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こう@電車おやじ

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2011年3月

2011年3月29日 (火)

寝台特急「日本海」に想う。

関西と東北を結ぶ列車としてはかつて、寝台特急「日本海」2往復、特急「白鳥」1往復に、急行「きたぐに」1往復があった。
関西では東北出身者はその割合は西日本各地出身者に比べると少ないらしいが、それでも、青森、秋田、山形出身者は相当な数に上るらしい。
これは以前、何かの本で読んだことがあるが、そのルートと言うのはまさに日本海縦貫線であり、これらの列車たちの影響が大きかったということだろうか。

しかし、今や昼行「白鳥」はなく、夜行の「きたぐに」も運転区間は新潟以南だ。
寝台特急「日本海」は走り続けてくれるが、僅かに1往復、何とか命脈を保っている状態だ。

この列車が今や、激甚災害の被災地、東北を関西と直結する唯一の直通列車で、関東と東北を結ぶ列車が3月末現在、いまだ運転されていないことから貴重な鉄路の足でもある。

僕の家系は東北に縁が深く、父方の親族は福島、宮城、栃木に散らばっていたらしい。
大昔の祖先は栃木に地盤を持ちながら、この方面で何かの仕事をしていたのだろうか。

今、父方の親族一組が僅かに福島に残るだけだが、それでも、僕にとってはかけがえのない、大事な血縁である。

さて、「日本海」は僕の人生のエポックメーキングなときに不思議に縁のあった列車だ。

鉄道学園を卒業するとき、国鉄を辞めて写真業に転身するとき・・思い起こせばなんともいえぬ気持ちをこの列車の車窓で味わったような気がする。

Photo 写真は倶利伽羅峠を行くEF81117牽引の「日本海」24系25形の列車で、この昭和55年頃当時、宮原運転所所属の編成だろうか。

Photo_2 そしてその列車の後姿。
オハネフ25は初期型だ。

懐かしい高砂工場担当の車両でもある。

当時、宮原区は北陸特急、向日町区は九州特急を担当していた。
宮原は先にすべての車両が汚物処理装置を組み込んでいたが、向日町は少し遅れたように記憶している。
宮原の場合、「きたぐに」の10系寝台車にも処理装置を取り付けていた。
北陸トンネルや湖西線の関係だろうか。

Ef81107 昨年、秋に撮影した上り「日本海」が大阪駅に入線する姿。
EF81107牽引の長い編成が3時間以上の遅れで入線した。

25 その客車たち。
これは高砂で担当していたオハネフ25の100番台、原型だ。
塗装は「北斗星」塗装になっている。

24 オハネ24の寒冷地改造車。
この改造は当初、北海道の寝台車を14系や24系車両に置き換える際に行われた。

24100 カニ24の100番台。
元々は西(南)側が電源車だったはずで、いつから反対向きになったか・・

Ef8144 さて、今度は今年の1月に新大阪駅で撮影したシーン。
トワイライトカラーのEF8144。

2410 そしてオハネ2410。
僕はどうしても機関車より客車に気持ちが惹かれてしまう癖がある。
この蒼い車体が夜の中に浮かぶとき、どうしようもなく旅情を掻き立てられてしまう。

さて、関東・東北地方の大震災以後、運行を再開した「日本海」
ここからは再開二日目の下り列車の姿。

Photo_10 EF81106が牽引する列車が入線する。
ピンクの機関車と蒼い客車の取り合わせの妙がいかにも北へ向かうブルートレインと感じるのは僕が関西人だからか。

Photo_4 客車が「サンダーバード」と並ぶ。
今や、速度差がありすぎて、同じ特急なのに道を譲る「日本海」は淡々とした長老のように感じる。

Photo_5 オハネフ2423ほか、客車の全景だ。
新装大阪駅の長距離列車代表として申し分ない貫禄だ。

Photo_6 編成中、唯一の優等車、オロネ244だが、なぜか表記が「ナロネ」になっていた。
表記文字の欠落か、それとも何か意味があるのか。

Photo_7 青森方の電源車、カニ2423。
この車両の存在がまさにこの列車の風格を上げているといったら言い過ぎだろうか。

Ef81106 大阪駅10番ホームに停車する列車の全景。
これぞまさしく長距離列車だ。
願わくば食堂車やラウンジ、座席車もほしいが。

Photo_8 列車が発車する。
機関車と電源車、優等車がゆっくり進む。

Photo_9 そして、たそがれの大阪の町へ蒼い客車が消えていく。

日本海よ・・
中越地震や日本海中部地震の被災地も見てきた苦労人の客車、機関車たちよ。

どうか、どうか、沿線の人たちの心に希望をともす存在であり続けてくれと、祈るような気持ちで見送った。

2011年3月17日 (木)

大災害が起きました。

東北地方、太平洋沖地震とその後の大津波、また原子力発電所の異常事態という大災害に遭われたすべての皆様に謹んでお見舞い申し上げます。

一日も早く復興の途につかれますことを心よりご祈念申し上げます。

そして、亡くなられたすべての方に謹んで哀悼の意をささげます。

大変なときです。

力をあわせて乗り切りましょう!

601 写真は現在も不通になっている「ひたちなか海浜鉄道」の昔の姿、茨城交通線ケハ601です。

どうか、鉄道網も震災前の姿に復活しますように。

2011年3月11日 (金)

野上電鉄日方車庫

昭和52年ごろのことだろうか。
まだ紀勢本線和歌山口にキハ35が走り、特急「くろしお」がキハ80であった時代だ。

僕たちは怖々というような気持ちで海南駅に降り立った。
そこまでは天王寺から今とは比すべくもない高速運転の「新快速」113系のペンキの匂いのするドア横サイドシートに座って和歌山へ、そしてこれまたうらぶれたキハ35が似合わぬ亜幹線ローカルに使われているその列車に乗ってやってきたのだ。

海南駅の母屋と反対側、跨線橋を渡るとそこに小さな駅があった。
この雰囲気は昨今では上郡駅の智頭急行乗換え口を思い起こしていただけると分かりやすいかもしれない。
もっとも、智頭急行は立派な幹線鉄道ではあるけれど・・

駅員さんが独り、改札口に立っておられた。
「どこまで?」
問われても行き先などなくただ単に「終点まで」と答えた。
切符を販売してもらっている間、僕らはすぐ傍に魅力的な電車が多数並んでいるのが気にかかって仕方がない。

「あの・・」
「はい?」
「電車の写真を撮らせてもらって良いですか?」
「ああ!いいですよ!電車が来ると危ないから、営業線には入らないでくださいね」

了解を得るのはあっという間だった。

僕たちは喜んで車庫のほうに向かう。

そこには、その頃とて到底都会では見ることのできない電車たちがたくさん休んでいた。
しかも、僕たちが見たかった阪急・阪神の車体の電車まである。
国鉄部内の私鉄ファンと言う奇妙な立場の僕たちにとってここはまるで天国に思えた。

国鉄海南駅の乗換え口は「連絡口」と言う駅で、車庫の向こうに見える始発駅は「日方」という。
国鉄紀勢線より歴史の長い鉄道であり、その誇りを駅の名前に見る気もする。

さて、そこに並んでいた車両たちだ。

23 まずは23号。
名誉ある阪急宝塚線1形の生き残りだ。
阪急1型は今も正雀で大切に保管されているけれども、当時はもう1両、こうして生きていたわけだ。
後に乗車した感じでは阪急の出自なのに窓がバランサー付ではないあたり、古さを感じたものだ。

25 25号。
車体の出自は阪神701形だ。
701型は急行用と普通用が分離する以前の形式で、阪神の初期鋼製車だった。
非貫通の正面は阪神の車両では風変わりな印象を受けた。

101 101号。
見ればすぐに分かる、阪神の普通列車用1101系がその前身。
幕板の明かり窓が阪神の旧性能車両完成形を示している。
この101は電装は解除されていたが、他に電動車もあった。

26 26号。
これも元阪神701形だ。
阪神の旧型車でも異端的な存在だった701形は、新性能化により売却されるのが早かったのかもしれない。

24101 24号。
101の脇を通過していくが、これは後にラッピングされてテレビCMに登場した電車だ。
その出自は阪神の初期鋼製車、371形→601形で、後の急行用800系の元になった電車でもある。
ただ、阪神に路面乗降場があった時代の名残でホイールベースが短く、車庫内の急カーブでは幌をはずさないといけなかった由。
もちろん、単行で走る野上電鉄ではそのような支障はない。

12 12号。
廃止された富山地方鉄道射水線の車両で、戦前製の車両を置き換える目的で導入された。
この頃はまだ、構内に留置されているだけの状態で、走っていなかったように思う。

Photo 無蓋貨車。
無番で、鉄骨が積まれていることから見ておそらくは資材置き場としてしか使われていなかったように見える。

なお、野上の車両のうち、元阪神601形の24号と写真の101と同形、電動車の32号は廃線後、阪神電鉄が引き取り、2両とも尼崎センタープール前駅西方の高架下に保管されている。
台車が狭軌用ではあるが、山陽電鉄から譲り受けた台車も保管されていて、塗装こそ阪神時代のマルーンに改められているけれど、見るにも金網の向こうでとても眺めることができない。
阪神にとって貴重な歴史の遺産であるこの2両がきちんとした形で公開されることを望む。

さて、このときの驚きはその後、僕らを何度も野上へ足を運ばせることになるのだけれど、それ以後についてはまた機会があれば書いて行きたいと思う。
野上電鉄は赤字決算が続き、いったん撤回した廃止だったけれども、近代化などの投資が遅れ、結局は会社解散と言う鉄道会社にとってあるまじき状態でこの世から姿を消した。
子会社は残っているものの、本体は清算されたわけだ。

末期には素人である僕らが見てもちょっと無理ではないかと思わせるような南海の大型車、1201系を水間電鉄から購入して、結局、それは使えないことが分かり放棄されるなど荒っぽい状態だったと思う。
ピンクとクリームの明るい色合いの田舎電車。
隣の南海貴志川線が必要な投資を行ったうえで、経営主体を代えて存続しているのを見ると、野上電鉄にもその可能性はあったかもしれないという思いはある。
結局は鉄道経営といっても「人」なのだ。

放置された台車の脇を特急「くろしお」がエンジンの響きも高らかに通過していく。

Photo_2