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2010年10月

2010年10月22日 (金)

姫新線の写真

姫新線は地元でありながら、姫路駅以外の場所ではあまり撮影していない。
僕が国鉄在籍当時から気動車ばかりの路線であり、それも急行列車が3往復ある以外は全て普通列車で地味な路線に思えたからかもしれない。

その姫新線・・急行列車も平成の世になって廃止され、本当に地味な路線になってしまった感がある。

それでも、古いフィルムを見ていたらこの前のエントリーに書いた別府鉄道と同じネガから姫新線列車の写真がいくらか出てきた。
撮影は昭和58年1月。

なぜ姫新線に撮影に行ったか・・
それは多分、姫新線が本命の目的ではなく、かつて沿線に存在していた「播電電鉄」の跡地を探してみるその時に、動く列車の撮影がしたくて揖保川の橋梁で撮影したものではないかと思う。
播電電鉄の跡地探訪では確かに田んぼの中に続く軌道敷らしきものや道端に放置されているホームの土台のようなものは見つけることが出来たが、それがそうであるという確証は持てぬまま、やはり廃止年代の古い鉄道の探訪は難しいと実感したのだった。

さて、そのときに撮影した姫新線列車だ。
Photo まずは上りの普通列車。
キハ40系列4連による列車で、今はなかなかこういった長編成のローカル列車を見ることが出来ない。
この頃は姫新線も結構本数が多く、佐用あたりでも毎時1本くらいはあったのではないか。

Photo_2 そして急行列車。
「みささ・みまさか」キハ58系列の長大編成だ。
当時は大阪や神戸と鳥取を結ぶ最短経路が姫新線だった。
最も、戦時突貫工事で作られた路線だけに線路規格が低く、スピードがあまり出ないのが難点だった。

この急行列車と普通、それに芸備線急行を乗り継いで広島へ行ったこともある。
僕がまだ、いろいろな意味で広島通いをしていた頃だ。

同じようなルートながら、後日、新大阪から三次で乗り継ぐ形で広島まで高速バスを利用したこともある。
高速バスは速くて便利で快適。
それでも、旅の疲れは、これは僕が鉄道ファンだからか・・列車のほうがはるかに少なかったように思う。

高速バスの台頭・・
それもJR系列のバスも含めた大攻勢は姫新線急行の存在意義を大きく低下させてしまった。
姫新線急行はさしたるスピードアップも行われず、凋落の一途をたどり、平成に入って廃止。
このあとは智頭急行の開業まで数年間、佐用や智頭あたりから大阪を結ぶ優等列車は存在しなくなってしまった。

そして智頭急行の開業。
画期的な新線は大阪・神戸・姫路と鳥取・倉吉を結ぶ幹線に成長したが、姫新線が陰陽連絡線として果たす使命を完全に奪い去ってしまった。
以後、静かで穏やかな、乗客の大半は高校生とお年寄りという典型的なローカル線として過ごしている。

その姫新線の南半分が高速化された。
軌道は改良され、保安設備も充実、新型の転換クロス気動車も大量に投入された。
これら工事はJRと沿線自治体の共同によってなされ、いわばJRの形をしているが姫新線は第三セクターに近い存在になったということか。

Photo_3 先日の山陰方面への日帰り旅行の帰路、本当に20年以上ぶりに姫新線に乗車した。
東津山からはJRの軽快気動車キハ120で、かつて急行が走ったとは思えないこの路線の凋落振りを感じながら、しみじみ乗車。
Photo_4 そして佐用からの新型気動車の走る区間ではその電車並みの加速や、乗り心地、アコモデーションに感嘆し、そして改築された駅の様子に驚きながら姫路まで乗車した。

願わくば、この新型気動車でせめて津山までの快速列車でも日に数本、運転してくれたら・・
そう思うのではあるけれど。

2010年10月21日 (木)

別府鉄道のデラックス?編成

古いネガから使えそうなのを探すのはこういったブログをしている以上、当たり前のことなのだけれど、それでも時として自分でも忘れているようなコマを見つけてニヤリとなることもある。
今回のものはまさにそんな数コマなのだが、どうも撮影当日のお天気があまり芳しくなかったようで、露出が良くなく、それでもPhotoshopで加工して見られるようになった3枚だ。

このブログのサイドバーにはブログ内でのウェブページへのリンクが入れてあり、別府鉄道はその中に(別府鉄道の物語)として入っているのだけれど、ページを作ったときには漏れていたものだ。

別府鉄道土山線。
場所は土山線の撮影名所であった鳥居のところ。
今で言えば大中遺跡公園の近くだ。

そこへ走ってきたのいつものDB201牽引の混合列車で貨車を10両ほど、その貨車の前に連結されているのが2両の客車だ。
当時、土山線にはハフ5、ハフ7の2両の客車があったから、これは土山線客車の全てということになる。

この2両が一緒につながれている姿をこの後は別府鉄道最終日の、あの雪の中でだけだっし、そのときはもう貨車は連結されていなかったから、この写真に写っているのは当時の別府鉄道としては非常にデラックスな混合列車ということになる。

撮影日は昭和58年1月8日。

2 1枚目は土山方向からやってきた列車の全景。
この列車を見たとき、僕の胸は高鳴ったのだろうか・・
全く覚えていないが、このネガを見つけた僕の胸は高鳴っている。。

25 2枚目はハフ5のアップ。
ハフ7は緩急車代用としても使いやすかったらしく、多くの写真が残っているが、ハフ5の走行中の写真は、地元に住んでいた僕にとっても珍しい。

2_2 3枚目は鳥居の前を通過して別府港方面へ向かう列車。
この鳥居がまた不思議な存在で、田んぼの中にぽつんと屹立していた。

冬枯れの播州平野を駈け抜けてと言うよりは・・多分、騒音を撒き散らしながら、ゆっくりと歩くかのように去っていったのだろう27年前の情景・・
加古川の、発展した今の景色からは想像も出来ない情景ではある。

2010年10月 6日 (水)

昭和52年12月、多度津にて。

国鉄の関西鉄道学園工作一科には多度津工場で採用された仲間も12名いた。
友人たちの帰省先である香川県、多度津へ行くことも多く、そのときに目にした四国の鉄道は派手ではないものの、鉄道本来の魅力に満ちていた。

De10 今回はそのうち、昭和52年(1977年)12月の朝、多度津駅周辺での写真をご覧いただこうと思う。

最初は多度津操車場の俯瞰から・・機関車はDE10か。
ただ、当時の僕のカメラはオリンパス35EDというコンパクトカメラで、f2.8のレンズがついてはいたものの、プログラム露出オンリーで、しかも、当時のカラーフィルムはASA100しかなく、僅か時速80キロ程度の列車の撮影でもブレが出てしまっており、決して良い写真ではないが当時の思い出の1コマとして、軽い気持ちでご覧いただければ幸いだ。

なお、既出のカットもあるが、ご承知いただきたい。

Df501 多度津機関区でのDF50トップナンバー。

Df508 貨物列車牽引のDF508

Df504 客車列車牽引のDF504
予讃線の客車列車も長編成だった。

Photo 客車列車の次位にはオハフ61か。
当時すでに関西ではなかなか見ることのできなかった客車だ。

Photo_2 DF50(番号不明)の下り客車列車。
茶色と青色の客車が混成されている。

Photo_3 やはりDF50(ナンバー不明)による上り客車列車。
次位にはスハフ43が見える。

44 そのスハフ43。
多分、今、大井川でナショナルトラストによって保存されているクルマだろう。

Photo_4 急行列車「うわじま」

Photo_5 やはり急行列車「いよ」

当時の四国国鉄は急行列車花盛りで、短編成、高頻度でキハ28・58・65による急行列車が走り回っていた。
今の特急に比してもさほど遅くはなかったように思う。

Photo_6 当時は2系統それぞれ3往復しかなかった特急列車「南風」
多度津・高松間はノンストップだった。

20 キハ20一党ばかりで編成された普通気動車。
混成で使われることの多い系列だが、こうして統一された長編成を見ると、その美しさに惚れ惚れしてしまう。
画面のススキはご愛嬌。。

多度津付近は当時から都市化も進んでいて、列車の頻度も高く、駅周辺での田んぼでの撮影は、そこを走る列車ばかりではなく、その風景そのものが既に貴重なものだったのかもしれない。
過日、ここを電車で通過したとき、僕が撮影したその場所すら分からなかった。
まさに青春は遠くなりにけり・・だ。

26 さてこのときと時期は違うが、多度津駅でのキハ26増結車が先頭に立った「あしずり」
今の2000系振り子気動車の特急を思うと隔世の感がある。

派手ではなかったが、きちんと手入れされた車両も美しく、何を撮影しても絵になった四国総局の誇りは、国鉄の良い例として今も僕の思い出の中にある。