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2010年1月21日 (木)

須磨海岸の国鉄

国鉄時代の名撮影地・・それも関西でといえば、山科、山崎、武田尾、それに須磨というところが一般的だろう。

特に須磨は国道や山陽電鉄よりも海岸よりを走行し、線路の南はすぐに海という都会の中にあって信じられないような撮影地だった。
線路は複々線で、走る列車はバラエティに富み、しかも運転本素は非常に多い・・

これまでにもこのブログで何回も須磨海岸を走る列車を掲載しているけれど、今、改めて・・須磨海岸そのものを取り上げてみようと思う。

鉄道ファンの間で「スマシオ」とも呼ばれたこの区間は山陽本線の須磨と塩屋の間の区間である。

かつて、線路と海岸の間には邸宅があったようだが、複々線工事の際に全面撤去されてその遺功だけが今も残る。
線路脇の防波堤や海岸に積み上げられたテトラポッドは釣り人たちのメッカでもあるし、引き潮の際に大きくなる砂浜は正式な海水浴場ではないが夏には地元の人たちが、のんびりと水着でくつろぐ場所でもある。

だから、かつて・・国鉄時代には線路を横断する人も多かったし、邸宅跡地のスペースで列車の写真を撮影していても誰も奇異に思わなかった。

瀬戸内海は明るく、凪いでいることが多く、列車の車窓から見る海もまた格別で、そういった意味では都会に残された奇跡の景色といえるのではないだろうか。

その国鉄時代の写真から少し・・

153_4 まずは須磨浦公園からみた松林の向こうを走る153系の新快速電車。
2ドア、全車両がトイレ、洗面所つき、オールクロスの急行仕様が都会の列車に使われていたのだから時代を感じる。
153系新快速は山陽本線での最高速度は設定上は95キロだった。
乗車していると座席下の蹴込み板が、しゃかしゃかと音を立て、軽いモーターのうなりとともに淡々と走っていた。
今の「爆走」する223系にはなかった余裕とでも言うのか・・

153_3153系新快速、もう1枚。
須磨浦海岸の一の谷近くの交番脇から撮影したもの。
この交番には今も昔も走行するトラックの軸重を測る設備が備えられてあって、時折ここで検問が実施されていた。
交番脇からは須磨海岸の砂浜をバックにした写真が撮影できた。
低運転台のクハ153は今見ても優れたデザインだと思う。

Ef58 EF58・・
荷物列車を牽引している。
この当時、一日に5~6本の長距離荷物列車が設定されていて、EF58の独壇場だった。
特急列車を牽引するEF58も良いが、こうして荷物列車を牽引するのも渋くていい。
大型の時刻表には荷物列車の時刻もしっかり掲載されていた。

Ef66 EF66・・
今も活躍する機関車だが、このころは高速貨物はこの形式が牽引して95キロ、100キロで走っていた。
このころからそのデザインの良さで、ブルートレインの先頭に持ってきたいなと・・言われていた。
高規格の山陽本線では高速コンテナ列車は滑るように走っていく。

103 103系・・
屋根の上にはひとつも冷房装置が搭載されていない・・
まだ冷房が贅沢だったころ。
103系は京阪神緩行線ではその性能が限界値の使われ方をしていて、高速で走ると周囲の山の上からも激しいモーターのうねりが聞こえたものだ。

117113 117系が113系を追い越す・・
国鉄の力作だった117系も乗客を増やすことはできなかった。
新快速は一時的に153系時代より速度を落としたことがあった。

せっかくの、ゆったりした快適な転換クロスも朝夕を除けば空いていた。
しかし、国鉄最後のダイヤ改正で列車線走行に改められる。
新快速が先行する平行私鉄に徐々に迫っていったころだ。

Photo 紫煙を上げて突っ走る急行列車。
6両編成・・列車は「みまさか・みささ」だろうか。
当時の気動車は性能が低く、それでも目いっぱいの高速走行をしていた。
ただし、姫路以東では急行券が必要で、乗客は設備的には同じで、急行券不要、安くて速い新快速を利用していた。
オンシーズン以外はこの区間では良く空いていた。

25 最後に鷹取工場から出場し、試運転をしている25型客車。
高砂工場廃止前は、試運転は加古川駅と上郡駅の間で行われていた。
このころは鷹取操車場から姫路駅だったか・・
記憶が定かではない。

今、この区間で列車の撮影をしようにも人間より背の高い金網が張り巡らされ、とても撮影などできない状態だ。
山の上からの俯瞰でも117系の写真程度の位置ならば、無骨な金網が入ってしまう。

海岸の防波堤から撮影しようにもここにも金網が張られているし、線路脇の空き地にでも入ったなら、列車は運転抑止とされ、運行を妨害したとして多額の賠償を請求されるのが落ちだろう。
列車妨害や自殺を防ぐ意味で、JRの安全運行への努力であり、その点は評価できるが、味気ないのもまた事実だ。
いまや列車の撮影は・・
特に都会の幹線の場合は・・駅でしかできないのもまた悲しい現実である。

願わくば、名撮影地付近で有料でも良いから鉄道ファン向けのスペースもほしいと思う僕は・・やはり自分勝手なんだろうな・・

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コメント

 急行「みまさか・みささ」に乗った事がありました。この区間で113系快速と並走し非力の気動車が振り切った(100km/h以上は出ていた)のに感動しました。
 
 1983年頃の思い出ですが、それより以前には、キハ82「かもめ」「日向」が100km/hで長駆九州へのはるかな旅の助走区間だったのでしょう。

 複々線と海岸美、須磨海岸は彼ら達の晴れ舞台だったのだと思います。

 今、この区間で孤高のキハ181「はまかぜ」の最後の力走を見てみたいです。
 

 須磨―塩屋間は私の鉄道趣味の原点です。当時、私は塩屋の北側に位置するジェームス山に住んでおり、須磨―塩屋間は手頃なサイクリングコースといったところでした。昭和46年頃よくクラスメートの鉄道仲間と自転車をこいで、列車の撮影や鉄道模型を販売している須磨模型、セイシン堂を訪問したものです。当時は新幹線も新大阪までしか開通しておらず、在来線は全盛期でした。
今日は沿線にカメラマンが随分多くいるなと思っていると形式入りナンバープレートをつけたC575のひく“蒸機の旅号”が運転されました。一日中いても退屈しないくらい多種多様な列車が運行される場所でした。その中でも展望室のついたクロハ181を先頭にした“うずしお” “しおじ”は白眉的な存在で憧れました。
 こうさんの文面にあった線路と海岸の間の邸宅に住んでいた人が私の職場にもいました。その人は幼少の頃、いつも上り“かもめ”の最後尾についたかもめの図案の入ったテールマークを見てから床に就いたようです。
 その後、“ひかりは西へ”というキャッチフレーズの下、在来線の優等列車は全廃になり、訪問の機会もなくなりました。

クハ111‐52さん>

お返事が遅くなり申し訳ありません。

キハ58系の頑張りはすごかったですよね。
今の「はまかぜ」は最高速度120キロで頑張っています。
走行時、ものすごいエンジン音で、列車を見なくても「はまかぜ」だと分かってしまいます。


L急行鷲羽さん>

新幹線開業前の須磨・塩屋・・ものすごくうらやましいです。
僕はまだカメラを持つ前・・でしたからわざわざこの区間に降りて列車を見ることもなかったです。

カメラを持ったのは新幹線開業後・・
遅かりし由良の介・・でしょうか。。

写真撮影をほとんどしない私は、もっぱら自転車で走り抜ける事が多く、じっくり列車を待った事は無いのだけれど、国鉄独特のモーター音(ファン音?)を聞くのは好きでした。今の223系同士の併走もいいと思ってしまう私ですが、憧れの117系の晴れ舞台を見れなくなるなら、しっかり見ておくべきだったなぁ。
少し脱線しますが、海に目をやると、必ず淡路フェリーが数隻浮いていました。昨今の交通政策まで思いが飛んでしまって、淋しいより、腹が立ちます。 以上

坂本賢介さん>

淡路フェリーは淡路に渡るときによく使いました。
明石フェリーより船旅の気分が味わえて。しかも船が大型だったので並ぶことが少なかったですね。

今の交通政策・・
明石海峡大橋で何か事件があったらどうなるんでしょうね。

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