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2011年4月

2011年4月26日 (火)

日立電鉄線と湊線、常総線

昭和54年秋頃だろうか・・
東海道線の大垣夜行で東へ、東京駅から上野駅へ出て常磐線中距離電車の始発に乗り換え、茨城県の大甕を目指した。
少々くたびれた401系に乗車して、その速さに驚きながらも、多分、当時の僕は一日で茨城県の3私鉄5路線を見ることが出来るつもりでいたのだと思う。

速い中距離電車はあっという間に大甕に着き(夜行の疲れで寝ていたからそう思ったのかもしれない)ちょうど朝のラッシュ時の日立電鉄線のものすごい混雑ぶりを眺めることが出来た。
記憶では日立電鉄の全区間を乗車したように思うが、曖昧なもので、写真もどこで撮影したかすらはっきりと覚えていない。

当時の日立電鉄は静岡鉄道からニューフェイスが入ったばかりで、まだたくさんの旧型電車が走り回っていた。
Photo これは多分、常北太田駅構内ではないだろうか。
画面左に小型の車両が写っているが、この車両がなんであるか・・まったく思い出せない。
調べてみてもまったく不明で、どなたかご教示くださればありがたい。

11 こちらは11形で、戦時の営団地下鉄と同型だという。
注文流れだとか、日立製作所による横流しだとかさまざまに言われている不可思議な車両だが自社発注車であることだけは確か。

16 こちらは13形16号。
相模鉄道の流線型というか、台形というか・・面白い形態の気動車がその出自。
なんとも平凡な真四角に改造されているが、それがかえって個性を感じさせるから不思議。
この気動車は元々電気式で、電車への改造も容易だった由。

そういえば、東急にも急行用気動車が存在し、その車両も1両ここにあったと思うが、写真は撮影していない。
かの鹿島鉄道廃線まで存在していた車両にも同じ出自のものがあった。

13 13形だが番号は不明。
日立電鉄は100型導入までは正面に番号を表示していなかったから・・
きちんと記録をとっていないので・・わからない。

1006 1006号。
1000形はたくさん存在していたが、どれも形態が異なっていた。
小田急と相模鉄道からの譲り受けた車両で、元はすべて小田急1形。
ただし、その譲り受けた期間が長く、その間に双方で改造されていることもあり、とても同じ形に見えなかった。

1008 1008号。
これまた不思議な車両で、中央に巨大な両開きドアがついている。
相模鉄道で荷物電車として使われていたのを譲り受けて、内装は整備したが外観はそのままになった由。

1005 1005号。
窓が大きく開放的な車両で小田急というより京急のようにも見える。
とても小田急1形がその出自だとは思えない。

小田急1形はつい先月に「熊本電鉄」のエントリーでも登場している。
なにやら不思議な縁も感じる車両だ。

Photo_2 これは番号が分からないが日立電鉄生え抜きの9形だろうか。
駅はどこだろう大甕だろうか・・まったく分からない。

109 静岡鉄道からやってきた100形。
この車両も熊本電鉄・福井鉄道でも見かけている。
もちろん、オリジナルの静岡鉄道でも活躍を見ることが出来た車両だ。
この当時は入線したばかりだった。

日立電鉄はワンマン化などの合理化もはやく、路面電車以外での鉄道路線のワンマン化は日本で最初だったのではないかと思う。
車両も雑多な旧型車両花盛りから、一気に営団地下鉄の車両を譲り受けてカルダン化を推し進めるなど、中小私鉄としてはその経営が非常に積極的に見えたものだ。
残念ながら沿線住民、特に通学の高校生たちの強い反対にもかかわらず廃止されてしまったことは残念でならない。

なぜか、日立電鉄に時間をかけすぎ、そこから予定が狂い、結局、茨城交通湊線と関東鉄道常総線は駆け足になってしまった。

その茨城交通湊線。
いまの「ひたちなか海浜鉄道」だ。

ネガには国鉄から譲渡されたキハ11の側面が写っていたが、まともな写真が出てこない。
時間がなく、ケハ601での阿字ヶ浦までの折り返し乗車が精一杯だったように思う。

601 そのケハ601・・阿字ヶ浦だろうか。
気動車では珍しいステンレスカーで、最初期の車両だ。
山陽2010編成と同じ時期の登場。

601_2 その車内。
リコ式釣手と照明器具が見える。
半室運転台、ロングシート・・なんとも不思議な車両ではある。

Photo_3 阿字ヶ浦の駅舎。
この撮影当時からすでに30年以上・・

今回の震災で大打撃を受けた鉄道だが、復旧へ向かって必死に努力をされていると聞く。
ぜひぜひ、復旧し、一日も早く活躍してほしい鉄道である。

駆け足で関東鉄道へ。
取手駅で撮影したものだけが唯一だ。
他にも撮影したものがあったはずだが、今回はとりあえず出てきたものだけ。

801 まずはキハ801・・常総鉄道の花形だった車両だ。
3両編成のうち、客扱いは前の2両のみで、この車両には荷物車という標記がサボ受けについていた。

902 キハ902。
正面から見るとまったく国鉄キハ35なのだが、側面はいかにも私鉄然としたデザインで、好感が持てる車両だ。

Photo_4 小田急の御殿場直通気動車がその前身。
キハ753形ではないかと思う。
番号不明。

優等車両を通勤型に改造した車両だが、ここには他に南海の「きのくに」キハ5500も4ドアに改造されて在籍していた。

Photo_5 その車両に連結されているのは小田急電車を改造したキクハ。
小田急からの中古車がこの地域に多いのはその軌間によるのだろうか。

このあと、龍ヶ崎線の気動車を眺めて確か千代田線直通で都内に戻ったと思う。
僕らがいつも定宿にしていたホテルは本郷辺りに2軒あり、その意味では千代田線直通は便利だったと思うが、その先はまったく覚えていない。
30年の時間は記憶を薄れさせてしまう。

2011年4月22日 (金)

鹿児島交通南薩線

正式には枕崎線と呼ぶそうだが、旧社名である南薩線という呼び方が定着していたように思うし、僕らもそう呼んでいた。
当時の日本最南端の私鉄であり、関西からは遠かったが、それでも3度ほど出かけたように記憶する。

ここを訪れるときはいつも夜行の「かいもん」で、九州へ発つときは前述のように「阿蘇」で出かけるのが常だったから都合二晩を夜行で過ごしていたことになる。
余談だが、一度だけ「まつかぜ」で九州入りしてその日の夜行「かいもん」に乗り継いだが、まつかぜの乗車は松江からで、やはりその前の晩に「だいせん」で大阪を出たことがある。

いずれにせよ、二泊してようやく到着できるのが鹿児島だった。
もちろん、当時から新幹線とL特急「有明」を乗り継げば十分日着出来るのではあったけれど。

301 初めて南薩線列車を見たのは伊集院ではなく西鹿児島で、長いホームの中央にぽつんと停車している社線キハの、赤い車体に紺の帯という強烈な色彩が印象的だった。
写真がその列車でキハ301。
時期的には昭和56~7年ごろだろうか。

さて、伊集院から全線乗車したのが1回、枕崎からが1回で、どちらが先だったかはもう忘れた。

伊集院よりにちょっとした鉄橋があって、その鉄橋の前後でそこを走る列車を捉える。

103 橋梁を渡るのはキハ103で、国鉄キハ07と同型だが僅かにデザインが違い、よく見ると客用ドアのステップ部分がない。
ドア下部に補助ステップらしきものがついているが、これがどう動いたか記憶にない。

102 こちらはキハ102。
カラーで見るとなんとも強烈な色彩で、南国に来たと言う実感がしたものだ。

303 キハ303が橋梁を渡る。
国鉄キハ10とほとんど同型だが、登場はこちらのほうが早かった由。
先に登場していたキハ17を両運転台にした設計で、もしかしたら国鉄キハ10はこれに影響されたか・・
ただし、エンジンは安価なバス用を使っているとのこと。

300 キハ300型で番号は不明だが海をバックに走る。
海の傍を走る路線だが意外に海は見えなかったような気がする。

Photo 加世田構内にはたくさんの廃車体が放置されていた。
機関車が有名だったけれど、ここでは気動車の廃車体を。
キハ4で戦前の地方鉄道でよく見られた単端式のガソリンカー。

66 加世田構内の写真をもう少し追記。

これはホユニ66という表記のある木造車の廃車体。

2 こちらはハフ2という表記の二軸客車。

Photo_2 こちらは錆で覆われた蒸気機関車群。

Photo_3 外観の写真が出てこないのだが、木造二重屋根の通勤客車の内部。

101 加世田ではもちろん、廃車体ばかりではなく生きている車両の写真も。

これはキニ101。

キハ101を荷物車に改造した車両。

Photo_4 そしてキハ302と番号不明100形。

昨今、廃止される鉄道線は、廃止前には哀れなほど乗客が少なくなっていることが多いが、この鉄道では廃止前年に訪れた際も、非常に多くの乗客で列車は賑わっていた。
国鉄なら快走するだろうキハ10タイプの車両は、エンジンの響きも重く、なんともゆっくりと進んでいたように覚えている。

同じキハ07タイプの車両があった片上鉄道では時速70キロでコンクリート枕木の線路を走っていたのだから、地方ローカル私鉄と一括りには出来ないと感じたことだ。

最も、今はどちらの鉄道も存在せず、現役当時の車両が保管されていることには共通点があるのかもしれない。

この鉄道沿線で、今も親交が続く熊本方面の鉄道研究家として知られるTeddoさんと出会ったのだが、お互いにすぐ近くで交通関係の仕事をしていることに不思議な縁も感じている。

2011年4月16日 (土)

昭和53年~60年頃、国鉄九州

僕が九州へ行くときの定番は急行「阿蘇」もしくは「雲仙・西海」だった。
最初に九州に行ったときは「阿蘇」で神戸を夜8時過ぎに出て、熊本には朝の9時過ぎに着いたように思う。

今の九州新幹線直通「みずほ」なら新神戸を同じように夜、20時13分に乗車すれば熊本にはその日のうち、23時ちょうどに到着するからまさに隔世の感がある。

けれども、時間を有効に使いたくて、しかも宿代を節約できる長距離急行列車は僕らのような貧乏鉄道ファンにはありがたい存在だった。

今の新幹線なら高額の特急券は必要だし、23時に目的地に着くと何がしかの宿には泊まらざるを得ない。
だからこそ、夜行列車は本当にありがたい存在だったのだが、旅行への価値観は変化し、たとえそれが高額な支出になろうとも、難儀な座席車での長距離夜行は姿を消したのだろう。

しかし、中途半端な簡易リクライニングシートの座席の作りさえ除けば、「阿蘇」などの14系座席車は乗り心地も良く、車内も静かで快適だった。
今の夜行バスなど足元にも及ばない。

さて、昭和53年から60年頃にかけての写真がいくつか出てきた。
国鉄内部の私鉄ファンという立場だった僕は国鉄の列車そのものを目的に九州に行くことはないが、私鉄探訪の足として当然国鉄を利用し、合間に僅かながら写真も撮影している。
非常に上手くない写真ばかりだけれど、写真の出来ではなく、思い出として見ていただきたい。

Photo まず、「阿蘇」が九州に入って鳥栖だったか・・追い抜かれたのが583系の「有明」、この当時は食堂車も営業していて、急行列車の中で菓子類を食うしかない僕らには羨ましく思えたものだ。

Ed76 大牟田でのED76による貨物列車。
交流電機のパンタグラフ・・なぜいつも前のほうを下ろしているのか・・鉄道ファンとしてはちょっと不服に感じたもの。

Ed76_2 同じくED76による12系列車。
団体列車だろうか・・今見れば12系もいいけれど、当時は絵にならない客車だと思ったものだ。

Photo_2 「みずほ」これも鳥栖だろうか。
当時の僕がブルートレインを撮影しているのは珍しい・・

401 停車している駅が不明だが、ごく初期の401系電車。
低運転台は153系クハを思わせ、高運転台タイプよりも親しみが湧くような気がする。

Photo_3 こちらは熊本駅か・・
471系の先頭車改造を施されたサロ改めクハが先頭に立っている。
当時の国鉄は先頭車改造にあってもオリジナルと同じデザインの顔をつけたものだ。
しかし、サロをクハに改造と言うのは・・80系電車と同じ傾向だったなと今になって思う。

Photo_4 博多駅だろうか、島原鉄道の気動車が急行「出島・弓張」の先頭に立っている。
キハ26タイプだけれど、すでに空気バネ台車を履いていたし、車内の作りも私鉄の香りがしたものだ。
クーラーもついていた。

Photo_5 長崎本線の支線扱いになっている「長与」線でキハ28による普通列車。
すばらしい景色のところで、たまたまここを通過したときにあまりの景色の良さに後日、再訪したものだ。

Photo_6 同じ場所で既出だが混色の一般気動車。
海の上を列車が走る・・

九州新幹線は最初こそ大震災が開業前日に起こると言う決して恵まれないスタートになったけれども、九州にとって新時代到来の息吹であることに変わりはない。
懐かしい列車名が新幹線の列車として帰っても来た。

Photo_7 もう一度「みずほ」のブルートレイン時代の写真・・
博多駅だろうか・・

Photo_8 そして開業数日後に撮影した西明石駅における「さくら」
微かな青系の車体デザインは、もしかしたらデザイナーに「ブルートレイン」のイメージを持っていた人が居たのかなと考えてみたり・・

追記:僕自身の「さくら」への思い出は拙小説サイトに書いています。

寝台特急「さくら」九州島内の記事ではありませんが・・

2011年4月 6日 (水)

熊本電鉄

九州新幹線がせっかく開通したのだから、ここでしばらく九州シリーズとしたい。

最初は熊本電鉄だ。

なお、熊本電鉄については親友であり、熊本地方の鉄道研究者の第一人者であるTeddoさんによる「You-enてっどのページ」のホームページに大変詳しく紹介されているので、是非そちらをごらんいただくとして、本ブログではあくまでも「思い出」の類のいつもの雰囲気で進めて行きたい。

熊本電鉄は実に僕がはじめて九州へ行ったときの最初の訪問先だった。
昭和53年頃だろうか、14系の夜行急行「あそ」で九州入りした僕たちは、終点の熊本まで行かず、ひとつ手前の上熊本でわざわざ下車した。

国鉄駅の脇、記憶にはなんとも古風な街中に小さな駅舎があったように思う。

71 待っていてくれたのは71号だったか。

広浜鉄道・・今の可部線の前身出身の電車だ。
かの広島原爆のときに可部線に在籍していたが、この電車は入場中で被爆はしていない由。

121 もしかしたら121号だったかもしれない。
と言うのは、熊本電鉄を非常に気に入った僕は、以後、何度も訪れて記憶が重なり曖昧になっている。
その121号。

関東の南武線の前身、南武鉄道出身の電車だ。

121_2 121号の車内。
なんとも古風なムードが漂う。

122 同型、122号を北熊本で。

北熊本には今も車庫があり、当時はお願いすると簡単に撮影許可をくれたものだ。

301 こちらは小田急創業時の栄えある電車。
小田急1型で、301号だ。
この電車は小田急に引き取られ、保存されている。

201_2 201号、北熊本。
こちらは東急出身で、昭和初期の川崎造船のごつい独特の風貌。
阪急や長野電鉄に同型があり、阪急のものは日本最初の量産全鋼製車両だった。

203 203号、泗水にて同じく200形。
なぜこの駅で下車したかは今もって不明である。

55 ハ52形・ハ55、菊池。
熊本電鉄1形がその前身らしい・・
どうもローカル鉄道の車両の経歴は複雑で、そこがまた面白いのではあるが・・

1 貨車、コ1。
工事用車両だろうか、架線工事が出来るやぐらがついている。

1_2 コ1の反対側、ヘッドライトがついている。
今で言えば保線用モーターカーというところか・・
小さな車体にボギー台車、国鉄なら「ワム」級の二軸貨車になっただろうなと思う。

3001  トラ3001。
木造の側構を持つ無蓋貨車だ。
こちらは普通の二軸貨車

Photo無番。
どこを探しても番号がなかった。
車掌台らしきものがついているので、緩急車だろうか・・ワフといったところか。
国鉄ワフに比すれば車掌代は狭く、手ブレーキ室だけのようで、後のスニ44のようだ。
やはり木造の有蓋貨車で、小さな車体にボギー台車をはいている。

503 503号。
藤崎宮前、静岡鉄道からやってきた近代的な香りのする電車で、昭和53年初訪問時はまだ改造工事中だった。
この電車就役当時の静岡鉄道は自社で電車を作れる会社で、この電車も静岡鉄道製。

504 504号。
同じくし静岡鉄道出身の近代的な電車、北熊本、これは熊本電鉄での就役直後の画像だと思う。

5101 5101号。
黒髪町の併用軌道を行く。
くどくど説明の必要のない、東急の名車、5000系で「かえる」の愛称で知られた電車だ。
両運転台に改造された車両で、こちらはオリジナル側。

5102 5102号。
黒髪町停車中。
新設運転台側で、切妻だが愛嬌のある顔立ち。

5102_2 5102号(たぶん)の車内。
僕は長野電鉄でも東急5000系に乗車しているが、熊本のものは化粧板なども東急のままではないかと思えた。
この車内の写真を見て懐かしい東急電車だと思える人は、少なくても僕と同等か、それ以上の世代ではなかろうか。

熊本電鉄は後に御代志から先を廃止してしまい、当時は末端区間廃止は鉄道そのものの廃止の前段階と捉えられたから、いよいよ熊電も・・と思ったものだ。
ところが、そこから近代化を推し進め、今や東京都営地下鉄の4ドア車が走り、始発駅も近代的に建て替わったと聞く。
藤崎宮の中途半端な位置関係はそのままで、どうしてもう少し、南へ併用軌道ででも線路を延ばして熊本市電と接続しないのか、当時から不思議だったけれど、今なお、生きながらえていることから察するに、今の形が存続にはちょうどよいのかもしれないとも思う。

それにしてもだ・・
僕は20年以上、九州、熊本に行くことが出来ていない。
是非にとも思うが、近々に行く目処も立たないのを、地元を通過するうす紫色の新幹線で思いを馳せるだけではある。

Photo_2 最後に無番電車。

70形らしい・・(Teddoさんのご教示により73号と判明)

ちょっと僕にはこの車両が70形であるという以外には判別つきかねる・・

歴史の長い地方私鉄は斯様に複雑で、通りすがりのファンごときがその全貌を知るのは不可能なのかもしれない。