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2010年2月

2010年2月24日 (水)

窓の話。

  国鉄時代の車両の窓にはやはり一定の決まりごとがあり、その決まりに従って設計されていたように思う。
特に新系列と呼ばれる車両にその傾向が強い。
たとえば、通勤・近郊形車両は全開の出来る2段窓。
急行形車両は普通車は2段窓だが上段下降、下段上昇式で、グリーン車は2連窓の下降式。
特急形車両は固定式・・

これらから離れる車両はある意味では特殊な車両といえるのではないだろうか。
たとえば電車の準急用157系は固定窓と同じサイズの大きな下降式。
185系電車は1段上昇式・・

けれども、客車・気動車に関しては寒冷地での使用が多いという事情もあるだろうが1段上昇式の窓を採用することが多かったように思う。
オハ35で確立した大きな1枚窓は、スハ43を経て、そのサイズを拡大しながらナハ10、あるいは80系電車や26・55系気動車にも採用された。

通勤型が2段窓になるのは冷房のない時代、あるいは扇風機すら優等車両にしかない時代において、立席客の換気を考えてのことだったろうし、それが全開するように設計されていたのはかの桜木町事故の影響がいつまでも尾を引いていた部分もあるのだろう。
だからか、国鉄末期に製造された105系や115系・113系の設計変更車両において、方向幕部分の窓が急行形と同じ上段下降、下段上昇式だったのに、ほかの窓はすべて2段上昇式になっていたのだから、その頭の固さに感心もしたものだ。

けれど、国鉄の客車は電車とは違う部署で設計されていたこともあり、同じような思想で作ってもまったく異なる方法で、これが客車の標準になっていくのだから、現場の乗務員や清掃作業員などには戸惑いもあっただろうとも思う。

Photoオハ35で確立した1枚上昇式の窓は、座席のピッチにあわせた幅約1000ミリの大型の窓であり、この発想は固定式クロスシート車両の基本となって今に引き継がれている。
国鉄での最初の採用はモハ52ではなかったか・・
モハ52は2段上昇式の窓だが、これは電車として通勤時の対策を考えてのことだろう。
オハ35はそれまでのスハ32の2枚の窓を1枚にあわせた形態となった。

立席を考慮せず、寒冷地対策を考えてのことだろうか。

この窓はオハ35の後継車であるスハ43にも引き継がれる。

さて、これら一般・急行用標準客車の窓は非常によく出来ていた。
窓はもちろん木製であり、厚さ5ミリのガラスを採用していて、これでは到底、旅客が楽に上げ下げなど出来るはずもない。
そこで、窓柱上部につり合いバネを取り付けた。
これは簡単に言えば巻尺のような形態のバネで、このべろの部分を窓の縁に木ねじで留めるのだ。
窓の縁にはこのほか、フェルトが打ち付けてあり、窓の工作上の誤差をこれでカバーし、隙間風が入らないようにしてあった。

Photo_8幅の狭いスハ32の窓も、構造は似ているが、窓自体が軽いのでつり合いばねはない。

Photo_2 また幅1200ミリという超ど級の窓を採用した優等車両にも当然、つり合いバネはあったが、それでもこの車両の窓は重かった。

Photo_3さて、ナハ10から設計は全金属が前提・・となり・・
そのナハ10が全金属製であるとするには僕は疑問を持っているのだが・・
窓もやや大きく、外観は近代的なヨーロッパ調となった。

このあたりから国鉄のおかしさが設計にも露呈することになる。
外観はナハ10とキハ26、それに80系電車300番台とではよく似ていて、いかにも同じ時代の車両に見えるのだが、設計者が異なるために、窓構造も異なるのだ。
ナハ10の窓はサッシそのものがアルミ製になったが、これまでのようにフェルトで誤差を補正するようなことはせず、窓柱にコの字型、アルミ製で布を貼り付けた窓溝を取り付けた。
この布で隙間風を防止するという発想のもので、この窓溝の中をこれまでと同じようにつり合いバネが上下する。
ところが、この方法では、車両が新車のときは良いが、古くなってくると窓柱にたまった錆などで、窓溝が窓柱から浮き上がり、窓が開かない・・あるいは窓が閉じないという結果になってくる。
これには頻繁に工場へ入場させ、この部分のさび落としや、窓柱の補修、窓溝の交換が必要になってくるのだけれども、客車車内設備は全般検査でないと手をつけない。
結果として、4年も経つころにはがたがたの状態で工場に入場し、工場でもあまりにも傷みが激しくて丁寧な作業が出来ないという悪循環に陥ってしまう。
車両基地でも窓の開閉が出来ない状態を打破するためには、結局、窓溝を取り外すしかなく、そうすると、今度は窓は開閉するものの・・乗客は隙間風に泣かされるわけだ。

この点、電車と気動車では同じように見える窓構造でも、窓柱に取り付ける窓溝を廃し、窓サッシに厚めのフェルトを貼り付ける構造になっていた。
これなら、窓はアルミ製で錆には強く、窓柱にも窓サッシとの間にはさまれる部材がないことで、錆が出て浮き上がることもなく、車両が傷んできても窓そのものはさして傷みがない状態となり、結果として長く使えるというわけだ。
気動車はキハ28・58まで1枚窓で通したが、今も一部で現役のキハ28・58が現場や旅客に好評なのは、こういった軽量客車との設計上の差異が大きく影響しているように思う。

Photo_4客車の窓で、さらにどうにもならなかったのがオハネフ12あたりの下降窓で、これは通路側の窓を大きな1枚窓の下降式とし、なんとも旅情をそそるすばらしい思想の窓だったが、軽量客車の寿命を12年と想定していた当時の設計思想では後年の大混乱など見えるはずもなく・・
大失敗の窓構造だったと思う。

下降式1枚窓を支えるのは片腕のローラー付窓バランサーで、これをサッシュレスの窓下につけたステンレス製のローラー受けで受け止めているのだが。阪急あたりのパンダグラフ式バランサーと比べるとどうしても力の入り方が均等にならない。
国鉄は車掌室や運転室の下降窓においてこの方式で成功しているけれども、大型の客用窓まで同じ設計にしたことが大失敗を生んだのではないか。

Photo_5さらに、雨水や海辺の塩水が窓に入り込んでも外へこれを排出するパイプすら存在しない。
同じ時期の私鉄車両などは、側構下部にステンレス製の排水パイプを設け、さらに、このあたりを構成する材質も雨水に強いもの・・さらにはステンレスを使うなどして腐食対策には万全を期していた・・のにである。
国鉄の設計、これでは、車体は腐食する一方で、腐食によって狂いが生じ、さらに窓がきちんと動作できなくなってしまう。
外観や設計イメージと程遠い粗悪な車両が10番台軽量客車の・・さらに言えば普通寝台車であったわけだ。

Photo_6だから、同じ10番台寝台車でもA寝台であるオロネ10にはそういう腐食しやすいという欠陥は一切なかった。
固定窓を採用しているからだ。

ところが、その固定窓にも欠陥がある。
オロネ10と20系客車は基本的には似た設計であり、窓構造も同じだ。
同じ時期の電車特急、151系電車や気動車の80系と外観を比べてみて欲しい。
20系客車やオロネ10の窓回りはHゴムでガラスを止めてあるかのように、灰色のゴムの露出が大きいのが見えるだろう。

これは、窓付近のつくりを簡素化するために、この窓部の外板に曲げ加工などせず、平面のまま窓ガラスを固定する方法を採用したからだ。
この方法は、平面のままの窓まわりにこれにかぶさる形で押さえゴムを回して、この押さえゴムの内側に大量の接着剤を塗布、これにガラスを圧着させて窓内側から三角形の木片で留めるというやり方をしているのだ。

これに比べると、電車や気動車はややつくりが複雑になるものの、窓回りの外板をわずかに内側に曲げ、この曲げた部分でゴムを固定し、これに窓ガラスを圧着する方法であり、窓ゴムの露出が少なく、結果として窓ゴムの腐食に強いということになるわけだ。

Photo_720系客車の晩年、窓ゴムの傷んだ車両が多く、見るたびにつらかった。
窓ゴムを交換するといっても結局はそのゴムに接着剤で圧着されているガラスをはずさねばならず、そのガラスははずすときに大半が破損してしまう。
しかし、痛んでいないガラスを破損させるのは忍びなく、窓ゴムが腐食していても内側にまで腐食が進行しているわけではないようなときは、窓ガラスと窓ゴムとの間にパテを盛り付け、この上から接着剤を薄めた塗料を塗布するという補修をしていた時期もあった。

同じ作業がほとんど不要な電車や気動車と比べると、客車はなんとも設計に詰めの甘さを感じさせたものだ。

しかし、客車の固定窓も、14系からは電車や気動車と同じ方式に変わった。
また、軽量客車の出来の悪い窓構造も12系客車からは急行電車と同じ構造の簡易で作りのしっかりしているものに改められた。

24系客車なども昨今では老朽化が著しいそうで、その代替の車両を製造するにもコストの割りに経営に寄与しないことから、現在は寿命を延ばして作られた寝台車を使う列車がダイヤ改正のたびに削減されている。
その是非はともかく、これは作りのしっかりしていた24系客車であったから今まで持ちこたえたのであり、10台の軽量客車や20系客車のようなつくりでは、とうに車体は崩壊していたのではないだろうか。

オハネフ12の最晩年・・
クレーンで吊り上げられた車体が自らの重みで崩壊し始め、作業員が緊急に避難することがあった。
結果としてはなんとか、一部箇所が大きく破損しただけで、仮台車に載せれば何とか持ちこたえたから、更新修繕に近い大修理をして出場していった。

その後、この車両は何年も使われなかったが、何もかも杜撰な10系客車の設計を思い知った青春の思い出でもある。

2010年2月11日 (木)

阪和の残党

昭和5年、大阪天王寺と東和歌山の間、61キロをノンストップ超特急が45分で結んだ伝説の私鉄・・
それが阪和電気鉄道である。

その阪和は同じ時期に開業したほかの高規格私鉄である新京阪、神姫などと同じように、経営的には苦しい鉄道だったようだ。
そして、やがて昭和15年、阪和電鉄は平行私鉄であるライバル、南海に合併されてしまうが、それもつかの間、昭和19年には国鉄に買収され、阪和線となってしまう。

戦前の狭軌鉄道では世界最高峰の高速運転を誇った阪和の存在は、僕たち戦後世代では神代時代の神話でしかない。
だから、僕たちにとっては国鉄阪和線はまさに国鉄のものでしかないわけだが、それでも、かの神話の阪和電鉄・・への憧れに似たようなものも持ってしまう。

そして、その阪和の生き残りの車両をこの目で見た嬉しさもまた格別なのである。

昭和54年当時、阪和の生き残りは秩父鉄道のED38、青森県の弘南鉄道のクハ2025・26、そして近江鉄道の小型機関車1101だけになっていたように思う。

僕はこのうち、弘南と近江の車両を見ることが出来た。

Photo弘南のクハ2026・・これは阪和のクロスシートカー、モヨ100の生き残りであって、国鉄時代に3ドア、ロングシート化、松尾鉱業鉄道を経て弘南に入線、制御車化、前面非貫通化されて活躍していた時代だ。
乗車してみると腰が高い車内の雰囲気は、他車と一風変わっていたように感じられたが、すでにその記憶もあいまいである。
ただ、この写真の場所は美しい場所だった。
岩木山を望む田園地帯ではあったが、撮影していると地元の人らしい女性が近づいてきて、いろいろと話を求めてきた。
どうやら、電車の写真を撮影している僕らを、バイパス工事の測量技術者ではないかと寄ってこられたようだった。
場所は田舎館駅近く。

今この場所はどうなっているのだろう。

しかし、この電車は幸せな電車だと思う。
関西から遠く離れた空気の綺麗な緑豊か、おおらかな気風のこの土地で天寿を全うすることが出来たのだから。

Photo_2 もう1両の近江鉄道1101。

こちらは阪和電鉄の入換用の機関車で、この機関車は今も近江鉄道で保管されている。
この当時はまだ入換用に健在で、時折愛らしい姿で走り回ってくれていた。

しかし、今も現存しているということは、秩父鉄道で静態保存されているED38(阪和1000形)とともに、最後に残る阪和形車両ということになる。

阪和電鉄が作り上げた阪和線は当時最高峰の設備だったといわれる。
けれども、今のJRにはやはり窮屈なところもあるようで、改良工事が進んでいる。
一番の改良は天王寺駅付近だろうか。

この工事によって阪和線の専用ターミナルはその存在意義をなくしつつあり、阪和線快速の半分は関西線ホームから発車するという現実は時代の流れを感じさせて余りある。

阪和電鉄が残した歴史はわずかに10年、その名残とも言える天王寺が大きく変貌した今、30年前には活躍を見られた車両もすでに第一線にはなく、電車は1両も残っていない。
しかし、阪和電鉄の偉業は今、JRの221・223系や381系により引き継がれているはず・・だ。(少々皮肉の意味を込めて)