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2012年1月23日 (月)

国鉄鷹取工場のネガフィルムから

僕にはどうも、大事だと思うものを大事にしすぎてわからなくなる癖があるようで、鷹取工場のネガもようやく2本だけ見つけることが出来た。

本当はもう1本、鉄道学園鷹取分所の頃のネガがあるはずで、それはまた見つかったときか、あるいは写真プリントからのスキャンでお見せできると思う。
とりあえず、今回は鷹取工場の第1回目だ。

Photo まず、平成に入って動態復元された「義経」の写真。

すでにJRとなった後だが、「花と緑の博覧会」で運転されるために復元されたもの。
この復元にあわせて工場公開も実施された。
「義経」は僕が学園生の頃は工場正門近くで静態保存されていて、年に数度、これの車体にワックスをかけるのは工作一科生の仕事だった。
なお、工場内の学園分所にはタンク機関車「若鷹号」も保管されていた。

Photo_2 このときに撮影した機関車職場の様子。
EF65、EF58、DD51、DD13といった当時の国鉄主力機関車が並んでいる。

Ef58 展示用に並べられているEF58の台車。
大型の電気機関車で、幹線用・・その足回りを見られる数少ないチャンスだった。

Ef5848 それでは昭和59年ごろの鷹取工場でのネガから。
EF5848の車体の様子。

電気機関車の場合、車体補修といっても腐食部分の手当てくらいで、十分用が足りてしまう。
それが機関車を旅客車より長寿命にさせている遠因かもしれない。

C57 山口線C571の全般検査の様子。
蒸気機関車の修繕設備は長野工場に残っているものを持ってきた由。
鷹取工場廃止後は梅小路に移設された。

C57_2 C57のキャブの様子。
この写真を撮影したときから既に30年近く・・
機関車の寿命の長さに驚く。
もっとも、その裏には現場での必死の取り組みがあるわけだ。

C57_3 C57を後ろから見た様子。
テンダーを外したキャブをバックから見られることなど、めったにない幸運かもしれない。
ただし、当時の僕がそれを幸運だと思っていたかは別。

201000 貨車職場改め客貨車職場における20系ナハネ20。
よく見ると、1000台の客用扉改造車だが、車端ダンパーはこちら側はついたまま。
つまり。こちら側はおなじ20系との連結側。

2010001 そのナハネ20の反対側。
国鉄部内の定めではこちらが1位側(つまり前です)。
貫通口が12系にあわせて狭められて、車端ダンパーが撤去されている。
12系との連結はこちら側であるということ。

21 ナロネ21。
多分「銀河」用か。
なんとも言えずに落ち着いた、好きな車両の一つ。

今、鷹取工場跡は町になってしまった。
かの阪神淡路大震災で工場機能も停止したが、それでも応急復旧させ、なんとか、その後の需要増大を乗り切った。

結局は工場機能を網干に移転新築されてしまうのだが、明治期以来の歴史ある鉄道工場であったわけで、せめて現地に車両の一つも保存しておいて欲しかったと言うのはこれは・・ファンの戯言だろうか。

国鉄の名門、鷹取が消えて何年になるだろう。

2000年に最後の車両を送り出し、あれから12年、時の流れは速いものである。

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国鉄鷹取工場のネガフィルムからを参照しているブログ:

コメント

西のTT、東のOM。名門ですよね。

振り返ってみると国鉄時代の各工場は機関車・電車・客車・貨車と得意分野別に分散されていましたが、
OMやKKのように機関車と電車両方を扱う所もあったのが
逆に例外的だったんですかね。。

都市部工場は狭くて電車主体、かつ両数が半端なかったからSTやOY(今はTK)、廃止されたOFのように専業でやってたのでしょうね。

先従台車に続く偏心3軸動台車、旧型F級電関の象徴ですね。それだけで充分な貫禄です。
20系は幌も別物でしたか。思えば、ナハネフ22の顔の幌枠はアクが無く、旧型客車のそれの印象とは違いましたね。20系と同時期の151系もファスナー式外幌を装備していて、国鉄関係者が特別急行列車に注いだ情熱が、幌にまで及んでいた証でしょう。
工場のみならず、操車場や機関区、客貨車区、電車区も立地のよいものから集約淘汰され、東京でも名門チタ区が風前の灯火です。

こう@管理人さん、おはようございます。

国鉄鷹取工場特集も興味深く拝読/拝見させていただきました。

鷹取工場は動力車輌のみの検査場と勝手な解釈をしてました。客車も入場してたのですね。てっきり客車などは高砂工場だと思い込んでました。
EF58の走備周りとボディの離されてるところは見たかったなぁ。また、C57のキャブ内の写真は検査時ならではの写真ですね。テンダを外さなければ写せない貴重な一枚ですね。

今は、鷹取構内はコンテナ基地となってますが、電車で通る度に工場が存在してた頃を思い出します。色々な車輌が停まってた頃を。 ありがとうございました。

kumagoroさん>

懐かしいですね。
アルファベット二文字の工場略称。

名門と言えば鹿児島、小倉、多度津、鷹取、浜松、大宮、大船、郡山、土崎、苗穂・・それに、僕の出自でもある客車の名門、高砂と、電車の名門、吹田、大井、貨車の名門、新小岩もいれましょうか。
その中でも大宮、浜松、鷹取、小倉は一歩抜きん出ていましたね。

鷹取工場では電車も扱っていました。
当初は全般検査で忙しい吹田に代わって、冷房改造工事をしていました。
レッドライナー113系や阪和線103系など入場し、編成で一月ほどで改造していましたよ。
そのネガがどこへ行ったか。。。

あづまもぐらさん>

このEF58下回りのカット、撮影したことすら忘れていたり。。

20系は貫通路がほかの車両より広く、一種独特の設計でしたね。
151系電車に遅れをとるまじと・・必死で営業側がデザインしたそうです。

都心部の鉄道施設はただ邪魔と言わんばかりの昨今の動き・・
なんだかなぁ・・ですね・

ゴンパパさん>

客車・気動車は高砂だったのですが、この写真は高砂工場廃止直後のものです。
鷹取では機関車、貨車と、他に電車の改造が中心で、JR化後には221系の製造工事も施工しています。
また、鋳物職場があって、全国の車両の制輪子の製造も行っていました。
ちなみに、高砂工場は客車・気動車と、小型エンジンの集約整備、木材の製材が中心でしたよ。

今の鷹取にある「神戸貨物ターミナル」は鷹取機関区の跡です。
震災時にはここに留置されていた20系客車が全部ひっくり返っていました。

鷹取工場の跡地は駅北側の新しい町並みになってしまいました。

  私がかって住んでいた東垂水には旧国鉄の官舎がありました。そこの住人の多くは鷹取工場の従業員でした。私のクラスメートにも国鉄職員の子息がおりC62のナンバープレート、はやぶさのヘッドマークを持っておりうらやましく思っていました。
 鷹取工場といえば、全般検査後の試運転が印象に残っています。屋根を銀色に塗ったキハ82やDF50はピカピカで形式写真を撮りたいほどでした。
 私の勤務先は車両メーカー系なので同工場から技術的な相談があり、中には鉄道ファンにも興味深いものがありました。面白い事例もあるのですが、守秘義務があるので明かせません。
 阪神淡路大震災の際は、鷹取地区は新長田地区と並び、火災で跡形もないほどの惨状で、あたかも空襲にでもあったようでした。震災当日は消防車も水が出ずになす術がなく、可燃物はすべて焼けたというひどい状況でした。お見舞いに同僚が飲料水とバナナを持って行き、大変喜ばれたようです。
その後鷹取工場はインフラの対象となり、撤退を余儀なくされ、記念広場が残ったくらいです。ディーゼル車のメンテは後藤工場に、電車のメンテは網干区に移管となり、出張の距離が延びました。

管理人さん大変ご無沙汰しています。
大建屋の画像を拝見して大変懐かしい思いです。
大建屋は、工作二科で入職した私の職場でした。入職時、私の担当は機関車3組でシリンダー屋と呼ばれていました。車体上げ、乗せ、台枠の揺れ枕解体組み立て、DLの1エンド側の推進軸取り外しを行っていました。SLも少しだけ触れました。
そうそう、管理人さんの同期にHさんがいましたよね。私が入ったことで彼は1組へ異動になりました。現在もJR貨物で活躍されているのですかね。

EF58の台車左にある門型の冶具は、リール式になったインパクトレンチを吊るしてモーターを台枠に固定する時に使用されていました。この担当は車屋(車入れをしていた)と呼んでいました。
鷹取工場での現場生活は5年程で、JRになってからは本場で新規事業の担当を3年程しました。花の万博にもスタッフとして行き義経号と働きました。博覧会が終わって帰ってきたら、組立職場へと変わり事務所の最年少だったこともあり丁稚してました。職場長、助役、先輩の主任に朝夕にコーヒーを入れていたことを懐かしく思い出しました。

鉄道を離れて4月で20年です。私も昼休みを使って
入出場車や廃車待ちの機関車を中心に撮影していたのですが
当時のネガは見当たりません。そして鷹取駅の改札は10数年出ていません。懐かしい想いで書き込み過ぎました。(笑)

L急行鷲羽さん>

鷹取工場は鋳物職場を有していたので、車両の銘板類はお手の物でしたね。
僕自身はそういうものに興味を持たず、折角鋳物職場に実習に行ったのに・・今思えばもったいないことだったなと・・

国鉄を退職して7年にわたって住み着いたのが、鷹取工場北側の戎町でした。
自宅前が妙法寺川公園で、桜の季節には工場帰りの友人たちが花見によってくれたのも・・
懐かしい思い出ですが、そのあたり、なにも当時をしのぶものが残ってないのが寂しいです。


ぼんちゃんさん>

H君って・・もしかしたら彼かな・・
鷹取工場は僕にとっては高砂と違い、国鉄の最初と最後を過ごした大切な思い出です。
そのおなじ後継を共有できる人が書き込んで下さるのはとても嬉しいことですね。

今後ともよろしくお願いします。

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