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こう@電車おやじ

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2012年2月26日 (日)

国鉄鷹取工場、昭和53年8月。

国鉄鷹取工場でのネガフィルムが出てきた。
すでに拙ウェブサイト「こうワールド」の「国鉄高砂工場」内で既出のものもあるが、改めてスキャンしてみていただこうと思う。

撮影日は昭和53年8月19日とある。
終業後の鷹取工場内をコンパクトカメラ「オリンパス35ED」を隠し持っての撮影だった。

なお、鉄道ファン諸氏には一部ショッキングな写真が含まれること、ご承知いただきたい。

Dd13 入場建屋にDD13が留め置かれている。
全国何処でも見られた小型の入換機だが、入換用のわりにはブレーキの効きが悪く、蒸気機関車でも入換用に使いやすい9600形が長く活躍する結果となった由。

2 入換用の機関車と言うより、国鉄部内では「機械」。
一部は工場でも自作していた。
これは入換のためにここに居るのか、それとも全般検査のために居るのか、ちょっと不明。

Dd51 ディーゼル機関車のエンジン。
こちらはDD51のものだろうか。
DML61系のエンジンが二つ並んでいる。

Dd54 こちらはDD54のもの。
V型16気筒DMP86だ。
このエンジンは鷹取工場で集中整備されていて、精密なエンジンの分解、組み立てができる設備があった。

Dd541 そのDD54の廃車解体の様子。機関車の廃車はまず、車体の箱を外して、主要機器を取り外さなくてはならない。まだ、まっさらのような機関車の解体・・
当時、廃車解体は主に定年退職された先輩たちが勤めていた下請け会社の仕事だったが、その方々の心中や如何に・・

Dd542 そのDD54サイドビュー。
前にあるのがSG(蒸気発生装置)その後ろがエンジンだ。

De10 こちらはDE11か?
事故で廃車になった機関車。
調べると、この年の6月1日に吹田操車場内で事故があり、その被災車両ではないだろうか。

103 冷房改造に入場したクハ103。
この当時、山手線ATC化工事のために、京阪神緩行用に作った編成の両側TcをATC装備させ、山手線に投入、京阪神緩行線には新車の中間車と、東京から流れてきた先頭車が組み合わされて投入と言うことになった。

このクルマも南シナの標記がある。

111 こちらも冷房改造工事に入場している113系電車。
レッドライナーかブルーライナーか判別がつかないが、ブルーライナーの車両を見た記憶はないから関西線の快速用だろうか。
鷹取工場は機関車、貨車を中心とする工場で、当時、受け持ちの電車はなかったが、冷房改造が忙しい時代、電車職場を立ち上げて103系113系の冷房改造工事にいそしんでいた頃だ。

Photo 鉄道学園鷹取分所の実習用機関車、「若鷹号」。
元々、四国の阿波鉄道の古典機関車だが、分所の前身「鷹取技能者養成所」の実習用に改造されている。
分解、整備、組み立て、試運転を繰り返したと言うが、この頃では分所のシンボル的存在だった。なお、今は嵯峨野観光鉄道で保存されており、ぜひ一度しっかりと実情を見てみたいと思っている。

Photo_2 鉄道学園寮からみた鷹取工場の風景。
左の新しい建物が食堂、正面左の大きな建物が機関車職場、右手なにやら溶鉱炉のようなものが見えるのは鋳物職場だ。

このあたりは今、まったく新しい町に変貌していて、もはや記憶の中でしか追えない光景でもある。

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国鉄鷹取工場、昭和53年8月。を参照しているブログ:

コメント

こうさん、こんばんは

DE11の破損状況ですが、短い方のボンネットが空っぽに近いからこんな壊れ方をしたのですかね。
それにしても機関士は大丈夫だったんでしょうか?
それと
DD13だけでなく後から僅かに登場したDD20も
ブレーキ力が弱かったそうですね。

管理人様

京阪神緩行用の103系、幼少の頃によく乗りました。
中間車はユニット窓の新車なのに先頭車は丸いRのついたやつ。
側ドアの内側が緑のペンキ塗りなのがお気に入りでした。

私は平成元年から18年間、姫路~新大阪を通勤しましたが、途中阪神大震災を経て、最終的にコンテナ駅に変貌する鷹取は気になっていましたが、かつてはこんなに多彩な車両が居たのですね。通過する外観だけではわかりませんでした。貴重な写真を拝見でき光栄です。

鷹取工場はこの区間を通過する列車から目を凝らして見ていました。ゆっくり見ることができないのですけど、いつも楽しみでした。

DD54を整備していた工場で同じ車両を解体するというのは、関係者にとっては複雑な気持ちですよね。そもそもDD51が量産されてきていたのに、何故海外技術を使ってDD54を作ったのかなぁ・・・。

ところで、私の家に「鷹」の区名票があります。どの車両に付けられていたものかわかりませんが、今となっては貴重かもしれませんね。

山手線での高運転台にステンレスの飾り帯を着けたATC仕様先頭車への繋ぎ替えは、実際はそうではないのでしょうが、一夜にして為されたかの感がありました。
ある日の夕刻、目黒辺りだったか、確かに103系だがステンレスの帯が目新しく、いやが上にも違いの際立つ新鮮さを感じたものでした。が、来る編成、来る編成、皆それになっていました。

こう@管理人さん、こんにちは。

この特集には やはりコメントしたくなります^^;。

同じDD型でも51と54とは違いが多かったようですね。業界の者じゃありませんので詳しくは分かりませんが、怪力51に対して故障が多かった54と認識してます。特に印象に残ってるのは、DD54が立ち往生して救援に向ったDD51のニュースは有名ですね。山線には不向きだったのでしょうかDD54は。でも、ヨーロピアンスタイルのDD54は凄く格好良かったですよね。学生時代と社会人になってから延べ8年ほど姫路へ通ってましたが、広い構内に堂々たる姿で停まってるDD54が好きでした。

今回も貴重なお写真の公開、ありがとうございました。

こうさん、ご無沙汰と言うにはあまりに長い時間が経ちましたがお元気
のことと存じます。
鷹取工・・・一度だけ入場させてもらったことを懐かしく思い出しました。
昭和60年の初秋、業務研修で場内に入ったのです。
もっとウロウロしておくべきだったと後悔したのは研修が終わってからで
何ともったいないことをしたのだろうと思うこの頃ではあります。
やはり検修科を好きな内燃にしとくべきだった・・・
あの地下通路をくぐってから26年、一人思い出をつづりご無礼しました。
ではまた!

猫宮トラオさん>

この部分には死重のコンクリートが積まれていたはずで、もしかしたらそのコンクリートが帰ってキャビンを押しつぶしたのかもしれませんね。
この事故による人的被害の詳細は不明です。

DD20もベースはDD13で、結局、蒸気機関車9600に匹敵する高性能の入換機関車はDE11まで待たなければ駄目だったようです。

東原照彦さん>

そうそう、そのクハ103こそが関東からの転属組です。
関西のものは比較的あとに製造されたので、改良型だったのですが、結局、このあと関西線や阪和線にも大量に関東からの初期車が入ることになりました。

悪い猫さん>

あの震災の頃もここを通っておられたのですね。
僕も毎日通過して、その都度泣いていました。
工場の中の車両はひっくり返り、操車場では20系がお腹を見せていましたね。

今のコンテナ駅は鷹取機関区と操車場で工場は近代的な町に変貌してしまいました。

AKEYANさん>

実は、DD54製造の過程こそ、国鉄の中のおかしな空気の部分が最も出ているところです。
三菱グループは鉄道車両に関しては後発組で、必死に売り込みをかけ、その目玉がDD54でした。
ドイツ発祥の大型エンジンを搭載して亜幹線主力機をもくろんだのですが、そのわりに出力はDD51より低く、重連総括制御もできないと言った矛盾もあります。

DE10のエンジンはDD54のものをスペックアップして知れを一機搭載ですが、これを二機搭載にした新型機関車も検討されていたようです。

こうなるとDD54の巨大エンジンは不要、国鉄も三菱と袂を別って、あとは法定耐用命数で廃車解体・・
問題のあったはずの機関車なのに、なぜかお召し列車牽引・・

整備に音を上げた機関区の国労からの突き上げもありというのが・・哀れな本来は優秀機関車DD54の顛末ではないかと見ています。

「鷹」の区名票、貴重ですね。
これは鷹取工場ではなく機関区のものですが、鷹取機関区は所属両数が少なく区名票も非常に少ないと思います。

あづまもぐらさん>

その影に、中古の先頭車を持ってこられた関西人の悔しさが亡霊となり・・嘘です。。。
でも、本来関東にあるはずのクハ103のごくごく初期のクルマが関西でつい最近まで現役だったのはこのおかげでもありますね。

ゴンパパさん>

DD54については姫路機関区へ正式に訪問した記録が過去ログにあります。
http://kokutetu.blog.eonet.jp/117/2011/07/51dd54-ffad.html

こちらもぜひご覧くださいね。

DD54の問題についても過去に触れていますが、結局は売り込みにあせった三菱の粗製濫造と、国労など組合の突き上げで早期引退に追い込まれたように思います。
それに設計上も重連総活制御ができない問題もあり、中途半端な存在だったのは否めないようです。

でもでも、僕はこの機関車がだいすきでした。

768-6160さん>

お久しぶりです!

旅客車両がないので地味な印象の場内でしたね。
でも、迫力ある機関車、大型のエンジン、貨車のタクト方式、鋳物職場など歴史を感じさせる工場でした。

あの地下通路が・・
震災後の一時期、仮設ホームへの旅客通路として使われたのも・・
これはこぼれ話ですね。

管理人さん こんばんは。
またも懐かしの鷹取工場画像をありがとうございます。
DD13、入換機の居る場所は整備室と呼ばれ出車の構内・本線試運転前後の調整をするところでしたね。私もEF58・15・60・64・65・66等のバネ調整や気動車の自連の高さ調整、ブレーキシリンダーの調整をこの場所でやったことがあります。
ガンドリークレーン下には配給用のエンジンなどがおいてありましたね。
画像はDD5430だったのでは無かったでしょうか?、高校時代に達〇君に見せてもらった記憶があります。DE11のいる左にはECの冷房改造を行っている建屋があり、冷改場と呼ばれていましたね。鷹取分所の若鷹号の左の建物は剣道場があり更に奥にはプールもありました。工場風景も右手前は鉄工職場のラジエター、クーラー場であったと思います。私も工場を出てから20年のため記憶でしかありません。管理人さんが高砂工場へ行かれた後の入職でしたが、私も朝・昼・夕とカメラ小僧してました。私の実家の押入れにはDD54の速度計があったように思います。
機関車職場の人が昼休み素振りに使っていたのはEF58の握り棒だったとか。(笑) 全てが懐かしい鷹取工場です。
また画像公開してくださいね。楽しみにしています。

初めまして、ブログ検索をやっているうちに、ここに行きあたりました。鷹取工場の写真にめぐりあって、在りし日の記憶が蘇ってきました。私は小学校4年生ごろ高取山の麓の大谷町に住んでいて、近所のお友達のお父さんが鷹取工場に勤めておられました。マンモスができて間がないころだったと思います。彼は帰宅するなり無言で座机の上に図面を一杯に拡げてなにやら書きこむのが日課のようでした。ある日そのお父さんに連れられて、お友達と一緒に日曜日の鷹取工場を訪問しました。工場内の事務所は板床のプレハブ?(今から思えば粗末な感じ)で机の上は青焼き図面やら書類がどっさりありました。現場のSLや電気機関車を間近に見た時はとてもとても巨大で圧倒されたと同時に子供心に痛く感動した記憶が彷彿としてきました。57-8年前のことです。
また、画像を楽しみにしています。

シンスケさん>
いらっしゃいませ!

鷹取工場の事務所は木造二階建て、粗末なツクリでした。
反面、機関車職場や貨車職場は立派なツクリで、本当に巨大な建物でしたね。

結果としては最後に蒸気機関車を担当した「工場」となりましたが、華やかな電車や客車がなく、そういう意味では地味な工場でした。
ただ、男の職場という雰囲気がありましたね。

今後もよろしくです。

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