネ1229、後ろにつながれているのがオシ172055だ。

1229_2

まず、オハネ1229の外観。 寝台側、二連の窓が並ぶ独特の風貌だ。 車体幅が広げられ、裾が絞られている。 軽量客車の寝台、食堂車が初めて最大車体幅2950ミリを採用した。

1229

通路側の外観は隣の機関車、EF75との間から眺める。

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オハネ1229車内。 通路部で、完全に当時の様子が残されている。 20系以降の寝台車と異なり、通路側に補助椅子などはない。 窓は大きな一枚下降式だが、下降しないようにロックされていた。

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寝台の様子。 中段は座席運用時には背もたれとして活用するやり方。 20系より無駄が少ないが、その分、事故などの際は中段乗客が転落することも考えられる。

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寝台部の天井。 当初より冷房装備だった20系とは異なり、のちに冷房改造されたため、ユニットクーラーの出っ張りが目立つ。

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洗面所。 三人が一度に並んで使うことができる。

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碓氷峠の主だったEF63のトップナンバーEF631。 この後ろにナハフ111が繋がれている。

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ナハフ11のトップナンバーナハフ111。 大きな窓を持つ優雅な外観。

111_2

車体中央部、車番表記がやや国鉄字体とは異なる気がする。

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車端部をサイドから。 トイレの下に出ているのが汚物排出口。 線路に垂れ流しだった時代。

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車内。 完全に当時の様子が残されている。

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座席。 ゆったりとした座席だが、同じ時代のキハ26あたりとは作りが異なり、保守に難儀したものだ。

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窓。 これも、キハ26・58の簡易だが確実な作りと比べることもできぬ粗悪な設計で、痛みやすく、保守に難儀した。 内側の網戸は撤去されている。

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さて、上記EF58172・オハネ1229の後ろにつながっていたのがオシ172055だ。 客席側の外観。

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厨房側の外観。 妻部に窓が作られているが、これは教習車オヤ171に改造された時のもの。

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その反対側の外観。

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オシ172055の車番表記。 17の部分のみオヤ時代のもの、オシと2055は書き直したのだろう。

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台車。 近畿車輛のシュリーレン台車。

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その台車に残っていた銘板。 組み立ては高砂工場で行われたようだ。

この車両に高砂の面影を見つけたことは非常に嬉しかった。

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床下。 旧型車の台枠を改造したもので、すっきりしているが、これは水タンク、冷房用エンジンを撤去されているから。

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台枠。 魚腹型台枠の形が残っていた。

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車内。 客室の一部が残されている。家庭用クーラーが見えるが、オシ時代はきちんと冷房付き、しかも平天井という凝った設計だった。

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車内にあったパンタグラフ。 オヤ時代は交流機関車の訓練用に使われていて、そのための模擬パンタだ。

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運転台。 本来、オシ17に運転台などあるはずもないが、教習用に電気機関車に似せた運転台が設けられている。

4011

D51の後ろにつながれていたのがマイネ4011で、よくぞ、この様な車両が残っていたものと感心する。 ただし、車内は公開されていなかった。

20467

すぐ近くにあったキハ20、後期型のキハ20467で、人気のある標準色に塗装されている。 僕は今でもこのタイプのキハ20は国鉄が作った気動車としては最高傑作のひとつであると信じて疑わない。

Photo

神社。 この場所は碓氷峠を守る横川機関区のあった場所で、機関区の方々が手作りで祀った神社が残されていた。 かつて、国鉄の現場にはこういう神社があったものだ。

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国鉄高砂時代の写真から。 再掲であるがご容赦を。 新宮にいて「はやたま」に使われていたオハネフ1213・・廃車時に高砂工場にて。

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その寝台。

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車内通路。

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ナハフ10103。

JR西が京都に計画している博物館・・新たに保存されるのは電車が主体になりそうだが、あくまでも個人的な思いとして、国鉄関西三工場の一つ、高砂工場が作り上げた傑作、オシ17を京都に持ってきて完全に復元して保存できないのだろうか・・ 可能であるならと念願する。 それにしても、21世紀も10年以上を経て、軽量客車が三車種も完全に近い状態でみられるとは思わなかった。

「碓氷峠鉄道文化むら」関係者の努力に素直に感謝したい。

 

2014年7月13日 (日)

若鷹号と若鷹寮(国鉄鷹取工場)と嵯峨野観光鉄道19世紀ホール。

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さて、僕が国鉄、関西鉄道学園の技能者養成課程である「工作一科」を卒業したことは前に書いた。 その、鷹取工場の技能者養成所の生徒をかつては「若鷹」と呼んでいたらしい。

そして、国鉄が私鉄を買収し、その私鉄から国鉄に移ってきた機関車の中で、もっとも小ぶりだった徳島鉄道の7号機を、技能者養成所の生徒のための訓練用として整備したのが「若鷹号」だ。

まず、鷹取工場における写真。

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 僕の所蔵するフィルムから見つかったのはこの一枚だけで、実際はもっと撮影しているはずなのだが、なぜか見当たらない。 「若鷹号」を「若鷹寮」からの俯瞰撮影だ。

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 工作一科卒業アルバムから。 同期生のH君が「アルバム委員長」となり、僕もアルバム委員として編集に加わった卒業アルバムからの転載だ。

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 工作一科は全寮制で、自宅からの通学は認められていなかった。 若鷹寮のプレート。

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 若鷹寮歌。 ここには載っていないが3番の歌詞があり、「筋骨隆たる若人の足跡至らぬ峯もなく、鉄拐・鷹取・摩耶・六甲・・・」 神戸の背山で・・特に鷹取以西の須磨アルプスは養成所生徒の肉体的・精神的訓練の場でもあった。その訓練は軍隊式で厳しいが自分自身の思考や体力を成長させる大きな糧であったと思う。

それがゆえ、今も僕は、青少年を鍛える際に軍隊式の調練を取り入れるべきであると思っている。

さて、JR化後、さらに神戸での震災後、鷹取工場は一世紀にわたる歴史に幕を下ろし、その機能を網干に移転することになった。 工場で保管されていた準鉄道記念物たる「義経」は交通科学博物館へ移管されたが、問題は「若鷹号」だった。

歴史的に由緒ある機関車というほどでもなく、また、大活躍した機関車というわけでもないが、国鉄工場の若き職員たちの実習教材として多くの国鉄マンに親しまれた機関車でもある。

JR西日本系列の嵯峨野観光鉄道に移管され、ここで末永く保存されることになって、僕らもホッとしたものだ。

現在の嵯峨野観光鉄道「19世紀ホール」での様子。

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 若鷹号全景、公式側。 塗装が鷹取時代の緑から黒に変わっている。

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 こちらは非公式側。

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 後ろから見た様子。

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 若鷹号のプレート。

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 若鷹号のキャブ。

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 若鷹号の足回り。

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 ここには他にC56、D51、C58も展示されている。

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 C5698。

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 C5848。 これらは大阪の共永興業が保管していた機関車で、その保存状態は最高に近い。

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 D51603。 日本最後のSL定期列車牽引機で、本来は上野の国立博物館に保存されるはずだった。 後ろに若鷹号が見える。

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 D51603の後部。 追分機関区の大火で焼けおち、僕らはこの機関車がクズ鉄となって廃棄されたものだと思っていた。 それが、共永興業がひそかに焼け残った前頭部を引き取り、保管してくれていたというわけだ。 痛々しい前頭部だけの姿だが、この機関車がたとえ一部分でも存在することの意義は大きい。

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 こんな模型も展示されていた。 トロッコの客車模型。

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 こちらは人車軌道の模型。 若鷹がいた徳島に人車があったかどうか定かではないが、その時代まで一部には人車軌道も残っていた。

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 「若鷹」号の案内板。 いささか誇張されて書かれている。 実際には自力で走行はできても、機関出力が低く、戦時の貨車の牽引ではたいして役に立たなかったらしい。 やはり実習用の機関車なのだ。

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 若鷹号の正面。 鷹取工場を支えた若き職人たちの思いが今もこうして残ることに感謝したい。

なお、本文中、嵯峨野観光鉄道19世紀ホールでの撮影は一昨年の12月であり、その後の変化は目にしていないので本文中には記していない。

 

2014年5月31日 (土)

国鉄高砂工場トップページ

僕がかつて在籍した国鉄高砂工場について、これまでも拙ウェブページ、また、このブログで紹介してきたけれど、近い将来、ウェブページについては閉鎖を検討している。 これは、ブログ、SNS全盛の今にあって、ウェブページというものを個人が運営することの意味合いが薄れてきたからに他ならない。

その前に、まず、ここでトップページとしてブログの1ページを作っておき、ここから過去の高砂工場へのリンクを見ていただけるようにしたいと思う。

まずは、初公開、既出含めて写真を・・

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高砂工場、外部向けのパンフレット表紙。

 

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キハ81、実はこの写真の後方右側、もう1両の特急気動車が写りこんでいるが、これは、同じキハ81だ。

2

 そのもう1両のキハ81を・・ 紀勢線「くろしお」で1往復だけ走っていた名古屋直通列車に使われていた車両で、この2両が最後のキハ81、うち1両が解体直前に大阪の交通科学館へ移籍したのは前に書いたとおりだ。最後に残ったキハ81は3と5で、保存されたのは3、この写真のどちらがそれなのかは今となっては判別できない。

A

 ブルートレイン、14系客車の極寒地向け改造工事。 これは改造工事中。

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 出車作業中の様子。

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 完成して試運転を待つばかりの様子。

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 「サロンカーなにわ」は14系座席車を改造したものだが、その改造途中の様子。 これは7号車の、サロンと座席を併せ持つ車両の鋼体工事。 丸妻を切り妻に改造している様子がわかる。

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 こちらは中間車の出場、出車工事の様子。

Naniwa

「サロンカーなにわ」完成、報道公開。

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 郵便、荷物輸送からの撤退で、集められた郵便車、荷物車の廃車解体待ちの様子。

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 20系から24系に編入されたカニ25の解体待ちの様子。

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 そのカニ25の屋根。

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 キハ35と並んだカニ25。

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 キロ28、更新改造のための車体鋼体だけにする工事。

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 並んだ廃車車両の屋根・・ 張替えたばかりの屋根布も見え、もったいない限りだ。

A612203

 マニ612203、荷物車の中で最も美しかった最初から荷物車で生まれたマニ61をカラーで・・

A601

スロ601・・保存前提で誰かがここに残したのだが、結局、朽ち果ててしまい、解体された。

A153

キハユニ153・・加古川線で人気のあった車両だ。

A_4

 廃車解体作業の様子。 軽量客車が転がっている。

A_5

 解体された車両の鉄くず・・ これだけで、元の車両がわかる人はいるのだろうか?

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20系客車、ナハ21、運用中の様子。

Photo

 お座敷客車のしおり・・ この原本が行方不明だ。

以下に高砂工場関連記事へのリンクを表示させていただく。

国鉄高砂工場

国労と高砂工場

お盆の高砂工場

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高砂工場昭和54年5月8日入場待機線

国鉄高砂工場 外部向けパンフと車両たち

国鉄高砂工場でのちょっと濃い写真

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国鉄高砂工場廃車留置線

国鉄高砂工場 昭和54年出車作業場ほか

昭和54年5月8日、国鉄高砂工場旅客車主棟

貨車なのか、客車なのか

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荷物車

夏のオハ41

20系客車

22

軽量客車

最初の客車

12系客車

50系客車

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失敗の話

出車

入場作業

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高砂線関連も。

「国鉄高砂線廃止直前の高砂駅と高砂港駅

高砂線

Miyabi

なにわ、みやび関連。

サロンカーなにわ

なにわとみやび

みやび

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2012年4月30日 (月)

国鉄高砂工場でのちょっと濃い写真

改めて、古いネガが出てきたのでスキャンした。
今回、撮影時に何かテーマを決めた感じではなく、リコーS2というクラシックカメラを骨董品店のようなカメラ屋で手に入れたことからそのテスト撮影と言うか、お遊び的な写真だ。
もちろん、露出計などあるはずもなく、フィルム送りもムラがあって、きちんとした絵になっているのは少ないと言う代物だ。

撮影は昭和54年ごろ。
一部に写真からスキャンして既出したものがあるがご容赦願いたい。

Photo 向日町所属の標記があるオハ41、番号は367と読める気がするが、この当時、この番号の所属はなく、360というのがいるから、これかも知れない。
草津線の朝ラッシュ時の輸送力列車に使われたはずだ。

Photo_2 岡山に居たキハ17 321。
新塗装になっているから、まだ検査切れしていなかったのかもしれない。
廃車留置線だ。

Photo_3 岡山のキハユニ15 1。
キハユニ15のトップナンバーだが、事故復旧か何かで正面のデザインがキハ17とおなじものに改められていた。

Photo_4 そのキハユニ15 1の妻面。
こうして見ることが出来るのは珍しい。

Photo_5 キハユニ15 1の客室。
粗末で狭いピッチのクロスシートが並ぶ。

Photo_6 豊岡に居たキユニ11 1。
キハ10の面影が残る。

Photo_7 スエ3137。
これは廃車ではないかもしれない。
撮影場所が入場待機線だ。
なお、記録によればこのクルマは茅ヶ崎の所属で、高砂には入場しないはずで、転属だったのか、あるいはさらに他の車種への改造が為されたのかも今となっては不明、元はスハ32系一党のマニ31との事。

Photo_8 廃車留置線に放置されていた国宝級のクルマ、スロ60 1の妻面。
全体像は以前に出したと思う。
なぜかこのフィルムには妻面だけが写っていた。

Photo_9 スロ62、天リウの標記があり、よく見ると番号は2046と読める。
この当時、竜華にはスロ、スロフ合わせて6両が所属していて、団体臨時列車などに使われていたはずだ。
全般検査のために入場中。

Photo_10 ニ36、番号が読めないが、一般客車を改造したタイプで、全般検査のために入場。

Photo_11 その車内。
これは全般検査のために解体したその様子。
非常に珍しい写真だと思う。
鋼製ドアや窓を外して調整、戸袋の角材が外されているのは、戸袋奥を塗装するため。

Photo_12 入場待機のマニ36 2058。
窓配置や窓の大きさが出自を物語っているが、元はオロ40だったようだ。

Photo_13 最後に高砂線の工場配給列車。
DD13がトム、ワム、25形客車、キハ47を連結して走る。
模型で表現したら楽しい編成ではないだろうか。

Photo_14 その列車のワム60000を。
前後に客車・気動車を連結できる・・国鉄車両とはなんと自由に編成を組めたものだろう・・
(もっとも、電車だけは別だが・・)

2012年4月 2日 (月)

お盆の国鉄高砂工場

旧盆の時期は国鉄は使える旅客車のすべてを営業線に送り出す。
これは年末年始でも同じで、増発、増結に出来る限り対処するために、そういう態勢をとっていたのだろう。

ただし、長期在場が必要な更新車や改造車は別だ。

Photoそのお盆の頃の高砂工場の様子。
グラウンドから木工建屋などを見た様子。
コンクリートの煙突が国鉄高砂工場のもので、赤白の塗装が施されたものは隣の神戸製鋼のものだ。

37 マニの廃車体。
荷物輸送からの撤退が為されて、不要になったマニが多数、廃車のために留置されている様子。

35 入場前待機のキハ35。
通勤列車などの車両は優等列車の増発や増結とは関係がないために、普通のサイクルで入場してくる。

26廃車のために解体されているキハ26。
当時の廃車解体は今のように一気にユンボで潰すことなどせず、使えるものを保管する必要からわりに丁寧に為されていた。

26_2 そのキハ26車内。
化粧板を外した外板に吹き付けられているのは、アスベストだ。
今では考えられない危険な構造だったことがわかる。

35_2 入場前作業場のキハ35、オハ35、マニ50だろうか。
これらも通常のサイクルで運用される車両たちだ。

Photo_2 旅客車主棟建屋内の様子。
キロ28の更新修繕車だけがぽつんと置かれている。

A 主棟北側、この先がAスパンと呼ばれる建屋内のトラバーサがあったその手前付近。
この時期には使われない仮台車が集められている。

A_2 棟内トラバーサ、Aスパンの様子。
工場存続を目指して行われた大改造工事だったが、いくらも使わないうちに工場そのものが廃止されてしまった。

Photo_3 車両のいない塗装職場。
この場所に車両が一両もいないのは、盆と年末年始くらいだっただろう。

Photo_4 車両のいない出場トラバーサ。
普段ならここには新車のような輝きを放つクルマが多数並んでいたはずだ。

Photo_5 工場内で使われる工具運搬用のバッテリーカー。
当時既に環境に配慮していたことの表れか・・

2012年2月26日 (日)

国鉄鷹取工場、昭和53年8月。

国鉄鷹取工場でのネガフィルムが出てきた。
すでに拙ウェブサイト「こうワールド」の「国鉄高砂工場」内で既出のものもあるが、改めてスキャンしてみていただこうと思う。

撮影日は昭和53年8月19日とある。
終業後の鷹取工場内をコンパクトカメラ「オリンパス35ED」を隠し持っての撮影だった。

なお、鉄道ファン諸氏には一部ショッキングな写真が含まれること、ご承知いただきたい。

Dd13 入場建屋にDD13が留め置かれている。
全国何処でも見られた小型の入換機だが、入換用のわりにはブレーキの効きが悪く、蒸気機関車でも入換用に使いやすい9600形が長く活躍する結果となった由。

2 入換用の機関車と言うより、国鉄部内では「機械」。
一部は工場でも自作していた。
これは入換のためにここに居るのか、それとも全般検査のために居るのか、ちょっと不明。

Dd51 ディーゼル機関車のエンジン。
こちらはDD51のものだろうか。
DML61系のエンジンが二つ並んでいる。

Dd54 こちらはDD54のもの。
V型16気筒DMP86だ。
このエンジンは鷹取工場で集中整備されていて、精密なエンジンの分解、組み立てができる設備があった。

Dd541 そのDD54の廃車解体の様子。機関車の廃車はまず、車体の箱を外して、主要機器を取り外さなくてはならない。まだ、まっさらのような機関車の解体・・
当時、廃車解体は主に定年退職された先輩たちが勤めていた下請け会社の仕事だったが、その方々の心中や如何に・・

Dd542 そのDD54サイドビュー。
前にあるのがSG(蒸気発生装置)その後ろがエンジンだ。

De10 こちらはDE11か?
事故で廃車になった機関車。
調べると、この年の6月1日に吹田操車場内で事故があり、その被災車両ではないだろうか。

103 冷房改造に入場したクハ103。
この当時、山手線ATC化工事のために、京阪神緩行用に作った編成の両側TcをATC装備させ、山手線に投入、京阪神緩行線には新車の中間車と、東京から流れてきた先頭車が組み合わされて投入と言うことになった。

このクルマも南シナの標記がある。

111 こちらも冷房改造工事に入場している113系電車。
レッドライナーかブルーライナーか判別がつかないが、ブルーライナーの車両を見た記憶はないから関西線の快速用だろうか。
鷹取工場は機関車、貨車を中心とする工場で、当時、受け持ちの電車はなかったが、冷房改造が忙しい時代、電車職場を立ち上げて103系113系の冷房改造工事にいそしんでいた頃だ。

Photo 鉄道学園鷹取分所の実習用機関車、「若鷹号」。
元々、四国の阿波鉄道の古典機関車だが、分所の前身「鷹取技能者養成所」の実習用に改造されている。
分解、整備、組み立て、試運転を繰り返したと言うが、この頃では分所のシンボル的存在だった。なお、今は嵯峨野観光鉄道で保存されており、ぜひ一度しっかりと実情を見てみたいと思っている。

Photo_2 鉄道学園寮からみた鷹取工場の風景。
左の新しい建物が食堂、正面左の大きな建物が機関車職場、右手なにやら溶鉱炉のようなものが見えるのは鋳物職場だ。

このあたりは今、まったく新しい町に変貌していて、もはや記憶の中でしか追えない光景でもある。

2012年2月10日 (金)

国鉄高砂線廃止直前の高砂駅と高砂港駅。

昭和59年12月、国鉄高砂線が廃止された。
第一次特定地方交通線だった路線で、この路線そのものの概要は過去ログ「高砂線」をご覧戴きたい。

今回は廃止直前の高砂駅と高砂港駅の様子だ。

Photo 高砂駅は木造の上に鋼板のようなもので改装された、ちょっと変わった雰囲気の駅だった。
これは南側から見た様子。

Photo_2 これは北側から見た様子。
廃止直前の記念乗車券を発売している様子がわかる。

Photo_3 駅構内を北側の踏切から遠望した様子。
時刻は晩秋の夕方5時頃か・・
気動車が停車している。

Photo_4 ホームの様子。
クラシカルな上屋が、駅舎外装の改築では隠し切れない歴史を物語る。

Photo_5 ホームから高砂港方面を見た様子。
十輪寺だろうか、古い寺院の特徴ある建築が見える。
ここから先に行くのは貨物列車だけだ。

Photo_6 高砂駅の転轍機。
駅員が忙しく立ち働いていたのは既に過去の光景となっていた。

35 ホームに停車する気動車。
歴史のある中都市の街中に位置する駅なのに、旅客列車は日に十数本しかやってこなかった。

Photo_7 駅北の踏切を渡る列車。
町並みの古さが気動車によく似合っていた。

Photo_8 その踏切に、高砂線廃止の案内看板が出ている。

Photo_9 国鉄高砂工場や神戸製鋼所、三菱重工、キッコーマンなどへの引込み線も街中を貫いていた。

Photo_10 こちらは高砂港駅。
旅客列車はやってこないが、ホームの跡がある。
かつての旅客営業の名残だろうか。

Photo_11 高砂港駅の構内。
広漠とした、寂しい風景。
貨物列車全盛時代にはここにはたくさんの貨車や機関車が居たのだろう。

2 放置されていた2両の日通所属の入換用機関車。
国鉄部内では構内入換機と称されるレベルのものだが、地方私鉄では堂々とこのタイプが機関車として使われていた。

2_2 その2両の側面。
前の機関車のほうがより「機関車」らしく感じる。

Photo_12 前の機関車。
雑草が線路の放置期間を物語る。

Photo_13 そのサイド。
とても入換用の機械には見えない。
どこかの私鉄で働いていたものだろうか。

Photo_14 やや後ろからサイドを見る。
運転室の窓に旋回窓・・
北国で使われていたのだろうか。

Photo_15 反対側サイド。
国家の都合で職を追われたもの言わぬ機関車。

Photo_16 キャブの室内。
ディーゼル機関車初期のにおいがする。

Photo_17 旋回窓と運転台。

Photo_19東急車輛の銘板。

昭和32年製だ。

W4 こちらは後ろに繋がっていたほうの機関車。
より「入換機」に近い近代的な香りがする。

デザイン的にもシンプルだ。

Photo_18

その銘板。

昭和40年、日本輸送機の製造。

高砂線が消えてはや28年になる。
今やそこに鉄道があったことを知らぬ住民が大半だろうか。

Photo_20 加古川を渡る貨物列車。
消えた鉄道はやがて記憶の中からも去っていくのか・・

2012年1月23日 (月)

国鉄鷹取工場のネガフィルムから

僕にはどうも、大事だと思うものを大事にしすぎてわからなくなる癖があるようで、鷹取工場のネガもようやく2本だけ見つけることが出来た。

本当はもう1本、鉄道学園鷹取分所の頃のネガがあるはずで、それはまた見つかったときか、あるいは写真プリントからのスキャンでお見せできると思う。
とりあえず、今回は鷹取工場の第1回目だ。

Photo まず、平成に入って動態復元された「義経」の写真。

すでにJRとなった後だが、「花と緑の博覧会」で運転されるために復元されたもの。
この復元にあわせて工場公開も実施された。
「義経」は僕が学園生の頃は工場正門近くで静態保存されていて、年に数度、これの車体にワックスをかけるのは工作一科生の仕事だった。
なお、工場内の学園分所にはタンク機関車「若鷹号」も保管されていた。

Photo_2 このときに撮影した機関車職場の様子。
EF65、EF58、DD51、DD13といった当時の国鉄主力機関車が並んでいる。

Ef58 展示用に並べられているEF58の台車。
大型の電気機関車で、幹線用・・その足回りを見られる数少ないチャンスだった。

Ef5848 それでは昭和59年ごろの鷹取工場でのネガから。
EF5848の車体の様子。

電気機関車の場合、車体補修といっても腐食部分の手当てくらいで、十分用が足りてしまう。
それが機関車を旅客車より長寿命にさせている遠因かもしれない。

C57 山口線C571の全般検査の様子。
蒸気機関車の修繕設備は長野工場に残っているものを持ってきた由。
鷹取工場廃止後は梅小路に移設された。

C57_2 C57のキャブの様子。
この写真を撮影したときから既に30年近く・・
機関車の寿命の長さに驚く。
もっとも、その裏には現場での必死の取り組みがあるわけだ。

C57_3 C57を後ろから見た様子。
テンダーを外したキャブをバックから見られることなど、めったにない幸運かもしれない。
ただし、当時の僕がそれを幸運だと思っていたかは別。

201000 貨車職場改め客貨車職場における20系ナハネ20。
よく見ると、1000台の客用扉改造車だが、車端ダンパーはこちら側はついたまま。
つまり。こちら側はおなじ20系との連結側。

2010001 そのナハネ20の反対側。
国鉄部内の定めではこちらが1位側(つまり前です)。
貫通口が12系にあわせて狭められて、車端ダンパーが撤去されている。
12系との連結はこちら側であるということ。

21 ナロネ21。
多分「銀河」用か。
なんとも言えずに落ち着いた、好きな車両の一つ。

今、鷹取工場跡は町になってしまった。
かの阪神淡路大震災で工場機能も停止したが、それでも応急復旧させ、なんとか、その後の需要増大を乗り切った。

結局は工場機能を網干に移転新築されてしまうのだが、明治期以来の歴史ある鉄道工場であったわけで、せめて現地に車両の一つも保存しておいて欲しかったと言うのはこれは・・ファンの戯言だろうか。

国鉄の名門、鷹取が消えて何年になるだろう。

2000年に最後の車両を送り出し、あれから12年、時の流れは速いものである。

2011年11月18日 (金)

国鉄高砂工場廃車留置線

今回は高砂工場廃止直前の廃車解体待ちの車両たちだ。

それも少しレアなものも見ていただこうと思う。

26183 まずはキハ26183・・
このクルマは岡山の所属だった。

2876 そのキハ26の前方に押し込まれていたのが和歌山のキロ2876だ。
一見、何の変哲もないキロ28に見えるが、台車が空気バネ台車になっている。
これはキロ27の台車だろうか、それとも特急車両の台車だろうか。

102033 ここからは郵便車だ。
郵政省が全面的にトラック輸送に切り替え、大量の郵便車が余剰となって廃車された。
まずはオユ10から。
標準的な郵便車だったオユ10の非冷房の姿。
オユ102033。

102034  こちらはオユ102034。
この2両でオユ10の両側面をご覧いただけると思う。

102578 冷房改造されたオユ102578。
冷房改造工事はスロ62などと同じ手法、屋根鋼体を丸ごと取り替える工法で行われた。

Photo 同じく冷房改造されたオユ102579。
これもこの2両で両側面をご覧いただけると思う。

10 冷房改造されたオユ10の車内。
特に郵便物の仕分けのための区分室は、風を避ける意味から窓が開かず、冷房化によって作業環境を向上させるしかなかった。

132034_2 次は護送郵便専用、郵袋のまま輸送するためのスユ13。
ネガを拡大して見るとスユ132036と読めたクルマ。

132038 スユ132038。
郵便車でも、スユ13は、関西ではなかなか実際に見る機会がなかったように思う。
これもこの2両で両側面をご覧いただけると思う。

132038_2 同じスユ132038を真横から見た様子。

13 そのスユ13の車内。
郵袋のまま郵便物を積載するために何にもない、がらんとした車内だった。

267_2

キユニ267、ローカル線によく走っていた郵便荷物合造気動車。
姫路の所属だったから播但線で活躍したのだろうか。

267その気動車の内部。
これは郵便区分室。

2612 キハユニ2612と読めるクルマ。
鹿児島・志布志から岡山に転属になり、すぐに廃車になったようだ。

Photo_2 次は救援車。
救援車の役目もほとんどをトラックに奪われてしまう。
岡山のスエ7151。
もとはスハ32系の一員だったようだが、戦争で被災して、戦災復旧客車となり、さらに合造車となり、救援車へ。

Photo_3 糸崎のスエ7121。
こちらは郵便荷物合造車だったのだろうか。

3142 新見のスエ3142。
これは戦災復旧車ではなく、スハ32系をそのまま改造したクルマ。
窓配置がなにやら上等そうな車両の出自をうかがわせる。

Photo_4 救援車の内部。
どの車両か判然とせず、上記3両のいずれとも違うように見える。

Photo_5 こちらは作業員室。
達磨ストーブとゆったりした椅子がある。

251 カニ251。
20系の電源車を24系に組み入れたクルマだ。

25 そのカニ251をカラーでご覧戴こう。
24系に連結して使うのに、何故か塗装は20系時代のままだった。

251_2 既出だがカニ251の屋根。
パンタグラフ跡の通風器がなんとも侘しい。

国鉄はこの時期に郵便・荷物輸送から撤退して、今のような宅配便全盛時代になっていく。