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2010年5月11日 (火)

宝殿駅

僕は中学生になるまでは、私鉄もしくは市電、地下鉄の沿線で育った。
だから、父が亡くなり、母子家庭となった家族で移り住んだ加古川市西部は、始めて国鉄の沿線に住むということにもなったわけだ。

神戸、大阪の都会で育った僕にとって、田んぼの広がる、のどかな加古川は、子供心にも都落ちのような気持ちがしたものだ。
たとえば、路線バス・・これは神姫バスによる運行だったが、車掌さんが乗務して、下車停留所を口頭で伝えるやり方・・
その車掌さんに怖い人が多くて、なかなか下車駅を言い出せないのだが、これも都会では当時すでにワンマンバスだったのだから、こういう不安もなくてすむのにと・・恨めしく思ったものだ。
(今の神姫バスは品行方正、サービス第一で当時のような怖さなど微塵もないが)

Photo さて、自宅最寄り駅となったのが加古川の一つ西・・加古川の川を渡った先、しばらく田んぼの中を電車が快走したその先の宝殿駅だった。

宝殿駅は山陽鉄道の基本の構内配線を持った、ありふれた駅だった。
駅舎は南側にあり、駅舎側の下り本線、そして跨線橋を渡ったホームは島式で、外側に上り本線、内側に上下線兼用の待避線が設けられていた。
そのほかに、さらに上り線の外側に待避線が1本、その外側にもう1本、上り側にのみ開いた留置線があった。
ホームのない待避線では列車の退避や留置が行われていて、高砂工場出場車の留置もすることがあった。

ここでじっくり10系寝台車を眺めたのも思い出でもある。

昭和50年当時の宝殿駅に停車する電車は113系の「快速電車」ばかりで、これは明石以西は各駅停車となるもので、山陽本線姫路口の普通電車といえばこれだった。
編成は大抵が7両か11両で、姫路側から4両目にグリーン車をつないでいた。
運転本数は朝夕こそそれなりにあるものの、日中は30分ヘッド・・一時的に保線間合いを取るという名目で午前に60分の間隔が開くようにもなった。
Photo_2 駅の改札口は、電車が来る5分前に駅員が来て「上り○時○分発、米原行きの改札をいたします」と言って開けてくれ、駅舎のベンチに腰掛けていた乗客がゆっくりと腰を上げる。
ベンチには手作りの座布団が置いてあったし、改札側の隅にはボランティアだろうか・・盆栽の展示もあった。

駅の乗客がホームへ移ったあとに電車が到着・・
下車客の応対は今度は駅員二人で行っていた。

電車が行ってしまうと、駅員は改札口の真上にある列車案内を手動で操作し、次の列車を表示させる。
この手動操作が、くるくるとハンドルを回すもので、見ていて楽しかった。

このあたりの風景は汽車時代のそのままで、ただ、列車だけが113系と言う、汽車に比べるとずいぶん都会的になった感じだろうか。
そういえば、行き先案内には「電車 米原 グリーン車連結」となっていたように思う。

駅の南側は高砂市米田町に続く商店街。
駅の北側は加古川市米田町になるのだが、その頃は一面の田んぼで、遠くに加古川バイパスの道が見え、加古川市民病院の建物や町工場を視線の端にする以外は、播州ののどかな田園風景が広がっていた。
(なぜか、駅の南口に加古川市と大書きしたアーチが建っていたが、そこから100メートルもしないうちに高砂市になる不思議な場所だった)
上屋がほんの少ししかないホームで電車を待っていると、梅雨ごろには蛙の大合唱・・夏のお祭りの時には見事な花火、そして秋には煩いほどのコオロギや鈴虫の大合唱が聞こえたものだ。
少なくとも、この宝殿駅の雰囲気は僕が抱いていた電車の駅とはまったくかけ離れた物だった。
僕が抱く電車の駅のイメージは、改札口はもちろん、常時開いているし、切符は自動販売機で購入する。
電車はいつも少し待てばやってくる・・
そういうイメージだったのだが・・良くも悪くも宝殿駅は僕のそのイメージを変えた。

Photo_3 鉄道好きの中学生もさほど多くなかった時代・・
駅に遊びに行くと駅員さんたちは忙しい手を止めて相手をしてくれた。
あるとき、夜中に通過する夜行列車を見せてほしいと頼み込んだら、「終列車までの時間なら」と許可してくれた。
友人がその交渉に当たってくれ、僕ら数人、宝殿駅のベンチで、東京へ向かい、九州・四国へ向かう乗客を満載した夜行列車を眺める至福のときを過ごしたのは忘れられない思い出でもある。(写真は急行、鷲羽)
もちろん、本来仮眠時間であるはずの駅員さんがそばについてくれて、安全面での手抜かりはなかった。

Photo_4 この宝殿駅は駅北側に広がる加古川市西部へ向かう乗客のために、いち早く、改築されることになった。(写真は建て替え工事を背景にした急行、みまさか・みささ)
それまでの田舎の駅と言った風情から橋上式の近代的な駅舎に建て変わっていったのが昭和56年。
Photo_5 現在のJR神戸線では高架化工事で建て替えられた六甲道をのぞくと、実に最初の建て替えだった。
そして、僕らは古い駅舎に愛着を感じながらも新しい駅舎への期待が大きかった。

改札口は常時開くようになり、立派な行き先案内も装備され、中二階には喫茶室まで出来た。
駅の北にもバスやタクシーの乗り場が出来、あの蛙の大合唱の田んぼは姿を消した。

けれど、宝殿駅建て替えのころは、山陽本線の複々線化が真剣に考えられていたので、駅舎もいつでも複々線化できるように設計されているのだが・・これが、今現在の社会情勢ではその必要性すらなく、宝殿駅に停車する列車の本数も昭和50年ごろとは大差がない現状では、これ以上の発展など望めないような状況でもある。
駅に入るバス路線も大幅に減便され、駅前の開発は改築30年を経ても大きく進歩していない。

ただ、この駅がプロトタイプになり、平成のローカル駅として改築された近隣の各駅もまた同じような風情であるのを思うと、まさにこの宝殿駅改築は時代そのものの先取りだったのかと思う。
それにしても、あの、木造モルタル、赤い屋根の宝殿駅がふっと記憶に蘇ることがある。
通過していくのはEF58の荷物列車か・・
その外側に夏空と、稲の緑、そして蛙の声。。

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宝殿駅を参照しているブログ:

コメント

堂々たる編成の「みささ・みまさか」(私にはこう記す方がしっくりきます)、懐かしいです。あのころの車両、駅舎、駅員さんたち・・・、なんとも言えない郷愁にひたってしまいました。

その宝殿駅は,2010年5月14日に開業110周年を迎えます。
現在も,駅の南側に駅舎があった遺構がありますね。

ふそうやましろいせひゅうがさん>

「みささ」が今のスーパーはくとの前身ですもんね。
しかし、山間部へ向かう「みまさか」なんて急行が走っていたことに、今更ながら感無量です。。

加古川の住人さん>

ちょうど110周年の節目のときでしたね。
何かに誘われるかのようにネガが出てきました。
不思議です。

山陽鉄道開業時、加古川から姫路まで駅がなく、しばらくして3つの駅が相次いで出来たのでしたね・・

なつかし国鉄時代の宝殿駅、小学校の修学旅行も荒井からバスで行ったものでした。
今と違い乗る時も待合室で待つ汽車の駅そのものでした。
特急も急行も新快速も停まらないのは今も昔も。
でも確かに80年代初めごろまでは駅の北側は田んぼだれけの景色でした。ロータリーの整備以外はあまり印象の変わらない南側とは一大変化です。
北側の側線にたしかに高砂工場で解体待ちの客車(10系等)がよく停まっていたは覚えています。
それと、駅の西側のコンクリート工場の側線これはJR化後も、つい最近までつかわれていましたが工場ごと姿を消しました。
よく使う駅だけにちょっとづつ変わっていって、この30年の蓄積では大きく変わっているのが改めて認識できる写真です。こうさんありがとうございます。

30~40年前は西明石より西の山陽本線は複線で駅と駅との間隔も長く、運行本数も少ないローカル線といった雰囲気で、EF58の客レが似合う駅が多く見受けられました。
 西明石より、下るとまず土山から接続する別府鉄道が見られ、随分地方に来たような印象を受けました。
宝殿駅にも駅西端の生コン会社にセメントを供するためよく貨物列車が止まっていました。 宝殿駅の東の踏切は自殺の名所で多くの方が命を落としているそうです。
 また、宝殿というと別の意味もあり、私の同僚が海外から来た客を名所に案内するため、「宝殿に行こう」と言うとニヤリとされたそうです。

キッコーマン専用線さん>

今では考えられないような田舎の風情を持った駅でしたね。
隣の曽根ではその風情は健在ですが・・

北側側線に停めてあったのは解体待ちか入場待ち、あるいは車庫での線路の空きがない時期に、疎開させる意味もあったようです。

L急行鷲羽さん>

宝殿駅に西方の引込み線、つい最近まで残っていましたね。
HODENというと、なにやらお国によっては面白い言葉らしく・・
ちょっと日本語離れした発音とともに、不思議に思ったものです。

113系快速電車で行く播州平野東部は、のどかさもひとしおだったように思います。今思い出せば、113系は汽車の雰囲気を持っていたような気がします。(この辺りこうさんと少し違うかもしれません。)思い出の中の快速電車は6連の新快速に比べても長編成でグリーン車も着き、それでいて混んでいたように思います。普通列車が中心だった時代の名残なのかな?と思ったりしますが、いかがなものでしょうか? 以上

坂本賢介さん>

113系は確かに汽車のイメージが残っていましたね。
夕方ラッシュ時などお酒やタバコのにおいがふっと、生活臭を感じさせてくれたものです。

113系電車は11連での運用が多かったように思います。
グリーン車もあれば、トイレもある、喫煙もできる・・
国鉄が抱いていた普通列車のイメージが少し近代化された姿でしょうか。

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