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こう@電車おやじ

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2010年1月 4日 (月)

阪神淡路大震災と鉄道・・その1

はやいもので、あの1月17日からもう15年がやってくる。
神戸在住の僕はあの大地震による揺れを味わったjのだけれど、頑丈な公団住宅はびくともせず、我が家の被害と言えば台所の窓ガラスが2枚割れたこと、僕の部屋の本棚が崩壊して100冊以上はある書物が僕の上に落ちてきたこと、テレビが棚から落ちたこと・・くらいだったと思う。
あと、食器や家電がいくつか壊れてしまったことくらいか・・

僕の住む垂水区でも地震の瞬間は体が宙に浮くくらいの激しい揺れだったが、神戸市の都心部、須磨区から東灘区、あるいは芦屋、西宮、伊丹、それに淡路島ではこれより数段激しい揺れが襲ってきたのだ。

地震の時刻は午前5時46分。
神戸の鉄道はようやく通勤電車の始発が動き始めたあとで、新幹線はまだ走っていなかったし、各路線でも速度の出る優等列車は走っていなかった。

そのことがどれだけ鉄道の被害を小さくしたか・・
不運かと思われる神戸の大地震だがこと、鉄道に関しては「不幸中の幸い」という言い方もできるだろう。

僕は当時、大阪、OBPのホテルの写真室に勤務していた。
震災の前々日は日曜日で、成人式の日だった。
土曜日からホテルに泊まりこみ、明け方からずっと成人式の記念撮影をしていた。
そして振り替え休日の16日月曜日も明け方から婚礼の撮影・・

やっと、16日深夜に仕事を終え、大阪駅からの221系快速電車に乗り込んだ時はもう、ぐったりという感じだった。

数日ぶりに夜中に帰宅し、まだ2歳になる前だった娘と少し遊んだものの、体の芯に疲れを感じスグに布団にもぐりこんだ。

けれど、なぜだか切れ切れの夢で頭が異様に冴えて寝つかれず、ようやく睡眠に落ち込んだそのとき、ゆらゆらと体が揺れる。
そしてすぐに、その揺れは激しいものとなり、僕の体は一瞬、宙に浮いた。
布団にたたきつけられ、本能的に掛け布団を被って体を丸くした。
いろいろなものが落ちてきて壊れる音が続く。

幸い、布団を被っていたことで怪我は免れ、隣の部屋で寝ていた妻と娘も布団で守られて無事だった。

揺れが納まると真っ黒な闇の中、これまで経験したことのない静けさがあたりを覆う。
ときおり悲鳴のような叫び声が聞こえるが、それもまたすぐに途切れてしまう。

この日から大阪が遠い所になってしまった。
地震直後から神戸市内の鉄道はすべて運行を停止。

大阪の仕事場へ行きたくても通勤手段すらないという状況になった。

それでも、翌日には市営地下鉄が一部高架橋の破損で単線運転ながらも運転を再開してくれた。
時速45キロ、運行区間は西神中央から板宿までで、すべての電車は途中の名谷駅で乗り換えとなり、約20分ごとの運行だった。

神戸市営地下鉄と言えば高い表定速度、清潔感あふれる車内といったことが自慢だったが、震災から1週間ほどは徐行運転だったし、乗客で一杯の車内には汗や体臭の匂いがたちこめていた。
おしゃれな神戸市民も水が出ず、ガスも使えない状況では自らの清潔の保持など無理だったのだ。

僕は震災の翌々日からテレビやラジオの報道ではわからない友人、知人の安否確認と、生活必需品の確保に走り回った。
(結局、友人知人やその家族で6人の方の死亡が確認され、避難所にいることになった人は数十人にもなってしまった)
大阪への電車も止まっていることで、1日だけミニバイクでボランティアの手伝いもした。

さて、大阪への通勤再開は震災から10日後の1月28日からだ。
この日、僕は朝5時前にミニバイクで家を出て、山越えを敢行、神戸電鉄の鈴蘭台へ出て、神戸電鉄で三田へ、三田からJR福知山線で大阪へというルートをとった。

僕の震災前の平日、朝の通勤時間は1時間40分程度だった。
自宅近くのバス停から山陽電鉄バスに乗り、垂水駅まで、ここからJR快速で大阪駅、そして大阪環状線で大阪城公園駅というものだった。

それが、震災後初めての通勤では5時間近くを要した。

その翌日、夜中に帰宅途中、瓦礫を踏んだようで、バイクのタイヤが一気にバーストした。
そこから自宅まで、約8キロをバイクを押しながら歩く羽目になった。

翌日の出勤は絶望だと思っていたが、まさにその翌朝、JRが須磨から神戸まで復旧し、明石方面から直通運転されることがテレビニュースで伝えられた。

1月30日の朝、始発バスに乗り込んだ僕は、垂水駅から各駅に停車する「快速電車」に乗り、神戸駅まで行った。
復旧といっても仮復旧であり、やっと使える2本の線路をつなぎ合わせて実現したものだ。
だから、鷹取工場わきに作られた仮設ホームや、急遽、電化された和田岬線と鷹取操車場を結ぶ連絡線をつなぎ、しかも、上りのホームは全て快速編成が停車できるように12連化され、朝のラッシュ時の上りは全て快速も各駅停車で

神戸駅には代替バスが並んでいて、これに乗車したが、すぐに渋滞に引っ掛かり、バスは動けなくなってしまった。

結局、三宮まで徒歩でも30分で行ける所を30分以上かかってようやく到着。
ここでさらに代替バスへの行列に並んで・・
僕はJR、阪急、阪神の代替バスのうちで阪神を選んだ。
阪神はこのころでは唯一、東から神戸市内の青木(おおぎ)までは入れる鉄道で、バスの運行距離が短く、大阪へは一番早くつくだろうと考えたからだ。

この考えは正解で、以後、しばらくは僕は阪神経由で通勤することになる。

それでも、このころの通勤時間は3時間50分程度。
寒い冬に行列に並ぶ代替バスはつらかった。

このころ、僕は火曜日が休みで、だから土曜日曜も通勤はしていた。
2月1日、神戸高速と阪神が高速神戸ー三宮を開業。
最初はトンネルに残された阪神5000系1編成が折り返す状況だったが、やがて2月5日から山陽電車でトンネルに取り残された5000系特急編成2本、それに3050系が1本、これで新開地と三宮の間の運転を再開した。

大阪からの帰路、建物が壊れて営業休止状態の「そごう」の下から地下線へ入ると、赤いクロスシートの5000系がやってきてくれる。
こういうときだからか、あのシートはものすごくほっとするような存在だった。

阪急も阪神も、被害が大きかったが、運行できる区間からとりあえず運行をしてくれたし、市営地下鉄はメインターミナルの三宮の復興を待たずに前線で運行を開始してくれた。
2月13日、阪急が王子公園と住吉の間を開通。
この日、神戸駅で電車を乗り継いで三宮についた僕は、ここから王子公園まで歩いた。

さらに2月16日、市営地下鉄が全線で運行を再開すると、僕は新神戸から王子公園までの道のりを歩いた。

これで通勤時間は3時間を切るようになる。

2月20日、待望のJRが神戸駅から三ノ宮を経て灘の間で営業再開。
これで、ようやく、JRに乗ったまま、灘まで行き、灘と王子公園、御影と住吉の間を徒歩で結べば、垂水から大阪まで鉄道だけで行けるようになった。

通勤時間は2時間30分台まで短くなったけれど、以降は激増する人の流れの中で、かえってこれより通勤時間が延びるような傾向になった。

3月の月曜日。
大阪へ向かう大量の通勤客と、神戸へ向かう大量の通勤・用務客で阪急・JRの乗り継ぎはついに破綻してしまう。
灘駅には人があふれ、王子公園駅では乗客をさばききれず、ついに、人の波が全く動かなくなってしまったのだ。

もともとがターミナルではない駅である。
人をさばくのにも大ターミナルのようなキャパシティはない。

この日、僕はJR灘から住吉まで徒歩で結んだ。
距離にして4キロ強、時間にして1時間余り・・

朝ラッシュ時のあまりのすさまじさに、疲れ果てた帰路では代替バスも阪急への乗り継ぎの際の長い徒歩区間も、すっかり嫌になってしまい、時として大阪から三田経由の大回り、神戸電鉄、北神急行、神戸市営地下鉄と乗り継いで帰宅したこともあった。

この時期、大阪在住の祖母が危篤状態・・さらに亡くなったのだが、僕は母と妻を連れて、乗り換えを要するこの区間を行った。
さすがに慣れぬ年寄り連れでは帰路は乗継ルートは使えず、大阪港から船で神戸ハーバーランドまで帰ってきたことだ。

4月1日、JR神戸線は全線で開通した。
その前日、夜遅くに帰宅しているとき、住吉駅や灘駅で代替バスの乗客整理にあたっていたJRマンたちが「明日から電車は全線開通です!長らくご不便をかけしました」と乗客一人一人に頭を下げている光景を目にした。
そして迎えた開通の日。
苦労して歩いた、あるいはバスや阪急に乗り継いだ区間を、113系の快速電車は小刻みで不規則な揺れをおこしながらも、スムーズに大阪まで走り切った。
六甲道のあの崩壊した高架区間を通るとき、涙が出た。

鉄道全体の復旧はまだまだ先のことだ。
一時は路線が更地になっていた阪神、高架橋を一から作り直した阪急の開通は6月に入ってから。
地下線工事中だった山陽は、被災した地上区間をそのまま廃止、地下新線での復旧となったがこれもまた6月。
さらに地下駅が崩壊し、道路まで一気に陥没する大被害を受けた神戸高速大開駅付近は8月にならねば開通できなかった。

JRは非常によく頑張ってくれたと思う。
だが、六甲道付近や山陽新幹線での復旧に使われた「既存の設備をなるべく活かして復旧する」
という方針が正しかったのかどうか・・
一から被災線路を作り直した阪急が、結局は震災被害からしばらくは立ち直れず、長く経営危機にあったことも考え合わせると、なかなかに難しいものだと思う。

JR西日本は真っ先に開業した強みで、震災特需の様相を呈し、震災被害を取り返せたほどの経営の好転に、新快速電車の増発や新型電車投入の前倒しなど景気の良さを私鉄に見せつけるほどになっていき、これが結局はその後のJR独走の足掛かりとなったようにも思う。

いずれにせよ、震災からもう15年・・だ。
僕らは震災を忘れることはできないが、ではその備えへの覚悟はできているのかと問われると、そうではない。
それは鉄道にしても同じではないだろうか。

あの震災ほどの地震がまた起これば…
今度はあのころのようなものではないもっと大きな被害が待ち受けているように感じられてならない。

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コメント

こうさん 明けましておめでとうございます。これからもなつかしい鉄道の話題を発信願います。
 さて、私も阪神淡路大震災には正に筆舌に尽くし難い想い出があります。
当時、私は神戸市垂水区学園緑ヶ丘に住んでおり、そこから大阪の堂島まで神戸市営地下鉄とJRを利用して通勤していました。それが震災によって通勤ルートが寸断されることになり、早速代替策を講じました。施策としては取引先のある新三田の某企業の社員用駐車場を借り、
そこまでマイカーで向かい、更にJR新三田経由で大阪まで通いました。この策は大正解で通勤路も早朝のため渋滞もなく、JRも新三田が始発駅のため、着席して割りと楽に通勤できました。
大阪に出ると、震災の影響は全くなく、何の不自由もなく生活できました。
 一方、神戸市内の被害は甚大で特に鷹取、新長田地区は空襲にでもあったのかと思う程でした。消防車も来なかったのか、焼け跡には可燃物は残っていないというような状況でした。JR鷹取工場もライフラインは長い間不通で、同僚が差し入れに飲料水を持参し、随分喜ばれたようです。
 厳しい状況下においても皆が辛抱し、モラルを守っていました。キレて駅員に文句をいったり、電車待ちの行列に割り込みもせず、整然と乗車を待つ姿に感銘を受けました。

2004年の新潟の地震で脱線しながらも1人の負傷者も無かった「とき」号を思い出しました。さまざまな幸運もあったのでしょうが、JR東日本があの区間の耐震補強を行っていたことが幸いしたとの報道を思い出しました。安全への取組が「幸運の女神の微笑み」を招いた・・・と「かつぎ屋」の私は思います。15年前、私は東京に住んでいましたが、あの震災からJR西日本が真っ先に復旧し、運転再開した報道を見て「鉄道員魂」を感じたものでした。そして、L急行鷲州さんのコメントで飲料水もままならぬ状況で復旧にあたっていたことを知り、改めて感銘を受けました。JR西日本が幸運の女神が微笑んでくれるような、安全に真摯な鉄道会社になることを願っています。そして震災で亡くなられた人々や、たくさんの「命あるもの」の冥福を改めて祈ります。

鉄道ファンの視点編を「阪神淡路大震災と鉄道・・その2」としてアップしましたので、「体験編」ともいえるこちらを「その1」としました。

L急行鷲羽さん>

あの頃、僕の自宅すぐ近くに住んでおられたのですね。
同じ苦労をされてきたわけですね。

僕は独身時代に長く板宿に住んでいたこともあり、あのあたりの惨状で一時的にショック状態になりました。

つらいつらい災害でしたね。

でも、ホント、神戸市民は整然としていたと実感します。
並ぶこと・・関西人が最も嫌うことを神戸市民はどこでも黙ってしていましたね。

ふそうやましろいせひゅうがさん>

JR西日本はあの震災で私鉄各社を振り切ったことから傲慢になってしまった部分もあり、そのことが結果的に福知山線の大事故を起こしてしまったのだと思っています。

今まさに、JRにはあの震災の時の気持ちを思い出してほしいです。

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