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2011年2月

2011年2月27日 (日)

片町線と学研都市線

関西でもっとも地味な国鉄線と言えば、特急どころか快速も走っていない、ロングシート電車ばかりの片町線だったことは疑う余地がないだろう。
けれども、その歴史は大変古く、1895年開業と言うからすでに116年の歴史を刻んでいることになる。

明治の私鉄の国有化によって国鉄路線のひとつとなった。

この路線は沿線に観光地はあれど地味であり、奈良と大阪を結ぶのは関西線や近鉄がメインであり、人口稠密地帯を走り抜けることから乗客は多いものの、地域に根ざした生活路線と言ったイメージが強い。

ただ、鉄道にとって人口稠密地帯を走る路線と言うのは重要路線であるわけで、戦前の電化工事も関西で最初に行われ、1932年、実に関西国電トップバッターとなった路線でもある。

僕が最初に目にした片町線は朱色の旧型電車ばかりの、しかも70系や80系と言った旧型電車でもちょっと優等列車的な車両はなく、ロクサン電車や電化開業時からのクモハ60などが老骨に鞭打って・・走っていた。

Photo 写真はクモハ60か・・片町線電化開業時からの車両だ。。
場所は京橋駅である。

7932 そして、京橋駅のクハ79056だけれども、これは京阪神の急行電車、2ドアの42系、クハ58を4ドアに改造した戦時対策の車両だ。

73 そして京橋駅に進入するクモハ73。
ロクサン電車の更新タイプだ。

片町線には昭和51年に遅まきながら新性能電車、大阪環状線を追われた101系が投入される。
投入されると、旧型電車の置き換えはあっという間で、僅か1年で一気に新性能101系ばかりになる。

101 これは鴫野駅だろうか・・
高架駅で客扱い中の101系電車。

1013 そして片町駅で並ぶ101系電車。

Photo_2 その片町駅の雰囲気。
当時の大阪には独立したターミナルがたくさんあった。

関西線の湊町、南海高野線汐見橋、少し前の時代まで存在していたのが新京阪の天神橋・・
片町線の駅もそれらに負けることない風格を備えていた。

さて、片町線の電化区間は当時は長尾までで、ここからさき、京都府内では単線、非電化、キハ10やキハ20、キハ35などが2連で一日に10数本と言う長閑さだった。
11 その長尾駅の気動車。
キハ11だ。
向かいのホームに101系の姿も見える。

Photo_3 そして祝園駅(たぶん)でのキハ11。

真横を近鉄電車が快走し、当時とてすっかり大都会の通勤電車といったイメージだったのに、片町線は時代から取り残されたような静かさの中にあった。
このあたりの雰囲気は山陽電車の真横で長閑さを発揮していた高砂線にも似ているのかもしれない。
いちど、近鉄の急行電車が脱線転覆し、片町線の線路を塞いだことがあった。
現場に迫っていた気動車は、事故現場の直前で停止して事なきを得たことだ。

その片町線はJR化後、アーバンネットワークの重要路線、しかも福知山線と並んで最も成長が見込める路線として脚光を浴びる。
大阪・京都の府境辺りの大規模開発、けいはんな学術研究都市の整備、大規模な大学の移転・・
この路線の近代化は一気に進む。

すでに103系の時代になってはいたが、全車両をJR西日本渾身の設計・新通勤電車207系に置き換え、さらに、大阪市内を東西に貫く「片福連絡線」の建設が進み、片町のターミナルは姿を消し、大阪都心、北新地へ乗り入れ、福知山線、東海道線との直通運転をする。

うらぶれた旧型電車や、他所でこき使われた中古車、それに京都府側で使われる古い気動車・・
その路線のイメージは大きく変わった。
路線途中にあったトンネルさえも大規模開発で山が削られて姿を消し、その場所には今、京阪電鉄が設置費用を負担した松井山手駅がある。

僕は先日、まさに20年以上ぶりにこの路線に乗車してその変貌ぶりに言葉を失った。
旧型電車がとろとろ各駅に停車して走った路線を、時速100キロ以上の快速電車が高頻度で疾走する。

いまや、誰もこの路線を正式名称である「片町線」とは呼ばず、「学研都市線」と呼ぶし、その雰囲気はまさにその名前のとおりの路線に変貌したと言うことだ。

Photo_4 写真はつい先日の長尾駅だ。
上の気動車の写真と比べると同じ駅とは思えない。

321 長尾駅に東から進入する321系電車。
キハ11の走っていた路線とはとても思えない。

207 そして掘割の中の松井山手駅に停車する207系電車。
この駅の利用者で、ここが山岳トンネルだったことを知る人はどれだけ居るだろう。

Photo_5 けれども、ほっとするのは、この路線の歴史の古さを感じさせる鉄道の建築物が今も残ることで、特にレンガの橋梁やごく短いトンネルには明治の息吹を感じさせてくれるものがある。
写真は321系電車の後尾から捉えたレンガの跨線橋。

関西随一の通勤線区でありながら、派手なところのほとんどない地味な路線ではあるが、その歴史と言い、そしてJRの中での重要さと言い、よく見ればきらりと光る路線でもある。
しかし、列車は今も線内全車両がロングシートで、大阪側におおさか東線から僅かに乗り入れてくる223系直通快速も、この12日の改正でロングシート車両に置き換わるそうだ。
これは、東西線でのホームドア設置のために全車両のドア位置をそろえる必要性からだそうで、だったら・・近鉄のような4ドアのクロスシートができてもいいなぁと・・思うのではあるけれど。。

11_3 記憶の彼方、幻とも思える旧型気動車の面影を追い求めてももはやそれはどこにも存在しない。

僕にはツリカケの旧型電車やキハ11やキハ20が懐かしい・・

2011年2月21日 (月)

昭和53,54年、阪急上牧あたり

阪急電車の高槻と上牧の間は、かつて、日本で唯一、私鉄電車の各駅停車が時速110キロで走ることのできる区間だった。
その上牧はこれまた、僕ら鉄道ファンのためにあるような駅で、ここでは阪急はもちろん、国鉄の在来線列車も少し足を運ぶだけで見ることのできる絶好のポイントだったし、駅の真横には新幹線が走っている。

東海道新幹線の一番最初の開業区間として知る人ぞ知るこの駅に通いつめたのは30年ほど前のことか。

今回は昭和53年、54年ごろの上牧をテーマに書いてみたい。

なお、ブログのカテゴリーは「私鉄の思い出」だが中身は国鉄私鉄が混在していることをご承知いただきたい。

まずは、上牧駅の家主たる阪急京都線列車だ。

Hk6353 何はともあれ、当時の6300系特急。
京阪間38分、十三と大宮の間はノンストップ30分時代、6300系はまさにその最高の活躍の場で輝いていた。
6353の梅田行き特急。

Hk6455 そして6455の河原町行き特急。

まだ、運転台直後の小窓がない時代だ。

Hk6455tec その6455の特急が新幹線列車と行きかう。

Hk2811_2 急行に格下げされた2811の急行。

Hk2327 そして2327の各駅停車。
2800系すでになく、6300系の定期運用特急もすでにない今、2300系は僅かとはいえ、現役なのはすごいことだと思う。

Tec000 阪急ホーム脇をまるで複々線であるかのように通過していく新幹線電車。
その当時は新幹線といえばこれしかなく、0系という呼び方は100系登場以後のものだ。

Jnrtc165 ポイントを国鉄側に移して・・まずは153系の急行「比叡」。
先頭車はクハ165だ。

Jnr153 そして153系、低運転台のクハを先頭にした新快速・・これは中間に湘南色のユニットを組み込んでいる。

Jnrtc165_2 こちらはクハ165が先頭の新快速。

Jnr117 117系の新快速も登場した頃だった。

新快速も京阪間ノンストップ、最高速度110キロながら今と同じく29分の時代だ。

まだ電車線走行である。

Jnr485 そして雷鳥・・まずは485系の貫通型。

Jnr485_2 そしてこちらはボンネット型。

7両目に食堂車、そのあとにグリーン車が2両、続くはずだ。

Jnr485_3 これは「雷鳥」中間車で、サロ2両とサシ。

特急列車が重厚な編成を保っていた頃。

Jnr583 同じく雷鳥の583系編成。

多分、明星あたりの間合い運用だったと思う。

Jnr1132000 快速は113系。

それも登場したばかりの2000番台。

Jnr103 忘れてならないのは普通電車も103系の時代だった。
冷房装置未装備の普通電車。

Photo 最後にEF58も登場。

これと同じ写真はもはや今では撮影できない。
線路脇の土手に上がることは不可能だし、上がったとしても鉄柵に覆われて撮影などできない。
線路際には住宅が立ち並び、ゆったりとした田園風景などほとんど望めない。

今から30年前、京阪間であってもこういうところがあったということだ。

しかし、架線柱の外側からで、望遠レンズを使っているとはいえ、今ではこういう線路に近接しての撮影は絶対禁止であるのはいうまでもない・・あくまでも遠い昔の遠い思い出でしかない・・そしてそれは幻であるかのように・・

2011年2月17日 (木)

先進の381系電車

国鉄は私鉄に比べると新技術の導入には慎重すぎるほどで、そういう意味ではいつも私鉄より一歩後を歩いているような気がする。
けれども、技術研究所を持って新技術の導入に余念のないはずの国鉄が新技術の導入に慎重にならざるを得ないのは、やはり、私鉄と比べるとはるかに過酷な自然条件、それに全国で運用することによる補修部品の共通化という観点から、それは止むを得なかったかもしれない。

それでもときに、目を見張るような新技術が颯爽と現れるときがある。

交直両用電車、1000キロ以上のロングランができる特急気動車、世界初の寝台電車、静かな夜行列車20系客車、そして新幹線・・

それらに匹敵するか、もしくはそれらよりも世間を驚かせたのが振り子型特急電車381系だ。

台車に車体を傾斜させるコロを装備し、カーブを高速で走ったときの遠心力を抑え、安全に、乗り心地良く、カーブの多い線区での高速運転を可能にした系列である。

ただ、すでに諸外国では振り子式車両は実用化されていたようで、僕が国鉄を振り子式車両の技術で褒めるのはこれは贔屓に見すぎなのだろうか。

国鉄は当初、東北線「ひばり」などへの投入を前提として交直両用機能を備え、より高速で運行するために連接式とした591系を試作・・
これは1969年のことだというが、この後、東北新幹線の建設が本決まりとなり、振り子車両の投入先の想定が事実上、変わってしまう。

さらに、今度は非電化区間の高速化のためにガスタービンを動力とした振り子気動車キハ391系を試作・・
これまた、あまりに激しい騒音とコストの高さから敬遠されてしまう。

そして1973年に登場したのは中央西線電化用の381系電車だ。
キハ181系で運用されていた「しなの」はこれで大幅にスピードアップを達成、4時間ほどかかっていた名古屋と長野の間は一気に3時間20分まで短縮される。

381 591系やキハ391系に比べると、デザインはずいぶんと大人しく、183系電車と同じ時期の登場とあって雰囲気も酷似している。
写真はその「しなの」を中仙道ハイクの途中で捉えたもの・・

381系に始めて乗車したとき、その速さと乗り心地のすさまじさ、そして国鉄特急としては異質の雰囲気に驚いたものだ。
カーテンの替わりに装備されたぺネシアンブラインドは、583系や電車、気動車の食堂車で馴染みのものとはいえ、車内にリクライニングシートが並び、それと合わせてなんとも私鉄のような雰囲気を感じた。

車両の屋根上には冷房装置などなく、ただ、パンタグラフがあるだけのシンプルなもので、その分、車内では気動車宜しくダクトが立ち上がっているのが特長だった。
もちろん、気動車の排気ダクトではなく、冷房用のダクトである。

一歩先を進む国鉄特急・・
485系とは明らかにその雰囲気を異にした意欲的な特急電車・・
これが僕がこの系列に最初に抱いたイメージだ。

さて、381系は紀勢本線の電化に際しても投入される。
キハ80系で運転されていた「くろしお」は381系に変更され、天王寺と白浜の間を2時間で結ぶ。

381_2 写真は岩代付近を通過する「くろしお」

この岩代駅は僕がずっとファンを続けている谷山浩子女史の「テングサの歌」の舞台になった駅で、その歌のイメージを知るために降りたようなものだった。
もっとも、当の歌は・・これはどちらかというとSF的な作品だ。(余談失礼)

381_3 その次に投入されたのが伯備線で、キハ181で運用されていた「やくも」を一気に381系に置き換えた。
写真は布原付近の「やくも」トンネル上からの俯瞰である。

伯備線のキハ181は、自分でも相当好きな列車で、食堂車もあり、なんともいえない重量感と落ち着いた乗り心地で何度もわざわざ乗車しに行ったものだが、この381系「やくも」には最初に乗ったときにあっけにとられ、以後は、その目的だけのためには乗車していない。
早いのは良いが、激しい乗り心地・・
同じ車両に乗車してきた年配の方々の団体さんが、列車が伯備線に入って急カーブの連続する区間を猛烈な速度で走破し始めると・・
気の毒に乗り物酔いを誘発され、ちょっとした騒ぎになったものだ。

実は381系には弱点があった。

制御できる振り子装置を持たないがゆえに、きちんと緩和曲線のあるカーブでこそ本来の乗り心地を発揮できるのだが、緩和曲線がないか、あってもそれが不十分なとき、列車の揺れは不自然さを増し、激しい乗り心地と言われることになってしまうのだ。

それが為、現在では振り子特急の定番ともいえるJR四国の気動車、電車やJR九州の電車などすべて制御付の振り子機能を持っているものとなっている。

381_4 しかし、381系の低重心車体と、屋根の上に何もないスマートなデザインは、写真の相手としては絵になる。
これは橋梁を渡る姿を俯瞰したもの。

181 重厚感溢れるキハ181と比べると、軽快で近代的なイメージはまさに対照的だ。

381_5 こちらは線路付近に下りて河原から撮影・・
非貫通型で決して流線型ではないのだが、速そうに見える列車だ。

けれど、良く考えれば、僕の居た高砂工場ではその気動車部門の主力、キハ181やキハ80をこの振り子電車によってなくす結果となったわけで、これは別の言い方をすれば、僕の職場を奪った張本人がこの381系なのかもしれない。

もっとも、それが時代の流れであることは否定できないが。

さて、その381系だが、今現在、原型に近い姿を見ることができる。
阪和線の通勤ライナー「はんわライナー」と関西線(大和路線)のやはり通勤ライナー「やまとじライナー」だ。
381_6 写真は「はんわライナー」

編成をくねらせて入線する姿はいかにも振り子電車らしい。

381_7 そして「やまとじライナー」

今の大和路線を運行する唯一の有料優等列車だ。

通勤客には絶大な支持を得ているこの二つの列車だが、あと少しで廃止されてしまう運命だ。
車両の老朽化とのことだが、車両は少し塗装こそくたびれているものの、十分美しく、廃車するにはもったいないほどだ。

もとより、381系はその軽量化のために、当時としては意欲的なアルミ車体を採用していて、車体そのものはめったに腐食しないはずで、手入れによってはまだ走れるのにと・・思ってしまう。

381_8 さて、新車投入も決まっている「くろしお」だが、これが今の姿。
環状線芦原橋で車体を傾けて走る。

381_9 そして和歌山で新大阪へ向かうその後姿・・
パノラマグリーン車が連結されている。

381_10 こちらは今の「やくも」
庭瀬付近で。。

381_11 その「やくも」のパノラマグリーン車を横から撮影してみた。

屋根の上に余分なものがないので、やはりスマートに見える。

同じ時期の国鉄車両、オリジナル183系電車の姿もすでに定期列車ではなく、485系もまもなく西日本から消え、キハ181系は引退し、14系座席車はすでに原型は営業列車としては存在せず・・
381_12 こと、西日本に関してはこの381系と先だって取り上げた583系が最後の国鉄特急型の砦となってしまっただけに・・
もう少し走ってもらいたいと思うのではあるけれど、JR西日本の新型特急電車各系列はいずれも低重心設計で、技術の進歩により381系なみの高速運転が可能であると聞く。
それを生かして新車287系を紀勢線に投入後、381系の一部は福知山、山陰線に投入して287系で不足する運用を埋めるようだ。

そうすると、福知山、山陰線と伯備線がこの系列の最後の職場になるのかもしれない。
ちょうど、気動車特急群がそうであったように・・・

2011年2月 7日 (月)

京阪電鉄・初代3000系

京阪特急といえば、パノラミックウィンドウのテレビ付3000系。
僕らの世代ではこれがイメージだろう。

前にも取り上げたが、今回は先日の8030系(初代3000系)乗車時に撮影した画像も含めて改めて取り上げたいと思う。

阪神間や神姫間には国鉄こそ117系やその前の153系を運用していたけれども、僕らが青春時代、阪急・阪神・山陽の私鉄各社はいずれも、優秀な車両ではあってもロングシートだった。
これに比べ、京阪間では阪急・京阪のいずれも阪急は最初2800系、そして名車6300系で、京阪は清潔感溢れる3000系を特急として使っていて、そのグレードは阪神間の比ではなかった。

これが僕がこの方面の私鉄電車を格別な存在として認識するその要因なのだ。

阪急2800系はその格下げ直前に数度、乗車しただけで、僕にとっては京阪間といえば阪急6300系と京阪3000系のいずれも劣らぬ優秀な電車が疾走する夢のような区間であったわけだ。

ただ、神戸から線路がつながっていて乗り換えのしやすい阪急京都線に比べると、淀屋橋か京橋まで出る必要がある京阪は、京都へ行くために乗るには使いにくい電車でもある。
その使いにくさを、それでも押して無理にでも使おうとする魅力的な電車こそ京阪の3000系(初代)だったわけだ。

この特急に始めて乗車したのは小学生のころ、祖母に連れられて京都、東山にある祖父の墓に参った時だと記憶している。
夏の行楽シーズンの列車は非常に混雑していて、快適そうなクロスシートに座ることはできなかったが、普段、南海で見かけている11001系のクロスシートを立派にしたような上品なつくりは子供心にしっかりと刻み込まれた。

実はこのころが京阪3000系のデビューの時期だったのである。

自らカメラを持ち、撮影に出かけるようになった僕は最初に大阪・京都の私鉄を訪問し、そのときに最初の訪問先のひとつとして選んだのが京阪であり、お目当てはもちろん、3000系特急だった。

阪急6300系はその後に登場するし、名鉄7000系の実物を見たのは少し後でもあるから、南海11001系(後の1001系)と並んで、僕が最初に惚れた電車が京阪3000系であることは間違いがない。

京阪3000系に親近感を覚えるのは、窓の配置や形状などが山陽2000系のクロスシート編成と似ているというのもあるのかもしれない。

その京阪3000系・・
清潔感溢れる車内となんとも穏やかな、それでいて如何にも特急列車にふさわしいそのイメージをじっくり見ていただこう。

3000 最初は京都の鴨川沿いを走る京阪特急だ。
鴨川の河原には染物だろうか・・布が干されている。
撮影は市電が走っていたころだから昭和51年ごろか。

3005 同じく鴨川を走る姿。
地下化工事がずいぶん進展したころ。

30002200 そして2200系と並んだ姿。

3505 地上時代の三条駅の3505・・この車両は今も8581として健在である。

3000_2 当時の3000系車内。
この車両はMcだが、Tcには運転室乗務員ドアの直上にテレビが設けられていた。
座席は国鉄グリーン車の段折モケット。
カーテンは京染めといわれる紺色の雅やかなものだった。

3000_6 運転台。

当時、レバー式のマスコン、ブレーキハンドルは珍しかった。

1805 ついでに三条駅の一番西側に停車しているのが1800系。
3000系の2世代前の特急車だが車体中央に両開きのドアをつけられている。

3014 淀・八幡市間における3000系特急。
住宅地が密集する京阪沿線では唯一のほっとする空間だ。

3000_3 その3000系に太陽が直射する。
2ドアでしかも車体側面のRが美しい3000系はどこを撮影しても絵になる。

1910 これもついでだが正月の特急増発に使われた1900系。
この編成は1810系からの編入車。
クラシカルな外観がかえってそのステータスを物語る気がする。

3012 樟葉での特急。
このころはまだ、このあたりでもこういう撮影ができた。

3000_4 その樟葉で3000系のパンタグラフ・・
車窓からは淀川が見え、目を凝らすと新幹線や阪急の姿も・・

3055  唯一残された編成にダブルデッカーを組み込んで8000系以上のステータスを持って人気があった頃の3000系特急。
西三荘だったか。
こちらは大阪寄り。

3505_2 こちらは京都寄りの様子。

3805そのダブルデッカーの姿。
時代祭りのイラストはいまやこの編成にしか残されていない。

80302 ダブルデッカーの車内。
これは先日の乗車時にに撮影したもの。
京阪直営でこの仕事を成し遂げたというから驚きである。

3000_5 8030系に改名されてからの姿。
複々線を行く。

先日、この電車に乗車したくて京阪電車を訪れた。
運用はほかの8000系と共通であり、しかも編成は1本。
乗車できるかどうかはまさに運次第だが、幸い、数本の列車を見た後でこの編成の通過を確認、この列車を追って北浜から出町柳まで、そして出町柳で折り返し丹波橋まで乗車することができたのは幸運だった。
JRが京阪と協力して出してくれた関西1DAYパスのおかげで、こういう乗車ができたのだ。

8030 その現在の姿。
車内の様子。
座席は変更、化粧板も全面的に張り替えられて8000系に合わせられているが、窓が2段窓、天井の雰囲気、そしてドア横の補助席など3000系の面影は十分だ。

8531 丹波橋を出る現在の8030系・・
僕はこの8030という系列名がどうもピンと来ない。
この、優雅きわまる電車の名前はまさに3000系でなければならぬと思うのだが、どうして京阪が快速急行用の新車にわざわざ3000系という名称を持ってきたのか・・

この3000という数字を持つ車両が培った栄光の歴史を、新車にも期待してのことだろうか。

6300 阪急6300系が今も2編成だけ残り、うちトップナンバー1編成は、季節の臨時列車に使われる事実上の動態保存と化している今、京阪初代3000系もできれば永く残って、乗客やファンに愛されてほしいと願うけれども、どうもその先は不安でならない。
今春、京阪では減便を中心としたダイヤ改正を予定していると聞く。

Photo 出町柳でのダブルデッカーの側面。

8531_2 中ノ島新線の失敗が経営全体に大きく影響しているのだろうが、ほかの8000系とは異なり、この車両、8030系には通勤対応などの工事は予定されていない。
このあたり、僕が不安に感じるその要因ではあるのだけれど。

いずれにせよ、富山地方鉄道、大井川鉄道に行った仲間とともに、できるだけ末永く、その姿をとどめておいてほしい電車である。

2011年2月 2日 (水)

青函連絡船

前に北海道のエントリーでも触れたけれど、改めて青函連絡船を取り上げてみたいと思う。

僕ら世代にとって北海道=青函連絡船だった。
今のように航空機は一般的な乗り物ではなく、混雑する列車から船へと乗り継ぐのが北海道旅行のまず第一歩だ。
このあたりの感覚の違いで世代が分かれるのかもしれない。

「上野発の夜行列車降りたときから、青森駅は雪の中」
説明するまでもなく、これは僕も大好きな石川さゆりの名曲「津軽海峡冬景色」だけれど、僕にとっては青函連絡船に乗船するのは、これは深夜か早朝で、残念ながら雪の青森駅を見たことはないし、上野発の夜行列車を利用することもなかった訳だけれど、時間帯が限られることから写真は最後の乗船、国鉄改革直後の6月、北海道への一人旅でできたのが唯一ということになる。

それも、このときの旅行では、帰路はわざわざ日中の船便を選び、グリーン船室や食堂も利用して僕なりにお別れをしたつもりだ。

Photo その前夜、函館港での十和田丸。
桟橋近くのバラックのような居酒屋で、とろけるようなイカの刺身を肴に、大いに日本酒を飲んだ後、僕はこの桟橋で出港間際のこの船を見ていた。

僕は神戸・大阪の港の生まれ育ちだ。
亡父は、最初は理容職人だったけれど、家族を養うために港湾の仕事に転職、そして、最後まで港に関わって生きていた。

僕はだから、子供の頃から船や港というものは常に身近にあり、そういった意味では函館港の港独特の雰囲気も、身体に自然に馴染むような気がしたものだ。

当時、僕は無職だった。
鉄道を休職、一年を経て正式に退職した、
その直後の旅行がこの北海道旅行だった。

これと決めた写真の仕事でその端緒についたものの、そこから先の深い場所へ行く道がわからず、すべてを振り切って無職になってしまった。
さる専門書の書店の社長さんに誘っていただき、二日間、そこで試しに仕事をしたものの、まったく自分に合わないような気がして、早々に辞職願いを出し、その夜、大阪駅から583系電車の「きたぐに」に乗車・・
羽越線あたりでふらふらしながら、北海道へやってきたのだった。

Photo_2 桟橋で待っていると、やがて、十和田丸が出港する。
感度400のトライXで、レンズの開放値は2.0・・
ギリギリの条件で撮影した一枚だ。
条件がギリギリすぎてレンズの内面反射である「ハロ」が出ている。

写真の出来はともかく、十和田丸の出港シーンには感動した。
力強く、しかも強烈な余韻をあたりに残していく。
海面には眩いばかりの光を反射させ、巨大な船はゆっくりと沖合いへと去っていく。

僕は・・なにか、生きる意志のようなものをもらったように感じた。

翌日、日中の連絡船(八甲田丸だったか)に乗船、無職の身でありながらグリーン券を奮発し、食堂へも行った。
鉄道ではありえない、ゆったりとしたリクライニングシート、静かに流れる海の景色。

そして食堂で食べた名物、海峡ラーメンの味わい・・

デッキで、航路の船も撮影した。

Photo_3 きらめく初夏の光の中、檜山丸の特徴的な姿・・
連絡線が衰退した時期に貨物船から改造されたこの船は、ほかの貨客船に比べるとキャビン部分が随分小ぶりな印象を受けた。

もはや、青函連絡船が北海道と本州を結ぶメインルートではなくなったその寂しさがこの形に出ていると思えるのだ。

Photo_4 そして、遠くを行く摩周丸。

あれから20年余り、僕は写真の仕事で一応は生計を維持して来た。
だが、その写真もまたかつての連絡船のように時代から取り残されていく。
まだまだ需要がないわけではないが、僕は生きるために生計をほかへ求めることにした。

理髪職人から港湾、鉄鋼の仕事へ移った・・かつての親父を、自分の中に見るような気もする。

ところで、青函連絡船で活躍した船たちのその後だが、摩周丸、八甲田丸、羊蹄丸が今も函館、青森、東京で保存されているのはうれしい限りだが、ほかの船はどうも、時代の波に飲まれてしまった感がある。
写真に写っていた十和田丸はフィリピンでホテルシップとして使われた後、バングラデシュで解体。

檜山丸はインドネシアで火災により沈没・・
他にも北朝鮮でろくに使われず、その使命を終えたり、スエズ運河で火災を起こして解体されたり、台湾や韓国で解体されたりと・・
その運命には同情を禁じえないものもある。

青函トンネルができなければ鉄道輸送はその物流での存在価値をなくしただろうし、国鉄がたとえ存続していたとしても青函連絡船は早晩その使命を終えたわけで、そういう意味では時代の流れといえるかもしれないが、自動車航送に関しては、今も青函にはフェリーが活躍していて、こういう形で残すことはできなかったのだろうかという思いもある。

そうなればそうなったで、今度はフェリー会社との無用な競争をしなければならず、やはりその使命を終えたものは歴史の彼方へ消え去っていくのが、最も良い花道なのだろうかと・・
自分に置き換えても、そう感じてしまう。

ただ、先だっての東北新幹線・新青森開業は、青函という僕のイメージを多分大きく変えただろうなと思いつつ、そこを再訪できるのは、そして八甲田丸や摩周丸に会えるのはいつになるだろうか・・