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こう@電車おやじ

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2010年7月

2010年7月24日 (土)

琴電・・昭和50年代前半ごろ

国鉄の同期生に四国・香川出身で非常に親しくなった友人たちがいる。
彼らと親しくなったことで、僕は頻繁に四国に通い、そしてそのつど、高松琴平電鉄を見に行くことになる。

当時の琴電はまさに電車の博物館で、同じ形式の車両はすくなく、出生も生きてきた経緯も、そしてその作りや形態も異なるさまざまな電車たちが活躍していた。
その中から、10点ほどをここで紹介したい。

Photo 1001号

琴電生え抜きの車両で、かつての看板電車だった。
クロスシートに改造された時代もあったが、この当時は特殊な制御装置はHL化され、車体も更新され、登場当時からは相当に変化が見られるのだが、地方私鉄が元気な時代の「名車」の面影は十分だった。

Photo_2 1027号

名鉄のHL車体更新車がその前身で、当時としては近代的な外観だった。
ただ、名鉄時代のクロスシートはロングシートに改造されていた。
非冷房車であり、車体が新しい割には早く姿を消した。

Photo_3 1052号

由緒正しき阪神初代ジェットカーだ。
超高加速・高減速の試作車で、阪神ジェットカーの冷房化に伴い、阪神を追われて琴電にきた。
もともとは両開き3ドアだが、瓦町駅のカーブの関係で中間扉が使えず、2ドアに改造されている、
窓の形が示すように阪神時代、最初はセミクロスだった。

Photo_4 22号

近鉄南大阪線の前身、大阪鉄道の車両だ。
幕板に飾り窓の跡がある。
もともとは正面5枚窓の半流線型、関西私鉄で流行した形態に飾り窓を持つ優美な電車だったようだ。
同型の1両が現在も保管されている。

Photo_6

325号

琴電開業時の電車で、地方私鉄とは思えない重厚でまとまったスタイルをしていた。
わずかに改造が施された以外は、原形をとどめ活躍していた。

Photo_7 33号

京浜急行230型で、この非貫通タイプは京急の面影そのものだ。
後述する阪神881型を転用した30型と置き換える形で導入された。
窓が大きく、明るい電車だ。

Photo_8 55号

阪神の小型車で急行系だった881型を譲り受けた車両だ。
阪神では小型車の大型化によって追われる形となった。
ただ、琴電での活躍は短く、この写真の撮影後すぐにその姿が見られなくなった。
何より正面のガラス張りの貫通扉が特徴だ。

Photo_9 62号

ちょっと癖のある正面2枚窓。
車体は琴電で自作したもので、元は京浜の木造車。
この特徴的な正面スタイルはその後、貫通タイプに改造された。
この車両は現在も県内で保存されているとのこと。

Photo_10 92号

京浜の木造車がその前身だ。
琴電で鋼体化改造をして入線した。
たしか、志度線で正面衝突事故があったときに、この車両だったように思う。
これも京急230型の導入により姿を消した。

Photo_11 920号

既出だが再掲。
山陽100型を転用したもので、かつての山陽電車の面影が十分だった。
晩年は志度線で使われていた。

琴電にはその後も何度も訪問し、ほかにもたくさんの車両を撮影している。
それらについては後日改めて掲載したい。

比較的規模の大きな都市である高松市を中心にフリークエントサービスを実施していた琴電は、その後も電車事業に徹して経営を続ける限りは。大きな発展はなくても経営は安定していたように思う。
それが、かのバブル期のその後の時代に、過度な投資がたたり、経営破たんしてしまったのは周知の事実だ。

今回の写真にも瓦町駅の情景がいくつか出ているが、このローカル然としたターミナルを、わざわざ志度線の線路を分断してまで巨大な百貨店を建築、そのことが琴電の負債の最大のものであり、旅客の利便性より「見てくれ」に終始したかつての経営陣にその負債の責任はあるだろう。

今の琴電は、ある程度まとまった数を確保できる中古車を探すのが上手なようで、京急1000、700、600、京王5000、名古屋の地下鉄車両・・これらが中古車とは思いもせぬほどに整備され活躍しているのを見るとうれしくも思う。
願わくば、琴電は今後も電車を中心に発展していってほしいものだ。

2010年7月14日 (水)

オハ35・・吉ヶ原で記憶を呼び起こす。

つい先日、友人のO君と岡山方面へドライブに行った。
と言っても、目的はこの方面の列車たちで、それについてはこのブログにおいても「転クロ2ドア3兄弟」のエントリーでアップしたのだけれど、その帰路のことだ。
時間もあまりなかったが、初夏のこととて日が長く、ついでに片上鉄道の保存施設を覗いてみようということになった。

国道2号を神戸へ向かう途中、懐かしい吉井川の鉄橋はそのまま残っていて、この鉄橋を見ながら道を北にとり、そこから約20キロ、終点柵原の手前、吉ヶ原駅の構内を使って、そこに鉱山資料館なるものができていた。
その資料館にはすでにタイムオーバーで入れないのだが、公園として整備されている駅構内には片上鉄道の車両がたくさん生き残っていた。
それは、単に保存などというものではなく、車両も施設も生きた鉄道として整備・保存されているように見えるのだ。

運転会の開催などもあるらしかったが、僕はそういった事情を全く知らず、そして、そこはまさにあの片上鉄道の生きていた頃そのままの風景が、21世紀も10年を経た今の世に忽然と出現したかのような不思議な錯覚を覚える楽しい場所でもあった、。

気動車や貨車とともに、機関車牽引の3両の客車が列車編成ごとプラットホームに横付けされ、ブルーに白線といった国鉄ブルートレインを模した、うち2両は片上鉄道のオリジナルの通勤型、17メートル級セミクロスシート、オープンデッキタイプの、いかにも私鉄然とした楽しい客車だったが、最後部の1両はそれらと一味違う・・そう、それはまさしく、国鉄のオハ35そのものだった。

この車両は片上鉄道ホハフ3001で、国鉄時代の車番はオハ351227・・戦後製のいわゆる「キノコ型」タイプだ。
国鉄時代は岡山、津山に配属されてきた車両だから、高砂工場担当、昭和55年に片上鉄道へ譲渡ということなので、僕もこの車両は触ったことがあるかもしれない。

しかも、この車両は自由に車内を見学できる。
中に入ってみて驚いた。
便洗面所が撤去されて車掌室に改造されているのだが、他の部分はほぼ完全に原型をとどめている。
Photo 車内の雰囲気だ。
目にも鮮やかなブルーの座席、そして、木目を生かしたベニヤ板の内張り、米松の床・・
車内に一歩、足を踏み入れた瞬間、オハ35のあの懐かしい雰囲気が甦ってくる。

Photo_2 座席。
向かい合わせ、現代では窮屈な固定クロスだが、このサイズは長く国鉄客車の標準だった。
背もたれは段差のない一枚物で、このあとのスハ43シリーズで下段がやや膨らんだものに改善される。

Photo_3 窓下のテーブルと灰皿。
このテーブルのデザインは12系客車まで引き継がれた。
灰皿にはJNRマークつき。

Photo_4 テーブルの栓抜きのアップ。
車内販売も駅売りも飲み物はビンの時代。
これもなぜか12系客車まで引き継がれた。

Photo_5 窓構造。
窓を窓止め棒(カナ当て、とも呼んだ)で固定している。
この棒は真ちゅう製の重いものだ。
そしてカーテンとの間の溝には蒸気機関車の煤煙から車内を守るための「網戸」が設けられていたが、これは昭和50年ごろから撤去されてしまった。

Photo_6 帽子掛け。
昔の人はお洒落だったのだろう。
帽子を使う人が多かった。
真ちゅう製の頑丈なつくりで、帽子どころかみやげ物が入った袋もぶら下げられていた。

Photo_7 網棚。
今では荷棚と呼ぶことが多いが、かつてはまさに網棚だった。
この車両の網棚には補修に苦心した形跡が見られる。
漁師の網と同じで、これは一旦はずして、きちんと補修するほうが楽なのだ。
ただし、一旦はずした網を取り付けるには、男が最低3人は必要。

オハ35をここまで美しく、整備、保存してくれたのは非常に嬉しく、それもまた自分と縁の深い岡山所属の車両ということで、親近感も沸く。
あの、5~6人がかりで、出車作業をして、網棚など、車両全長分を一気に張り込んでいった、いかにも男の作業場という感じの、旅客者職場をふっと思い出してしまった。

そういえば、21世紀に入って10年が経とうとしているが、前世紀の前半に製造されたこの客車を、今の時代に見られること自体が奇跡であるように思えてならない。
大井川鉄道にはそれこそ現役のオハ35一党、8両が現存しているわけで、これは、できる限り早く、貴重な客車を見に行きたいと願ってしまう。

さて、最後に高砂で撮影したオハ35の写真を2種、入れておくことにしたい。
いずれの拙ホームページからのものである。

Photo_8 こちらは初期型。
材質が良好な初期型は、かえって戦後製のものより補修する部分が少なく、現場では好評だった。

Photo_9 こちらは後期型。
このあとのスハ43一党との間をなす形態で、屋根周りも金属製になったものが多い。

オハ35をたくさん連ねた亜幹線の普通列車・・
もう一度その姿を見たいなとは思っても、それは、それこそ大井川鉄道でなければ叶うことのない夢でしかない。
心底、大井川へ「客車」を見に行きたい。

2010年7月 4日 (日)

嗚呼・名鉄SR系

5000 昭和30年(1955)、東海の雄、名古屋鉄道において画期的な都市間連絡用高性能電車が登場した。
卵型の軽量ボディ、全電動車方式、2連の窓を並べた2ドア転換クロスシートの5000系だ。

ここから一連のスーパーロマンスカーシリーズ、いわゆるSR系が始まる。

国鉄80系をライバルと定め、流線型3400系など戦前から続く名鉄の高速型車両の系譜の中で、民鉄が都市間急行用の高速型車両を作ればこうなるというお手本のような車両で、メーカーは日本車両。
同じメーカー製の車両が富山地方鉄道や長野電鉄にも登場し、ある時期、私鉄ロマンスカーの代表例ともなった。

すでに南海11001系、京阪1800系、阪神3011系といった高性能ロマンスカーの後塵を拝したが、そこはさすがに名鉄で、満を持して登場したその完成度の高さ!

5200 そして、その5000系を卵形デザインから実用的な普通の箱型デザインとして、下降窓を採用した5200系。(写真は下降窓からユニット窓に改造後)実に国鉄153系登場以前にパノラミックウィンドウや一段下降窓を採用した先鋭的な車両でもある。

5500 さらに、戦前の南海を除けば、本邦初の通勤冷房車、5500系。

7000 このあたりでも、すでに時代の遥か先、昭和54年頃に、ようやく国鉄が117系で追いついたそのレベルに達していたのはお見事というほかはなく、それでも、驀進する名鉄はついに昭和36年、破天荒な特急電車、7000系を登場させる。
この電車こそ、日本の鉄道史に残る名車、パノラマカーだ。

真紅のボディに、大型固定の連続窓、そして、流線型デザインの先頭展望室と二階運転室。

この車両が特急料金を必要とする列車としてではなく、ごくごく一般の特急・急行電車として活躍していたのだから今思えばまさに驚きである。
75006 このあと、さらに高速性を高めた低重心のパノラマカー7500系がでる。展望室部分の段差をなくした設計だったが、運転室が飛び出るような感覚で、そういう意味ではデザインとしては最初の7000系のほうが上だったかもしれない。

7700 そして増結や支線への直通用に普通の運転台を持った7700系と続いていく。

さて、僕が始めて名鉄を見たのは昭和45年ごろ、新幹線の車窓からではないかと記憶している。
真っ赤な流線型パノラマカーは幼児期の絵本を思い起こさせ、以後、鉄道趣味が高じてくるに従い、憧れの存在へと変わっていく。
そして、初めて名鉄に乗車したのは昭和51年だろうか。

友人たちとの卒業旅行に明治村を選び、往路は新岐阜から明治村口まで、復路は明治村口から新名古屋まで乗車した。
往路の各務ヶ原線は3700系で、座席はよかったものの、その乗り心地には閉口した。
復路の犬山線は座席指定特急で、このときは7700系、まだ新車の香りが残る7700系は乗り心地も上々だったが、7000系に乗れない悔しさは、そのすぐ後に始めての単独旅行で名鉄と国鉄飯田線を訪れるという冒険?となって現れた。

このときに、ようやくパノラマカー7000系の特急に乗車。
美しいその外観と裏腹に、走り出すと関西では経験したことのないような猛烈な加速、激しい揺れと音に心底びっくりしたものだ。

この日以後、僕は名鉄のSR系にすっかり惚れ込んでしまい、名古屋通いを続けることとなる。

さて、その名鉄のSR系だが、その最盛期は「高速」が走り出した頃・・昭和52年ごろではないだろうか。

当時すでに近鉄には「快速急行」、京急には「快速特急」が存在していたが、座席指定特急と同じ停車駅、そしてなるべく同じ車両の「高速」は特急の自由席版として濃尾平野を走り回っていた。
急行より速くて、転換クロスシート、都市間連絡輸送の主力。
その車内の雰囲気は驚くほどビジネスライクで、例えば5000系高速のあの転換式シートをいっぱいに詰めたビジネスマン風の人たち、そして、その光景を後ろの座席から見たときに、名鉄はなんと緊張感のある仕事をしているのだろうかと驚愕したものである。
5000系以後は貫通路も広幅で、両開きドアがついていて、前の車両の様子もよく見えた。
ずらりと並んだ転換クロスが、カーブのたびに右に左に流れていく。
そして、モーターのうなり、台車のがしゃがしゃとした揺れと音・・

3400 時にはツリカケ車の高速も見られたし、そういう出会いもまた名鉄の楽しみだった。

5000系には「高速」の看板がよく似合っていたように思う。
もちろん、「急行」にも速さと親しみやすさの両方のイメージが、車両の印象と重なりよく似合っていた。

7500 それに比べるとパノラマ7000・7500はやはり上品であり、内装はシンプルながら、名鉄の看板列車としての誇りに満ちていたように思う。
だが、その7000の走りもやはり、名鉄独特の熱い走りなのだ。
(熱い走りといえば京急や阪神だが、名鉄の走りはこれまた一種独特の凄みがあったように思う)

その7000系に特急専用のリニューアル工事をしたものが現れる。
通路にカーペットが敷かれ、ドア脇のロングシートはソファ風になり、転換クロスシートにはヘッドレストもついた。
広告で埋め尽くされていた天井はすっきりとし、独特の連続窓の化粧窓柱はカーテン位置を工夫することで、さらに「見せる」窓柱となった。
一時期撤去されつつあった展望室の速度計も復活し、白帯を締めたパノラマカーはこれまた速そうだったし、実際に速かった。

8800 そして、廃車となった7000系の機器類を使って登場させた驚愕のデラックス電車、8800系。

5000_2 5000系、5200系、5500系もまたパノラマに負けず劣らず玄人好みの渋いイメージもあり、貫通型の7700系、低重心の7500系、ともども、名古屋には大好きな電車がたくさん走っていた。

それにしてもだ・・
国鉄改革はJR東海というとてつもない巨大な私鉄を誕生させてしまった。
国鉄式の、のんびりとした経営から大都市近郊鉄道への脱却はあっという間にできてしまった。
大量に投入される快速用転換クロスの電車は、それが各駅停車であっても名鉄の急行以上の速さで走り、特に岐阜と名古屋の間では名鉄はJRのはねた泥を被って走るしかないのか・・

ここにいたって、都市間連絡をその生命線とした名鉄の経営方針は変更せざるをえなくなる。
一時はSR系の持てる性能を全て出し切って、JRと並ぶ高速運転も実施したが、運賃面での差も開き、結局、名鉄は都市間連絡の脇役となってしまったかのような感さえある。
急行にいたってもロングシートの通勤車両が主流となり、国鉄時代とは攻守を代えて、それでも名鉄は白旗を上げるわけには行かない。

結果が、SR系の撤退と、通勤車両の大量増備である。

名鉄のおかれた立場はよく理解できる。
それに今の通勤車両は洗練されていて、新しい時代の名鉄の個性を感じさせるし、大多数の利用者には好評だろう。

だが、かつて、あの、胸をときめかせたSR系車両・・
完全に姿を消したわけではなく、5300,5700系が僅かに奮闘しているし、SR系の血を引く1000.1200系もまた今も頑張っている。
でも、懐かしいし、思いいれの大きな、あの真紅のSR系車両のずらりと並んだ転換クロスシートや、がちゃがちゃとした独特の走りっぷり・・
今一度、あの頃の夢を見たいと願ってしまうのは僕がすでに古い人間だからだろうか。

7000_2 いまや、SR系は遠くに走り去ってしまったような気がしてやはり寂しく感じるのだ。