フォトアルバム

プロフィール

フォトアルバム

こう@電車おやじ

小説サイトSTORY http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story/ 鉄道掲示板 http://6551.teacup.com/kouzou/bbs プロhttp://pr.cgiboy.com/02653710/フィール

« 485系への賛歌 | メイン | 583系電車賛歌 »

2011年1月 8日 (土)

地上時代の山陽電車板宿駅。

久々の私鉄ネタは地元の山陽電車。
板宿駅の地上時代の写真がいくつか出てきたので見ていただこうと思う。

板宿駅は現在では特急も停車する駅だが、かつては利用客がほかの駅に比して抜きん出て多いのに、特急の停車しない駅だった。
神戸市電の終点でもあり、須磨区と長田区の境目にある地元の商店街というよりは、副都心に近い場所といえようか。

僕が写真を撮影し始めたころはすでに神戸市電の姿はなく、それでも、駅前はここを始発とするバス路線もあって、商店街はにぎやかで、しかも周囲に高等学校が多く立地していて、いつも人でにぎわっていた。

僕はこの板宿駅と東須磨駅のちょうど中間地点の交通至便な土地に7年も生活していたし、国鉄工作一科寮は鷹取工場の北側にあって、鷹取駅よりは板宿駅を近く感じたものだ。

Photo さて、その板宿駅である。

商店街のど真ん中に位置しているというよりも、かつての板宿村の入り口に兵庫電気軌道の駅ができ、その駅を中心として町が広がり栄えていったといえるだろうか。
駅の北側、母屋と改札。
右側が「山陽そば」だった。

特急の停車しない駅なのに唯一、定期券発売駅になっていた。
山陽電車の特急は停車しないが、阪急・阪神の特急が毎時それぞれ3本停車し、不便は感じなかった。

6111 その阪急電車。
新製まもない6000系6111が商店街をバックに大阪方面へ走っていく。
この撮影当時は休日ダイヤでは阪急はすべて普通電車の乗り入れだったと思う。

2010板宿駅東側の踏切から。
山陽電車の「虎の子」的存在だった2000系のステンレス2ドア車が駅に向かう。

Photo_2 板宿駅の下り側改札口。
上り側に比して下り側は質素なつくりだった。

Photo_3 下りホームから見た上りホームの様子。
いつも人で溢れかえる駅で、その狭隘さの故、余計に人の多さを感じさせた。
西代の山陽本社へ通勤する幹部社員の方々が、ラッシュ時に詰め込み係を勤めてから本社に通っていたのも懐かしい。

5012 登場したばかりの5000系による阪急六甲行き特急。
この5000系登場のころには特急停車駅になっていた。

僕が板宿駅を通勤で使い、阪急六甲の写真スタジオへ通い始めたその1週間ほどあとのダイヤ改正で特急が停車するようになった。
運のよさを実感し、そこから片道20分の通勤を7年続けたわけだが、最初はロングシート車でも乗り切れない大勢の乗客で電車はいつも遅れていた。

それが5000系6連を投入、すると混雑は一気にマシになり、しかも、板宿駅で非常に多くの高校生が下車、その後に乗車するものだからいつもクロスシートにゆったり座って快適な通勤ができたものだ。

まもなく阪神淡路大震災のあの日を迎えるけれども、あの時、あの日、板宿駅は営業を停止して、地上の駅舎はそれ以来、二度と使われることはなかった。
山陽電鉄は建設中で開通間近だった地下新線の工事を最優先し、板宿駅も震災の数ヶ月後にその新線でひっそりと営業を再開した。

ちょうど、上記の写真、2011号の写っているあたりで、3000系4連が放置されていたけれども、それをどのようにして収容したのか、僕には知る由もない。

今の板宿駅は立派な地下駅で、地上の線路跡も立派な道路になり、ここに電車が走っていたとは到底思えないのだけれど、あの震災も最小限の被害で乗り切った板宿駅周辺の商店街は今も活気付いている。
そういえば、僕がこの町で最初の独立に失敗したのも今となっては懐かしい思い出でもある。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blog.eonet.jp/t/trackback/351371/25728282

地上時代の山陽電車板宿駅。を参照しているブログ:

コメント

板宿駅の震災絡みの逸話は、関東者の私は知らぬ事でした。
近鉄名古屋線の伊勢湾台風水害からの標準軌での復旧とも一脈通じますね。
話が山陽から外れますが、車輌の被害が甚大であった阪神に、当時代替廃車となる京急1000形を応急的に回す事も検討されたと聞いています。案として出されただけか、どれほど検討されたか迄は存じませんが。
結局、比較的余裕のあった川重のステンレス車のラインで9000系を急遽新造する事で落ち着きました。
私も車体長の違い等がネックかと思っていましたが、今ぢゃもっと違う近鉄車が走る始末。やはり、保守や部品がネックだったのでしょう。
梅田や須磨浦公園表示の1000形を見たかった気も…。

今は、垂水に居住する40歳代の者です。板宿駅懐かしー、子供の頃まだ、板宿から市電にも乗った記憶があります。駅北のダイエーが旧の店舗であったり、商店街も、現在のダイエーのところから斜めに曲がっていたことなど当時の古き良き板宿が思い出されます。

あづまもぐらさん>

その板宿駅の地下線は本来開業するはずの4月に開業できず、5月にずれ込んでの開業でした。
新線の地下区間でも被害があったようです。
京急1000型の応援は本当に検討されたのですが、阪神という会社が車両は自社のものであることを前提に、廃車と見積もられた車両をかなり復旧でき、新造も廃車車両の部品を使うことで納期を短縮、そして地元川重の協力もあり中古車の必要性がなくなったようです。

山陽電車の場合は5000系2本と3050系1本が地下に取り残され、これで全線復旧まで神戸高速線の輸送を担当していました。

しかし、京急1000型の阪神線・山陽線みたかったですね。

せきさん>

僕が最初に板宿付近に住んだのは市電廃止から4年後でした。
市電を使った人がうらやましいです。

今のダイエーが道を塞ぐようにしてできたのはびっくりしました。

懐かしいですね。山陽沿線から東山への帰り道、わざわざ板宿駅から歩いて、五位ノ池からのバスに乗り換えたりしていました。幹線道路が未整備で、件の五位ノ池からのバスは、板宿駅を目前にして駅前へ乗り入れできず、或いは商店街のアーケードをくぐり抜ける大型の路線バスも有りました。
その板宿周辺も、山陽の立体化の完成を最後に立派な道路網が完成したようです。ただあれほど賑やかさの感じられた駅は、乗降客は増えているらしいのに、何か普通の地下駅に感じられます。
でも板宿の街は相変わらず兵庫区以西の飲食業者の仕入れのみならず、一般客にもこだわりの品が買える穴場として頼りになる存在です。
ところで、京急1000形見たかった!同感です。阪神以上に片開き扉にこだわっていたのではないでしょうか?阪神、山陽の沿線風景によく馴染んだのではないかと思います。 以上

坂本賢介さん>

板宿・・不思議な存在感のある町ですね。
垂水、湊川、春日野道、水道筋と並んで、神戸の重要な商店街のひとつだと思います。

京急1000型・・本当に見たかったですね。
あの凄い加速は阪神にもきっと似合ったでしょうね。

はじめまして最近このサイトを知り興味深く拝見させていただいております。わたくしはこの板宿の生まれで駅前にある診療所の息子として育ちました。現在は遠く金沢に住んでおりますが両親はいまだ板宿にすんでおリます。
しかし地上時代の板宿駅は本当に懐かしい限りです。思えば小学校から高校まで電車通学でこの駅を利用し、金沢の大学にいるときに震災に遭遇しそのまま駅は無くなってしまいました。わたくしの幼少期からの鉄道好きの原点となった駅でもあり、非常に懐かしく拝見させていただきました。ありがとうございました。

あすとろさん>

こんにちは!
ようこそいらっしゃいました!

おなじ風景を心象風景として持っておられる方の書き込みは非常にうれしいです。
今後ともよろしくお願いします。

生まれ故郷 板宿です。
今は愛知県にいます。
地上駅 懐かしいですね。
東須磨に行くほどホームが狭くて。、
下りのホームの東須磨寄りのホーム端にトイレがあったと思います。
上りの駅出たところでたい焼きも売っていたと思います。

ebisuさん>

いらっしゃいませ!
ホーム端にトイレありましたね。
鯛焼きは今も元の場所近くで売っています。
そばもありますよ。

板宿に30年以上住んでいる地元民です。地上時代の板宿駅、懐かしいですね~。今でも夢に出てきたりしています。

板宿駅の地下化ですが、実際には4月予定より早まって3月24日に開業しています。但し、当時は板宿~須磨寺(後に須磨→須磨浦公園へ延伸)の部分開通で、しかも下り線のみを使用した単線運転でした。

6月になって塩屋駅の仮復旧により板宿~姫路間が開通、その3日後に高速長田まで延伸(ここでやっと西代地下駅が開業)だったと思います。

わずか3日しかなかった板宿折り返しの姫路行き特急、東須磨で上下交換していた姿、今でも忘れられません。姫路駅などの発車標で「特急 板宿」が表示されていたのかどうかは知る由もありません

(高速長田延伸時は「普通 西代」「特急 高速長田」で表示。滝の茶屋折り返し時は「特急 霞ヶ丘」で表示されていた)

CEマサさん>

いらっしゃいませ。
僕は今から20年前まで。7年間、板宿近辺に住んでいました。
あの頃の板宿は本当に便利な町でした。
板宿駅の地下工事、板宿だけは確かに早く開業していましたね。
記憶が曖昧になりつつあると実感するこのごろです。
教えていただき、思い出し、ありがとうございました。

初めて投稿します。いつも楽しく拝見させていただいています。
さて、私は今度山陽電車を紹介する動画を作りたいと思っています。その際、懐かしの画像として、あなたのサイトの画像を引用しようと思います。できれば許可を願いたいのですが、よろしいでしょうか?

鶴林Gさん>

こんばんは。
拙サイトのものは特に指定されていない限り、ほかで使っていただいてもかまいませんが、条件があります。
このブログの出典である事をきちんと明記していただくこと、それだけです。

とても懐かしい写真です。このような写真が残っていたのですね。私は前池町に昭和50年まで住んでいました。子供の頃いつも父親と一緒に電車を見たのは北側の上り方面踏み切りの左側にあった製材所?のところでした。踏み切りを上げ下げする係りの人がいて帰宅ラッシュの混雑時間帯は上り方面の普通電車が駅に到着するとわずかな停車時間の間でも一旦踏み切りを上げて通行させた後、上手に踏み切りを下げるという光景も見られました。中学生の頃は塾の帰りによく山陽そばを食べたものです。板宿本通り商店街の本屋さん、お寿司屋さん、文房具屋さん・・・みんな板宿小学校のクラス仲間でした。 みんなどうしているかなぁ。平成8年の夏にそんな懐かしい板宿駅を尋ねて行ったら高速長田から地上に出るはずの電車が西代→板宿と地下駅になってしまいがっかりしたものです。山陽電車の木造造りのオンボロ電車が懐かしいです。阪急、阪神もカッコよかったけれど、あのクシャクシャっとした顔の山陽電車、えらくノッペリとした顔の電車、個性があって好きでした。しばしタイムスリップしてあの頃に戻った次第です。ありがとうございました。

始めまして。貴重な映像ありがとうございます。須磨に来て数年。震災時の写真を見ていて板宿商店街の入り口に踏み切りを発見し驚きました。そしてこの投稿にたどり着きました。今やそこに線路があったなんて予想だにしませんでした。ところで震災前はどこから地下に潜っていたのでしょうか。

高岡俊和さん>

ありがとうございます。
板宿におられたのですね。

板宿は震災と山陽の地下化で激変してしまいましたね。
ただ、北側の商店街は震災以前の都市計画でかなり変貌し、震災ではさほど大きな被害は出なかったように記憶しています。

あの頃の山陽そば・・今に比すとずいぶん化学調味料の味がしたものだと思いますが、それでも常日頃、よく食べに行ったものです。


せいさん>

今回、西代駅の様子をアップさせていただきました。
今の中央幹線高架橋はもともとが山陽電鉄との立体交差で、線路は中央幹線の南側、今、バス停があるあたりから地下に潜っていました。

ご返事、また西代の写真ありがとうございました。
震災後しか知らない私には驚きしかありません。東須磨の北側の道路が途中から急に広くなるのも、西代より神戸側にちょっと広い場所があるのもそんな理由なんですね。震災直後に地上駅を放棄し地下の工事を急いだ山陽電車(株)の判断に敬服しました。もう一つ質問ですが、板宿駅前から川沿に北に行く県道と山陽電車の交差は踏切だったのですか?それとも高架になっていたのですが?

せいさん>

板宿から川沿いに北へ行く県道・・
当時は線路の部分には道路はなく、道路は繋がっていませんでした。
ですので、バスもくねくねと商店街の中を走っていました。

ありがとうございました。
震災から大きく変わったんですね。

せいさん>

震災は僕らの中の神戸のイメージを根こそぎ壊していきました・・
今後とも宜しくお願いいたします。

trainなつかしいですねぇ。

文化さん>

ありがとうございます。

別府鉄の映像からこのページに来ました。
小学生まで隣の東須磨に居ましたので、とても懐かしかったです。
幼稚園前児にはあの駅怖かったです。
駅がカーブに有ったので、車体とホームの間が広く、
特に北側はバンク角の性で、おかんに手を握って貰い「えいっ!」と飛んでたのを思い出します。
実際、あの間に人が落ちたニュースが有ったような気がします。
今は地下駅でもう無いのが寂しいですねぇ。

mashさん>

こんにちは。
板宿駅のカーブ、本当にすごかったですね。
大人でもはまり込みそうな幅が開いていました。
阪急の車両はさらに車体幅が狭いのでその隙間が…
こんなことも今では良い思い出ですね。

コメントを投稿