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2010年6月

2010年6月18日 (金)

転クロ2ドア3兄弟。

国鉄末期、国鉄はそれまでの東京中心の思考回路から抜け出し、地方のカラーを創造して利用客を呼び込む作戦を始めた。
その第一歩は九州に登場した転換クロスの快速気動車キハ66だったのだが、やがて、その流れは2ドアセミクロスの仙台地区417系電車を生み出す。

117 そして、さらに、私鉄からの攻勢に悩まされる関西において、画期的なオール転換クロスシート、内外装も特急並みのグレードを確保した117系電車となって結実。
117系は非常に好評で、この後に続く221系、223系への流れのその源流になっていく。
写真は須磨海岸の117系電車。

その流れは、この後、153系電車、80系電車を置き換えねばならない広島都市圏の新型電車、そして、新しいサービスを要求される本四備讃線の快速電車と続いていく。

153 急行格下げの153系電車は現場にも旅客にも好評で、関西の新快速、名古屋、広島地区の快速用として活躍していた。
しかし、高性能化初期車両に見られる著しい老朽化、そして客用ドアが車端により過ぎ、デッキ、洗面所などのデッドスペースがラッシュ向きではなく、これに代わる近郊型車両の登場が待たれていた。
写真は広島での153系。

1153000full そこへ登場したのが117系電車であったけれども、これはあくまでも私鉄ロマンスシート特急への対抗車両であり、地方都市圏には過剰なサービスだと認識したのか、広島地区にはこれと似てはいるが、115系電車をベースにした新型電車、115系3000番台が投入された。
写真はフル編成が新車で構成された登場時の115系3000番台。
1153000 時代はすでに冷房付が当たり前になっていたが、関東から転入してくる非冷房115系初期車に合わせた冷房準備車も投入され、結果的に100パーセント冷房だった153系時代より広島地区全体の冷房化率も一時的に下がるということになった。
写真は在来混結の115系3000番台冷房準備車。
その後、新車の中間車も加えられ、あるいは117系の中間車を改造して挿入し見た目にはバランスが取れたが、そこまで非常に長い年月が必要だった。

115系3000番台車は下回りは115系そのもの、内装も115系のつくりを踏襲し、これに変更を加えた程度だったが、地方都市圏用としての転換クロス装備はある意味では117系以上の冒険だったのではないだろうか。

1153000_3 写真は数年前、なかなか意欲的な塗装をまとっていた頃の岡山駅での115系3000番台。

213 そして、国鉄改革とほぼ同時に完成した本四備讃線に国鉄が投入した国鉄最末期の傑作、213系電車。
これは形の上では宇野線快速電車に使われていた113系の置き換えから始まったのだが、要は、宇野線快速と宇高連絡船を合わせてこれに置き換えたもので、117系に次ぐオール転換クロスの上質な電車だ。
しかし、なぜか蛍光灯カバーは省略され、その代わりに細身の蛍光ランプが使用された。

座席は117系では出入り口や車端に固定されたものも存在していたが、全てが転換式とされ、これに関しては117系を上回るサービスとなった。
213_2 運転台後ろの仕切り窓も大きく設計され、前面展望に留意したものとなったが、JRはさらに展望タイプのグリーン車を加え、積極的なサービスに努めた。

117系、115系3000番台、213系を僕は「転クロ2ドア3兄弟」と呼んでいるけれども、国鉄がサービス改革に乗り出したその意識の表れであり、いずれも国鉄としては最高部類の傑作に入るだろうと思うがいかがだろうか。
117系はその後、名古屋地区快速にも使われたし、213系も名古屋地区で関西線電化用として内装を変更したものが追加された。

さらに時が流れると、117系はその走行性能面から221系、223系に置き換えられ、213系も編成短縮、3ドア2階建てグリーン車連結の223系もしくは四国5000系に置き換えられた。
117系は岡山地区の快速・普通用として転出し、213系は1M方式であったことから制御器の改造をせずして2連での運行が可能であり、本四備讃線から赤穂線、伯備線のワンマン電車に転用された。
115系3000番台は広島から岡山に顔を出していて、その結果、現時点(2010年6月現在)において、岡山地区においてはこの3兄弟がいずれも元気な姿を拝見できるという、国鉄ファンには嬉しい現象がおきている。

117_2 現時点での117系サンライナー塗装である。
快速はここのところの景気後退でその本数を減じたが、快速運行はワンマン化されていて、放送なども自動である。

1153000_2 現時点での115系3000番台で、座席生地が非常に柔らかなものに変更されているほか、内装も更新されている。

213_3 現時点での213系ローカル運用である。
ワンマン化に際し、運転台後ろの座席が2列撤去されている。
中間車を先頭車に改造し、平面的な顔をつけ、さらにトイレを新設した車両も存在する。

115 なお、岡山・広島地区の近郊電車は、萌黄色ワントーンに塗装変更が行われる予定で、すでに何編成かが登場している。
写真は一般型115系のワントーンだ。

個人的な主観を一つ。
国鉄近郊型電車は、大きな窓、彫りの深い顔立ちであり、ワントーンは似合うと思う。
例えば冒頭の153系も正面から見ればワントーンだ。
広島・岡山地区の萌黄色も良く似合っていて嫌いではない。
けれども、せっかく線区や地域のイメージアップに役立った今までの塗装を捨てるということは、逆に線区のイメージダウンにならないか。
JR西日本上層部に再考を求めたい。

2010年6月13日 (日)

神戸3社相互乗り入れの思い出。

神戸高速鉄道が開通して以来、神戸の標準軌鉄道三社は、お互いの隅の区間で相互乗り入れを行っていた。
阪神と山陽、それに阪急と山陽である。

区間は阪急六甲(折り返しは御影駅構内西方)もしくは阪神大石(免許の上では阪神御影)と山陽の須磨浦公園駅西方までだった。

阪神と山陽がその相互乗り入れ区間をお互いの本線全区間に延長し、いまや両者の直通特急はこの地域における新しいブランドとして成長しているのに比べ、もう一方の相互乗り入れ、阪急と山陽とは、阪神と山陽の直通特急が走り始めたときにその関係を絶ってからもう、ずいぶんの年月が経つ。
僕はかつて、須磨区内に住み、阪急六甲まで毎日通勤していた時代もあり、この阪急・山陽の相互乗り入れにはずいぶんとお世話になった。

今回は、3社相互乗り入れ時代のことを、阪急と山陽との相互乗り入れを中心に綴ってみたいと思う。

僕が工作一科での教育機関中を過ごした関西鉄道学園の鷹取分所は国鉄鷹取工場の北東隅にあった。
そこから国鉄に乗車するには、一旦工場の外に出て、工場敷地を回りこみ、国鉄のガードをくぐってから更に西へ向かう必要があったのだけれど、この国鉄駅までの道のりは住宅と工場が中心で、距離はさほど長くないものも、面白みに欠ける道のりだった。

ところが、分所から広い道路を東に向かい、大きな交差点を北へ、映画館や商店、銀行が建ち並ぶ繁華街の中を歩くとそこは山陽電車の板宿駅で、こちらへ向かうほうがなんとなく歩いていても気が晴れるように感じたのだった。
それに、いまだ鉄道学園生の身分だけで、国鉄職員として正式に採用される以前では国鉄の無料パスももらえず、つまりは何も好き好んで国鉄に乗る必要もなく、同じ運賃を支払うのなら私鉄だとばかりに・・板宿駅からよく山陽・阪急・阪神の3社の電車に乗車したものだ。

その板宿駅は当時はまだ地上駅で、駅北側のアーケードのある大きな商店街の入り口に幅の広い踏切があって、人や車、電車で一日中混雑していた。
当時の山陽電車板宿駅は山陽特急の停車しない駅だったが、梅田と須磨浦公園を結ぶ阪急・阪神の特急が頻繁に走り、不便さは感じなかった。

その頃、この地を走る電車は片道で山陽普通が毎時6本、山陽特急が3本、阪急・阪神特急がそれぞれ3本ずつで、ラッシュ時にはこれに山陽特急は増発されるし、阪神からは急行も乗り入れるしで、関西私鉄の中でもその過密ダイヤぶりは群を抜いていた。

しかも、下りの須磨浦公園行き以外の電車はどれも混んでいた。

その頃から阪急と阪神とでは若干、阪神へ向かう乗客のほうが多かったような気がするし、それが朝ラッシュ時の急行の乗り入れに繋がっていたのだろう。

僕は国鉄を退職してから、再び、この板宿の地に住むことになり、ここから7年間、阪急六甲にあるスタジオまで通勤した。
その頃はもう、神戸市営地下鉄が新神戸まで開通していて、通勤の最初はこの地下鉄に乗車して三宮で阪急に乗り換えたのだけれど、地下鉄のあまりの混雑と、三宮での動線の長さに嫌気が差し、それならばと、阪急と山陽を直通する電車を選んでこれで通勤することにした。
おりしも、山陽電車の特急が板宿駅に停車を始めたときで、この特急も2本に1本は阪急方面行きだし、このダイヤ改正で登場した通勤特急が増発され、これも半分は阪急三宮方面行き、そして、その阪急の梅田へ直通する阪急特急もあるというわけで、本数も決して少なくなく、乗換えが不要で、しかも板宿駅で大挙して学生さんが下車するその後に乗るものだから、ほとんど座れた。
この通勤は非常に快適で、僕が六甲のスタジオに通い続けることが出来たのは半ば、この快適な通勤があったればこそではないかと思っている。

基本的には毎朝8時20分、板宿駅発の阪急六甲行き特急で、六甲には8時41分到着というものだった。
日曜にはこの列車の代わりに8時13発、阪急梅田行き普通で、六甲には8時36分頃到着・・

当初はそれでも、六甲行き特急は混雑が激しく、遅れることもしばしばで、遅れがひどいときには三宮や新開地で運転打ち切りなんていうこともあった。
ところが、山陽明石駅高架工事完成のダイヤ改正で山陽特急の一部がクロスシート6連化となり、飛躍的に輸送力が向上、しかもクロスシートで快適通勤となった。
こうなると列車はまず遅れない。
それ以後は完璧に快適な通勤になったものだ。

余談ながら、帰路も六甲20時05分という列車があり、当時20時までの勤務だったが、急いで仕事場を出て、始発からの快適なクロスシートで帰宅したのも良い思い出である。

さて、その頃の画像だ。
Photo 須磨浦公園駅東方で阪急と阪神の列車が行きかう。
阪急は新型6000系だ。
その頃、阪急は新型を必ずといってよいほど、この乗り入れ特急に使ってくれた。
それには、すでに8連化されている阪急神戸線であっても、乗入れには6連を作らねばならぬという不便さもあったはずだ。
阪神は急行系全系列が乗り入れた。
最も阪神は今もその頃も特急・急行は6連だったから、乗り入れるための特別な仕様は必要がなかった。

5130 阪急からは今は神戸線では見られない5100系も乗り入れてくる。
神・宝・京3線共通仕様で、MT比を変えることでそれぞれの線区に適した走行性能が得られるということだったが、結局は神戸線では出力が不足気味だったのではないだろうか。
ちなみに、先の6000系はこの5100系と基本的な性能は同じだ。

5010阪急神戸線主力の5000系。
この車両は今も大幅にリニューアルされて活躍する5010の編成である。
この後、中間に2000系改造のTを挟んで8連化された。

3080 やはり神戸線高度経済成長期の3000系だ。
大出力モーターを搭載した高性能車だが、座席の作りがラッシュ向きで評判は良くなかった。
後の5000系で座席は元に戻されている。
(今の3000系はその後の改造で5000系と比べても見劣りしなくなっている)

いずれも丸型の種別・行き先案内が懐かしい。

Photo_2 その頃、山陽電車で4年ぶりに製造された3060の編成である。
なぜか黒のHゴムで登場し、人目を引いた。
今は他の車両に合わせて灰色のHゴムになっている。

Photo_3 そして、既出ではあるが、須磨駅における阪急5200系。
この車両も6連で、阪急最初の冷房車だった。
なぜか、屋根が深く、一風変わった表情をしていた。
同じ時期の5000系が今も大活躍しているのに、こちら早々と廃車されてしまった。
試作的要素が濃かったのだろうか。

Photo_4 西代付近の跨線橋の下を行く阪神7101系。
阪神最初のチョッパ制御電車だがなぜか電気ブレーキを装備していない電車だった。
この跨線橋は山陽電車の地下化工事の後、今度は道路の立体交差用として活用され、今も健在である。

Photo_5 西代駅での阪神3561系。
阪神間ノンストップ25分を誇ったクロスシート特急電車の引退直前の姿。
とはいっても内装は大変美しく整備され、冷房工事もなされ、ちょっと見ただけではクロスシート特急車の改造ということは判別できなかった。
ただ、側窓が座席にあわせた大型のものだったことが唯一の面影である。

Photo_7 山陽電車が乗り入れた先の阪急での様子。
これは阪急六甲駅屋上から俯瞰した山陽5000系6連。
ダイヤ改正直後の撮影で、当時、僕のいたスタジオはこの駅ビルのテナントだったから、時折屋上で洗濯物などを干していた。
だからこそ撮影できた1枚。
慣れぬ目には山陽電車の6連は非常に長く見えたものだ。

Photo_6 そして、阪急御影駅西方で折り返す山陽特急。
この折り返し兼待避線は今もそこにあるが、すでに山陽電車が乗り入れしなくなって10年がすぎた。
山陽と阪神は当時から直通需要は相当あったはずで、それがゆえに直通特急の成功と結びついたのだろう。
けれども、文教地区を走る阪急と山陽との間にも阪神には及ばないが相当の需要はあったはずだ。

一時期、日中の山陽特急と阪急特急が三宮で接続を取り、姫路と梅田を可能な限り短時間で結ぶような設定が行われたことがあった。
今のダイヤでこういう列車の接続を取ることが出来れば、姫路と梅田の間は82~83分程度で結ぶことが可能で、阪神と山陽の直通特急よりも大幅に時間短縮が可能である。
乗り換え不要で楽チンに行く乗客には、直通特急を利用してもらい、乗り換えてでも早く行きたい乗客には阪急への乗換えを推奨するようにすれば、JRへの更なる対抗措置として有効なのにとも思う。
もっとも、姫路と大阪を僅か60分少々で結ぶJR新快速には到底抗えないが、それでも飾磨、高砂、東二見あるいは板宿からなら十分勝算はあると思うのだがいかがだろう。
せっかく繋がっているレールである。
かつてのように華やかにそれぞれの会社の電車が行き来することを夢見ている僕だが、それが妄想に終わらぬように・・願いたい。
阪急・阪神はもちろん、レールの繋がった近鉄の電車も山陽電車の線路の上を走り、そして山陽電車が阪急梅田や近鉄奈良へ乗り入れることを願っている。

2010年6月 2日 (水)

夜の大阪駅

いつ頃の写真だろうか、深夜の大阪駅の情景が出てきた。
同じネガに伊豆方面の列車が写っていることから考えて昭和53~4年ごろではないかと思うのだ。

僕は友人との旅行に「銀河」を待っている。
そのときのスナップだろう。

夏の夜、大阪駅はけだるい空気の中にも、これからの旅への期待が静かに漂っている。
東へ向かう長距離列車の乗り場である11番、10番あたりのホームにはことさらにその期待感が強いような気もする。

Ef58 おりしも、そこへ入ってきたのは「ちくま」の夜行便か。
EF58の牽引する青い客車は当時としてはありふれた12系で、明るい車内灯が殊更に12系客車を輝かせる。
Photo そして、その「ちくま」の後部には寝台車が連結されている。
これは20系を12系客車の制御回路にあわせて改造した1000番台で、手動ドアのはずの20系が自動ドアでもある。

当時、すでに列車の自動ドアは当たり前で、「銀河」の場合はかえって手動ドアに乗客が戸惑っていた。
「ちくま」の20系客車の自動ドアには、乗客は戸惑わずに吸い込まれていく。

青い車体がホームの明かりで輝く。
この頃、客車は全検の周期が短く、しかもその都度、塗装をしていたから車体はいつも輝いていた。
最近廃止された山陽夜行特急の、あの24系客車のがたがたぶりとは大違いだ。

Photo_2 「ちくま」のあとには「きたぐに」が入線する。
前半分はクラシカルな10番台寝台車、後ろ半分は新車のような12系客車だ・
クラシカルではあっても、寝台車は人気が高い。
しかもこの車両は窓が開く。
旧来の旅情はまさにここに残っていた。

Photo_3 僕のイメージではガタガタだった10番台寝台車だが、実際に駅で見ると思いのほかきれいに整備されていた。
この頃は全検入場後の車両が多かったのだろうか。
車体も光っているように見える。

明るい車内では明日朝までの就寝への支度に余念のない乗客たちが、わずかの空間で小さく動いているのだろうか。

Photo_5  「きたぐに」を背景に駅の荷物係が積み込み荷物の用意をしている。
宅急便などまだない時代、鉄道荷物は「早く」荷物を送る唯一の手段だった。
荷物列車か、それとも夜行列車の荷物車か。
もしかすると、この位置から「銀河」の荷物室かもしれない。

Photo_6 大阪駅11番線は夜にむしろ人の息が渦巻いていた。
昼間は案外静かだったような気がする。
懐かしい北陸方面への急行、「ゆのくに」の写っているこのホームは静粛そのものに見える。

今の大阪駅の深夜は通勤客でこそ混みあうけれども、もう、昔のように各方面へ向かう長距離客が大きな荷物を持って整然と並ぶという風景はほとんど見られない。
わずかに奇跡的に残った「きたぐに」の583系電車にその余韻があるだけだ。