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こう@電車おやじ

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2010年11月

2010年11月19日 (金)

高架前の山陽電鉄「電鉄明石駅」

山陽電鉄の明石駅付近が高架になったのは平成3年だから、すでに20年近く昔のことになる。

こういった、昔のことでもごく最近のことであったように感じるのは僕がそれだけ年を取ってきたからか。

さて、先月に小型のキャビン製簡易型フィルムスキャナーを購入した。
これまで、古い写真は友人の店のプリンターでネガやポジから焼き上げて、それをスキャンしていたのだけれど、この簡易型スキャナーのおかげで自宅でネガ、ポジ、それにスライドマウントからも容易にデジタル化できるようになった。

そこで、このスキャナーを使って古いポジを眺めていたら、山陽電車の明石駅の写真が出てきた。
高架化直前に、そのためにだけコダクロームを使うという贅沢な?写真で、ややコントラストは高いものの、色調は今も十分見られる状態に保たれていて、せっかくだからこれを見ていただこうと思う。

なお、山陽電車については、こちらもご覧いただければと思う、

Photo 電鉄明石駅正面・・踏切側か、国鉄に面したほうかどちらが正面か判然としないデザインだけれども、見た感じでは踏切側だろうか。
駅のすぐ横に明石の中心商店街である銀座通りに続く幹線道路があり、これの踏切が存在していた。

Photo_2 国鉄側である。
自転車置き場をはさんで先に高架化された国鉄改札へ続いていた。
この頃、多くの乗り換え客がここを通っていたのだけれど、もちろん、青空の下で、雨天や寒い季節には難儀した乗換えだ。

Photo_3 北側の通路から見る。
駅舎脇には「山陽そば」の店もある。
「山陽そば」は、現在の高架駅にもあって、盛業中だが、この当時は改札内外から入店できた。
もちろん、店内には改札内外を分ける仕切りはしてあったけれども、非常に便利なつくりだった。
肝心のそばやうどんは、今のほうがずいぶん美味しくなっていると思う。

Photo_4 駅舎をホーム側から見る。
駅と歩道の間に段差はなく、ホームへ上がるには緩やかなスロープ。
なんともバリアフリーな駅だった。
エレベーターやエスカレーターが必要な最新の駅に比べるとなんと安上がりにバリアフリーであったことか。

Photo_5 駅舎脇の信号所の建物。
山陽電鉄はATSの設置は非常に早く、阪急・阪神とともに神戸高速開業時に「連続誘導式」という今のATS-Pに匹敵する性能を持ったものを設置していたが、それでも、当時は明石だけではなく、須磨や飾磨、姫路などこういった信号所があった。

Photo_7 ホームを線路から見る。
東側から見たホームで、南側、海側から1番線、2面4線の緩急接続タイプだ。
上下線の間隔は意外に広く、電車の写真撮影にはもってこいだった。

3 3番線の上屋。
なんとも古風なホーム上屋である。
しかも、駅設備が比較的大きいために見ごたえがある。
平成の世になってからもこういったものが残っていたことはまさに奇跡ではないだろうか。

Photo_8 2番線の上屋。
この柱の作り、古典的な木造建築物を思わせ、こうして見るとこれはもしかしたら文化財になりえたのではないかとさえ思えてくる。

3608 到着する特急電車。
当時、すでに数少なくなっていた旧塗装の3608、先頭車は3004号のはずだ。
個人的にはこの塗装のほうが都会的で落ち着いているし、3000系車両には似合っていると思う。

この駅舎を作ったのは神姫電鉄で、ここからさき、湊川まで高速タイプの線路を敷くその中間点だったようだ。
けれども、世界恐慌、戦争があり、当時はライバル的存在だった神姫電鉄と兵庫電軌が宇治川電気の元に統合され、結果的にこの位置で両者の線路をつないだのが山陽電鉄の成立だとされている。

明石の都心部に存在していた開かずの踏切と共に、この駅は高架化され、駅名も「電鉄明石」というローカルなものから「山陽明石」へとスマートになり、そして、高架化によって踏切の制約がなくなったことから特急列車の6連運転が始まった。
それは、その後の阪神との直通運転につながっていくのだけれど、残念ながら山陽電車の乗客数はその頃に比べると激減の様相だ。
もっとも、最近は積極的な営業戦略の結果。、下げ止まっているらしいが、明石駅が地上だったころのあの凄まじいばかりの賑わいよ・・今一度と願ってやまない。

2010年11月 5日 (金)

キハ181系特急「はまかぜ」惜別!

いよいよ、キハ181系気動車特急「はまかぜ」の運転が終了し、11月7日から新型キハ189系による運行となる。
キハ181は、僕の中では偉大なキハ80の後継車ではあるけれど、その偉大さの陰に隠れて、華やかな印象をあまり持てない系列でもあった。

だけれど、僕が接した時間・・いやいや、気動車特急としての寿命の長さも言えば、それはキハ80をはるかに凌駕し、21世紀も10年以上を経た今日まで走り続けてくれたのだから、現場や利用者にとってはキハ80以上の名車になっているはずだ。

82 キハ80時代の「はまかぜ」の写真を2点。
ひとつは新装成った宝殿駅を通過するシーン。

Photo もうひとつは、雨の中、確か入梅の日だったと思う・・山陰線東浜付近を通過するシーン。

考えればこれで僕が高砂工場にいたころに業務で触れていた、見ていた車両が山陽線神戸口から消えてしまったわけで、それを思うと時の流れを実感してしまう。
「はまかぜ」に限らず、キハ181系はいつも近くにいてくれた国鉄特急車両だった。
一時的に夜行列車を除けば山陽線神戸口では「はまかぜ」しか特急列車が存在しない時期もあり、「はまかぜ」は憧れというにはちょっと気恥ずかしいような、慎ましやかな特急だった。

登場時、食堂車もない特急なんてと、陰口をたたかれはしたが、僚友だった急行「但馬」が消え去ってしまってから、兵庫県内、県都と但馬方面を結ぶ唯一の優等列車として走り続けてくれている。
「はまかぜ」は最大でも7連で、普段は4~6連、運行本数も片道2本、後に3本・・
但馬と神戸を結ぶと言いながら、それでもこれだけの輸送量で事足りて、今に至るまでまことに慎ましやかな列車だ。

それでも、国鉄の特甲線であり、日本を代表する大幹線である大阪と姫路の間の東海道山陽線を、その性能を目いっぱいに使って走ってくれたのだから、気動車特急としては願ってもない舞台で活躍してくれたように思う。

キハ181が高砂工場担当になったのは、「やくも」が381系電車に変わり、その余剰車で「あさしお」「まつかぜ」「はまかぜ」を老朽化著しかったキハ80から置き換えたときだ。
僕は高砂工場では客車上回り組に所属していたから、気動車に直接の関係はなかったが、それでも工事が立て込んできたりすると、動車組との間で応援のやりとりもあり、そういうときにまれに触ることができた。
客車組はすでに14系、12系などの客車で当時の新系列車両の作業には慣れていたが、動車組にとって初めての新系列でもある。

当初は戸惑いもあったようで、181系転属と聞いて、高砂工場スタッフが最も心配したのが食堂車の作業だった。
ぺネシアンブラインドの保守を最も心配していたのだ。
これは後に食堂車は移籍せず廃車となる旨通知があって、「な~~んだ」となったものだ。

さて、キハ181系はキハ80を駆逐し、山陰方面3特急で活躍。
置き換え当時の「まつかぜ」武田尾付近での撮影だ。
Photo_21枚目は雪の武田尾駅を通過するシーン。

Photo_3 2枚目はススキの河原を見ながらゆっくり過ぎていくシーン。
当時は増結用の先頭車があって、時にはこういった不思議な編成もあった。
この場合、キハ181にはトイレがないものだから、トイレのない車両が2両続くといったサービス上問題のあることもあった。

Photo_4 「はまかぜ」の宝殿での様子。
これも先頭車を増結している。

181 冬の餘部橋梁を通過する特急。
列車名は不明だが、同じネガに「はまかぜ」「まつかぜ」はあるので「あさしお」か。

福知山線電化で「まつかぜ」が消えた。
山陰線京都口電化で「あさしお」が消えた。
一時的に新規開業した智頭急行線へ乗り入れる「はくと」ができたが、それは「スーパーはくと」に比べあまりにもサービス上も、その速度も差がありすぎて不評であり、すぐに智頭急行線の振子式気動車が増備され、短命に終わった。

唯一残った「はまかぜ」は走り続けた。
最高速度120キロ、181系気動車の持てる性能を発揮できる最高の職場に恵まれ、沿線の利用者やファンに愛されながら走り続けてくれた。

Photo_5 JRになってからの須磨海岸での撮影である。

しかし、同じ路線を走る新快速のスピードアップがなされ、130キロ運転となると、181系の性能では通過駅がいくぶん、新快速より多くてもどうしてもダイヤの足を引っ張ってしまう。
智頭急行線の「スーパーはくと」は元々最高速度130キロで、加速も国鉄エンジンとは違いすばらしく、新快速に引け目をとらぬばかりか、新快速より早く走ってしまう。

この状況下で21世紀も10年以上を経た今まで、181系気動車が走り続けてくれたことは奇跡に値するかもしれない。

18026 それも、車両内外は大変美しく整備され、特急車両としてまったく違和感のない状況を保ってくれたこと、素直にJR関係各位に感謝したい。

3 11月3日、最後に「はまかぜ」に乗車してお別れを告げてこようと、僕は姫路へ向かった。
まず、舞子駅で「はまかぜ3号」の雄姿を撮影。

轟音とともに通過していくが6連に編成され、特急列車らしさが少し戻ったように思えた。

4 姫路駅から大阪駅まで「はまかぜ4号」に乗車、これが僕にできる精一杯のお別れ乗車だ。
姫路駅播但線ホームに入線する姿。

自由席5号車、キハ180-26、17D席に自分の居場所を決める。
見事に磨かれた窓、清掃の行き届いた車内は清潔感が漂い、発車してまもなくの車内放送は慇懃で丁寧、加速はキハ181特有のゆっくりしたもので、こういった場面にも国鉄らしさを感じてしまう。

走り出した「はまかぜ」の車内を眺め、車窓を眺めるうちに、この車両に出会ってからの自分の来た道が思い起こされてならない。
カーテン溝の3ミリのネジ、天井板を飾り面を使わずに合わすその工夫、アルミ製の仕切り扉、単純で評判の悪かったロール式のカーテン、無骨なカバーに収められた蛍光灯・・
この車両が消えることで僕の地元から「乗れる国鉄」が消えてしまう。
それは僕という人間が、人生の青年期をもはや過ぎ、これより老境にいたるであろうその現実や、この車両とともに思い起こされる国鉄時代の先輩、上司、友人、あるいは沿線でことあるごとにこの車両の通過を一緒に見ていた友人たち・・
通過する御着や、ひめじ別所(もちろん、この駅のできた場所は田んぼのど真ん中だった時代)では亡き父親との思い出、父の亡くなったその日のことが思い返され、もう35年も前のことなのにと、思うが涙が湧き出てくる。

宝殿は僕が少年期を過ごした場所でもある。
今まさに通過する踏み切りで命を絶った僕らのアイドルの姿まで思い起こされる・・

なぜか、死生観までも呼び起こし、特急列車「はまかぜ」はそれこそ滑るように沿線を通過していく。

キハ80には及ばないものの、柔らかくソフトな乗り心地は、まさに国鉄気動車の粋といってもよいもので、僕は何にも邪魔されず、「はまかぜ」の車内で暮れゆく秋の空を眺める。

明石に停車し、快速電車と同時刻に発車。
加速はまったく比べ物にならず、快速はあっという間に走り去ってしまう。

丘の上から明石海峡・播磨灘の絶景、僕が生き、仕事をしている朝霧・舞子の景色もまた格別なものに思える。
特急列車というものは、実にさまざまな思いを乗せて走るものなのかもしれない。

鉄道ファンと思しき人たちが数人、車内を歩くほかはいたって静かな雰囲気である。

夕闇迫る神戸の町並み、自分の青春すべてをこの列車が振り返らせてくれるような気もする。
仕事も、遊びも、恋愛も、友情もすべてがこの窓の向こうに流れていく。

「はまかぜ」は僕の青春の走馬灯か。

夜の帳が下りた大阪駅に到着。
盛んにフラッシュがたかれ、窓の外は人でいっぱいだ。

鉄道ファンはもとより、若い女性やサラリーマン風の男性も携帯電話のレンズをこの車両に向けている。
「ありがとう・・キハ181・・ありがとう、国鉄」
万感の思いが湧き出し、僕はお祭りのようなホームで「はまかぜ」の回送発車を見送った。

Photo_6 後二日で五十路を向かえる人生の分岐点で彼、「キハ181系」との別れを告げることができた僕は幸せなのかもしれない。