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こう@電車おやじ

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別府鉄道の物語

Photo 播州地方における立志伝中の人物、多木久米次郎は明治25年、それまでの家業である魚肥の製作から脱皮し、化学肥料の製造に着目し、製造工場を設立する。
この事業は発展し、全国に多木製肥所の名が知られていくことになるが、当時の交通事情では土山駅、もしくは海路を経て神戸港まで製品を運搬しなければ鉄道貨物を利用できず、この不便を解消するために建設されたのが別府鉄道である。
開業当時の社名は「別府軽便鉄道」と称し、紆余曲折があったものの、大正10年9月3日、野口線の営業を開始した。

工事期間は5年に及び、平坦地でありながら用地買収に難儀をしたとされている。

大正12年4月11日、土山線が開業、以後、貨物は主に土山線で、旅客は加古川町に出るのに至便な野口線でという二つの路線の性格が分かれることになる。

ただ、別府軽便鉄道開業後まもなく播州地方を貫いた高速電気鉄道である神姫電鉄・・現在の山陽電鉄の開業により、スピードでもフリークエンシーでも全く勝負にならず、以後は町の裏手を走る存在となってしまう。

戦時には「不要不急路線」として野口線の軌道設備が撤去されたが、結局、撤去した資材は終戦にいたるまで他へ転用されることもなく、終戦後いち早く再整備を行い、昭和22年5月22日、野口線が復興、この日から「別府鉄道」を名乗ることになる。

さて、その別府鉄道だが尊敬する鉄道ファンの先輩諸氏から送っていただいた画像を含めその鉄道の在りし日々を偲んでいきたいと思う。

戦前に早くも野口線の無煙化を実現していた同鉄道のガソリン動車「レカ2」に木炭ガス発生装置を取り付けた珍しい写真である。

Photo_2

元歌敷山住人様よりご提供。

昭和26年撮影。

Photo_3 昭和34年5月10日撮影。

5号機が牽引する土山線混合列車。

とても加古川市内とは思えない雰囲気。

Photo_4 昭和29年3月6日撮影。

土山駅にて蒸気機関車3号。

Photo_5

昭和34年5月2日撮影。

土山駅にて6号蒸気機関車。

Photo_6

昭和34年11月4日撮影。

別府港にて。

ハフ2、ハ3、ハ5

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昭和34年5月2日撮影。

土山駅にて、ハフ3

Photo_8

昭和29年3月6日。

野口駅に停車中のキハ1。

閑散とした風景は、今の加古川市役所の裏手であることを思うのは不可能である。

上記ここまでの画像は元歌敷山住人さまの撮影である。

Photo_9

野口駅で接続する国鉄高砂線列車をを待つ乗客とキハ3

Photo_10 国鉄キハ20が入線し相互接続。

キハ2は緑色塗装時代。

高度経済成長時代とは言え、自家用車は庶民には買えず、公共交通が多くの旅客を裁いていた時代である。

上記2点は福岡市在住haradaさまよりのご提供。

ここからは筆者による撮影シーンに移行する。

筆者が別府鉄道に触れたのは昭和48年、父親の転勤で加古川市に転居して以来である。

この当時、加古川市は成長の真っ只中にあり、地元路線バスの神姫バスも大量の乗客を裁き切れないほどの盛況だった。

その中にあって町の裏側を走る「別府鉄道」の利用客は多いとはいえなかった。

すでに海岸は埋め立てられ、かつての夏の海水浴の盛況も遠く、列車の運行も夕方には終わってしまう、のんびりとした鉄道であった。

Photo_11 別府港におけるハフ5.

神中鉄道(現在の大手私鉄・相模鉄道)のガソリンカーを前身とする小型客車だ。

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ハフ7のカラー画像。

神中鉄道開業時の客車で、別府鉄道廃止後は相模鉄道に引き取られ保管されている。

Photo_13

ハフ7の車内。

大正期の客車の雰囲気がそのままに保たれていた。

時速20キロ程度の走行速度だが激しい騒音と揺れは時代を超越した感じがしたものだ。

Photo_14

DB201とハフ7の組み合わせ。

貨車のない日曜などはこういった列車が見かけられた。

逆に貨物のある日には途中の川崎重工の前で旅客を乗せたまま入替作業ということもあった。

Photo_15 土山線の機関車はディーゼルであっても古典的だ。

前身が倉敷市営鉄道(現水島臨海)のDC302

Kiha2

山陽電車のガードをくぐる2代目キハ2。

前身は三岐鉄道。

ここでは先に開業した別府鉄道を山陽電鉄がオーバークロスする形になっている。

Photo_16

明姫幹線高架橋より野口線列車を俯瞰。

今の明姫幹線は大動脈でとてもこんなところに車を停車させることは出来ない。

円長寺・坂井間。

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円長寺駅。

まさに軽便鉄道の駅そのもの。

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円長寺駅に停車するキハ101.

キハ101は元は片上鉄道キハ301で、ディーゼルカーの近代化のために入線した。

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キハ101とキハ2の重連。

沿線小学校の遠足用に久々の重連が走った。

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キハ101の車内。

別府鉄道唯一のクロスシートだがピッチが狭く、座席が小さい。

それでも別府鉄道が保有した最大の旅客車両である。

Photo_20

別府港におけるキハ2。

Photo_21 鳥居の前を行く土山線列車。

もう、廃止の足音が聞こえてきたころ。

Photo_22

野口駅の夜間風景。

夕方には運行が終わるのでこう言う風景は夏場には撮影できない。

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腕木式信号がある別府港発車の風景。

Photo_24

昭和59年1月31日。

数十年ぶりの大雪の日、別府鉄道は最後のときを向かえた。

土山線最終列車が別府港に入線。

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日の落ちた別府港に野口線最終列車が入線してきた。

鉄道ファンはいたものの、パニックになることもなく、ひっそりとした最終日だった。

Photo_26

列車は静かに別府港駅へ入っていく。

この場所は現在、巨大ショッピングモールとなり、このころの面影は全く感じられなくなっている。

別府鉄道は土山線の貨物輸送が重要な収入源だった。

国鉄がその末期に行った「国鉄改革」で貨物輸送の大合理化を推し進め、それによって土山駅での貨物輸送が廃止された事が大きく影響し、廃線と言う道を取らざるを得なかったのである。

別府鉄道の沿線には親会社たる多木化学以外にも大企業が多く、一種の臨港鉄道に変貌したことが幸いして昭和の終わり近くまで営業が継続できたのだ。

このことは、多くの私鉄を廃線に追いやった国鉄改革そのものへの疑問となって筆者の中にとどまり続けている気持ちである。

別府鉄道は、その後も会社としては存続し、今現在も加古川市南部を営業エリアとするタクシー会社となっている。

筆者は現在、某大手バス系のタクシー会社に勤務しているが、時折、ガススタンドで別府鉄道の車と出会うこともあり、あの旗二つのマークがなんとも懐かしく感じられる。

追記2012,5,5.

harada様から新たにご提供いただいた写真をご紹介させていただく。

Photo_6 ある日の土山線の様子。

蒸気機関車に客車と貨車が一両ずつ・・本当に戦後の加古川だろうかと思ってしまう風景。

Photo_7 土山線列車が別府港を発車する様子。

3 キハ3。

野口だろうか。

20 野口における小学生の団体が高砂線列車を待っている様子。

10123 野口にて。

別府鉄道キハ101停車中。

高砂線にキハ23がやってきた。

Photo_8 キハ3車内から円長寺駅を見る。

別府鉄道沿線は路線バス便がなく、別府鉄道が生活の手段だった時代。

なお、ブログ本文「別府鉄道のデラックス・編成」http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/2010/10/post-4eda.htmlも是非ご覧いただければと思う。