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こう@電車おやじ

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2010年9月

2010年9月22日 (水)

甘木の半円形電車・・西鉄200形

206 半円形の正面デザインを持つ電車といえば、南海の黎明期、それに阪神の急行用小型車、大軌(今の近鉄奈良線)の開業時の電車など、関西の大手がこぞって制作したもので、それは大出力の高速用電車やロマンスカーなどの少し前の時代、明治、大正から昭和初期にかけての流行であったのだろうかと思う。

国鉄に目を転じれば機械式気動車キハ07一党がそれにあたるだろうか。

流線型というには車両正面が垂直に立ち上がっていて、半流線型というにはやや正面のRが大きいというか、ほぼ完全な半円形になっているのが特徴だ。

昭和も50年代になって、戦前の遺物のようなこの形態の電車がたくさん走っている路線があった。

九州・西日本鉄道の甘木線だ。

2003 もっとも、甘木線の電車たちは製造が比較的新しく、昭和12年ということだから、関西での半円形電車の流行よりは一歩、二歩遅れての登場だったのだろう。
この電車たちは200形と称し、かつて、本線の大牟田線で普通列車用に開発された小型軽量、高加速のシリーズだ。

僕は半円形電車には少なからず興味を持っていて、阪神881形のほろを付けた長編成の写真を見て、このような電車をぜひ見てみたいと思ったものだ。
阪神の半円形電車は、当時は野上鉄道に行った601形が残っていて、その雰囲気を味わうことができたのだけれど、野上の電車は基本的に単行運転で、連結して走るその姿を満喫できるわけではない。

西鉄を紹介した雑誌に、甘木線の半円形電車、200形の写真があるのを見て、3連、4連で走るその姿をぜひ、実際に見てみたいと思っていた。

218 その甘木線には昭和55年ごろ、訪問することができ、特徴的なこの路線の電車を味わった。
そして、それはその後何度も九州を訪問するたびに甘木を訪問するという、すっかりこの電車に惚れこんでしまったという結果となった。

日中の甘木線はほとんどが2連、もしくは3連で、僕らはラッシュ時に訪問できなかったから4連を見たことはなかったように思う。

阪神881形と異なり、正面に幌はなかったけれども、半円形電車が3両も繋がって走る姿を眺めるのは本当に楽しいものだった。

200 それに、西鉄は本線系の電車に比べて、この200形を大切にしているようで、内装は木目も美しく整備され、中にはドア幅を広げ、内装を磨きなおした更新車もあって、それぞれに個性豊かな電車が、短いホイールベースゆえにガチャガチャと忙しなく、けれど、乗り心地は案外良く、電車ファンの醍醐味ここにありといった感じで、そういう意味では東の岐阜、揖斐線電車と双璧をなす存在だったかもしれない。

62 中には気動車を改造したクハもあり、これまた楽しい車両で個性豊かなこの路線にさらに一味を加えていたように思う。

622 平行する国鉄甘木線がまさに風前の灯だったその当時、甘木から福岡に出るには甘木線で津福か久留米へ出てここから西鉄大牟田線という行程が、地元の人たちの常識だったのだろうか。

その点はほかにバスもあるかも知れず、僕らにはわからない。

2003_2 でも、甘木線はいつもたくさんの人を乗せてガチャガチャ走っていた。

国鉄甘木線がまさかの奇跡的な復活劇を遂げ、甘木鉄道に変身し、その運行本数でも西鉄と並んだそのころ、僕らは西鉄甘木線の乗客が減らないか心配していた。

ただ、甘木鉄道開業のころ、実際に西鉄と乗り比べてみたけれど、さほど西鉄の乗客が減ったという印象はなかった。

213 はその後、写真業界に転身し、九州へはそれ以来、行くこともない状態だが、あの200形が平成の世にも生き続けたこと、心底感動する。
平成も数年を経て、甘木線の改良工事が成り、本線の600形が入るようになるという話は聞いたけれど、だからといっても甘木へ行くことなどはできそうもなかった。

だから、甘木線200形は、僕にとってはあのころのまま、心の中でガチャガチャ走っているのだ。

2010年9月16日 (木)

北陸線の格下げ近郊型電車3兄弟

Photo 先だっての転クロ2ドア3兄弟の続きではないが、今回は北陸線で今も走る近郊型3兄弟の話題。

国鉄はその末期に、いったんは客車列車の近代化と称して50系客車を導入し、それを広めていったわけだが、客車では短編成、頻発運行の電車形ダイヤを実現するのが難しい。
機関車はその購入にも維持運用にも多大なコストが必要であり、その後ろに繋がる客車の編成を少なくしてもコストの大幅な減少には繋がりにくい。
電車だと、編成両数を減ずれば自然に電動車の数も少なくなり、大幅なコストダウンが可能で、だからこそ、頻発ダイヤにするには電車化が必要になってくる。

で、すでに相当数の電車が導入されていた山陽本線とは異なり、北陸本線を時代にあった電車形ダイヤにするには相当数の電車を用意して、客車に代えなければならない。

ところが、国鉄末期、その資金は限られ、満足な地方都市型の近郊電車を用意できない。
やっとのことで、417系を仙台地区に投入したものの、新車の莫大なコストをかけられるほど当時の国鉄には資金力がなかったということか・・

Photo_2 そこで、417系の車体をそのまま、そこに廃車となる471系・473系の台車、機器類を合わせた「車体更新車」413系の登場となる。
別に恥ずかしいことではなく、民鉄にはたくさん存在する事例だ。
立派な車体にツリカケ駆動の小田急4000系、京阪700系などそのよい例だ。

しかし、国鉄の財政事情は逼迫し、そういう車体更新車すら用意できかねる。
しかも、地方都市で始めた「シティトレイン」「タウン電車」の類は好評だし、所要時間短縮効果もあり、各地での実現が待たれる。

Photo_3 この状況にいたって、国鉄が用意したのが特急・急行型電車を格下げ改造して、なるべくラッシュにも使えるようにした「格下げ改造近郊電車」419系の登場となる。
急行電車の改造ならまだいい・・
乗降口付近を小改造すれば多少無理はあってもラッシュに対応できなくはない。

特急電車を改造・・
だれでも危うい企画だと思ってしまう。
しかもその原資が寝台特急なのだ。

僕は最初、それでもナハ21のように広々とした大陸的な内装の電車ができるのではないかと期待もしていた。
完成した581系改め419系を見たとき、唖然としたものだ。

およそ近郊電車とは思えぬ幅の狭い折り戸の乗降口。
Photo_8 そして中に入って、寝台の舟がそのまま頭の上に残る客室、小さな窓に無理にはめ込んだ小さな2段窓。
洗面台にふたをしただけの改造とはいえぬ処理。(これは後に改善されている車両もある)

Photo_9 417系、いやいや、413系の代車に、いかにも間に合わせで改造された近郊型電車419系はある意味では当時の国鉄の内部事情を恥ずかしげもなくさらけ出した傑作となってしまった。
Photo_10 しかし、考えれば、これでもオハ35などの旧型客車よりははるかに安全で、冷暖房完備の快適な通勤通学が可能になるわけで、よくぞここまで考えたものだと呆れもし、感心もしたものだ。

当時の581系の車齢は15年余りというところか。
捨てるには忍びなく、こうして少し役に立ってくれたら・・
当時の担当者の思いが聞こえるかのようだ。

この手の電車は間に合わせのはずだ。
それでもずいぶん長生きをして、JR各社に引き継がれ・・
このタイプの車両で交流型を引き継いだJR九州と東日本のものはさすがに姿を消したが、西日本のものは今も生き続ける。

こうなると、すでに本来の寝台特急として走ったその期間より長く、ローカル輸送に徹してかつての同僚だった485系あたりに抜かれながら走り続けるそのいじらしさに感動も覚えるというもの。
もとより、さほど「ゲテモノ」的な車両はそのプライドから作らなかった国鉄が、プライドを捨ててそれでも地域輸送のために用意した電車・・419系・・

今の時代に見られるのは奇跡かもしれない。

Photo_4 そして、おとなしく見える急行型電車。
その最後の砦が北陸線でもある。
直流急行型や気動車の急行型がほとんど姿を消した今、交直流475系はまるで最初から近郊型として生まれたかのように、地道に地域輸送に徹している。
車内に目をやると、今も一部車両には洗面所も残り、幅広の座席は健在。
Photo_5 Photo_6 それでも、国鉄が格下げ使用を始めた頃には残っていた客室仕切りは撤去され、よく見れば座席の間のあの国鉄型テーブルも消えているし、2段窓は下段が固定され、そのつくりも変わり、内張りは国鉄急行型のシンボルだった薄茶色からクリーム色に、座席の色も蒼から赤に変わっている。

Photo_7 だが、やはりこの車両は由緒正しき急行電車の生き残りなのだ。
走り出すと仕切りが撤去された分、やや騒音が大きい気がするが、それでもDT32のあの軽快な乗り心地が存分に味わえる。

Photo_11 先日の北陸鈍行日帰り旅行で475系に乗車、大聖寺でしみじみと眺めた。
Photo_13 やはり、美しい電車であることに変わりはなく、非常に個性的な419系と合わせ、この方面の旅行が楽しみでもある。

Photo_14 そして、国鉄がなんとか車体だけは新製したのが413系。
Photo_15 今、北陸新幹線開業後の第三セクター以降後の経営安定のために、この方面には関西で使っている223系をそのまま交直両用にした521系の投入が始められていて、今や北陸線敦賀方面では大半の列車がこれに変わっているようだが、その521系投入後も413系は残すと聞いたこともある。

ということは北陸線最後の国鉄型はこの車両になるのだろうか。
この系列も急行電車格下げ車両だが、車体が新しい分、さすがに急行型には見えず、安定感がある。

Photo_12 新幹線開業という、新しい時代を目前にする北陸線にあって、広大な田園風景や、海岸線、山岳区間を快走する国鉄格下げ近郊電車3兄弟。
できるだけ、長く走ってくれよと祈りながら・・

2010年9月 4日 (土)

下津井電鉄

僕がようやく鉄道の写真を撮影できるようになったころ、日本のナローはその終焉の時期、それもすでに末期に入っていた。
そんな中で、関西から比較的近く、しかも比較的近代化されていた下津井電鉄は僕らの格好の趣味の対象になってくれた。

Photo_3 最初に訪れたのは昭和52年ごろか。
茶屋町まで宇野線電車で行き、そこからバスに乗車したが、茶屋町駅のバス停は鉄道の駅の風情がそのまま残されていた。
バスは鉄道代替とも思えぬ小型バスで、ようやく毎時1本程度、そこから軽い峠を越えて児島を目指す。

この茶屋町と児島の区間こそ、下津井電鉄のいわば本線に当たる区間だった。
自社の路線バスで児島と岡山を直結できるようになり、結果的に本線区間が寂れたというわけだ。

Photo_4 時折、沿道に鉄道の跡らしきものを見ながら、バスは児島に着いた。
児島では駐車場の隅のような、わかりにくい場所に簡単な駅が作ってあった。
これが下津井電鉄の残された区間へアプローチする入り口というわけだ。

ホームで待っていると入線してきたのは、当時としては近代的な湘南マスクの電車。
モハ103とクハ24の2連だ。
車内も美しく、電車の整備状態は非常によく、気持ちのよい電車は軽い吊り掛け駆動の音を響かせながら下津井へと向かう。
最初は街中を、競艇場を望み、やがて海の見える丘を、そして山の中を快走と言うには程遠いが、しっかり地面に足がついている・・地元の足とした活用されている雰囲気で、そのイメージは決して悪くはなかった。

大きなカーブを曲がりながら下り、漁港という雰囲気の下津井に到着。
そこは鉄道ファンなら涙がでるような、さまざまな車両が生きている楽しい空間だった。

駅で許可をもらって、車庫や駅構内を散策。
3連のラッシュ用編成もあり、単行の車両もあり、隅のほうで忘れられたかのような電車や、なぜか井笠鉄道の気動車があったり・・
ここには地域に溶け込みながら、僅かの使命を得て活躍する軽便鉄道本来の姿があるように感じたものだ。

Photo_5 これは3連のラッシュ用編成。
モハ102、サハ2、クハ22だ。
実際に動いている姿を見たことはない。

Photo_6 こちらはクハ24、モハ103の当時の姿。
Photo_7 いかにもアルナらしい軽快な雰囲気の好ましい電車。

Photo_8 さて、下津井電鉄にはその後も頻繁に出かけた。
電鉄としてもなんとか、残った鉄道の活性化を図っていたようで、バスターミナルと児島駅を一体化する改造も行われたし、モハ1001を使って落書き電車として「赤いクレパス号」として運行、人気を得たけれど、乗客減への歯止めはなかなかかからなかったようだ。
赤いクレパス号が児島市街を行く。

Photo_9 その電車の内部。
とにかく落書きがたくさん。

Photo_10 写真は一時的に赤ライン塗装になったモハ103、クハ24.
この時期の鉄道車両の流行を上手く取り入れているように思う。

Photo_11 そして同じ編成のスポンサーカラー、「フジカラー」塗装。
こちらのほうが最初のカラーリングより古めかしい気がする。

Photo_12 国鉄改革の翌年、瀬戸大橋が開通。
絶好の観光ブームに沸くはずだった下津井電鉄で、独創的な新車、2000系「メリーベル」が登場。
メリーベル号を下津井駅で。
この小さな鉄道にラッシュ用以外での3連は、どう見てもオーバースペックに思えてしまう。

Photo_13 メリーベルの車内。
オープンエアーのトロッコ風客室と、冷房つき、軽便鉄道としては贅沢な密閉式のいわば普通の客室。

Photo_14 時代はちょうどバブリー絶頂期。
何か勘違いしたか、地域重視より見栄えを追及した小さな軽便鉄道。
入り口の児島駅舎もバブリーなものに建て替えられた。

観光重視は悪くないし、その方向性は間違えていなかったように思う。
日本に僅かしか残らない軽便鉄道の存在をもっと広く知ってもらうことができたら・・
瀬戸大橋とリンクさせるだけではなく、鉄道本来の魅力をもっと打ち出せたら・・
それも決して奇抜ではない方向へ向かうことができたら・・
もしかしたら今も下津井電鉄は現役だったかもしれない。

その下津井電鉄のかつての下津井構内には今もたくさんの車両が残されていて、ボランティアの方々で車両の整備が進められているとも聞く。
片上鉄道といい、あるいは玉野市電といい、岡山県の鉄道ファンの方々の、行動力には敬服するばかりだ。
機会があれば今の姿を見てみたいとも思う。