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2016年3月30日 (水)

春のうた

はじめに・・本ブログの記事はIEでは「互換表示」をONにしてくだされば最適な状態で閲覧できます。スマホからの場合は最下部に「スマートフォン専用ページ」と表記がると思いますので、そこをクリックして専用ページにしてください。

なお、MS・Edgeでは写真に合わせて文章が表示されない状態になっています。

Facebookグループ、「国鉄・私鉄の思い出」では時に僕が「お題」を出して。参加されている方々の力作を投稿してもらっているが、桜の開花にちなんで「春鉄」のお題としたところ、いつもよりさらに盛況に、しかも、華やかな力作がそろうという素晴らしいことになった。

本ブログはこのグループの親元であり、ここでも「春」にちなんだ写真を出しで見ようと思う。

基本的に本ブログにおいては未公開の写真でまとめてみた。

2300

地元、山陽電鉄線、須磨浦公園での1991年の作品集から。

満開の桜の中、可愛い風貌の山陽2300系電車が行く。

7000

車番はわからないが、当時の状況から見て阪急7000系か・・桜の中に電車の頭が見えた。

7020

阪急7020F、当時の僕はソフトフォーカスが大好きで、しかも半逆光気味の写真作りが好きだった。女性ポートレートの手法だが、何も列車までそうしなくてもいいのにと今になれば思う。

70208219

その阪急7020と阪神8219?が出会う。

7022

阪急7022F・・このころ、日曜日の阪急は普通列車のみの乗り入れだった。特急ということは平日の撮影だろうか。

7023

阪急7023F、こちらは普通列車での乗り入れとなっている・・

同じ日に撮影したはずなのだが・・

7101

満開の桜の先を阪神赤胴車がいく・・形式・番号は不明だが7001系あたりではなかろうか。

7111

阪神7111、やはり阪神といえばこの色合いとこの顔立ちだろう。

須磨浦公園駅で並ぶ阪急・阪神。

82297223

阪急は7223、阪神は8229と読める。

3050

山陽3050系トップナンバー、3050F。

5000

山陽5000系トップナンバー、5000F。この頃、山陽5000系は6連が三編成できたばかりで3連・4連が基本だったと思う。

沿線小学校生徒の作品を中吊にした「クレヨン」号だ。

5002

こちらは5002F、看板は「潮干狩り」だ。

5602

5602、編成は5004Fのはずだ。

5605

桜の下を清々しいアルミ色の電車が走る。

5605だ。

2000

ちょっと違う場所の春の風景も。。

九州は遠賀川、直方市の筑豊電鉄線・・春というより早春の雰囲気だ。

菜の花畑の上を連接電車が走る。

1200_2

菜の花をアップにして、電車をぼかしてみた。

最近、なかなかこういう勇気が出ない。

Hot7000

智頭急行線開通まもないころ、恋山形付近でのHOT7000系気動車。こうしてみると、この気動車の先頭貫通バージョンは国鉄気動車特急の雰囲気を今に受け継いでいることが分かる。

103最近の撮影も・・

大阪環状線桜ノ宮駅の103系電車。

いよいよ103系にとって最後の春になるのかもしれない。

63526353

阪急嵐山線松尾駅・・

専用車となった6300系が春を満喫しているように見える。

5603

須磨浦公園駅、3年ほど前の撮影だ。山陽5000系5603、6連化され直通特急で走る。まもなく夜桜の時間帯だ。

3012

最後に再び1991年の春へ・・

山陽3012F、姫路へ向けて去っていく・・

時は流れる・・毎年来る春も、限りある人生にとってはまた限りある出会いでもある。

2016年3月 4日 (金)

加悦鉄道、鉄道営業の記憶

加悦鉄道の在籍車両のすべては、今も「加悦SLの広場」で見ることができるし、一部は動態保存もなされ、時としてイベントで動く姿を見ることもできるので、「思い出」としてはそれほど珍しいものではない。

だが、今の加悦駅舎があるのはかつての鉱山駅跡地であり、加悦駅はかつては町の中心部にあった。

ここでは、営業していた当時の加悦鉄道をしのんでみたいと思う。

Photo


初めて訪問したのは京都からの急行列車でだっただろうか、丹後山田まで神戸からえらい時間がかかったように思う。友人と丹後山田駅。昭和53年ごろか。

丹後山田はのちに野田川、さらに現在では与謝野と名称を変えた。

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駅に停車していたのはキハ51で、もとをただせば芸備鉄道の大型気動車、大型ながら前後にバケットを持ち、かつてはキハユニということだから合造車だった由・・芸備鉄道国有化ののち、舟木鉄道を経て加悦へ来た。

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ホーム側から見た様子
この閑散とした駅でも国鉄急行が停車したように思う。

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キハ51の車内、行商人らしいおばあさんが乗車してきた。

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運転台、なぜにもっと上から撮影しなかったのか不明・・向かいの座席に座ったままで撮影しただけか・・

列車は、貧弱な線路を船のように大きくローリングしながら進んだ。これと似た乗り心地は京福電鉄福井支社での南海11001形運用の列車で感じたことがあるが、あちらは少なくとも時速70キロ近くは出ていた。こちらは自転車程度の速度だが別府のハフ7よりも乗り心地は悪かったように記憶している。揺れると座席どころか窓枠までもが同じように揺れた。

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加悦に着いたキハ51。

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特徴的な駅舎とキハ51。

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キハ51のおでこ。。

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加悦鉄道には何度も訪問していて、実は白状すると神戸からドライブではちょうどよい距離でもあり、ガールフレンドを連れての訪問も数度あった。

これは雪の残る車庫風景、キハ083がいる。

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DC351とキハ083、ターンテーブル。

Tmc100


除雪用TMC10、キハ101。奥に083。

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キハ101、珍しい片ボギー、バケット付きの珍車といえるがスタイルは明朗、すっきりしていて当時から好印象を持った。

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こちら、キハ101のモノクロ。

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キハ1013、当時とてすでに珍しくなりつつあった国鉄キハ10が入線した。

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女の子が一緒だと、ついついこういう写真を撮ってしまう。

キハ1013のソフトフォーカス・・案外、こういう写真が好きだったりする。

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廃止直前だったか・・代替バスの新車両と並んだキハ51。すでに、この代替バスも廃止され、今、この土地には阪急系、丹後海陸交通の路線バスしか存在しない。

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冬の田園を走るキハ083、キハ51よりもっとローリングが大きかった。ただ、さすがに国鉄形で作りはしっかりしていた。

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当時からある保存車両も・・

サハ3104、休憩室に改造されていたがまだ原型も残っている。今、レストランに改造されたこの車両から原型を想像するのは難しい。

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ハブ2、ハフではなくハブとしているのはなぜなのか、今もってわからない。

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ハ10、加悦鉄道自社発注の客車。大阪の梅鉢鉄工所製造。

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ハ10の車内、わずか数キロの鉄道にしては上等の客車だ。

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ハ4995、国鉄、明治期の面影を残す貴重な車両、実は足回りだけ使って車体は廃棄されていたが、のちに別の車両の足回りと組み合わせ復元されたとのこと。

Db201


DB201、森製作所製の唯一の現存機関車と言われている。

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蒸気機関車、2号機。

無煙化を達成すると、過去の機関車などは廃棄されるのが通例だが、加悦の経営者たちは過去の車両も文化財として大切に保管してくれた。元々は国鉄京阪神鉄道の123号で、今では重要文化財に指定されている。

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蒸気機関車4号機。

今の長野電鉄にあたる河東鉄道の4号機が前身。

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蒸気機関車1261号機。

国鉄木次線の前身にあたる簸上(ひのかみ)鉄道出自の機関車。

最初の訪問の際は、この後宮津線で豊岡に出て、急行「白兎」に乗車、米子から「さんべ5号」で九州入りしたように記憶している。

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ついでながら、豊岡駅の急行編成。

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豊岡に停車していた国鉄の新車、まっさらのキハ47、それから30有余年、いまだにこの系列がここを走っているようになるとは思いもしなかった。

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加悦鉄道廃止のその日、昭和60年5月1日、友人たちと例によって北端方面へドライブに行った折、無理を言って加悦鉄道を少しだけ訪問させてもらった。

廃止記念列車と鉄道ファンたち、今、活躍されておられる方、僕の友人の中にもこの中におられる方があるのではなかろうか。

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その時の加悦駅。

別府鉄道や岡山臨海鉄道と異なり、ゆったりとした風景の中に溶け込んでいた加悦鉄道、今、SLの広場としてきちんと整備されているのはとてもうれしいことだ。

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最近の写真から・・

復活運転されたキハ101、関係者の方々の努力に頭が下がる。

2016年2月 9日 (火)

電化直前の布原付近

今回は昭和57年6月の電化直前、伯備線布原信号所付近でのネガから・・撮影はこの年の春ごろと思われる。

なお、すべてモノクロ写真だ。

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布原近くの西川橋梁を下り特急「やくも」が行く。

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その列車の食堂車、キサシ181、所要3時間少々の列車ながら食堂車も営業していた。

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キハ20を先頭にした伯備線列車、キハ20・55・25・47・最後尾はキユニ26だ。

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そのキユニ26がトンネルに吸い込まれていく。

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今度は上り特急「やくも」、当時唯一の気動車による「L特急」だった。

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列車が接近する・・速度はゆっくりと表現できる程度だ。

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この列車にもキサシが・・伯備線特急は全列車、キサシ、キロ組み込みだった。

備中神代駅に近い俯瞰ポイントから・・

47備中神代駅にほど近い俯瞰ポイントから・・

キハ47の2連、芸備線列車だ。

当時、すでに電化が近い伯備線列車の改善は電車で行うこととし、新車のキハ47は芸備線列車への投入か。

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キハ47の2連が布原信号所に停車する。

昔も今もここに停車するのは芸備線列車のみだ。

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急行「伯耆」、キハ28系だが、もちろん、キロも連結している。

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同じ急行「伯耆」だが、先頭車の正面窓がパノラマミックウィンドウ、キハ28系列最終増備車だ。

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列車が接近する。

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伯備線普通列車、キユニ26・キハ47×2・キハ55・・

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こちらはキユニ26・キハ55・58・26・47・40だろうか・・気動車らしい楽しい編成だ。

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下り特急が行く。

屋根上のラジエーターがないのが先頭車と食堂車だ。

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列車が去っていく。

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上り特急がやってきた。

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接近する・・編成が長く、画面に入りきらない。

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西川を渡る。

この直後、僕はクルマで電化後のこの地へ行くのだけれど、それはまた後日・・

2016年1月20日 (水)

別府鉄道、終わりの記憶。

別府鉄道に関してはこのブログではこれまでに何度も出してきたし、ウェブページも作成してきた。

別府鉄道、明姫幹線付近」「12枚撮りに写った別府鉄道」「別府鉄道のデラックス編成」「別府鉄道との出会い

当時、加古川に住んでいた僕にとって、別府鉄道は、初めて興味を持って乗るためだけに行った鉄道であり、山陽本線、山陽電鉄、加古川線、高砂線と並んで鉄道趣味活動を始めたごく初期に撮影した鉄道でもある。

そう考えれば、中学になったばかりの僕がこの鉄道に興味を持てた鉄道趣味界入りは幸運だったといえるのかもしれない。

今回は廃止前年、廃止時の写真を中心に紹介したいが、まずはごく初期に撮影したものをお目にかけようと思う。

なお、ウェブページに既出した画像もあるが、ページ作成時と今現在では作成、読み取りの環境が大きく異なるために、ほとんどを再スキャン、画像サイズを統一している。

昭和50年8月、友人のK君と車庫を訪問した時のカットから。

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旧キハ2、単車の気動車でK君撮影。

戦前にすでに無煙化がなされ鄭田野口線の小型ガソリンカー、レカ2を戦後ディーゼルに改造したもの。

このころは車庫の奥でひっそりと眠っていた。

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こちらもK君撮影、当日僕は小型のカメラを持って行ったがうまく撮れなかった。

ワ124とハフ5だ。

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キハ3、今の小海線、佐久鉄道の気動車だ。

廃止時にはいなかったように思う。先に佐久へ里帰りしたのだろうか。

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キハ101、この写真は昭和50年の11月で、夏に訪問した時、車庫の奥のほうで整備を受けていた大型気動車だ。

同和鉱業片上鉄道からの移籍、まだ、すそ周りの改造がなされていない。

別府鉄道はいわゆる赤字ローカル線ではなく、れっきとした黒字路線だった。といっても収入の中心は貨物輸送で、列車本数的には多かった野口線の赤字を、土山線の貨物列車が埋めていたような格好だ。

その別府鉄道は国鉄が土山駅での貨物扱いをやめると一方的に決め、結局、収入の元が断たれてしまう形で、やむなく路線廃止となった。

それでは廃止前年の秋ごろからの様子を見ていただきたい。

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まずは別府港の様子。土山線列車の入れ替え風景。助役さんだろうか、手旗をもって監視にあたる。

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DB201がハフ7を連れて入れ替え作業をする。

この機関車は新車で入線したが、山陽特殊製鋼の注文流れ、三菱三原製だったとのこと。

ハフ7は言わずと知れた最後のオープンデッキ客車で、混合列車とはいえ実質は車掌車の役割を果たしていた。今、神奈川の相模鉄道に里帰りして保管されている。

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組成された列車の発車準備が整った。

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DD502が混合列車をけん引する。

こちらは新日鉄構内で日本運輸が使っていた機関車だったとのこと。

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その列車の後尾、ハフ7が列車のしんがりにつく。

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廃止間際には別府港構内で使わない車両を展示してくれていた。こちらはごく初期のディーゼル機関車DC302 、もとは倉敷市営鉄道、今の水島臨海鉄道にいた機関車だ。

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DC302の後部。

初期ディーゼル機の雰囲気がたっぷりだった。

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キハ2、最後まで活躍してくれた気動車、もとは三岐にいた昭和初期のガソリンカー。

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キハ101の列車が野口へ向かう。

腕木式の信号が見える。

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キハ101が出ていく・・

裾回りの改造は何のためだったのだろう。

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土山線、明姫幹線南側・・寺院の前をDBがハフを連れていく。

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明姫幹線高架の前を通る・・

今、この辺りはこんなに広々とはしていない。

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明姫幹線をくぐる列車・・鉄道は消えても、この高架橋は今も残る。

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中野駅。

ほとんど使われてない駅だった。

記録では最後まで停留所としての位置づけだったらしい。(これは私鉄研究者のTeddoさんからのご教示)

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川崎重工前信号所。

貨車の入れ替えの際には乗客を乗せたまま、車掌がポイント、連結器を操作して行っていた。

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少し先に行くと田んぼの真ん中にぽつりと鳥居があった。

鳥居のところで撮影する初老の鉄道ファン氏と、接近する列車。

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鳥居の前を行く、ハフ連れのDB。

その先にはちょっとした橋梁・・

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橋梁を行くDD1351牽引のハフ・・

国鉄では小型のDD13も別府に来ると超大型に見えてしまう。江若鉄道にいた機関車だ。

撮影は友人で鉄道社員のO君。

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わが愛車と、そこに居合わせた鉄道ファン諸氏。カメラが急に壊れ、慌てて別のカメラをとってきて、現場に戻るときは愛車を駆った。

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今の大中遺跡あたりを進むハフ連れDB・・

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さて、野口線・・やはり明姫幹線高架橋から俯瞰したキハ101。

今のこの辺りは住宅密集地でこんなに広々とはしていない。

また明姫幹線は大動脈に成長し、まさかこんなところで車を止めるなど考えられないところだ。

当時は部分開通であり、通行量は少なかった。

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円長寺駅。

カラーで撮影したが色情報が失われていたのでモノクロ化している。

ここも今では考えられないゆったりとした場所だった。

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円長寺に停車するキハ101。

野口線は半ば、この集落のための路線ともいえた。

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藤原製作所前。

今のTLV加古川工場の前の駅で、工場そのものは今も盛業中、写真左がTLVで、向かいの工場は今は巨大な葬祭会館となった。

この近くから加古川駅までは今、路線バスが結構走っている。

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野口駅に進入するキハ101。

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国鉄キハ35と別府鉄道キハ101が並ぶ。

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野口駅、いったん列車を北側へ・・折り返しに時間があるときだろうか。

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ホームにたたずむキハ101。

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加古川からまたキハ35が折り返してきた。

別府鉄道キハ101と並ぶ。時刻はすっかり夕暮れのころだ。

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国鉄気動車の後ろはキハ20だった。

別府鉄道キハ101と同時発車する。

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さて、いよいよこの鉄道最後の年、最後の月を迎えた。昭和59年1月だ。

土山線、日本レイルクラブのヘッドマークを付けてDD1351がハフ2両をけん引する。場所は明姫幹線近くだ。

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その列車の後部。

せいぜい時速30キロ、軸受けが平軸受けだからか、列車はエンジンの音以外に、車輪の音を立てて走る。

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野口線も明姫幹線付近で待ち受けた。

広々とした田園風景は今では考えられない。

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明姫幹線をくぐる列車・・この道路を通行するドライバーで、ここに鉄道があったことを事実として知っている人はどれほどいるのだろうか。

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最後の日、僕は国鉄高砂工場で終業まで働いて別府鉄道最終を撮影に出かけようとした。しかし、当日は雪の降らない播州で30年ぶりの大雪、愛車は荒井駅付近の駐車場に止めたまま、山陽電車で別府鉄道に向かった。

野口線最後の列車がやってきた。

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列車は大勢のファンが待つ終着駅へ入っていく。

土山線列車が来る頃には周囲は暗くなっていた。

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当時のASA400トライエックスではいかにレンズ開放値が2.0の35ミリを使っていたとしてももはや動くものを撮影するのは限界になっていた。

DD1351がなんと3両の客車を引き連れて入ってきた。

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機関車の次位はハフ7だが・・2両目はハフ5。

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最後尾にはキハ2がぶら下がっていた。

実はこの光景は記憶から飛んでいて、このたび、この記事のためにネガを見ていて見つけ、ようやく当日の様子を思い出したものだ。僕が、生きている別府鉄道を撮影した最後のカットだ。

0928今も別府鉄道の跡地は特に野口線で遊歩道として整備されている。

先日、この遊歩道を歩いてみた。円長寺付近でレールが残っているのを見つけた。

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近くには一応保存されているキハ2が・・最近、ボランティアの手によって車体の整備と塗装が行われた。

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加古川市別府町中心部の公園にはかつてキハ101も保存されたが、こちらはほどなく荒廃し、あえなく解体されてしまった。

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播磨町の大中遺跡公園にはDC302とハフ5が驚くほど見事なコンディションで保存されている。

なお、別府鉄道という会社は今もきちんと存在し、不動産やタクシー事業を営んでいる。

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山陽電車の別府駅前には懐かしい社章を掲げたタクシーが並ぶ。

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播磨にあった小さな鉄道、赤字ローカル線という存在ではなく、いつも車両は派手な色合いに美しく塗られていたし、鉄道係員もきちんとしていた小さな鉄道・・

まもなくこの鉄道が消えて32年になろうとしている。

雪の日に消えていった地域の鉄道を、今夜のような寒い夜に思い起こすのは寂しくも、ふっと心が温かくなるような愛しい時間ではある。

僕らの記憶があるがきぎり、この愛すべき鉄道は生き続ける。

2016年1月 1日 (金)

謹賀新年

2016

本年も宜しくお願いいたします。

皆様にとって良い一年でありますように。

2015年12月31日 (木)

終焉へ向かう夜行列車への考察

 このテーマではできるだけ新年になる前に済ませておきたかったのだけれど、多忙を言い訳についに大晦日になってしまった。 大半の読者が新年にこれを読まれることを思うと、新年早々夢のない話・・と言われかねないが旧年中にアップした記事であり、新年は少しでも希望のあるほうへ向かってほしいとの意向であることをご理解いただければと思う。

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僕自身、国鉄時代には数え切れないほどの夜行列車に乗車した。 書き綴りながら思い返し、思い返しながら列車名をあげていくと、

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鹿児島線「かいもん」、長崎線「ながさき」、山陰線「さんべ」、土讃線夜行快速、

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山陽線からの九州方面行きでは「阿蘇・くにさき」「雲仙・西海」「さくら」、

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四国連絡「鷲羽」、山陰線関西口の「だいせん」「山陰」、紀勢線「はやたま」、北陸線「立山」「きたぐに」「日本海」、東海道線大垣夜行344M、「銀河」「臨時銀河」、中央線「ちくま」、信越線「越前」、

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函館線「すずらん」、根室線「まりも」、宗谷線「利尻」・・今思いつくだけでこれだけ出てくるが、実際はもっともっと乗車しただろう。 また、宇高、青函航路には夜行便も存在していた。 昭和50年前後、夜行列車はどれも混んでいた。 寝台は満席、指定席など取れず、自由席に乗ると決意したその先には通路での雑魚寝、あるいは立ったまま夜通しなどごく当たり前だった。 その頃、国鉄はテレビコマーシャルで「星のマークの寝台列車、一日およそ4万ベッド」と、改善の進んだ寝台をアピールしたものだ。

ところが、国鉄末期から夜行列車の削減が頻繁に行われ、まず、座席主体の夜行急行や夜行快速、夜行鈍行が姿を消した。 そして、高額な寝台料金による客離れが進んだ寝台特急・・いわゆるブルートレインが少しずつ消えていく。

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ダイヤ改正のたびに廃止される夜行列車を追う鉄道ファンの姿が一種の風物詩のようにもなっていく。 それでも、当初は乗車効率の悪い列車の削減、あるいは列車を統合して効率化を図るための削減というものだった。

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だが、「銀河」あたりの廃止からは「多くのお客様にご利用いただいていますが、車両の老朽化により」というJRの言い訳を見ることが増えていったように思う。

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ここ数年に廃止された夜行列車、「きたぐに」「北陸」「あけぼの」「出雲」「銀河」・・そしてJR化後に誕生した「北斗星」「トワイライトエクスプレス」といった列車は乗車効率は高い列車だったはずだ。

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車両が老朽化したなら、多くの利用客のために車両を製造すれば済むことで、それは日頃、僕たちが利用している通勤列車ではあたり前のように行われているはずだ。 なぜに、夜行列車用の車両が老朽化して、それを新製の車両でまかなえないのか・・ 鉄道ファンのみならず、それら列車を利用していた多くの乗客はJRの言い訳に納得などできるはずもないのだ。

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たとえば、JR西日本では、SL観光列車「やまぐち」号の12系客車の老朽化に伴い、外観をノスタルジックな旧型客車のデザインに合わせた新型客車編成を製造することを発表している。 SL「やまぐち」号は快速の全車両座席指定車だ。 特急料金は収受できず、特別料金としては座席指定料金の520円だけしか得られない。 だのに、この列車の客車は製造し、「トワイライトエクスプレス」や「銀河」の車両は老朽化したからといっても代替車を製造する話にはならない。 乗車券以外に一人の乗客が払う特別料金は数千円から数万円になるのに・・だ。

SL「やまぐち」号は列車単体で見れば大きな赤字を出す列車だと見ている。 だが、沿線経済への波及効果は巨大で、JRとしても新幹線などほかの分野への集客効果も大きい。

そうすると、夜行列車にSL「やまぐち」のような経済波及効果はないのだろうか。

自治体でも鳥取県や秋田県では寝台特急の廃止に対して「存続」をJRに陳情している。 北海道も「トワイライトエクスプレス」「北斗星」の廃止には難色を示していた。 これはこれら夜行列車がもたらす経済波及効果が、大きいということを意味している。 それでも、JRは腰を上げない。 いったん廃止と決めた列車を復活させたりはしない。

それはなぜか・・国鉄分割民営化とその後の新幹線延伸への世論の中で、JR内部、国交省内部の全うな意見は押され、つぶされ、結果としてJRに無理やり新幹線を押し付けるという方向になってしまい、受けるJRとしても新幹線の経営安定が第一義となり、平行在来線を切捨てせざるを得ない危険な状況に追い込まれているが、JR北海道が当面、北海道新幹線に巨額の赤字を見込む結果となっているのはその際たるものだろう。

そこに夜行列車を運行しても第三セクターなどとの権利関係が複雑で、自社にとって大きな利益にならないと読んでいるから・・要は新幹線を運用するだけで必死と言う状況である。

北陸新幹線をフル企画で建設するかどうか、世論が分かれていたその当時、JR西日本は明確に「反対」の意思を表示していた。 「われわれが長年取り組んできたことが無駄になる」 これは当時のコメントだったと思うが、北越急行への肩入れと、それに伴う列車の高速化という努力すべてが無駄になる・・そのことを表している。 将来的には在来線列車の時速200キロ運転までも視野に入れていたJRの技術開発はその昇華の時期を向かえつつあった・・ だが、我田引鉄の論理は北陸新幹線構想を巻き込み、東北や上越に負けないフル規格新幹線への地元世論が大きくなると、在来線の維持・発展のための世論はかき消されていく。 JRとしても、こうなるとやらねばならないことだけを必死でやり、やる必要がない部分は切り捨てるしかなくなってくる。 結果として夜行列車のような長距離列車はその存在基盤を失う・・車両が老朽化したからと言って、 新車を作ってもその投資に見合う収益が見込めなければ撤退するしかないのだ。 この点では夜行列車は、赤字必死のローカル線列車よりJR内部におけるその地位は低いということになってしまった。

「昔懐かしい」「ノスタルジック」「消え行くもの」「時代の趨勢」これらの言葉が消え行く、いや、無理やり消されていく列車への哀愁となって、駅や沿線での鉄道ファンの殺到となり、「葬式鉄」などという嫌な言葉が囁かれる。

考えてみてほしい・・ 先進国といわれる国で夜行寝台列車のない国があるのか・・ かの米国ですら政府主導で長距離列車を運行する「Amtrak」が今も数多くの列車を運行している。 時間を有効に活用しながら、疲れを癒し、明日への活力となる列車・・ それこそが新時代の夜行列車であり、そこに哀愁という言葉は似合わない。

あるいは、ゆったりとした休暇を楽しむための列車、老後のささやかな贅沢をほんのひととき楽しむための列車。 日本が本当に先進国であると宣言するなら、鉄道における「文化」の部分を大事にした列車、あるいは人生の効率化のために本当に役立てる列車、そういう存在があって然るべきではないのだろうか。

JR九州が運行を開始したクルーズトレイン「ななつぼし」の大好評に刺激され、JR東日本、JR西日本はそれぞれ豪華クルーズ列車の開発に着手した。

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そして、JR西日本では「トワイライトエクスプレス」の車両を使ってクルーズトレインを試行している。やっと「鉄道文化」に対する認識が少し生まれてきたかと思ってはいるが、これではまだまだ、ビジネスマンが仕事のために、明日の活力のために使う列車も登場して初めて鉄道が持つ文化的土壌を発揮できるのではないか。

あるいは若者がリーズナブルに旅行をするための、快適で安全な列車の開発、事故多発の高速道路ではなく、安全な鉄道を最高にアピールできる機会であり、もっともっと、夜行列車というものを見直していくようになり、その列車を保護、発展させる政策があって始めて日本は先進国、文化立国といえるのではないのだろうか。

もうひとつ言えば、新幹線の高速性を利用し、線路保守の妨げにならない時間帯に走り、線路保守時間帯は駅で停車して時間調整を行うような夜行列車があればと考えている。

新幹線なら、車体サイズも大きく、寝台車としてはゆったりとした非常に良いものが出来るのではないだろうか。

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ちょうど今のサンライズの車両を少し大きくした感じをイメージしている。

鉄道ファンにしても、廃止される列車を追うばかりではなく、新時代への提言をもっともっと、大きな声にしていこうとするそういう方向性になぜ至らぬのか・・

それならお前がやれ・・とはよく言われる言葉だが、一人の声ではない、大勢の声をもっと大きくしていくことの必要性を僕はこの国の鉄道・交通の未来のために言っているわけだ。

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2016年3月改正以降、日本の夜行旅客列車は定期運行では「サンライズ瀬戸・出雲」一本のみとなる。 「一日およそ4万ベッド」の時代からわずかに四半世紀、その日以降は「サンライズ瀬戸・出雲」の全寝台が、日本の鉄道が一般に販売する夜行列車ベッドの全数であり、「サンライズ」の「のびのび座席」が夜行列車座席のすべてなのだ。

夜行列車、寝台列車始まって以来のこの危機は、必ず日本の鉄道の危機への序章となる・・僕はそう考えている。

個別の時間やライフスタイルに応じた選択肢のない乗り物はその魅力を発揮出来ず、いずれ撤退するしかないからだ。

2015年12月 9日 (水)

山陽3000系全編成健在の記録。

山陽電鉄に20年ぶりの新型車で18年ぶりの新車、6000系がまもなく登場、うわさでは既存車両の大幅な入れ替えが近くあるといわれている。

そこで、今現在、山陽電鉄の主力車両として活躍する3000系のすべての編成がそろう最後の時期であり、高度経済成長期を支えた、中小私鉄としては最多の両数を誇るこの系列の全編成の様子をここに記憶としてとどめておきたいと思う。

山陽3000系は昭和39年、神戸高速鉄道乗り入れのためにこれまでの2000系を抜本的に見直した車両として登場、すべてロングシート、3ドアの完全な通勤型車両だ。

当初登場したのは本邦最初だったアルミカー、2012Fの実績を元に、オールアルミで昭和39年に製造された3000Fと3002Fだ。

なお、本稿で掲載した写真の撮影は古くても昭和50年ごろまでのものであること、ご承知おきいただきたい。

3000

須磨での3000F、当初3連、後にサハを加えて4連化されている。

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後に3050形新アルミカーに合わせて、正面帯が太くなった。写真は地上仮線時代の西代付近。

3600

この編成のTc、クハ3600・・山陽電鉄3000系は神戸よりからMc・M’・T・Tcで組成されるのが基本、McもM'も3000形を名乗るがMcがクモハ3000で偶数、M’がモハ3000で7奇数、Tcがクハ3600形、Tがサハ3500形だ。なお、車番は形式名から始まる・・つまりゼロ番が第一号車となる。加古川橋梁にて。

3001

今現在の3001の車内。

登場から50年を超えるが美しく整備されている。当初は座席はグリーン、天井照明にはグローブが付いていた。

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工事中の舞子公園駅に停車する3600。

3002

こちらは3002F、地下化工事が始まる前の西代付近。

36013600

昭和52年ごろ、須磨で3600と3601が並んだ。

3004

神戸高速開業に際し、多くの車両が必要になるために、コスト面から普通鋼製車体となった3004F。当初、前面・側面の行き先・種別表記は散りつけられていなかったが、後の増備車に合わせて行き先表示が取り付け・・その際、改造車は機器が正面に飛び出した格好となった。これはほかの編成はすべて後に正面ドアの交換が行われたが、この編成だけは今現在も飛び出した行先表示器を持っている。ごく最近の撮影・・大蔵谷駅。あまりにも原形を保ちすぎていて、今後が心配になる。

3602

的形付近を走る3004F、Tc3602。

旧カラー時代だ。

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3006F、飾磨にて・・網干線ワンマン対応改造がなされた編成で、3200形以外の3000系列では唯一。飾磨にて。

3008

3008F、雪景色の阪急神戸線を快走・・かつては阪急六甲まで乗り入れていた。

3604

その編成の旧カラー時代、滝の茶屋で3604。

3010

3010F、阪急御影駅西方の折り返し線で待機する様子。この編成は後に3200系化され、今の車番は3210F。

阪急線では免許上は御影までの乗り入れ、客扱いは六甲までで、御影手前で折り返す。

32103012

こちら、今の、3210が3012と出会う様子。霞ヶ丘。

山陽電鉄では既存3000系のリニューアルを進めていて、今後もリニューアル済みの編成に付いてはある程度安泰であると言う話もある。

3012

3012F、旧色時代の須磨浦公園で。

3014

3014F、こちらも須磨浦公園、旧色時代。

30163001

3016F、ごく最近の霞ヶ丘で、3002Fと並んだ様子。

3608

3016FのTc、3608、高架前の電鉄明石にて。旧色時代。

3018

3018F、この編成はTcが2両つながる、変則的な編成だった。旧色時代、須磨浦公園。

360936194

加古川橋梁にて、3609の次位に3619がつながった様子。

4連化の増備の際、TではなくTCを製造、後にMC、M'を製造して、これに2000系改造のT、3550形を挿入した。その際にTc3619が1両だけ余った形になった。

3020

3020F、数年前の霞ヶ丘にて。

3022

藤江付近を行く3022、旧色時代。

この編成から中間M’車の屋根がパンタ部分のみ、やや低くなっていた。

36113501

この編成のTc、3611、次位に2000系改造のT、3551を連結して4連となっている。加古川橋梁にて。

3024

3024F、地上時代の西代にて。中間に3552を挿んでいた。

30241

ニューカラーのごく初期、僕が初めて見た3000系新塗装、一時的に3連化されていた3024F、飾磨にて。

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3026F、滝の茶屋にて。

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3028F、林崎付近。

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この編成のTc、3614、高砂線列車を追う様子、加古川橋梁にて。

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3030F、こちらも林崎で。

36153555

この編成のTc、3615・・次位に2000系改造、3555を連結している。加古川橋梁。

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3032F、須磨浦公園にて。

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この編成には中間に3556号が連結されていた。こちらは加古川橋梁で。

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3034F、須磨にて。後に3200系化され、今の車番は3206F。

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大塩付近を走る3034F、中間に3557号を連結している。

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その3557号の様子。

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3036F、非冷房3000系最後の増備。この頃には冷房化されている。藤江付近。

この編成も3200系化された。今の車番は3208F。

36183558

この編成のTc、3618、2000系改造の3558が連結されている様子が判る。須摩浦公園。

この昭和50年代当時、3000Fから3016Fまでは新製の3500から3508までのTが連結されて4連に、3018FにはTcの3609を中にいれて4連に、3020Fから3036Fには2000系2002F~2006Fまでの編成をバラして、3ドア、ロングシート、付随車化、といった改造を施した3550から3558までのTを中に入れて4連化されていた。

ここから3200形編成。

2000系の一部を電装解除して、編成をバラし、3000系のTに改造したことは先に述べたけれど、その際に余剰となった主電動機を使った車両が3200形で、外観は全く3000系後期型と同じだ。

3200

3200F、平松にて。

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3202F、最近の撮影。網干付近。

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この編成の旧色時代、先頭は3621。

3204

3204F、こちらも最近の撮影。高架の西飾磨にて。

3622

この編成の旧色時代、地上時代の西代付近。Tcは3622。

3050

ここより3050形。

いよいよ山陽電車でも通勤冷房車の製造と言う時代になった。

当初より冷房装置を搭載し、車内を見れば平天井、並行する国鉄とは一味もふた味も違う気持ちの良い冷房車の登場となった。

当初は4連で登場した。

昭和47年登場、3050F、これは最近の大蔵谷にて。

3630

この編成の旧色時代、別府にて・・Tc3630、線路脇の架線柱は大正時代の神姫電鉄開業時からのものだ。

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3052F、阪急三宮。最近の撮影。

3631

新色になってからだが、Tcは3631、一の谷。

3054

3054F、加古川橋梁にて旧色時代。

3056

3056F、この編成からエアサスにグレードアップした。藤江付近。乗り心地が非常に良いのが印象的だった。

 

36333604

この編成のTc、3633が3604と改装前の姫路駅で並ぶ。

3058

3058F、旧色時代、須磨にて。

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この編成のTc3634。

30603060F、数年のブランクを経て登場した新車、当初、運転台窓回りのゴムが黒色で驚いたものだ。加古川橋梁。

3060_2

同じく、須磨浦公園内で。

3062

3062F、加古川橋梁。

3064s

3064F、ごく最近の撮影、急行にあたる「S特急」で運用される様子。霞ヶ丘。

3637855

この編成のTc、3637がかつての特急ロマンスカー、855と姫路駅で並ぶ。

3066

3066F、林崎付近。

昭和56年、久々にアルミカーとして登場、ただし、先頭Tc車は鋼製車体、Tはほかの編成から持ってきたもの、3508だったろうか・・後にTも新造された。

3068

3068F、晴れて無塗装、赤ライン付きで新生山陽をアピールした。最近の撮影、舞子公園にて。

3070

3070F、この頃は毎年1編成、新車が見られた。須磨浦公園。

3072

3072F、最近の撮影、舞子公園のJR跨線橋を俯瞰。

3074

3074F、これも最近の撮影、大蔵谷にて。

この編成は5000系転換クロス化で余剰になった固定シートを使ってセミクロスシートに改造されている。

3076

3076F、この編成もクロスシートに改造されたが、3074・3078とあわせて、一時は3連でいつでも6連にして5000系運用の穴を埋められるようになっていた。なお、Tは3000Fから抜いた3500だ。

36426

この編成のTc、3642が6連特急の運用にはいっているところ。姫路駅。

3078

3078F、この編成も6連予備のための3連だったが、今は3002Fから3501を抜いて4連化されている。

最近の撮影、須磨寺にて。

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この編成の車内。なお、クロス改造車はいずれもMc、M'、Tcのみで、T車はロングシートのままだ。

これは特急予備車時代に3連で運用されていたことによる。

3100

3100F、将来の6連化を予想して増結用に使えるように作られた編成で、Tcは鋼製車グループで余剰になっていた3619を連結した。登場当時の東二見車庫で。

31004

3100Fは一時的に4連化されて特急運用にも使われた。

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Tcに抜擢された3619は鋼製車ながら、淡いグレーに赤帯、ドア部分はステンレス地肌と言うアルミカーのような塗装を纏い、異彩を放っている。

4連、霞ヶ丘にて。(現在はこの編成は3連だ)

3562

このほか、2700系→2300系で活躍した2編成が一時的に3550形置き換えのTとして3560形を名乗り、編成に挟まれたことがあった。写真は3562、霞ヶ丘。

今秋、山陽電鉄では誕生50年を越えた3000Fの赤帯を登場当時の細いものに変更してくれた。

それもテープなどを使わず、かつてのように赤いプラ板で精巧に作った帯を、磨きぬいた車両正面に取り付けてくれた。

3000_3

写真は新装成った西新町高架線をいく3000F。

ちょうど、僕が写真を撮り始めた頃のデザインで、非常にうれしい。

36008100

そして、鉄道退職後の僕が写真の修行をした阪急沿線の入り口・・阪急神戸三宮駅でのTc3600と阪急8000系のトップナンバー編成、8100との出会い。

これだけでも当時をしのんで涙も出てくる・・まさに青春の光景の再現でもある。

いよいよ、次の春が来ると3000系編成の中から、離脱する編成も出てくる。

山陽3000系は僕にとって身近で親しみやすい、私鉄電車の代表格のような存在、どうか、少しでも長く走ってくれよと祈りながらこの長い文章を終えたい。

2015年11月15日 (日)

Photo Archive 想い遥かな餘部駅・余部鉄橋。

冬が近くなると山陰への思いが募る。

それも、鉄橋時代の餘部、余部橋梁へ・・今回は未公開写真も多く出しながら、改めて余部橋梁への想いをつづってみたい。

初めて餘部に行ったのは昭和54年頃か・・国鉄寮の仲間と向かったのだが、当時は姫路始発の急行「但馬」があったように思う。

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DD51牽引の普通列車を見上げる。

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特急列車、キハ80系6連。

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雨の日、客車を牽いてDD51が接近する。

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その列車の後部・・リアス式海岸をバックに、旧型客車の風情。

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冬の遠望・・堂々たる普通客車列車。

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こちらは特急列車。

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その列車の後部。

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橋を行く列車を見上げる・・特急列車だ。

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普通客車列車。

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駅に進入するDD51牽引、12系による普通列車。機関車はDD511122だ。

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雪の中をゆくキハ28・58系列による急行列車。

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キハ181系、特急「はまかぜ」が接近する。

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雪の風情・・

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残り柿。

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橋梁の補強梁・・

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下から橋梁を見る・・

保守の面倒な大型橋梁は国鉄にとって小さくない負担だったのだろう。

 

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青空の日・・空中を行くキハ181特急、そのキロと中間に入った先頭車の連結部分。この色合いはポジ原板による。

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キハ181先頭・・

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後部の乗務員ドアが開放されていた。

車掌には暑い部屋だ。

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旧型客車4連の普通が東へ向かう。

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DD51の次位にマニ50。

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ローカル改造された12系客車が行く。

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青い海を背景にキハ28・58急行列車、7連。

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堂々たる旧型客車による普通列車が姿を消した・・キハ47系による普通気動車列車。

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キハ28の列車がやってくる。

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たった3連、急行列車間合いの普通だろうか。

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トンネルから出てきたのは急行気動車を改造した特急、「エーデル北近畿」

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列車が進む・・

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貫禄というものは感じないが、観光用にふさわしい特急列車だった。

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餘部駅の隣、久谷付近での撮影・・

特急列車の遠望。

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列車が進む・・まだこの頃には特急らしい貫禄があった。

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その列車の後尾。

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3年前に訪れた際の写真、特急「はまかぜ」は新型キハ189になったが、編成はさらに短く、たった3連となった・・
ただ、乗客の多い日には6連でも運転される。

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記憶の彼方の風景・・小学生が遊んでいたが、特急通過後に僕のカメラのファインダ―画面に入ってきてしまう。今思えば非常にいい記録になった。

 

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通学の高校生・・餘部駅の、如何にもローカル駅と言った風情は、初めて訪れた僕らを強く引き付けた。

 

だが、地域住民が愛し、手入れをしてきた駅、地域が誇りとしてきたあの鉄橋で国鉄は最末期に大事故を起こした。

「みやび」転落事故である。

僕も愛した鉄橋、愛した駅で、僕が愛する国鉄が、僕も参加して作り上げた「みやび」を転落させ、大勢の地元の方々を死に至らしめ、町を破壊した。愛する風景だけではない重みが、餘部駅に、余部橋梁にはある。

愛すると一言で言えない重み、鉄道を愛していたはずの方々を押しつぶし、誉れを持って新型客車に乗務していた食堂従業員を道連れにしたあの大事故は今も常に僕の心にある。

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それでも、餘部は、僕にとっては愛すべき場所であることに違いはないのだ。

(本文中、「あまるべえき」は餘部駅、「あまるべきょうりょう」は余部橋梁と表記しております)

2015年10月30日 (金)

Photo Archive・国鉄特急色を思う

今、これを書いているのは10月30日の夜で、今日は国鉄・JRの歴史にとっては忘れられない日になりそうだ。パソコンに向かいながら手元には愛飲の焼酎をお湯で割ったグラスを置き、もう、このまま日が変わってもいいような気がしている。

というのも、関西における381系電車の定期運行が終了すること、すなわち国鉄特急色を纏った車両の定期運行が終了するという日になった。ここでいう国鉄特急色とは、昭和33年10月に登場したモハ20系電車→151系→181系電車の纏った肌色の地色に濃い赤の窓回りというあの色合いだ。

今年はこの色合いが誕生してから57年ということになり、一つの色合いがそのまま半世紀以上にわたって続くのはこれは如何にこの色合いが日本の気候風土に合っていたかという証左でもあるだろう。

181中学生のころの拙い写真だが181系「とき」の凛々しさにはこれを見に来てよかったと思ったものだ。

僕は関西在住だから東北・関東方面への縁は余りないのだけれど、少しだけあるコレクションから出していくつもりだが、過去には485系上野駅の記事もあるので、そちらも参考にしていただきたいと思う。

485国鉄と言えば「つばめ」、この名称の列車が国鉄特急色だったのは151系時代と481・485系になってから、それも昭和50年3月までだ。

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「なは」倉敷駅で・・

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秋田駅での「たざわ」「つばさ」、今やどちらも新幹線ルートとなった列車だが、「たざわ」は「こまち」にとってかわられた。

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こちらは「いなほ」

80国鉄特急色は気動車特急にも・・

「まつかぜ」キハ80系、武田尾での撮影だ。

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北海道にも特急気動車・・キハ80系「おおぞら」、開業直後の千歳空港駅近くで。

485_3こちら九州の「みどり」編成が留置線で休んでいるところ、関東から転用のクロ481が並ぶ。

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こちらは「有明」先頭車はクハ481-1だ。

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「かもめ」原田にて。

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「あいづ」上野駅で、クロ481はこの列車のために生まれた。

我が父祖の地は会津から下野にかけてで、今もわずかに親族があり、かつてはこの列車にも好んで乗ったものだ。

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国鉄特急色は四国にも・・

多度津付近のキハ181「南風」・・

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「しおかぜ」、周囲の様子がまさに当時の国鉄を思い出させる・・松山駅。

485_4北陸路には「雷鳥」、11連中、サロ2両、サシ1両という今では考えられないデラックス編成だった。

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こちらは上野と北陸路を信越経由で結んだ489系「白山」

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「雷鳥」ボンネット型先頭車。

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最終期の「雷鳥:先頭の展望グリーン車は「スーパー雷鳥」のもので、後に国鉄特急色に塗りなおされた。

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最近まで走っていた183系電車の「ムーンライトながら」

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北海道では新型電車特急も当初は国鉄特急色を纏っていた。

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そして新型気動車特急も・・キハ183「北斗」

この塗装を纏った国鉄車両としては、151・161・181・481・483・485・489・781・キハ80・キハ181・キハ183、そして、後に塗装が変更され特急車の仲間入りをした準急用157系と非常に多岐にわたり、日本全国の津々浦々にまで、特急と言えばこのカラーを印象付けた。

よく考えると、国鉄の走っていない沖縄県以外のすべての都道府県でこの色合いの列車が優等列車の代表である「特急」だったわけだ。(奈良県には短期間だがキハ80系の定期運用があった)

緑の色が濃い日本の風土には緑の補色である赤系統の色合いが良く似合うものなのかもしれない。

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山陰本線久谷付近でのキハ181系。

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宮津線、キハ181「あさしお」

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冬の武田尾、キハ181「まつかぜ」

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余部橋梁、キハ181「あさしお」

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伯備線布原、381系「やくも」

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倶梨伽羅峠、キハ80系「ひだ」

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須磨海岸を行くキハ181「はまかぜ」

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須磨海岸の「シュプール」381系。

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本年初頭撮影、485系原色編成による「北越」、魚津駅で。

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さて、今回、北陸新幹線開業による「はくたか」廃止などにより転用された683系改め289系による置き換えとなった「こうのとり」「北近畿」系統の過去の様子も今一度・・登場当時の「北近畿」。

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183系に改造後の「北近畿」後部にキハ65、「エーデル丹後」を連結している。

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207系と並んだ183系「こうのとり」尼崎にて。

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尼崎での後追い。

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223系と並ぶ「こうのとり」、城崎温泉。

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新大阪での183系「こうのとり」

紀勢本線287系投入により余剰となった381系がまず、183系を淘汰・・

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381系「きのさき」、復元なった福知山城をバックに・・

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淀川をわたる381系電車の俯瞰。

「くろしお」運用ではオーシャンカラーと呼ばれる青系統の色合いに塗られていた381系だが、福知山・山陰系統への転用に際し、わざわざ国鉄特急色への復元がなされた。JR西日本からファンへのプレゼントだ。

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大阪駅での「こうのとり」、この編成はひとまず183系JRカラー車の置き換えに「阪和ライナー」から転用されたもので、この後、「くろしお」リニューアル車が入ると廃車されている。

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道場駅付近にて、381系「こうのとり」

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伊丹駅での様子。

381_5走り去る国鉄色381系・・もうこの姿を定期列車で診ることが出来ない・・

時の流れは致し方ないが、それでも「特急」とはこの色、それが消えることの侘しさは、やはり僕らの世代では避けようがない。

今でも、線路際に行くとこの色合いの特急列車が走ってきそうな気がする・・たぶん、僕の中では一生、国鉄・JRの特急列車といえばこの色合いなんだろうなぁ。

2015年10月14日 (水)

都電荒川線

日本の路面電車受難の時代、首都東京においても大阪や神戸と同じく路面電車=都電の廃止がなされていたけれど、専用気道が多く、道路交通への影響がほとんどない荒川線が残されていた。

これは非常に羨ましいことで、神戸や大阪ではこういった路線がなく、市電の姿そのものが街中なら消え去ったのに、東京では都電の姿がわずかに一路線とは言え、残ることになったのだ。

路面電車ファンを自認する僕としてはこの路線は見に行かねばならず、初めての東京訪問時にも京急・小田急・京王などと並んでこの路線を訪問したのは、僕の趣味の方向性が路面電車にも重きをなしていたことを意味するのだろう。

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さて、昭和52年の東京、大塚駅前の様子から・・まだ未更新の7000形7058号。

7077

こちら7077号。

7084此方は7084号。

線路の立派さに驚いたものだ。

75037503号、まだ原形の美しさを保っていた。

75032

去りゆく7503号。

70007000形の出会い。

75047022

ここよりはこの数年後、二度にわたって改めて訪問した際のスナップ。

更新された7504と7022の続行。

70127012号。

70187018号。

702575157025号と7515号。

70277027号が大塚駅ガード下の電停に停車する。

75087508号。

750827508号は大塚駅どまりだった。

75167516号。

75162

去りゆく7516号。

7504車内から7504号。

停留所は不明。

7515学習院下7515号。

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7000形の運転台。

7001早稲田付近か、7001号。

70107010号。

70167016号と鉄道ファンの方々。

このときに出会った年配のファンの方々には、僕が東京ものでないことが分かると散々バカにされたような話し方をされた。「城南だけど、知らないよね」知らんわ。。。

75207520号。

この風情は捨てがたいものがある。

75157025_2もう一度、大塚駅前の7515号と7025号、7000形は東海道線尼崎の西にあるアルナ工機においておるのをよく見かけた。

日本の路面電車が受難から発展へ・・そのきっかけになった車両であると思う。

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国鉄の線路上には非冷房の103系が。

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2012年にここを再訪することが出来た。

あまりの激変ぶりに言葉を失った。

それでも大塚駅ガード下の電停には7000形も。

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そして30年ぶりに出会えた7025号。

 なお、白状すると・・僕はいまだに大塚駅前から三ノ輪橋への区間は未乗だ。

あの、地元鉄道ファンに馬鹿にされたことがトラウマになった・・わけではない。