フォトアルバム

プロフィール

フォトアルバム

こう@電車おやじ

小説サイトSTORY http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story/ 鉄道掲示板 http://6551.teacup.com/kouzou/bbs プロhttp://pr.cgiboy.com/02653710/フィール

« 2010年3月 | メイン | 2010年5月 »

2010年4月

2010年4月29日 (木)

新潟の私鉄電車、蒲原鉄道・新潟交通

僕が新潟に下車したのは国鉄改革の前年だから昭和61年の夏になろうか。
このときの旅行では大阪駅から「きたぐに」に乗車、新津で下車してまず、蒲原鉄道を目指した。

朝、親不知の辺りで目が覚めると雨だ。
それも相当降っている。

雨はそのまま降り止まず、それでも、僕は「蒲原鉄道へ行くなら朝の3連」との意志は曲げず、磐越西線に乗り換えて五泉へ向かう。
五泉で停車していたのは古風な単行電車だった。
今思えばモハ61あたりだろうか・・

そのまま、雨の中、村松へ。

ここがまさにこの鉄道の中心地であり、駅前はいかにも地方都市のど真ん中という雰囲気に満ちていたように思う。
ただ、僕はひたすら電車ばかりを見る旅行であり、あまり時間がない。
かつて、宮脇俊三さんがここを訪れたときには「鯉の料理」を食べたらしいが、鉄道ファンの貧乏旅行では食べ物などは駅で調達できるものが一番である。

Photo 駅には古風な機関車が停車していた。

71 駅近くの線路際で待っていると、お目当ての3両編成がやってきた。これは先頭のモハ71で西武鉄道からやってきた電車だ。

Photo_2 こちらは2両目のクハ10で、戦前の国鉄気動車を改造した車両。

Photo_3これは3両目のモハ91は名鉄生まれだが、車体を更新して山形交通に行き、そこで廃線になって当線にはいってきたもの・・高松琴平電鉄に同型の電車があり、それと同じ山形出身。

Photo_4 撮影後、すぐに村松駅へ戻り、加茂行きの電車に乗る。
毎時1~2本と頻発する五泉行きに対し、こちらは列車の間隔が時には1時間半にもなる閑散さだ。

走り出したモハ61の単行電車は、低くモーターをうならせながら、勾配に挑んでいく。
スピードは出ないし、沿線風景はまったくの山村だ・・すごく時間がかかったように思う。

この電車も西武鉄道出身。

このあたり、ローカル電車の・・時間を超越した走りというのでは熊本電鉄の菊池温泉行きや、名鉄美濃町線の美濃行きにも似ていたように思う。
電車の中も閑散としていて、夜行の疲れからか、寝入ってしまってほとんど覚えていないというのが現実でもある。

加茂から信越線と弥彦線を乗り継いで燕へ・・この頃になると雨が上がってきた。

ただ、本当に弥彦線に乗車したのか、あまり覚えていない・・この頃の記憶で新潟あたりで路線バスに乗ったような思い出もあるから、本数の少ない弥彦線では時間が合わず、バスに乗った可能性もある。

ここから新潟交通の乗車だ。
県庁前からの乗車が筋かもしれないが、とにかく二日で新潟・長野の電車をすべてみようという欲張りな旅行だ。
先を急ぐ・・
列車を見るためなのか、列車を見たという事実を味わうためなのか・・
このあたりの感覚は今の僕にはわからない。

Photo_5 新潟交通の燕駅のイメージは脱落している。
写真が1枚、残っている。
小田急からやってきたクハだ。

新潟交通も距離は長いが、スピードが結構出ていたように思う。
蒲原鉄道のような遅いイメージはない。
川筋の横をかなりのスピードで飛ばすイメージだ。

新潟市内に入ると路面電車宜しく併用軌道となる。
ここからは、かなりゆっくりした走り方だ。
自動車にさえぎられ、なかなか進めない。

Photo_6 県庁前駅は大通りに挟まれた島のようなところにあった。
なんとも古風なたたずまいの駅だった。

Photo_7 あれから四半世紀・・・
どちらの電車も今は存在しない。
私鉄が好きな僕にとって新潟は、魅力のない土地になったか・・

そんなことはなく、ただ、僕がそれ以来、旅行というものを満足に行えない立場になったことが、この地に足を踏み入れない最大の要因だろう。

2010年4月23日 (金)

列車愛称戯言

国鉄の列車に愛称が登場したのは、正式な記録では昭和4年9月15日のダイヤ改正からである。
東海道・山陽本線を走っていた2往復の特急列車に愛称がつけられた。
このときの名称は1・2等特急が「富士」3等特急が「桜」と命名されている。
ついで、昭和5年10月1日は、東京・大阪間を9時間で結んだ超特急「燕」が運転されている。

しかし、列車の愛称としては実はこれがわが国で最初のものではなく、南海鉄道・・今の南海電鉄が難波と和歌山市との間を全通させて、急行列車2往復を運転したのが明治36年。
この列車に「浪速号」「和歌号」という愛称がつけられ、食堂車まで連結された。
ついで、南海鉄道は電化工事を行い、工事完成しばらくして、大正13年にはわが国最初の電車による特等、喫茶室付の固定編成急行列車を運転。
これは列車編成ごとに愛称を付与し、この編成を固定で運用するといったどちらかといえば船の運航に近いものだった。

南海に遅れて始まった国鉄の愛称だが、当時から艦船などに愛称を付与する習慣は存在したわけで、海外では広く急行列車にも愛称が付与されることが多かったこともあり、満を持してはじめられたという感じだろうか。

戦前の列車愛称は「鴎」を追加しただけで終わりを告げるが、戦後、特急の運転再開に際し、「へいわ」の愛称がスタート、やがて、すべての急行列車や準急列車にも愛称を付与することになり、さらに、コンピュータによる座席指定券販売システム「マルス」が列車愛称を前提として開発されたこともあり、今も座席指定にある列車や急行以上の列車にはすべて、ごく一部の自由席だけの普通列車にも愛称がつけられている。

国鉄の場合、車両に愛称がついているのは特別な車両だけで、たとえば「サロンカーなにわ」「サロンエクスプレスTOKYO」など、これらは列車運行上の愛称ではない。

で、その列車愛称だが、一般的にはその列車の走る、あるいは目的とする地域のイメージを想像させる物が多いように思う。
ダイレクトに地名として「越前」「土佐」「佐渡」「紀伊」「しなの」などの旧国名。
「ながさき」「あおもり」などの現在の地名。
「なは」といった、地名だが政治的なものもある。
「くろしお」「まつかぜ」「はまかぜ」「しらゆき」といった自然現象。
「富士」「磐梯」「だいせん」「ニセコ」「桜島」といった山などの名称。
「白兎」は山陰地方の神話からか・・
「つばめ」「とき」「しらさぎ」「かもめ」「白鳥」はこれは飛ぶような速さから鳥の名をつけることも多いが、「とき」「白鳥」はその地方のイメージそのものでもある。
「かもめ」は港町を連想させるからか・・
「はと」「ちどり」は必ずしも早いイメージはないが、空を飛ぶ馴染み深い鳥ということか。
速さをイメージするのは「ひかり」「つばさ」「こだま」あたり・・
JRの「のぞみ」はちょっと不思議な印象。
「はやて」もなんだかしっくりこない気がしている。
「北海」「北斗」「南風」などは地名ではなくやはりイメージ。
「南紀」「北陸」「山陰」などは地方の総称。
「天の川」「銀河」「月光」「夕月」「あかつき」「明星」「彗星」・・言わずと知れた夜行列車の命名には夜から朝にかけた自然現象。
「すずらん」「さくら」「はまなす」など・・これは花など植物の名前。
ちょっと変わったところでは「踊り子」・・文学作品からか・・
「みどり」方向性が今ひとつよくわからない・・

さて、国鉄時代の列車名を掲げた写真をいくつか。。

581倉敷駅での「つばめ」。
583系だ。
向かい合わせのクロスシートはゆったりはしていても、7~8時間もの乗車には適したのだろうか。

Photo 秋田駅での「つばさ」「たざわ」
国鉄がその末期に短編成特急を頻発したそのあとの写真。

Photo_2 多度津駅での「あしずり」
先頭はなんとキハ26の増結車で、文字だけの簡単な表記がかえって四国総局の意地を感じさせる。

Photo_3 天王寺駅でのキハ81「くろしお」
一番北側のホームは特急・急行専用だった時代。

485 倉敷駅での「はと」
平和を意味する名称は長続きしない・・「つばめ」「かもめ」が復活したのに名鳥3羽目はいまだ復活せず。

Photo_4 小田原駅での「伊豆」
特急「踊り子」格上げ直前ですでに特急用の車両が使われていた。

まだまだいろいろな種別があるがそれは専用のサイトやウィキペディアなどをごらん頂きたいと思う。

国鉄は列車名称の採用基準を特に指定しておらず、それがため、たとえば特急列車は鳥や花の名前、急行列車は旧国名など、快速列車などは実質本位の命名といった固定観念がなく・・そういった方向性があれば分かりやすかったのにとも思う。
国鉄末期から現在に至るまで、今度はカタカナ名称やカタカナを組み合わせたものが増えてきて、たとえばスーパー雷鳥、スーパーやくも、スーパーあずさなど「まるでスーパーの安売りか」と思わせるような乱用もあったし、「北近畿」や「きらめき」「かがやき」などつけるに窮したことが伺えるものも登場している。

列車名称はわかりやすく、イメージが捉えやすい方向に持っていくのが最良だろう。
特急列車が数本しかなかった時代においては、特別な存在感もあったに違いないが、マルスでの登録のために、どうしても名称を付与せざるをえず、結果的に意味が分かりにくいものまで登場するのはなんともおかしな気がする。

そういえば、国鉄より先に座席指定特急の高頻度運転を行った近鉄では列車名称は早くに姿を消し、発車時刻と行き先だけの案内になっているけれども、特に混乱している様子はない。
つまりは使い方次第であるわけで、命名に窮した列車の場合、当面は「何時何分発特急○○行き」で通して、あとで利用客につけてもらうのも一つの方法だろう。

そして、九州新幹線が「さくら」を復活させるように、スーパーでもビューでも、ワイドビューでもフレッシュでもない、本来の言葉を大切にした命名にまた立ち返るのもよいのではと思えるのだ。

昨今では新幹線以外の在来線車両においても列車の愛称表記がなされないことが増えた・・ただ、願わくば愛称を堂々と表記した新型車も見てみたいと願うのはファンの勝手な戯言だろう。

2010年4月 7日 (水)

国鉄の名車

  名車という言葉をよく耳にする。
優れた車両とでもいうべきだろうか・・単に優れているというよりも社会に大きな影響を与え、それを見る人々に時代を感じさせた車両とでもういうべきかもしれない。

たとえば、クルマの世界、国産車で名車といわれる車は「スカイラインGT-R」「TOYOTA2000GT」といった、実用性よりは憧れの車がそう呼ばれることが多い気もするし、逆に保守性に難のあるクルマは憧れではあっても名車ではないのかもしれない。

鉄道の世界でも必ずしも実用性ではないかもしれない・・あるいはスーパーカー的な存在であっても社会に受け容れられなかったものは「名車」と呼ばれないかもしれない。
こう考えると、C53やDD54はどうだろう・・
C53の優秀性は国鉄も認識し、特急専用機として君臨したわけだから「名車」に入るかもしれないが保守に苦労した現場の方ならどう思うだろうか。
そして、DD54はどうだろう・・
大変な意欲作であったが、実際に使うとこれが失敗作であると国鉄が認識し、労使紛争の中で法的な耐用年数を越えてすぐに引退したのだから社会に受け容れられたとはいえないかもしれない。
しかし、この機関車が花道としてお召し列車を牽引したものまた、(それが政治的な判断であったにせよ)まがいのない事実でもある。

ふつうの「カローラ」を名車であるという人は少ない。
しかし、それが「レビン」のようにカローラの表情をしていても、ちょっとしたメーカーの遊び心が広く青年たちに受け容れられると「名車」になっていくし、しかもそのクルマは十分な実績のあるシステムを採用していて保守性がよく、永く乗り、保有し続けることも可能である。

つまり、実用一点張りではなく、十分な実用性を保ちながら、そこにある種のカリスマ性を持った・・あるいはその存在が特別なものであったとき、人々はそれを名車というのかもしれない。

しかし、こう考えると名車というものはそれを見る人の主観にゆだねられるのであり、そういった主観を持つ人が多いことが広く「名車」となりうるのではないだろうか。

僕自身も車両にはそれぞれに思い入れもある。
このブログで酷評している10番台軽量客車であっても、見る、乗るという面では決して悪くなかったという思い出もある。

それでも、欠点はあれども、かつてのプロとして、あるいはファンとしてことのほかに好きな車両・・それが僕にとっての名車だろうか。
僕は基本的にファンとしては「私鉄ファン」であると自認している。
それでいて国鉄内部を知る僕の目線は国鉄車両には厳しいかもしれない。

その僕がこれぞ国鉄の名車という車両を上げてみたいと思う。
ただし、僕が見たことのない車両は如何にそれが世間の評判がよくてもここには含まない。

1・・20系客車。

Photo近代化初期の作品であり、手動ドアや窓周りなど欠点の多い車両群でもある。
しかし、そのデザインセンスのよさ。
夜行列車という言葉をまさに体現したかのような深いブルーに3本の白線、そしてやわらかい曲線で構成されたボディデザイン。
そして、窓回りなどに木材を多用した静かな車内。
空気バネ台車と密着自動連結器による柔らかな乗り心地・・
スハ32、スハ43、14系と僕は客車の仕事をしていただけに、好きな車両もまた多いのだが、客車を代表するのはまさにこの20系客車だろう。

Nahanehu22 僕はこの車両が第一級の大幹線で活躍した姿は、わずかに目にしただけであり、それらに乗車できたわけではないが、僕自身が愛用した「銀河」「だいせん」「さんべ」・・その列車それぞれの思い出とともに、20系客車のあの優雅さは今も僕の中に生き続けている。

2・・80系(キハ82)気動車。

Photo_2 国鉄が全国各地に特急を大増発するために開発した特急気動車であるのはもちろん・・僕がここに挙げた理由はまさにそのデザインセンスにある。
キハ81が電車の成功に気を取られすぎ、気動車としての使い勝手も無理に押し込んだ結果、デザイン面で必ずしも成功したと言えなかったことの反省から、亜幹線での使い勝手のよさとデザイン双方に気を配った車両だ。
正面の流れるような大型の曲面ガラスは、当時のガラス製造技術では限界に近く、あえて、そういう冒険をしたあたり、国鉄の意気込みが感じられる。
なぜか車内設備は電車に比べると貧弱であったけれど、それでも、列車といえば蒸気機関車が牽引する茶色の客車ばかりだった地方に、明るく近代的な光を投げ込んだその功績は非常に大きいと思う。
この車両の登場で、日本の鉄道は特急時代に突入していった。

その使い勝手のよいデザインは後継181系気動車や、北海道の183系、四国の185系にも流れを引き継ぎ、今に至っている。
明るくスマートな特急が東京や大阪と結ばれた地方の人々はこの車両を見て、ますます都会への憧れを抱くようになったのではないだろうか。

20系客車の同時代の作品であるだけに乗り心地もやわらかく、静かだったのが印象的だ。
エンジンは一般気動車と同じで、それだけに性能面で物足りなかったのは時代を思うと致し方ないのか・・
昨今の高性能気動車からは考えられない性能だったが、国鉄は電車特急と一緒に走る区間では停車駅を減じるなどで平行ダイヤを維持していた。

「まつかぜ」「はまかぜ」「くろしお」「紀伊」などのあの乗り心地のよさ、そして食堂車のあの雰囲気は忘れることができないのだ。

3・・181系(旧151系)電車。

Photo_3 いわずと知れた近代特急用車両幕開け記念碑的存在である。
ただ、僕自身はこの車両の活躍する東海道特急群を見ていない。
見ているかもしれないが、幼少のころであり、その思い出は定かではない。

それでも、絵本に登場したこの電車の格好よさは、まさに幼少のころの憧れでもあった。

長じて、上野駅へ「とき」「あさま」を見に行ったわけだが、幼少のころに抱いた憧れの存在は少々くたびれていた。
それでも、憧れのスターを直接見たかのような感動を覚えたものだ。

国鉄は電車の設計はそつなく上手にまとめる癖があり、この電車も良くできた電車で、その後の485系群にもこの設計がそのまま流用されている部分が多い。
特に室内の造作など、485系初期車と181系とでは共通している部分が多い。

東京、大阪を結んだ鮮やかな流線型特急列車・・
日本もこの車両の登場で欧米に並んだという印象をもたれた方が多いのではないだろうか。

いずれにせよ、日本を代表し、昭和を代表する車両であることは間違いがない。

4・・EF58形電気機関車

Photo_4 日本の戦後復興から高度経済成長を支え続けてきた旅客用電気機関車といっても過言ではないだろう。
特急列車牽引で、多くの市民にも親しまれた国鉄を代表する「顔」でもある。

車体は更新工事で作りかえられているが、機構的にはEF15などと同じく旧型機構のままであり、性能も大きな車体の割りに良くないということだったが、国鉄の標準形式として使い勝手がよく、現場には愛された機関車だ。

僕らが子供のころ、国鉄の機関車といえばまさにこの機関車で、その長い流線型ボディが非常に格好よく見えたものだ。

長距離は新幹線でも航空機でもなく、ただ夜行列車が結ぶ時代・・
この機関車を見ると青春のころを、あるいは幼少のころを思い返される方も多いのではないだろうか。(画像は昭和50年ごろ姫路駅で友人K君撮影)

5・・117系電車。

Photo_5 国鉄がその体質を改善しようと必死に努力を重ねていたころ、平行私鉄の脅威に悩まされる関西に向けて地域専用という初めての用途で登場した近郊型電車だ。
私鉄のデラックスな特急電車と比べられることが多く、その点については気の毒な存在だった。
117 国鉄がそれまでのお堅いオツムを、ずいぶんやわらかく揉み解した結果の作品で、急行形電車を上回るその居住性は、国鉄離れが顕著だった関西地区の乗客を呼び戻す原動力にはなりえなかったが、今のJR西日本、221系、223系の足がかりともなり、関西地区のあるべきサービスを問いかけた点ではまさにパイオニアだった。

関東では近郊型は通勤型に飲み込まれるようになり、今やその存在すら疑わしいが、関西では国鉄が作り上げた近郊型という電車のひとつの「カテゴリー」が今に生き続ける結果となったのも、この車両があってのことだろう。

Photo_7 このほかにも、機関車ではDF50、DD51、EF65、EH10や、戦前の流線型モハ52、横須賀線モハ32、戦後の80系電車、70系電車、ローカル線用のキハ10、キハ20、50系客車、急行形153系、471系、451系、キハ58、北海道の711系電車、振り子式381系電車、寝台兼用581系電車、九州のキハ66、そして新時代を告げた201系電車など名車に押したい車両はたくさん存在する。
それになんと行っても新幹線0系か・・

0系などは確かに時代を作り上げた革命児であるけれども、その最盛期はあまりにもこればかりで、面白みに欠け、だから・・車両そのものに「胸ときめかす」ことは少なかったように思う。
働きの割りに最盛期にはその存在が持ち上げられなかった・・そんなモーレツ社員のような電車だったのかと思うと可哀想になってくるが、最晩年にブレイクしたことで彼らも少しは救われただろうか。

Photo_6DD51は今も存在する国鉄の標準形式であるけれども、その形態があまりにも地味であり、活躍の割にはこれまた評価されなかった。
仕事のできる「ただのおっさん」的な存在に見えてしまったのではないか。
この機関車が旅客列車を牽引して山陰線や函館線を走る姿は案外、頼もしく格好よく感じたものだ。

実際、イケメンよりは普通のおっさんが仕事ができるものである。(これは偏見か?)

なお、本文には蒸気機関車が入っていないが、これは僕が「電車世代」であるからで、その本質を見ることができなかったからで、あえて触れなかったこと、ご承知置き願いたい。

また、国鉄の名車といわれるとどうしても近代化初期の車両が入ってくるが、それはまさしく、そのころの国鉄が生き生きと仕事をしていた証でもあり、国鉄が交通の第一人者であった時代でもあり、それだけに国民に与えたインパクトも大きかったのではないかと考えている。

しかし、昨今では鉄道会社の商魂ゆえか、「名車」とは思えないような車両までも華々しく「さよなら運転:」などをする傾向にあるような印象もある。
去り行く男はただ静かに・・
これこそ、昭和の誇りのような気もする。

モハ52が、キハ82が、静かに去っていったように・・

鉄道ファン氏もできれば静かに車両の引退を見つめてあげて欲しいものだ。