フォトアルバム

プロフィール

フォトアルバム

こう@電車おやじ

小説サイトSTORY http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story/ 鉄道掲示板 http://6551.teacup.com/kouzou/bbs プロhttp://pr.cgiboy.com/02653710/フィール

鉄道と社会 Feed

2015年12月31日 (木)

終焉へ向かう夜行列車への考察

 このテーマではできるだけ新年になる前に済ませておきたかったのだけれど、多忙を言い訳についに大晦日になってしまった。 大半の読者が新年にこれを読まれることを思うと、新年早々夢のない話・・と言われかねないが旧年中にアップした記事であり、新年は少しでも希望のあるほうへ向かってほしいとの意向であることをご理解いただければと思う。

520

僕自身、国鉄時代には数え切れないほどの夜行列車に乗車した。 書き綴りながら思い返し、思い返しながら列車名をあげていくと、

Photo

鹿児島線「かいもん」、長崎線「ながさき」、山陰線「さんべ」、土讃線夜行快速、

14

山陽線からの九州方面行きでは「阿蘇・くにさき」「雲仙・西海」「さくら」、

Photo_2

四国連絡「鷲羽」、山陰線関西口の「だいせん」「山陰」、紀勢線「はやたま」、北陸線「立山」「きたぐに」「日本海」、東海道線大垣夜行344M、「銀河」「臨時銀河」、中央線「ちくま」、信越線「越前」、

14_2

函館線「すずらん」、根室線「まりも」、宗谷線「利尻」・・今思いつくだけでこれだけ出てくるが、実際はもっともっと乗車しただろう。 また、宇高、青函航路には夜行便も存在していた。 昭和50年前後、夜行列車はどれも混んでいた。 寝台は満席、指定席など取れず、自由席に乗ると決意したその先には通路での雑魚寝、あるいは立ったまま夜通しなどごく当たり前だった。 その頃、国鉄はテレビコマーシャルで「星のマークの寝台列車、一日およそ4万ベッド」と、改善の進んだ寝台をアピールしたものだ。

ところが、国鉄末期から夜行列車の削減が頻繁に行われ、まず、座席主体の夜行急行や夜行快速、夜行鈍行が姿を消した。 そして、高額な寝台料金による客離れが進んだ寝台特急・・いわゆるブルートレインが少しずつ消えていく。

Photo_3

ダイヤ改正のたびに廃止される夜行列車を追う鉄道ファンの姿が一種の風物詩のようにもなっていく。 それでも、当初は乗車効率の悪い列車の削減、あるいは列車を統合して効率化を図るための削減というものだった。

Photo_4

だが、「銀河」あたりの廃止からは「多くのお客様にご利用いただいていますが、車両の老朽化により」というJRの言い訳を見ることが増えていったように思う。

58136

ここ数年に廃止された夜行列車、「きたぐに」「北陸」「あけぼの」「出雲」「銀河」・・そしてJR化後に誕生した「北斗星」「トワイライトエクスプレス」といった列車は乗車効率は高い列車だったはずだ。

14_3

車両が老朽化したなら、多くの利用客のために車両を製造すれば済むことで、それは日頃、僕たちが利用している通勤列車ではあたり前のように行われているはずだ。 なぜに、夜行列車用の車両が老朽化して、それを新製の車両でまかなえないのか・・ 鉄道ファンのみならず、それら列車を利用していた多くの乗客はJRの言い訳に納得などできるはずもないのだ。

Photo_6

たとえば、JR西日本では、SL観光列車「やまぐち」号の12系客車の老朽化に伴い、外観をノスタルジックな旧型客車のデザインに合わせた新型客車編成を製造することを発表している。 SL「やまぐち」号は快速の全車両座席指定車だ。 特急料金は収受できず、特別料金としては座席指定料金の520円だけしか得られない。 だのに、この列車の客車は製造し、「トワイライトエクスプレス」や「銀河」の車両は老朽化したからといっても代替車を製造する話にはならない。 乗車券以外に一人の乗客が払う特別料金は数千円から数万円になるのに・・だ。

SL「やまぐち」号は列車単体で見れば大きな赤字を出す列車だと見ている。 だが、沿線経済への波及効果は巨大で、JRとしても新幹線などほかの分野への集客効果も大きい。

そうすると、夜行列車にSL「やまぐち」のような経済波及効果はないのだろうか。

自治体でも鳥取県や秋田県では寝台特急の廃止に対して「存続」をJRに陳情している。 北海道も「トワイライトエクスプレス」「北斗星」の廃止には難色を示していた。 これはこれら夜行列車がもたらす経済波及効果が、大きいということを意味している。 それでも、JRは腰を上げない。 いったん廃止と決めた列車を復活させたりはしない。

それはなぜか・・国鉄分割民営化とその後の新幹線延伸への世論の中で、JR内部、国交省内部の全うな意見は押され、つぶされ、結果としてJRに無理やり新幹線を押し付けるという方向になってしまい、受けるJRとしても新幹線の経営安定が第一義となり、平行在来線を切捨てせざるを得ない危険な状況に追い込まれているが、JR北海道が当面、北海道新幹線に巨額の赤字を見込む結果となっているのはその際たるものだろう。

そこに夜行列車を運行しても第三セクターなどとの権利関係が複雑で、自社にとって大きな利益にならないと読んでいるから・・要は新幹線を運用するだけで必死と言う状況である。

北陸新幹線をフル企画で建設するかどうか、世論が分かれていたその当時、JR西日本は明確に「反対」の意思を表示していた。 「われわれが長年取り組んできたことが無駄になる」 これは当時のコメントだったと思うが、北越急行への肩入れと、それに伴う列車の高速化という努力すべてが無駄になる・・そのことを表している。 将来的には在来線列車の時速200キロ運転までも視野に入れていたJRの技術開発はその昇華の時期を向かえつつあった・・ だが、我田引鉄の論理は北陸新幹線構想を巻き込み、東北や上越に負けないフル規格新幹線への地元世論が大きくなると、在来線の維持・発展のための世論はかき消されていく。 JRとしても、こうなるとやらねばならないことだけを必死でやり、やる必要がない部分は切り捨てるしかなくなってくる。 結果として夜行列車のような長距離列車はその存在基盤を失う・・車両が老朽化したからと言って、 新車を作ってもその投資に見合う収益が見込めなければ撤退するしかないのだ。 この点では夜行列車は、赤字必死のローカル線列車よりJR内部におけるその地位は低いということになってしまった。

「昔懐かしい」「ノスタルジック」「消え行くもの」「時代の趨勢」これらの言葉が消え行く、いや、無理やり消されていく列車への哀愁となって、駅や沿線での鉄道ファンの殺到となり、「葬式鉄」などという嫌な言葉が囁かれる。

考えてみてほしい・・ 先進国といわれる国で夜行寝台列車のない国があるのか・・ かの米国ですら政府主導で長距離列車を運行する「Amtrak」が今も数多くの列車を運行している。 時間を有効に活用しながら、疲れを癒し、明日への活力となる列車・・ それこそが新時代の夜行列車であり、そこに哀愁という言葉は似合わない。

あるいは、ゆったりとした休暇を楽しむための列車、老後のささやかな贅沢をほんのひととき楽しむための列車。 日本が本当に先進国であると宣言するなら、鉄道における「文化」の部分を大事にした列車、あるいは人生の効率化のために本当に役立てる列車、そういう存在があって然るべきではないのだろうか。

JR九州が運行を開始したクルーズトレイン「ななつぼし」の大好評に刺激され、JR東日本、JR西日本はそれぞれ豪華クルーズ列車の開発に着手した。

12293

そして、JR西日本では「トワイライトエクスプレス」の車両を使ってクルーズトレインを試行している。やっと「鉄道文化」に対する認識が少し生まれてきたかと思ってはいるが、これではまだまだ、ビジネスマンが仕事のために、明日の活力のために使う列車も登場して初めて鉄道が持つ文化的土壌を発揮できるのではないか。

あるいは若者がリーズナブルに旅行をするための、快適で安全な列車の開発、事故多発の高速道路ではなく、安全な鉄道を最高にアピールできる機会であり、もっともっと、夜行列車というものを見直していくようになり、その列車を保護、発展させる政策があって始めて日本は先進国、文化立国といえるのではないのだろうか。

もうひとつ言えば、新幹線の高速性を利用し、線路保守の妨げにならない時間帯に走り、線路保守時間帯は駅で停車して時間調整を行うような夜行列車があればと考えている。

新幹線なら、車体サイズも大きく、寝台車としてはゆったりとした非常に良いものが出来るのではないだろうか。

06104

ちょうど今のサンライズの車両を少し大きくした感じをイメージしている。

鉄道ファンにしても、廃止される列車を追うばかりではなく、新時代への提言をもっともっと、大きな声にしていこうとするそういう方向性になぜ至らぬのか・・

それならお前がやれ・・とはよく言われる言葉だが、一人の声ではない、大勢の声をもっと大きくしていくことの必要性を僕はこの国の鉄道・交通の未来のために言っているわけだ。

Photo_5

2016年3月改正以降、日本の夜行旅客列車は定期運行では「サンライズ瀬戸・出雲」一本のみとなる。 「一日およそ4万ベッド」の時代からわずかに四半世紀、その日以降は「サンライズ瀬戸・出雲」の全寝台が、日本の鉄道が一般に販売する夜行列車ベッドの全数であり、「サンライズ」の「のびのび座席」が夜行列車座席のすべてなのだ。

夜行列車、寝台列車始まって以来のこの危機は、必ず日本の鉄道の危機への序章となる・・僕はそう考えている。

個別の時間やライフスタイルに応じた選択肢のない乗り物はその魅力を発揮出来ず、いずれ撤退するしかないからだ。

2015年9月26日 (土)

Photo Archive 改めて湘南形二枚窓の電車を思い返す。

昭和25年、国鉄としては画期的な電車による長距離運転を実現した80系が登場、当初は半流線型3枚窓のデザインだったが、このデザインが戦前最盛期の国電デザインに比しても何となく間の抜けた感じであり、二次車からは思い切ってデザインを変更、流線型二枚窓という全く新しいデザインとなり、一世を風靡するようになる。

86000

初期、一次形、名古屋にて。

86200

夢前川の80系電車。

80

播州赤穂駅に入る80系電車。

80300

 こちらは夢前川橋梁東側の築堤にて、クハ86300代先頭。

153

国鉄ではこの後、この電車のイメージを気動車、機関車にまで反映させる。 気動車では電気式キハ44000型がこのデザインを採用。後にキハ17系液体式気動車群が登場してからは合造車や郵便荷物車などに改造された。  写真は加古川駅に入るキハユニ15、変わった顔立ちが印象的な3号車だ。

156

こちらは加古川駅で荷扱い中のキハユニ156、加古川線には3両のキハユニ15がいた。

Dd50

 機関車、電気式ディーゼル機関車、DD50、米原駅構内にて。

Ef581

当初評判の良くなかった戦後復興期の大型電気機関車、EF58は大規模な更新工事を受け、その際に車体を流線型二枚窓に改められた。 今も人気の高い機関車だ。 写真はEF58トップナンバー、宝殿にて。

Ef5880

EF5880、流し撮り、流線型EF58の顔立ちの何と美しいことか。

76307

 70系電車、府中電車区。 80系が正面と側面がややアンバランスなイメージがあるのに対し、上下に拡大された二段式の側窓、明るいクリーム主体のツートンカラーで登場した70系のデザインは品がよく、国鉄が作ったこの種のデザインでは白眉ではないかと思う。

しかし、国鉄で湘南形二枚窓を採用したのは量産車ではここまでで、これ以後、電車・気動車は使いやすい貫通型、特に電車急行、近郊型電車にはパノラマミックウィンドウと組み合わせた格調高いデザインが中心となった。 だが、私鉄では国鉄デザインよりさらに良いものをと、一種独特の湘南形風二枚窓デザインを採用した会社もあり、全国手に大流行、さらに昭和40年代になっても湘南形二枚窓を基本としたデザインを採用すr会社もあるなど、大きな影響があった。

2023

京王帝都のグリーン車、2023、京王八王子にて。

3767

 3000系ステンプラカー、明大前。

20053772

 更新車、3772、明大前。

5000

 名鉄5000系、一種独特の流線型、丸い車体は国鉄デザインのはるか上を行った。 日本車両と名鉄の意欲が表に出た形だ。

50005102a

東急5000系、写真は熊本での様子だが、これまた独特の軽快さで私鉄らしい車両だ。

50002501

 移籍先の長野での様子、赤系統の塗装がよく似合う。

2001

その長野電鉄が近代化初期に特急用として投入した2000系、名鉄5000と同じメーカーで、似た雰囲気ながら独自路線を行く。

1000

西鉄1000系、3ドア改造後、やや野暮ったい、面長なデザイン。 この、独特の風貌がまた魅力だった。

303

神戸電鉄300系、阪神3011系は早くにその姿を変えてしまったが、その香りが漂う。

1001

 南海、11001系→この頃は1001系改造後。 新今宮駅。 国鉄湘南形二枚窓を基本にしたデザインでは、もっとも完成度の高いデザインだと思う。 側面と正面のバランス、長い車体、そして明朗な緑濃淡のカラー。

21001_2

南海21001系、11001系と同じ系統のデザインだが、車体サイズが短く、トンネル限界の関係で屋根が低いので微妙に印象が異なる。 なぜか、関西私鉄は湘南形デザインには消極的だったが、南海はうまくこのデザインを昇華させ自社のものとした。

161

富山地鉄181、14780系の制御車、長野・名鉄と同じメーカー、日本車両による意欲的な作品で、正面の傾斜はないが、塗装と相まって独特の風格を感じる。

802

近鉄800系、湘南形二枚窓のアレンジとしてはデザイン的にも一歩抜きんでているように思う。

409

 近鉄409、更新車にも湘南デザインが登場したが、こちらは800系に比すとバタ臭い感じがする。

132

 近江鉄道132、近江鉄道はこの電車をすべて自作。 自作でもここまで見事な車両にできた・・驚嘆に値する。

6061

大井川鉄道(元北陸鉄道)6050系、湘南形デザインを一歩進めた、大型パノラマミックウィンドウ、アルミ車体という大変な意欲作。 これも日本車両の手によるもの。

601

茨城交通ケハ601、ステンレスの気動車、車内は通勤型仕様だが、その存在感は大きかった。

200

福井鉄道200形、これも日本車両の手による意欲作。 湘南形と101系デザインを合わせ、車内は111系、そして連接車という車両で、今も残るが福井鉄道LRT化により、去就が注目されている。 写真は武生新における準急→急行への変更作業。

1000_2

 伊豆箱根1000系、西武系の鉄道は二枚窓がとても好きだけれど、ここの車両は一味もふた味も違っていた。

1000_3

二枚窓電車が3編成並ぶ。

1205

十和田観光、1205、三沢にて。 北海道・札幌で電鉄を運営していた定山渓鉄道の車両。

617

 京浜急行600形。 久里浜にて・・走行シーン。

621

 編成の連結部分。 オールM、クロスシート、正面デザインは全体に傾斜した独特の二枚窓、側面大きな窓と相まってバランスのとれた美しさを見せる。

617_2

久里浜駅ホームで先頭車のアップ。

600

中間車の様子。 阪神3011系よりやや後の作品だが、僕らはこの電車に阪神3011の面影を見た気がした。

101

西武鉄道101系、池袋にて。 湘南形大好きな西武の、もっとも洗練されたデザイン、黄色とグレーのツートンが良く似合っていた。

Photo

 流山電鉄での元西武車、バランスのとれた、かっこいい電車だ。

3312bw

大井川鉄道の元西武車、こちらは3ドアを2ドアに改造、クロスシートを設置して活躍していた。

7001

 岡山臨港のキハ7001、元はと言えば北海道、夕張鉄道の気動車だった。

0730603

紀州鉄道の603、はるばる大分からやってきた。

185

長らく、国鉄は湘南形デザインの本家でありながら、そのデザインを生かした車両を作ることはなかったが、末期にようやく2種の電車が登場した。 写真は185系、鼻筋を通し、全面上部に傾斜を付けるなど、湘南形の末裔であることを宣言しているように見える。

117

117系、関西急電からの伝統を、うまく受け継いで見事に表現した、国鉄デザインとしては最高傑作のひとつであると信じる。

80_2

最後に偉大な80系湘南電車の面影をしのびながら・・ 飯田線。

 

2012年8月28日 (火)

LRTへの道、富山の鉄道

6152                                                       先ず、昭和55年、富山駅構内に留置されていたオハユニ6152の写真から・・
当時、北陸線は有力な中規模の都市が連なる中、鉄道はようやく旧態依然とした姿を脱しつつあるときだった。

73 さて、本題に入る。
富山で見たものといえばもちろん、当時、中小私鉄の雄だった富山地方鉄道線であることは間違いないが、鉄道線については次の機会に譲るとして、今日のLRT先進都市、富山市のその源流を見ていたので、それをご覧戴こうと思う。
まずは国鉄の富山港線、富山駅に停車する72系電車・・所謂ロクサン電車だ。
ここのロクサンは水色に塗られ、ちょっと見ただけでは京浜東北線や京阪神緩行線の103系電車のような雰囲気を持っていた。

79 岩瀬浜駅のクハ79。
当時の富山港線は4両編成の旧型国電が毎時一回程度走っていたが、乗客は案外多かった。

Photo 岩瀬浜の駅舎。
重厚な駅舎で、元は私鉄だった路線だが、この頃は国鉄独特の風格を持っていた。

7016 富山市内線電車。
なぜか単線区間で好んで撮影していたようで、僕にとって単線の路面電車が珍しかったのかもしれない。
大橋を渡る電車は7016号だ。

7020 こちらは7020号。
場所は新富山の近くだろうか。

7023 歩道橋からの撮影か・・
7023号。
富山の路面電車は、京阪神や阪堺、広電と同じく、車体幅が広いタイプで貫禄があった。

5020 射水線廃止には間に合わなかったものの、新富山駅はまだ電車が残っていて、射水線の面影がたっぷりとあった。
写真は5020号はじめ一列にまとめられた射水線電車。

5020_2 5020号の路面電車然とした台車。

5040 こちらは駅舎側から。
5040号。

Photo_2 ホームの立派な上屋。

Photo_3 待合室には乗客の姿があってもおかしくない様子。
だが、電車は来ない。
射水線は元は、富山、伏木、高岡を結ぶインターバンだったが、新港建設の際に線路を分断され、結局、乗客数が半減して廃止の憂き目に会った。
この路線分断には対立する代議士の力関係があったといわれるが・・
なお、線路の東側は加越能鉄道高岡軌道線と統合され、いまも「万葉線」として存続しているのはご承知の通りだ。

一時は射水線から富山市内線への直通電車も運転され、今のLRTのさきがけとなった射水線だが、乗客は増えず、結局は廃止されてしまう。

8003射水線廃止から30年。
現代の富山は、広島、長崎に匹敵する路面電車先進都市である。
先だって、僅か数時間を利用して富山の電車を眺めたその写真。
駅前にてVVVF 制御の新鋭、8003号。

7021 その電車とすれ違うのは、今も現役の7000形7021号。
車体カラーは新鋭と揃えられている。

7018 こちらは復元色の7018号。
やはりこの色合いが似合う電車だと思うが・・

9003 新線区間の環状線へ乗り入れる「セントラム」9003号。
岡山のMOMOタイプの斬新な電車だ。

1101 こちらは乗車した電車とすれ違った際に撮影した最新鋭、3連接の1101号。

606 そして、何より僕を感嘆させたのが、富山港線を引き継いだ「富山ライトレール」。
0606編成が富山駅北へ向かってくる。

606_2 岩瀬浜の駅舎と電車。
国鉄時代の面影はほとんど消えうせてしまった。
だが、これは新しい時代の都市近郊鉄道の模範でもある。

606_3 岩瀬浜にて電車を正面から。
ロクサン電車がここにいたとは到底思えない。

Photo_4 富山ライトレールの富山駅北口乗り場をJR富山駅仮設跨線橋から遠望。広島・長崎・岡山といった路面電車先進都市の何処もが手掛けなかった在来鉄道のLRT化を、真っ先に実行したその姿がここにある。
思えば30年の年月は時として思いも拠らぬ風景を見せてくれるものだと・・痛感した次第だ。

2011年3月17日 (木)

大災害が起きました。

東北地方、太平洋沖地震とその後の大津波、また原子力発電所の異常事態という大災害に遭われたすべての皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

一日も早く復興の途につかれますことを心よりご祈念申し上げます。

そして、亡くなられたすべての方に謹んで哀悼の意をささげます。

大変なときです。

力をあわせて乗り切りましょう!

601 写真は現在も不通になっている「ひたちなか海浜鉄道」の昔の姿、茨城交通線ケハ601です。

どうか、鉄道網も震災前の姿に復活しますように。

2010年8月 7日 (土)

車両の「匂い」

リクエストがあってからずいぶんと時間が経ってしまったけれども、今回は「列車の匂い」ということを書いてみたいと思う。

もちろん、匂いである以上、写真には写らないわけで、今回の場合、写真はほんのお飾りである。(最初に若かりし日の筆者が車内で軽く飲んでいる様子など)

Photo_4

*清掃・車内美化にかかわる匂い*

国鉄のころ、僕らは匂いに対して、ある種の概念のようなものを持っていた。
それは「関東のクルマは食べ物のにおいがする」というようなものだった。

国鉄はよほどの目的や事情が無い限り、地方にいきなり新車を入れるということは少なく、まず、本社のお膝元である関東に新車を入れ、玉突き式にそこからあまった車両を地方に回すという手法をとっていた。
だから、明らかにその地方用に投入される117系やキハ66など以外、113系115系、103系などの通勤電車はもとより485系、キハ80系といったような優等車両までもが地方に回るのはたいていが「中央のお古」だった。

これら車両は当然、関東においてもきちんとした整備や清掃を行っているはずであり、日常の検査もできているはずだから、その車両が移動し、到着すれば地方では即それを使えるはずだ。
もちろん、実際に使っていたのだが、利用者や現場の職員などに結構毛嫌いされることも無いとはいえなかった。

それは整備、清掃が行き届かず、酷使で痛んだ車両は誰の目にも中古車然としていて、清潔感と程遠かったその雰囲気が、利用者や職員に嫌われたのである。

例えば、外板の痛み・・腐食し腐った部分にブリキを宛がい、この上からパテで塗りこめてあったり、ろくに拭き掃除もしない車両の化粧版がタバコの脂がこびりついて取れなくなっていたり・・ゴムが劣化したままの床が気持ちの悪い様相を呈していたり・・

それらの中で、ダイレクトに嫌われたのが「匂い」だった。

特急・急行などの車両で食べ物の匂いが沁みつくのはある意味当然で、これは普段、車庫などで清掃するのだけれども、例えば暖房機のカバーの中や配管の奥、座席の隙間に落ちた食べかすなどはその部分を分解しないと清掃は完全にできない。
これらが、つもり積もって「匂い」の元になる。

関西でも優等車両であればあるほど、こういった部分の清掃が行き届かない面は確かにあったけれども、例えば「卵の腐ったような匂い」などは、滅多に感じることがなかった。

これは当時の(今はかなり変化しているので今の姿ではない)車内における乗客の行動が関東と関西では異なるということにも影響されていたように感じる。

一度、夕方の常磐線中距離電車に乗車したときのこと、車内で乗客が酒盛りを始めたのには驚いた。
関西の113系と関東の401系とではそのつくりも似ていたが、関西では菓子程度のものを食べたり、コップ酒や缶ビールを飲むことはあっても、おおっぴらに酒盛りをするなどということはまず、見られない光景だった。

駅の売店でもゆで卵など、もちろん、大阪駅の売店にもそれはあったのだけれど、たくさんぶら下げられたそれを買う人が多いことにも驚いた。

関東の乗客の移動距離、移動時間は関西のそれとは比較にならないかもしれない。
それが車内にいる時間の無聊を慰める・・あるいは時間を少しでも有効に使うということにつながり、車内で飲食をするその頻度や規模の差に出るのだろうかとも考えたことがある。

485_2 だが、いかに乗客が飲食をしようとて、列車の清掃をきちんとすれば、不快感は残らず、匂いもきつくは無い。
結局は、さきの工場での手抜きのように、車庫においても清掃が行き届かなかったのだろうか。
それだけ、忙しかったということになるのだろうか。

車両の匂いとは食べ物の匂いだけが主要因では無いだろう。

*車両の構造上、運用上の匂い*

国鉄は車内清掃時、座席や人の手に触れる清掃の際に、ガソリンを使っていた。
座席などはガソリンをたわしにつけて、それでこするのだ。
あるいは、窓框、座席枠、手すり・・
こういったところには雑巾にガソリンをしみこませて、これでふきとる。

このガソリンを使ったのが、高砂だけだったのか、それとも全国の工場や車庫でなのか、そのあたりは良くわからない。
今のような上質の洗剤や除菌クリーナーなどが無い時代、揮発性の高いガソリンは、清掃にもってこいだったのかもしれない。

工場での仕上げ作業にアルミデコラ、飾り面などを清掃するときは、シンナーを使う。
工場ではこのためにシンナーの一斗缶を大量に使用するのであり、僕ら上回り作業者は、塗装作業者などと同様に、有機溶剤の耐性を検査されていたものだ。
オユ10の冷房改造の際、僕は締め切った車掌室で、このシンナーを大量に吸い込ん目が回ってしまい、まるで酒酔いのような状態になっていたところを上司に発見され、即刻入浴と休憩を命じられたこともあった。

ガソリンやシンナーなどの清掃時に使う揮発性薬品のみならず、改造や修理作業でも有機溶剤は大量に使う。
鉄骨の下地を整える板ゴムやハードボードの取り付けには強力な接着剤を使ったが、これも匂いが強烈だった。
それに板ゴムやハードボードの匂いもある。
ハードボードは鉄骨に貼り付けてから、カンナで削って形を整えるのだが、削ることで匂いがでる。
ゴムはゴムでそれ自体が匂いを持っている。

床のリノニュームやロンテックスにも、ゴム系の匂いが漂う。

アルミデコラに匂いは無いが、これら薬品や素材に匂いがあり、いわば有機溶剤系とゴム系の匂いが入り混じり、さらにその上に清掃時の有機溶剤の匂いが加わったのが、新車や大規模改造工事の出来立ての車両の匂いだといえるだろう。

けれど、これらの香りは決して嫌なものではない。
中にはこれらの香りが苦手な方もおられるが、少なくとも不潔感を思わせるようなものでは無いだろう。

このほかにも、例えばドアエンジンなどのオイルの匂い、冷房ダクトを通過した空気の匂い・・これらも列車内部の匂いの要因のひとつだろう。

しかし、不快感、不潔感を覚える匂いの主要因はやはり食べ物、それにタバコ、そして、埃などだろう。
冬場にこれら不快な匂いがきついのは、食べ物のカスやタバコの灰、埃などが暖房装置で加熱され、その匂いが強調されるからかもしれない。

けれども、通勤電車の座席下のゴミや埃なら日常の清掃でとることはできても、暖房機カバーの中や蒸気暖房引き通し菅の奥にたまったものなどは、工場でそれらを分解しないと清掃ができない。
そして、冷暖房完備の特急車などの場合、そういったところにゴキブリ(なぜか特急列車内のゴキブリは小型で、生命力が強いものばかりだった)やダニが発生し、これらの屍骸の匂いもまた車内には漂っていたのだろうか。

もうひとつ、古い車両、特に客車では蒸気機関車の煤などがたまっていて、これが匂いの元になっていることもある。

Photo 他にも、旧型客車では接着剤などはほとんど使用されておらず、代わりに防腐剤やカシューといった木材に塗布するものの匂い、天井などのペンキの匂い、それに屋根などのコールタールの匂い・・これらが匂いの主役だろうか。
もちろん、乾燥すれば匂いは自然と収まってくるし、不快なものではない。
そして木材の本来の匂いというより、香りだろうか・・

旧型客車のあの郷愁にも似た香りは、新型車両の有機溶剤やゴムが主体の匂いとは異なり、人間が郷愁を覚える自然にあるもので成り立っていることもまた・・
人によってはこれら旧型車両をこよなく愛する要因の一つなのかもしれない。

そして、これにタバコや煤、旅客の体臭・・
床に引いた油の香り・・

旧型客車はあくまでも人間の乗る車両なのだろう。

油といえば・・

Photo_2 気動車のあの油の匂い・・
これまた不思議に人の心を和ませるものだんだなぁ・・と遠い昔に思いをはせるのだが・・・

Photo_3 それと同時に、関西私鉄の清潔感に満ちた車内を思うとき、なるほど、接客ということに関しては国鉄と私鉄でこれだけの差があるのだと妙に納得もする。

画像は阪急8000系のクロスシート車内だが、阪急車内で不潔感のある匂いに出会ったことは無い。
これは他の私鉄も同様で、「清潔な電車」をキャッチフレーズにしていた京阪や、涼しげな緑、青系のカラーで車内を統一していた阪神も、その車内は国鉄では滅多にお目にかかれない清潔さだったと書けば・・
国鉄ファン諸氏のお怒りを買うだろうか。

なお、本記事は国鉄時代の筆者が知る状況について書いたもので、現在のJRのことを書いた記事ではなく、JR各社は車内の清潔保持に努力していると筆者も信じていることを最後に確認しておきます。

2010年1月 7日 (木)

阪神淡路大震災と鉄道・・その2

さて、体験を書いているうちに鉄道ブログらしく当時の実見した記憶や鉄道関係の友人から伝え聞いた話も残しておきたいと思う。

国鉄時代の話から少し外れるが今回だけお付き合いいただきたい。

震災のような大被害ではまずは人命救助や生活の再建が最優先であり、その場その場での鉄道の運用変更ごときは大した話題ではなく、またこうして記すべきものでもないのかもしれない。
ただ、やはり僕は鉄道ファンであり、それは大災害の時であっても変わらないわけで、視線は自然に鉄道に注がれる。

ただし、当時の僕は神戸の鉄道が完全に復興するまで趣味の写真は撮影しない(もちろん、仕事における記録写真やポートレートなどは撮影しているが)と決めたので、画像は一切ないことをご承知いただきたい。

*神戸市営地下鉄

震災翌日から徐行、一部単線運転ながら西神中央ー板宿間で運行を再開してくれた。
車庫への入庫線をオーバークロスする名谷高架橋が危険な状態だったため、学園都市と名谷の間で単線運転、伊川谷高架橋では架線柱が土台ごと崩落する被害もあったが、これは応急復旧の形で整備されていた。

電車はすべて名谷駅乗り換えで、名谷から板宿の間は複線で20分ごと。
ただし、電車は新長田駅構内まで進んで折り返ししていた。

震災前には「快速」が走っていたが、これは震災後は運休。
その後、正式に廃止された。

全線復旧は意外に早く、2月16日から。
ただし、新長田、上沢、三宮は通過運転で、始発を繰り下げ、終発を繰り上げて夜間工事の時間帯を確保していた。

上沢駅は道路ごと崩壊した神戸高速大開駅至近の位置にあり、駅の前後では線路間の柱が無残に折れ、それを鉄骨で支えて仮復旧していた。

3月16日には新長田と三宮、3月21日には上沢も復旧したが、三宮など、しばらくはあちらこちらで柱が増やされ、通路が閉鎖された様相を呈していた。

神戸市営地下鉄は神戸市民のまさに生命線であり、これの迅速な復旧がどれだけ市民生活の復興を助けたか。
感謝しても感謝しきれない。

*山陽電鉄

震災が起きたその瞬間、崩壊した神戸高速大開駅をまさに、山陽電鉄の特急5000系6連が通過するところだった。
この列車は東二見発阪急三宮行きだ。

幸いにも列車通過直後に駅が崩壊、一部脱線台車があり、パンダグラフも壊れたそうだが、電車そのものは難を逃れた。
この電車がほかに2編成、神戸高速に取り残された電車とともに神戸高速新開地と阪神西灘の間で神戸高速の復旧まで活躍することになる。

震災翌々日には、いまだ板宿駅当方で3000系4連が放置されていた。
ロングシートをはずして乗客が脱出したのだろう、その電車の周囲には座席が散乱していた。

国道2号からみる須磨浦公園付近の築堤があちらこちらで崩壊している惨状、それに塩屋駅が完全に崩壊している状況は、山陽電車のファンであることを自認する僕にはつらかった。

代替バスもJR復旧後にようやく垂水から板宿まで走り始めたような状態で、明石以西の復旧や特急の運転再開は早かったものの、JRの神戸開通後は大勢に影響のない状態だった。
垂水から板宿へ行く際に何度もこの代替バスを利用したが、いつも閑散としていた。

地下工事を進めていた東須磨ー西代間は地上線をそのまま廃止・・地下線の工事を急いだ。
この地下新線も相当な影響を受けたようで、駅の線路間の柱などは横幅の広いものにされている。

塩屋駅はとりあえずは仮説で復旧・・今の駅の東方に設置された。
今見るとこんなところにホームを作ったのが信じられないような場所である。

*阪神電鉄

1月26日に早くも神戸市内、青木(おうぎ)駅まで乗り入れた阪神は、東から神戸に入ったトップバッターだ。
そして、都心部においても2月1日から仮復旧の形で三宮と高速神戸の間を再開してくれた。

この時期に、阪神三宮駅1番ホームに留置していたジェットカー5000系4連は、ひどく壊れていて、とくにすべてのドアが腰のあたりで大きく折れるように曲がっている様子は辛かった。

国道43号を代替バスが走り始めたころ、石屋川車庫の崩壊により、運び出された被災車両がこの道路わきに並べられていたし、いったん高架橋を撤去した御影駅西方では線路が更地になっていて、復旧の前途多難を感じさせたものだ。

代替バスは国道43号にノンストップ便を、国道2号に各駅停車便を走らせたが、このために代替バス運行期間中、国道バスは運休になってしまった。
ノンストップ便はチャーターした観光バスが中心、各駅停車便は普段は国道を走っている阪神バスが中心だった。

ようやく代替バスの運行も落ち着きを見せ始めたころ、阪神は早朝に脱線事故を起こした。
これは線路上を回送可能と判断された電車を回送中に、やはり相当痛んでいたのか、突然脱線したもので、この朝は代替バスが相当混乱した。

このこと自体、当時の阪神の苦悩を物語っているように思う。

青木開通時、梅田を出る電車の行き先表示はすべて「御影」になっていた。
御影に早く行きたい!
それは阪神全社員の思いだったのだろう。
当初、特急は運休し急行のみ、車両の復旧とともに特急の運転本数が増えてきた。

JR、阪急、阪神の中では阪神が一番復旧が遅れ、6月の下旬になってしまったが、個人的にはあの更地をよくぞ復旧したものだと感嘆の思いである。

*阪急電鉄

西宮北口と夙川の間の高架橋が倒壊したために、阪神間3社の中で神戸市内へ直通できるのが一番最後になったのが阪急だ。
このほか、岡本駅西方の擁癖崩壊、今津線への新幹線高架の落下、灘区での橋梁の落下、伊丹駅倒壊、そして何より、三宮のシンボルだった阪急ビルの被災。

電車はかの神戸線チョッパー&VVVF試験車2200系が今津線で被災、伊丹駅は電車を乗せたまま崩壊し、高架下では死者も出た。

しかし、地上線で復旧が早かった御影ー王子公園間を2月13日に復旧してくれたおかげで、JR、あるいは阪神と結んで、神戸ー大阪間を鉄道のみで行き来できるようにしてくれたことは感謝にたえない。
メンテナンス面での都合もあろうが、阪急はこの区間に当時最新鋭の8000系車両を陸送して投入・・
車両の入線にあたっては、かつての上筒井支線の名残の保線用地を活用したのは何とも不思議な気がする。

御影駅はキャパシティの小さなローカル駅だが、乗客が激増して捌ききれなくなるとすぐに、線路を1線にして使わない線路の上に仮設ホームを作り、乗降できるスペースを確保してくれたり、臨時改札を設けたりと、対応の早さが目立った。

しかし、阪急の大阪側の入り口である西宮北口は神戸からあまりにも遠く、代替バスも国道43号なら復興車両とバスのみでスムーズな運行が可能だが、そこから離れる区間が長く、大阪への所要時間ではJR、阪神に及ばなかった。

復旧工事は徹底を極め、高架橋や築堤は作り直した。

こういったことが、震災後の阪急の経営悪化に結びついたことは否定できず、大災害後の復旧の難しさを浮き彫りにしたようにも思う。

神戸高速線にも8000系トップナンバーだったと思うが、これが取り残され、三宮駅西方の高架橋が大きく破損していたので、しばらくはこの電車が花隈と新開地の間を往復していた。

三宮の阪急ビルは震災直後に取り壊しが決定され、優雅な昭和初期の建築物が姿を消した。
同じ時期の阪神ビル(そごう)が被害を受けながらも修繕され、今も三宮の看板として君臨しているのをみると複雑な思いだ。

*神戸電鉄

湊川と長田の間のトンネルが危険な状態にまで被災するという、前代未聞の被害を受けた神戸電鉄だが、鈴蘭台から三田、粟生方面は一部築堤に地盤が緩んだ個所があり、徐行運転をしながらでも復旧は早かった。
1月19日にはこの区間が開通し、北神急行と連絡して都心へ結ぶルートができた。

さらに1月21日には福知山線の復旧に伴い、大阪から三田回りで神戸都心へ行くルートができた。

神戸電鉄に多くの乗客が殺到(僕もその一人だが)、単線区間もあり、15分ヘッドがやっとの三田線の混雑はすさまじい状況だった。

このころ、神戸電鉄は北神急行へのう回路の利便性を図るために、鈴蘭台ー谷上間で北鈴蘭台のみ停車の速達列車を運行していた。

2月7日に長田まで開通。
ここと湊川を結ぶ代替バスを運行開始したけれど、渋滞にのまれ、思うように走れなかったとも聞く。

この段階で北神急行への振り替え輸送を中止したのではなかったかと記憶しているが・・

6月下旬に難儀を極めたトンネルの復旧工事が終わり、全線で開通。
しかし、この震災が神戸電鉄の経営悪化の要因の一つではなかったかと・・
今になれば思う。

*JR西日本

震災復旧はJRの底力を見せつけた。
東から芦屋まで開通したのは1月25日。
もちろん、この時僕が芦屋に行けるはずもないが、大阪通勤時に見た芦屋は、駅舎の一部使用停止、ホーム上屋の全面撤去と仮説上屋の設置、という状況だった。

西から須磨へは1月23日、神戸へは1月30日に開通。
須磨以西で舞子付近まで何本もの電車や貨物列車が停止したまま放置していたのを見ているが、脱線はなかった由、東側でシュプール号が脱線したそうだが、高架崩壊の六甲道に列車がいなかったのは不幸中の幸いか。

さて、須磨から東がひどい状況で、この状態で開業にこぎつけたことに、国鉄時代から続く鉄道魂を見たような思いがした。

今の海浜公園駅あたりに電車線から列車線への渡り線を設け、上り列車は一番北側の列車線を通過、阪神高速の橋脚が崩れ、橋桁が落ちてきている鷹取駅西方ではこの橋桁を鉄骨で支えて、いたが、その高さがようやく下り線の架線と接しない程度で、非常に不安に思ったものだ。

鷹取駅では上り線は鷹取工場すぐわきに仮設ホームを設け、下り線は本来の上り線に仮設ホームを設け、列車線を使う形。

開通初日には操車場の車両、20系客車や12系客車が脱線転覆して営業列車に腹を見せるというまるで映画のような状況。
まずは何より営業列車を走らせ、他はそのあとで・・という方針だったようだが、実際に現場を見ると鉄道マンたちの必死の思いを感じ、涙が出た。

いくら僕が元国鉄マンで、いろいろな状況を見てきたとは言っても、これほど大量の車両がひっくり返っているのを見るのは初めてなのだ。

新長田駅が倒壊しているので、ここは通過扱いだったが、その駅の下を複線で走るために、和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線を急遽、電化して列車を走らせる。
さらに、兵庫駅手前で上りは電車線の下りを、下りは列車線の下りを使って複々線のうち、南半分だけで営業。
信号システムや渡り線の設置だけでも大変な工事なのにと思う。
さらにさらに、上りの朝ラッシュ時は快速をすべて各駅停車で運転する必要から快速が通過する駅をすべて12両に応急対応。

そして、不足する輸送力を補うために、本来7連の201系を一部バラして・・
6連2本で12連にして快速用に。
8連を2本作って輸送力アップに・・

さらに、引退したはずの103系電車を大阪や広島から持ってきて応急に使う。

矢継ぎ早の対策は利用者からみれば頼もしい限りだった。

もちろん、JR社員も非常に多くの人が被災していた。
避難所から通勤している人もいたし、自分や家族が被災しているのに仕事を優先、神戸市内では水や食料の確保もままならぬ状況で、鉄道マンを支えたのは使命感ではなかったか。

3月には新長田も仮説で復旧、本来の電車線での運行が再開された。

三ノ宮駅は2月20日に仮復旧したが、駅舎西側は使用停止して交通センタービルの解体工事中。
灘駅だけは電車線を使ってその先の操車場で列車の折り返しをしていた。

電車線復旧後に西側でも新快速が走り始めた。
最初は30分ヘッド、長く通過列車のなかった須磨駅や垂水駅ではこのためにずいぶん気を使ったようだ。

4月1日に復旧後は震災特需の様相を見せ、手持ちの車両を大放出して電車の運行をしている様子がうかがえた。
新快速電車は震災復旧時に臨時の形で増発されたが、これが結局、今の状態につながっている。
当初は車両不足から117系や113系の新快速も運転された。
117系のものはその後も長期にわたって運転されていたように思う。
時には当時の福知山線快速用に改造されたセミクロス編成も新快速運用に入っていた。

代替バスも灘開通後は独特の運用法で、5~6台に一度に乗客を乗せ、同時に出発させる・・
これを数分ごとに繰り返すやり方でラッシュ輸送を乗り切った。
バスの車種による区別はなされず、2階建てのデラックスバスに乗れる時もあれば、九州から応援の一般型バスに乗る日もある。
一般型バスの場合、立ち席があるので「立つことを承知」すれば列からはみ出して飛び乗らせてもくれた。

灘駅は駅の南側からバスに乗ったが、乗るときは駅西方のガードをくぐって乗り場に行かねばならなかった。

住吉駅では国道2号がバス乗り場だった。
歩道上で乗客の整理をし、切符を販売しているその多くの人が新幹線の車掌さんだと聞いた。
普段は快適な列車の中の仕事なのに、寒い中、雨風の吹き付ける中、気の毒に思えた。

新幹線はこの期間に使わなかったから詳しくは知らない。
ただ、妻の実家近く、神戸市西区内で周囲の建物が被害がないか、あっても一部損壊程度のところで新幹線の高架が大きく崩れていた。
橋脚が崩れ、橋桁が川に落ち、線路がぶら下がっていた。

他の高架橋もかなり傷んでいたが、これらはコンクリートで固めたような感じで修理してしまった。
今、その上を時速300キロで「のぞみ」が走る。

あの震災から本当に15年も経ったのか・・あるいは本当に震災があったのか・・

昨今のJRの華やかさを見るにつけ、ふと出る感慨でもある。

2010年1月 4日 (月)

阪神淡路大震災と鉄道・・その1

はやいもので、あの1月17日からもう15年がやってくる。
神戸在住の僕はあの大地震による揺れを味わったjのだけれど、頑丈な公団住宅はびくともせず、我が家の被害と言えば台所の窓ガラスが2枚割れたこと、僕の部屋の本棚が崩壊して100冊以上はある書物が僕の上に落ちてきたこと、テレビが棚から落ちたこと・・くらいだったと思う。
あと、食器や家電がいくつか壊れてしまったことくらいか・・

僕の住む垂水区でも地震の瞬間は体が宙に浮くくらいの激しい揺れだったが、神戸市の都心部、須磨区から東灘区、あるいは芦屋、西宮、伊丹、それに淡路島ではこれより数段激しい揺れが襲ってきたのだ。

地震の時刻は午前5時46分。
神戸の鉄道はようやく通勤電車の始発が動き始めたあとで、新幹線はまだ走っていなかったし、各路線でも速度の出る優等列車は走っていなかった。

そのことがどれだけ鉄道の被害を小さくしたか・・
不運かと思われる神戸の大地震だがこと、鉄道に関しては「不幸中の幸い」という言い方もできるだろう。

僕は当時、大阪、OBPのホテルの写真室に勤務していた。
震災の前々日は日曜日で、成人式の日だった。
土曜日からホテルに泊まりこみ、明け方からずっと成人式の記念撮影をしていた。
そして振り替え休日の16日月曜日も明け方から婚礼の撮影・・

やっと、16日深夜に仕事を終え、大阪駅からの221系快速電車に乗り込んだ時はもう、ぐったりという感じだった。

数日ぶりに夜中に帰宅し、まだ2歳になる前だった娘と少し遊んだものの、体の芯に疲れを感じスグに布団にもぐりこんだ。

けれど、なぜだか切れ切れの夢で頭が異様に冴えて寝つかれず、ようやく睡眠に落ち込んだそのとき、ゆらゆらと体が揺れる。
そしてすぐに、その揺れは激しいものとなり、僕の体は一瞬、宙に浮いた。
布団にたたきつけられ、本能的に掛け布団を被って体を丸くした。
いろいろなものが落ちてきて壊れる音が続く。

幸い、布団を被っていたことで怪我は免れ、隣の部屋で寝ていた妻と娘も布団で守られて無事だった。

揺れが納まると真っ黒な闇の中、これまで経験したことのない静けさがあたりを覆う。
ときおり悲鳴のような叫び声が聞こえるが、それもまたすぐに途切れてしまう。

この日から大阪が遠い所になってしまった。
地震直後から神戸市内の鉄道はすべて運行を停止。

大阪の仕事場へ行きたくても通勤手段すらないという状況になった。

それでも、翌日には市営地下鉄が一部高架橋の破損で単線運転ながらも運転を再開してくれた。
時速45キロ、運行区間は西神中央から板宿までで、すべての電車は途中の名谷駅で乗り換えとなり、約20分ごとの運行だった。

神戸市営地下鉄と言えば高い表定速度、清潔感あふれる車内といったことが自慢だったが、震災から1週間ほどは徐行運転だったし、乗客で一杯の車内には汗や体臭の匂いがたちこめていた。
おしゃれな神戸市民も水が出ず、ガスも使えない状況では自らの清潔の保持など無理だったのだ。

僕は震災の翌々日からテレビやラジオの報道ではわからない友人、知人の安否確認と、生活必需品の確保に走り回った。
(結局、友人知人やその家族で6人の方の死亡が確認され、避難所にいることになった人は数十人にもなってしまった)
大阪への電車も止まっていることで、1日だけミニバイクでボランティアの手伝いもした。

さて、大阪への通勤再開は震災から10日後の1月28日からだ。
この日、僕は朝5時前にミニバイクで家を出て、山越えを敢行、神戸電鉄の鈴蘭台へ出て、神戸電鉄で三田へ、三田からJR福知山線で大阪へというルートをとった。

僕の震災前の平日、朝の通勤時間は1時間40分程度だった。
自宅近くのバス停から山陽電鉄バスに乗り、垂水駅まで、ここからJR快速で大阪駅、そして大阪環状線で大阪城公園駅というものだった。

それが、震災後初めての通勤では5時間近くを要した。

その翌日、夜中に帰宅途中、瓦礫を踏んだようで、バイクのタイヤが一気にバーストした。
そこから自宅まで、約8キロをバイクを押しながら歩く羽目になった。

翌日の出勤は絶望だと思っていたが、まさにその翌朝、JRが須磨から神戸まで復旧し、明石方面から直通運転されることがテレビニュースで伝えられた。

1月30日の朝、始発バスに乗り込んだ僕は、垂水駅から各駅に停車する「快速電車」に乗り、神戸駅まで行った。
復旧といっても仮復旧であり、やっと使える2本の線路をつなぎ合わせて実現したものだ。
だから、鷹取工場わきに作られた仮設ホームや、急遽、電化された和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線をつなぎ、しかも、上りのホームは全て快速編成が停車できるように12連化され、朝のラッシュ時の上りは全て快速も各駅停車で

神戸駅には代替バスが並んでいて、これに乗車したが、すぐに渋滞に引っ掛かり、バスは動けなくなってしまった。

結局、三宮まで徒歩でも30分で行ける所を30分以上かかってようやく到着。
ここでさらに代替バスへの行列に並んで・・
僕はJR、阪急、阪神の代替バスのうちで阪神を選んだ。
阪神はこのころでは唯一、東から神戸市内の青木(おおぎ)までは入れる鉄道で、バスの運行距離が短く、大阪へは一番早くつくだろうと考えたからだ。

この考えは正解で、以後、しばらくは僕は阪神経由で通勤することになる。

それでも、このころの通勤時間は3時間50分程度。
寒い冬に行列に並ぶ代替バスはつらかった。

このころ、僕は火曜日が休みで、だから土曜日曜も通勤はしていた。
2月1日、神戸高速と阪神が高速神戸ー三宮を開業。
最初はトンネルに残された阪神5000系1編成が折り返す状況だったが、やがて2月5日から山陽電車でトンネルに取り残された5000系特急編成2本、それに3050系が1本、これで新開地と三宮の間の運転を再開した。

大阪からの帰路、建物が壊れて営業休止状態の「そごう」の下から地下線へ入ると、赤いクロスシートの5000系がやってきてくれる。
こういうときだからか、あのシートはものすごくほっとするような存在だった。

阪急も阪神も、被害が大きかったが、運行できる区間からとりあえず運行をしてくれたし、市営地下鉄はメインターミナルの三宮の復興を待たずに前線で運行を開始してくれた。
2月13日、阪急が王子公園と住吉の間を開通。
この日、神戸駅で電車を乗り継いで三宮についた僕は、ここから王子公園まで歩いた。

さらに2月16日、市営地下鉄が全線で運行を再開すると、僕は新神戸から王子公園までの道のりを歩いた。

これで通勤時間は3時間を切るようになる。

2月20日、待望のJRが神戸駅から三ノ宮を経て灘の間で営業再開。
これで、ようやく、JRに乗ったまま、灘まで行き、灘と王子公園、御影と住吉の間を徒歩で結べば、垂水から大阪まで鉄道だけで行けるようになった。

通勤時間は2時間30分台まで短くなったけれど、以降は激増する人の流れの中で、かえってこれより通勤時間が延びるような傾向になった。

3月の月曜日。
大阪へ向かう大量の通勤客と、神戸へ向かう大量の通勤・用務客で阪急・JRの乗り継ぎはついに破綻してしまう。
灘駅には人があふれ、王子公園駅では乗客をさばききれず、ついに、人の波が全く動かなくなってしまったのだ。

もともとがターミナルではない駅である。
人をさばくのにも大ターミナルのようなキャパシティはない。

この日、僕はJR灘から住吉まで徒歩で結んだ。
距離にして4キロ強、時間にして1時間余り・・

朝ラッシュ時のあまりのすさまじさに、疲れ果てた帰路では代替バスも阪急への乗り継ぎの際の長い徒歩区間も、すっかり嫌になってしまい、時として大阪から三田経由の大回り、神戸電鉄、北神急行、神戸市営地下鉄と乗り継いで帰宅したこともあった。

この時期、大阪在住の祖母が危篤状態・・さらに亡くなったのだが、僕は母と妻を連れて、乗り換えを要するこの区間を行った。
さすがに慣れぬ年寄り連れでは帰路は乗継ルートは使えず、大阪港から船で神戸ハーバーランドまで帰ってきたことだ。

4月1日、JR神戸線は全線で開通した。
その前日、夜遅くに帰宅しているとき、住吉駅や灘駅で代替バスの乗客整理にあたっていたJRマンたちが「明日から電車は全線開通です!長らくご不便をかけしました」と乗客一人一人に頭を下げている光景を目にした。
そして迎えた開通の日。
苦労して歩いた、あるいはバスや阪急に乗り継いだ区間を、113系の快速電車は小刻みで不規則な揺れをおこしながらも、スムーズに大阪まで走り切った。
六甲道のあの崩壊した高架区間を通るとき、涙が出た。

鉄道全体の復旧はまだまだ先のことだ。
一時は路線が更地になっていた阪神、高架橋を一から作り直した阪急の開通は6月に入ってから。
地下線工事中だった山陽は、被災した地上区間をそのまま廃止、地下新線での復旧となったがこれもまた6月。
さらに地下駅が崩壊し、道路まで一気に陥没する大被害を受けた神戸高速大開駅付近は8月にならねば開通できなかった。

JRは非常によく頑張ってくれたと思う。
だが、六甲道付近や山陽新幹線での復旧に使われた「既存の設備をなるべく活かして復旧する」
という方針が正しかったのかどうか・・
一から被災線路を作り直した阪急が、結局は震災被害からしばらくは立ち直れず、長く経営危機にあったことも考え合わせると、なかなかに難しいものだと思う。

JR西日本は真っ先に開業した強みで、震災特需の様相を呈し、震災被害を取り返せたほどの経営の好転に、新快速電車の増発や新型電車投入の前倒しなど景気の良さを私鉄に見せつけるほどになっていき、これが結局はその後のJR独走の足掛かりとなったようにも思う。

いずれにせよ、震災からもう15年・・だ。
僕らは震災を忘れることはできないが、ではその備えへの覚悟はできているのかと問われると、そうではない。
それは鉄道にしても同じではないだろうか。

あの震災ほどの地震がまた起これば…
今度はあのころのようなものではないもっと大きな被害が待ち受けているように感じられてならない。

2009年10月 1日 (木)

改めて赤字ローカル線問題

Photo 日本航空の経営再建問題がここのところ、毎日のように報道されている。
赤字が分かっていながら建設される地方空港、その空港への乗り入れを半ば強制されたことも日本航空の大きな赤字を生んだひとつの要因であることは否定出来ないだろう。
元来は千歳、羽田、伊丹、板付といった基幹空港を結ぶ幹線航空路と、独占状態の国際航空路のみを運行して来た会社だが、航空自由化の波に押され、他社が国際線に進出する一方で日本航空は国内の地方都市を結ぶ路線にも進出、これの度が過ぎた事・・ここに大きな落とし穴があったということか。

この問題を聞いていると、何やら国鉄の赤字の問題を連想してしまうのは僕だけではあるまい。

明治時代に鉄道が国有化されたとき、国鉄は「幹線鉄道」を担い、民鉄は「地方路線」を担うのが方針だったはずで、このとおりに進んでいけば国鉄は赤字に転落などしなかっただろうと思う。
ところが、我田引水ならぬ我田引鉄の時代がやってくる。
代議士たちは己の力を地元に見せ付けるために民間鉄道が建設しようとしなかった路線までも次々と国鉄に建設させていく。
(ちなみに現代では我田引空・もしくは我田引道か)

それでも、国鉄全体がまだ元気で、モータリゼーションの姿などまだなかった時代なら、辻褄は合うものだ。
昭和30年代になると日本の自動車産業は急成長を遂げ、自家用車があふれるようになってくる。
道路整備の進歩とともに自前で線路を有さなくてもよい路線バスも発達する。

結果として経営基盤の脆弱な地方路線から鉄道としての使命を終えたような閑散路線が出現することになる。

昭和39年。
新幹線開業というエポックメーキングなこの年、国鉄は赤字に転落する。

国鉄の赤字は確かに国鉄自体の放漫経営によるところも大きいが、本質的には政治的に押し付けられた植民地鉄道職員への年金、恩給など、あるいは高度経済成長を支えるための莫大な設備投資などの国鉄自体には責任がない部分が大きな割合を占めている。

それはともかく、新幹線開業と国鉄の赤字転落とが同じ年であったことに、僕としては深い感慨を抱いている。

さすがに当時も国鉄の赤字は大問題だったらしく、昭和43年、国鉄諮問委員会は国鉄に鉄道としての使命を終了した赤字83路線を明示し、この営業を終えるように提言している。
この、昭和43年と言う年は、国鉄が近代的な幹線鉄道に脱皮するための白紙ダイヤ改正を行った年であり、全国で特急・急行の大増発が行われたこともまた・・なにやら因縁めいたものを感じる。

さて、赤字83路線を見てみると、このときに廃止されたのは福島の川俣線や徳島の鍛冶屋原線、兵庫の篠山線など、区間廃止の札沼線・唐津線を含め12線区で、他の線区はその後も生き延びていく。
いや、それどころか、白糠線、大隈線(当時は古江線)、三江線のように、まるで傷口を広げるかのような路線の延長工事がなされた線区もある。
(江差線、参宮線、日南線あたりが入っていることにも意外な感じがする)

Photo_2 中には後の情勢の変化や工事による残区間の完成で持ち直した路線もあるが、過半は国鉄改革の際の特定地方交通線として指定され、せっかくの新線区間も長く使われず、廃棄されてしまったり、可部線などは赤字83線区指定後も工事を続け、区間延長し、さらにその先へ工事を進め・・その工事は巨大な廃墟を残したまま中断され、指定当時の非電化区間も結局はJRによって廃止されてしまっている。
利用者も国鉄も政治屋に翻弄されているような印象を受ける。

これらローカル線の維持運営はもちろん、建設費にいたるまで国鉄がその負債として抱えたわけであり、国家というものはいつの時代も交通事業者に多大な負担を与えるものであると・・今回の日航問題を見てもそのように思う。

なぜに、赤字と分かっている路線を建設させたのか。
莫大な資金をつぎ込んで建設させた代議士たちこそ、国鉄赤字の真犯人であり、なぜに彼らをマスコミや世論は糾弾しないのか。
Photo_3 日航の赤字にしても、無理やりに地方空港・・僕の大嫌いな神戸空港や静岡空港などといった無意味なものを次々と作らせ、結果として当然のことながら航空会社や空港運営事業体に巨額な赤字を生み出させた政治屋の責任はなぜ問われないのか・・

鉄道建設公団が工事をしていた路線も国鉄改革でいったん白紙に戻された。
必要性の高いものはやがて第3セクターによって運営することで工事が再開され、智頭急行や北越急行、愛知環状鉄道のような幹線鉄道も開業している。
ただ、このうち、北越急行に関してはせっかくの高規格路線も、やがて開業する北陸新幹線にとって変られ、そのあとはローカル線化せざるを得ない未来が待っている。
智頭急行にしても高速道路無料化が実現するとその経営は今のように安泰とは言えないだろう。
鉄道は国家の阿呆政治屋によって弄ばれている感すらある。

自らの票欲しさ、人気取りだけの政治屋は何党であれ不要である。
国鉄にしろ、日航にしろ、赤字を生み出させた政治屋たちの責任を問い、場合によっては財産を没収してでも穴埋めさせるようなルールを作らないといつまで経っても形を変えて、国鉄の赤字ローカル線問題は生まれ続けると僕には見えて仕方がない。

なお、ローカル線は利用者(特に交通弱者)にとってはなくてはならぬものであり、作った以上、簡単に廃止などできないのはモノの道理である。

2009年4月16日 (木)

ATS・・4年目を向かえた福知山線脱線事故に寄せて

2005年4月25日、福知山線(JR宝塚線)尼崎駅北方で起こった大事故から早くも4年になろうとしている。

この事故で亡くなられた方々は107名に達し、怪我をされた方が562名、その中には今も治療やリハビリ中の方もおられるし、大きな障害を背負うことになった方々もおられる。

亡くなられた全ての方々の冥福を祈るとともに、怪我をされた方々が一日も早く事故の悪夢から立ち直って、普通の生活を取り戻されることを祈るばかりだ。

この事故については拙ブログでも取り上げてきたけれども、ここで敢えて、もう一度自分なりに疑問点を書き出して見たいと思う。

僕自身が疑問に感じているのはATS・・自動列車停止装置の設置やその方式などに関わってきた国や国鉄の責任である。
いくら運転士が異常な心理状態で、電車を高速でカーブに突っ込ませたとしても、「青信号なら何も制御しないが、赤信号なら停止させる」と言う単純な保安装置ではなく「所定の速度を超えたときはすぐさま停止させるか、所定の速度まで減速させる」保安装置があれば、事故は簡単に防げたはずだ。

マスメディアの報道では、後者のような保安装置は新型ATSでなければならないかのような印象を受けるのだけれども、実は、国鉄が採用していたATSにこそ重大な欠陥があるのであり、古くても多くの民鉄に採用されているシステムであればこう言った欠陥は認められないのだ。

僕自身は国鉄部内では車両の検査・修繕がその仕事であったのであり、ATSに関しては門外漢であるけれども、それでも・・鉄道と言うものを少しばかり齧った人間として言うべきは言わねばならぬだろうと思う。

さて、国鉄は大正から昭和初期にかけての急速な技術の向上により、輸送力や列車の速度を大幅にアップして来た。
ただ、保安装置としては色燈式の信号装置しかなく、これを運転者が目視確認して列車を運行するしかなかった。
戦前とは言え、すでに最高速度は100キロのレベルに達し、主要幹線の列車密度も現在と遜色がないほどにまでに達していた。

この状態で、人間の目視だけに頼った方式では、事故はつきもので、実際に東海道、山陽線といった大幹線では信号冒進による事故が頻発していく。
ついに昭和16年9月には網干駅で普通列車に急行列車が追突し、死者65名、負傷者116名と言う大惨事が起きてしまう。

ここにいたって国鉄は自動列車停止装置の開発を決意・・
今なら電車が中心であり、電気的な指令ひとつで列車を制御できるけれども、当時は蒸気機関車が主流の時代、開発には困難を伴っただろうと察せられるが、2年弱で装置そのものは完成を見たそうだ。
この装置は速度照査機能を持った優れたもので、国鉄独自の設計・製作、これを主要幹線に設置すべく工場での量産に取り組んでいたという。

ところが米軍による空襲で工場そのものが消失、開発はまたゼロからのスタートとなった。
(この工場は小倉工場だと言われている)

戦後、すぐに自動列車停止装置の設計に取り組んだが、なぜかGHQからの指示により開発は中断・・

戦後の復興、高度経済成長時に爆発的に増大する輸送需要、車両の高性能化による大幅なスピードアップ・・結果的に重大事故が頻発する事態になってしまう。

ついに起こったのが常磐線、三河島事故である。

詳細は省くが、昭和37年5月3日21時37分、信号無視で安全側線に突っ込んで脱線した貨物列車に、乗客を満載した下り列車が接触して脱線、多くの乗客が避難のために線路上を歩いて移動しているそこへ、上り電車が突っ込んで脱線、転覆し、160名が死亡、296名が負傷する大惨事となったものだ。

これを契機に国鉄は開発途中の自動列車停止装置(以下ATS)を全路線、前車両に設置することを決め、昭和41年に完了した。

ところが・・僕が問題にしているのはこの時に設置されたATSだ。

何故、戦前に出来た速度照査機能を省いてしまったのか・・

あくまでも個人的な考えに過ぎないけれども、当時の国鉄労使の偽りの対立、その裏にあった馴れ合いがあるのではないかと思っている。
国鉄の車両に当時、速度計はつけられていた。
更に言えば、線路、区間や車両ごとの運転速度、最高運転速度も決められていた。
けれども、実際には規定を上回る高速で運転されることが多かったのではないか・・

ATSに速度照査機能がついていれば、そういった事は不可能になる。

昭和50年ごろ、僕が乗車した山陽線の快速や新快速では当時の最高速度をはるかに上回る速度計表示を実際に見たことが何度もある。
「最高速度は100キロに設定されていても実際には120キロ以上は出せる」と言うのが運転現場の声だろうと言うのは、邪推に過ぎるだろうか。

さて、昭和39年3月、名鉄新名古屋駅で急行電車に信号冒進の特急電車が追突する事故が起きる。
速度は比較的低かったのか、負傷者は143名に達したけれども、死者は出ていない。
けれども、この事故を教訓として名鉄はATSの設置を決める。

当時、すでに私鉄では地下鉄乗り入れのために、京急・京成両社が精巧なATSを導入していた。

当時の運輸省も、大私鉄での事故頻発に、ついにATSの設置をある程度規模の大きな鉄道会社に対して義務付ける通達を出すことになる。
昭和41年度、昭和42年1月に出された昭和42年鉄運第11号がそれである。

その中の構造基準を抜粋する。

************

自動列車停止装置の構造基準

自動列車停止装置の設置基準に該当する区間に設置する自動列車停止装置の構造は、次によらなければならない。

(1) 場内信号機、出発信号機、閉そく信号機が停止信号を現示している場合、重複式の信号制御区間の終端、重複式でない信号制御方式では信号機の防護区間の始端までに列車を停止させるものとする。

(2) 速度照査機能をそなえ、速度照査地点を照査速度を超えて進行する場合、自動的に制動装置が動作するものとする。

(3) 照査速度は線区の特性に応じて多段階とし、列車最高速度が100km/h以上の区間は3段階以上、100km/h未満の区間では2段階以上を標準とする。

(4) 停止信号を現示している信号機に最も近い地点における照査速度は20km/h以下とする。

(5) 車上装置の機能が正常であることを運転台に表示する。

(6) 地上設備設置区間を運行する場合は、列車は車上装置を開放して運転できないものとする。

************

ここでは速度照査機能の完備が求められている。

大手、準大手民鉄各社のATSが国鉄=JRのものより数段進んだ性能を持っているものばかりなのは、この通達によるものである。
ところが、この通達は民鉄にこそ義務付けられたが国鉄にはその義務を求めていなかった。

当時、国鉄は運輸省と並ぶほどの組織、運輸省ごときが国鉄の安全対策に口をさしはさむべきではないという、思いが両社にあったとのでは・・とも邪推している

ある意味、福知山線脱線事故の遠因の最初の一つはまさに、ここにあると言っても過言ではない。

しかし、この通達は今現在の政府の「通達データベース」で見ることは出来ない。
それは国鉄が民営化されると、JRも民鉄と法的な区別がなくなってしまうことから、昭和62年3月31日、つまり、国鉄民営化の前日に廃止されてしまう。

これで、JRが速度照査式ATSを持たないでも営業できる法的な根拠が整ったわけだ。

福知山線脱線事故の遠因の二つ目はここにある。

もちろん、JR各社とて国鉄形のATSが現代の鉄道の水準では著しく時代遅れなのは認識しているはずだ。
単に速度を照査できる機能というのであれば、比較的安価に出来る国鉄形ATSの改良でも十分間に合う。
実際にJR東海はこの方式で在来線の安全確保を成し遂げてきている。
けれども、安全面からだけではなく、列車の減速を精密に制御できないことから、ダイヤ編成上の制約もあり、過密ダイヤの線区では増発が難しいと言う営業サイドからの問題もあった。
つまり、平行民鉄を凌駕する大増発により、いっそうの過密ダイヤとし一気に増収を計りたいわけだ。

そこでデジタル技術を駆使した新型ATS、ATS-Pの登場となる。

当然ながら・・JR西日本は速度の高い区間よりも営業サイドからの要請の強い、過密ダイヤが飽和状態に達している阪和線などに、他に優先して新型ATSを設置した。

事故を起こした福知山線や、狭軌鉄道の通勤列車では世界最高速の運行を実施している東海道・山陽線(JR神戸・京都・琵琶湖線)などは後回しにされたわけだ。
しかし、旧型、単純機能のATSしか存在しないこれらの線区で、余裕時分のまったくない、しかもダイヤ上のランカーブが最高速度目一杯で設定されるダイヤ改正を認めたのは、他ならぬ国土交通省である。
これが脱線事故の遠因の三つ目だ。

更に言えば、株式の上場後、JR西日本経営陣に対して、株式配当の上乗せを望む多くの株主たちが、例えばローカル区間の線路保守をなどに要するコスト削減や、さらなる増収を迫ったのだが、JR西日本はこれに答える形で、安全面への配慮よりも営業利益を挙げることに血眼になっていく。
つまりは株主とJRの利害が共通したことにより、安全面よりは営業サイドのための「新型ATS」となってしまったこと・・
これが脱線事故の遠因の四つ目ではないか。

僕は被害者の方々の団体やマスコミが何故に、国鉄やかつての運輸省、更に言えばJRの株主たちの責任を問わないのか・・非常に疑問に思っている。

JR福知山線と並行する阪急宝塚線は、JRの積極的な攻勢により乗客数を減少させてしまっている。
ところが、この阪急と、さらに不完全な安全対策で狭軌世界最高速の通勤列車を走らせている東海道・山陽線に大きな脅威を受ける、阪急神戸・京都線、阪神本線、中小でありながらも必死でJRに抗う山陽電鉄が共通で採用している「連続誘導式ATS」は、これら各社が乗り入れる昭和43年の神戸高速線開業の際に整備されたものだが、JRが「新型ATS」と呼ぶATS-Pに匹敵する高性能を有している。

つまりはある意味では沿線利用客は安全への投資が不完全だが速くて便利なJRを、安全への投資が十分であるが、慎重にならざるを得ないダイヤがJRより見劣りがする私鉄各社に比して選択してしまっている・・事にもなっているといえば、これまた言いすぎだろうか。

さて、脱線事故の後、国会でもこの問題が取り上げられた。

2005年5月16日、衆院予算委員会で小泉首相は上記通達を廃止したことについて「反省」とする見解を述べた。
ところが、当時の国土交通大臣、公明党の北側は「国鉄方式も私鉄方式も停止信号で止めるから安全性に違いはない」とほざいた。
全く鉄道の歴史も、国鉄と言う組織の実態も、あるいは運輸省と国鉄の力関係もご存知ない大臣の発言では、それならATS-Pすらも安全面からは必要ないと言うことになると・・ご本人は理解しておられない。
当時のマスコミもまた同じで、この大臣を叩いた形跡すらない。

いやむしろ、この大臣は被害者ヅラしてJRを攻め立てる方向にばかりむかっていた。

それでいて、この大臣の所属である公明党は事故翌日、未だ全ての人が救助されない状況の中で、国会議員団を現場に派遣し、現場の作業の手を止めさせて現場の「視察」まで行って視察状況の写真撮影までしている。
僕が北側を史上最低の国土交通大臣であるという根拠はここにある。

そういえば、事故の際、テレビなどで取り上げられた「鉄道アナリスト」なる御仁が、盛んに「ボルスタレス台車」の欠陥を説明していたが、どんな商品でも、想定を大きく外れる使い方をすれば異常な動きをするのは当然の帰結ではないか。

制限速度を50キロも上回る高速でカーブに突っ込むようなことまで想定して台車を設計せよとでも言うのだろうか。

僕なりの結論としてはJRに事故の責任の所在があるのは当然である。
その上で、昭和42年、昭和62年に立ち返り、国鉄労使や運輸省、あるいは国鉄改革を成し遂げた当時の政権の責任も当然、小さなものではないはずだと僕は思うし、JRの安全面への配慮を無視した営業努力により株主配当を享受して来た株主にも責任のいったんはあると、僕は思っている。

2008年12月 4日 (木)

座席の話

前にも書いたけれども(http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/2005/01/post-b747.html)今回は座席そのものについて国私鉄JR・・合わせて考えてみたいと思う。
特に、一般的な車両・・通勤電車などについて考えたいと思う。
画像はまずは、国鉄最初の近郊型転換クロス、キハ66の車内風景。

00230031kiha66zaseki
これは登場時のもの。

僕は座席がクロスシートでなければならないなどとは考えていない。
また、混雑する列車がロングシートでも、それはごく普通のことであるとも思っている。
ロングシートがいけないとか、そんなことも考えたこともない。
実際、阪急や阪神、それにJR西日本の321系などのロングシートは好きだ。
もちろん、JR西日本221系や山陽電鉄、京阪電鉄の転換式シートも好きだ。

ただ、名鉄のようにかつての車両政策が好きだったところでは、現状に対して残念に思っていることもあるわけで、これはあくまでも個人的な感情だ。
(利用客がそれを支持し、名鉄の乗客が増えれば、それは現状の政策がよかったということになるのだろうし、乗客が平行他路線を選択するのであればそれは間違いの一因だったということになるのだろう・・最もダイヤや運賃の問題のほうが実は大きいのだろうけれど)

クロスシートであっても113系などの国鉄の一般的な近郊電車などでは、むしろ、ロングシートのほうがゆったりと座れるということもあるだろうし、地方線区などでも播但線のように車内の治安対策として止むなくロングシートにしてしまった例も存在する。
(わざわざクロスシートのキハ58をロングシートに改造する手間をかけたくらいで、当時のJRは本当はそんな手間はかけたくなかっただろうと思う)

現在の形の転換式クロスシートが、日本で始めて登場したのは昭和一桁時代の京阪1550型からだったと記憶している。
これ以後、関西私鉄は争うように転換式クロスシート・・いわゆるロマンスシートを作るようになっていく。
ただ、転換式の座席自体はこれよりずっと以前から存在し、国鉄の3等車などで粗末な木製の転換式ベンチのようなものが使われていた。

Akamaturinsakuyogisya 明治34年、画家赤松燐作が描いた「夜汽車」には3等車内の様子が活写されていて、これには当時の転換式の座席の様子が実によく表現されていると思う。
参考までにこの作品を美術館のホームページから引用する。

日本の鉄道の創業期の車両は英国式にコンパートメントごとに扉がついたものだったが、やがて、出入り口を車体の端に設け、車内には通路が作られるようになっていく。

00050014kayazaseki 創業当時の客車の面影を加悦鉄道に保存されている客車でごらんいただこう。
創業当時の車両の面影を残したクロスシートだが、もちろん、下等の車両のものは木製のベンチ式で、長距離列車が増えることによって改善されたのが明治後期のベンチ式の転換式クロスシートだったのだろうか・・
その粗末な座席の見本のようになっていた転換式クロスシート・・実は明治、大正時代には上等車(1等や2等)はロングシートであることが多く、それも深い、ゆったりとしたソファのようなものだったようだ。
当時としては広々とした座席のほうが寛ぐ感じになれたのかもしれない。
拙ホームページからも展望車のサイトでよく知られているKOさん撮影の戦前のマロネフの昼間の状態をごらんいただくことにしよう。

Emaiko_110maronehu

この座席で長距離を乗車していたのだから、必ずしも、ロングシートが長距離に適していないということではないだろう。
この点では昭和初期、いったん、転換式クロスシートを採用した阪急神戸線の900系は、その増備である2両固定の920系からロングシートに変更されているが・・これも当時の阪急が「ソファ」のような深いロングシートのほうがサービスの向上になると判断してのことだったそうだ。
阪急はその後もクロスシートかロングシートかで随分悩んでいたようで、神戸線では1010系のころまで、実に試行錯誤を繰り返している。
最近でも8000系の一部に転換式クロスシートを採用したものの、最新の9000系では非常にゆったりとした、所々に肘掛のつくロングシートになっていて、これで、同じ阪急が、京都線では距離もあるし、ライバル京阪もあることで9300系はゆったりとした転換式もしくは固定式のクロスシート、神戸・宝塚線はこれまたゆったりとしたロングシートで落ち着いたように感じる。

00200037hankyu5010zaseki
9000系の車内写真は撮影できていないので、最近リニューアルされた5000系の車内写真でロングシートながらも上質な雰囲気の車内風景を見ていただきたいと思う。

クロスシートが上等な車両の座席として一般化したのは、車両のサイズが拡大し、十分な座席幅が得られるようになってからではないだろうか。
それに京阪の進取的な試みも一役買っていることだろう。

人間は本来、前に向いて進む景色を眺めたがる癖がある。
これは自分が歩いているときに常に前を見ていることから、やはり前向きのほうが安心するのだろうか。
反面、前向きの景色は刺激が強く、かつては「寝るのなら後ろ向きの座席」といわれたものだ。

そういえば、国鉄では新幹線が博多まで開業し、長距離乗客が増えるに伴い、少しでも乗客サービスにと座席をリクライニングに改良したのだけれど、ピッチが十分に取れず、そのため、3人がけ座席が回転できず、いわゆる集団離反式の設定となったとき、後ろ向きの座席に座ったときはやはり、違和感を感じたものだ。
後ろ向きの座席、もしくは長手方向に伸びる座席というのは基本的には鉄道独特のものなのかもしれない。
自家用車にしろ、船舶にしろ、航空機にしろ、基本的には座席は進行方向を向いているものだろう。

路面電車が乗客を大きく減らした要因に、路線バスに多かったクロスシートの存在を上げる人も居るほどで、人間の本能としてはやはり前向きの座席を好む傾向があるのかもしれない。
けれども、たとえば、空いている昼間に時間帯、昨今のJR西日本の321系や207系のゆったりとしたロングシートに座っているとなんともいえない開放感と寛ぎを感じるものだ。
結局はクロスシートであれ、ロングシートであれ、乗客に快適に過ごしてもらうための設計と保守がなされていれば、快適にもなるし、不愉快な乗車感にもなるのだろう。

日本の鉄道の場合、ラッシュ時の詰め込み対策として採用されたロングシートが、結局は座っている人にも立っている人にもある程度の犠牲を強いることになってしまう設計だったからロングシートの評価は分が悪いのだろうと思うが、クロスシートでも113系、401系などの初期の車両のような粗末なものはやはり好まれるはずもない。
詰め込み設計は日本が高度経済成長を成し遂げていく過程で行われたものであるし、今現在のような低成長、もしくはマイナス成長という時代になると人々は自然にゆとりを求めていくだろうし、それを鉄道事業者が実現できなければ、いずれ乗客はその鉄道から離れて行ってしまう。

寝台列車の時代錯誤のような蚕棚形のベッドが、結局は多くの乗客から敬遠されたように、近郊型や通勤型電車であっても、少しでも乗客に快適に過ごしてもらう工夫というのは今後ともますます重要になっていくだろう。

旅行を楽しむ場合、やはりゆったりとしたクロスシートは快適で好きではある。
けれども、窮屈で他人の視線が常に気になるような国鉄近郊型113系電車のようなシートなら、ちょっと深めのロングシートの方が快適に感じるだろう。

要は、通勤型や近郊型の車両ならばロングシートか、クロスシートということよりも、その設計コンセプトが乗客の目線に立ったものかどうかということのほうが大事なのではないか・・
その上で、中距離以上の乗車機会が多い車両には立席と座席の乗客区分が明確なクロスシートのほうが好ましいだろうし、短距離乗車の多い列車や、混雑することが多い通勤路線の列車には乗りやすく、気軽にどこでも座る事の出来るロングシートを基本に考えていくことが大事なのではないかとも思うのだ。

僕は昨今の関東私鉄の車両は決して嫌いではない。
というか、以前から京王や京急の車両コンセプトは非常に好きだった。
今でも、東京に出かける機会があれば必ず、用事がなくとも私鉄電車に乗りに行くほどで、関西の私鉄だけが好きなのではない。
関西でも中途半端な、かつ、乗客の目線に立っていない設計の電車は好きになれないし、関東でも個人的に好きな車両というものはたくさん存在する。

ただ、最近、どうも時間的経済的余裕が乏しく、どうしても旅行というものから遠ざかっているのは確かで、そういった意味では何とか時間を作って関東のみならず、各地の電車に乗りに行きたいな・・と感じてはいるのだが。