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2009年7月

2009年7月31日 (金)

阪和線

阪和線と僕との出会いは昭和45年ごろになるだろうか。
当時、小学校4年生だった僕は父に連れられて阪和線、津久野駅近くの親戚宅に行った。
それが始めての阪和線との出会いだろうと思う。

父は当時、何度目かの転職を模索していて、我が家系の関東系の親戚であるこの人のところへ出かけたのだ。
件の親戚は泉大津市内で会社を経営していて、そのときにその会社への父の転職が決まったのだけれど、こと会社勤めということになると契約にしても条件にしても「カネ」の話で淡々と進める全くの赤の他人が経営する会社の方が良かったのかもしれない。

父はその会社で体を壊し、アルコール依存症になり、2年ほどで加古川市の会社へ転職したものの、それからまもなく亡くなってしまった。

さて、阪和線と僕との付き合いはだから、その泉大津時代が最も濃かったということになる。

103 泉大津での我が家の住まいは海岸近くの社宅だったのだけれど、件の親戚がいる津久野や、父の妹がいる天王寺へ出かける際には僕を伴って阪和線を使った。
なぜか、父は羽衣駅から乗り換え東羽衣支線を経由、鳳から向かうルートを好んでいたようだ。
津久野なら、その行き方がもっとも正しいのだろうが、天王寺へは新今宮から環状線、あるいは天下茶屋から天王寺支線というルートがあるにもかかわらず、東羽衣を経由したその真意は僕では分かりかねるが、父もかなりの鉄道好きで、それがため、少し旅行気分が味わえるルートを選んでいたのかもしれない。

当時、南海電車の泉大津駅では窓口で東羽衣、新今宮、どちらを経由するルートであっても国鉄への連絡乗車券を販売してくれていた。

さて、加古川市へ家族で移転し、国鉄に入社した僕はかつてのちょっと胸の痛くなる阪和線訪問をすぐに再開した。
このときからは所用と言うようなものは無く、たんに鉄道ファンとして・・あるいは私鉄ファンとして、和歌山方面の私鉄訪問の交通手段として利用したのがほとんどだ。

国鉄同期の友人で、今は本社で車両設計などに携わる友人のD君は、三代続く国鉄一家だけれども、お爺様がなんと・・かの阪和電鉄出身で、阪和線の社型電車をこよなく愛していたそうだ。

阪和線はその出自は私鉄である。
昭和初期、当時の最新の技術を駆使して天王寺と東和歌山を高速で結んだ伝説の鉄道でもある。
そのころに出来た鉄道としては、阪神急行神戸線、大阪電気軌道(今の近鉄奈良線)、新京阪鉄道(今の阪急京都線)、参宮急行(今の近鉄大阪線)、愛知電気鉄道、小田原急行鉄道などと言ったそうそうたる鉄道路線が並ぶが、阪和線は阪和電鉄として天王寺と東和歌山の間をノンストップ超特急45分で結んだ。
今の特急「オーシャンアロー」が最高速度120キロ、振り子機能を効かして最速39分で走破しているのだから、昭和初期の評定速度80キロ超と言うのは、まさに脅威の高速運転とも言えるだろう。
しかも、阪和電鉄はサービス精神も旺盛で、乗客が乗車に手間取り、遅れて発車しても到着時間は厳然と守ったと言う・・結果的に阪和間40分を切るようなこともあったそうで、それこそ伝説のような話も残っている。

しかし、私鉄である以上、それも電車の高性能を使いきるような運転を目指す以上、やはり駅間距離は短く、追い越し設備は数こそ多いものの、構内は狭く、配線は窮屈になってしまうのは致し方ない。
この点では蒸気鉄道から出発したライバル南海電鉄が国鉄のような鷹揚さを感じさせているのと逆転現象ではないかとさえ思ってしまう。

阪和電鉄は戦時の交通統制の必要からまず、南海と合併、南海山手線となってしまうが、それもつかの間、国鉄に強制的に買収されてしまう。
国鉄阪和線の誕生である。

阪和線はあらゆる意味で国鉄の枠を超えた路線である。
それがため、輸送力の増強もなかなかままならず、国鉄は駅の改良などを地道に続けてきた。
京阪神を結ぶ東海道山陽線と引けを取らない重要線区であるにもかかわらず、現在の阪和線は連結両数8連が限界であり、特急「はるか」も関空・紀州路快速も8連で運転されている。

70 その阪和線で最も私鉄らしさを感じることが出来るのが、天王寺の行き止まり式のターミナルだ。
大屋根の下には吊り掛け電車が大きな行き先案内板を掲げて発車を待ち、さらに、ターミナルの一番北側は特急・急行専用ホームで、くすんだ朱色の電車が多かった普通列車と並ぶキハ58「きのくに」やキハ80「くろしお」の明るい色合いの長大編成は如何にもスマートに見えたものだ。

81 時にはディーゼル特急の元祖たるキハ81の姿も見えるし、このホームの行き止まりのあたりに立ち食いの蕎麦屋も出ていて、阪和線の始発駅であると同時に紀州方面への出発点であるムードが心地よかった。

Photo 僕が写真を撮影し始めたころにはかの社型電車は姿を消して、吊り掛け電車と言っても60系、72系、それに区間快速の70系ばかりになっていた。
それでも、直線を高速で突っ走る電車のモーターの音は楽しく、阪和線に乗る楽しみでもあった。
ライバル南海は一足先に電車の近代化を成し遂げていて、当時、本線には1両も吊り掛け電車は存在しなかった。

113 それでも、国鉄なりに阪和線への努力は行われ、京阪神で好評な「新快速」をこの路線でも運転。
快速との共通運用であることを踏まえ、113系電車に青帯の塗装をして、阪和間45分運転となった。
途中、鳳に停車したから戦前の超特急よりその分だけ速いということになる。

しかし、あまりにも停車駅が少なすぎ、乗客には支持されず、のちに熊取、和泉砂川を停車駅に加え48分運転としたが長続きしなかった。

結局、快速と統合されたのは周知のとおりだ。

JR化後も新快速の再来とも言える「関空特快ウィング」が走ったけれども、これもまた、通常の関空快速と統合されてしまった。
阪和線は沿線に政令指定都市の堺市や、中規模の都市である和泉市、岸和田市などが連なり、どうしても沿線からこまめに乗客を拾うことが大事になって来るのだろう。

国鉄時代、阪和線は環状線や関西線とともに天王寺鉄道管理局になっていた。
この管理局は電車はどの路線もポンコツ(いわば他線区から転用の中古車)が多かったが、主な駅構内にはいろいろな店があるのが特徴だった。
今で言う「エキナカ」の嚆矢でもある。
これこそ、私鉄をその発祥とした阪和線の特徴を最も良く現していたのかもしれない。

ただ、今の阪和線は天王寺のターミナルを活用しているとは言い切れず、大阪駅へ直通できる関西線ホームに繋がる連絡線を使って特急の大半、快速の半分ほどもがこちらへ流れて行くダイヤになっている。

便利ではあるけれども、何かもったいない気がしているのも事実だ。

2009年7月19日 (日)

VISTAⅡが走っていたころ

子供時代の僕にとって近鉄は、京阪と並ぶ縁の少ない鉄道だ。

大阪で暮らしていたころ、近鉄に乗車したのは数回・・
それも一度は小学校の修学旅行で伊勢参りをしたときだから、個人的に乗車したのはあやめ池遊園地へ行ったときと、大阪線の二上にある遠い親戚宅へ父と行ったときと位しか思い浮かばない。
電車の色も地味で、小学生には阪急と見分けがつかなかった。

Photo_3 それでも、子供向けの鉄道絵本には必ず出てくる2階建て電車「VISTA CAR」は憧れの的だったし、修学旅行で乗車した「あおぞら」は車内は何やら安っぽかったが、子供心を興奮させるモノを持っていた。
すれ違う近鉄特急列車群にも、心を奪われ、3人がけシートの一番通路側であっても、2階にあがったところに3人がけのロングシートがあっても、それは「VISTA」には違いが無かった。

残念ながら「あおぞら」の写真は列車内から撮影できた1カットのみで、このあたり、もう少しきちんと本腰を入れて撮影するんだったと思うが・・僕という中途半端な性格の人間のなすこと・・こんなものだろうと、われながら苦笑してしまう。
この写真はあまり出来も良くない・・のでここでは掲載しない。

Photo_2 さて、「VISTA」今も走っていてこれは3代目をリニューアルしたものだが、この3代目は正面デザインが普通の特急列車とあまり変らず、いい電車だけど面白みが無いようにも思う。
やはり、僕ら世代にとって「VISTA」と言えば流線型、半流線型を組み合わせた連接車、2代目だろう。
ちなみに、初代のボギー車と連接車を組み合わせた7両編成は見た事がないから思い出にもならない。

2代目「VISTA」は昭和33年の製造と言うことで、小田急SEの後輩に当たり、国鉄151系と同じ世代ということが出来る。
小田急でなしえなかった冷房装置の搭載、初代VISTAのなんとも愛嬌のある風貌とは趣を事にした近代特急列車にふさわしい流麗なデザイン、そして、なんと言っても、当時日本で唯一の2階建て車両は、初代の「ドーム」型からきちんとした客室にレベルアップされているあたり、近鉄が放った最高傑作のひとつだろう。

近鉄は標準軌であるけれど、車両限界は国鉄よりは幾分小さく、それがために標準軌の安定性を利用したゆったりとしたデザインに出来なかったのは惜しまれる。
同じ標準軌の新幹線では国鉄時代の100系、今のMAXシリーズに見て取れるように、あそこまで大きな車体が実現できているのに・・だ。
近鉄の淵源は大正期の「大阪電気軌道」だし、南大阪線のように明治期に開業した路線もある。
こればかりは古い歴史が、今も近鉄の車両デザインに制限を与えていると言うしかないだろう。

さて、「VISTAⅡ」10100系には一度だけ乗車した事がある。
普通、電車の天井は白っぽい色合いなのだが、この電車は緑色のクロス模様のアルミデコラが下天井部分まで使われていて、なにやら暗い感じだったように思う。
座席は国鉄の電車特急初期の物とさほど変りはなく、トイレが中二階部分にあるのが不思議だった。
走り出すと、連接車とは思えないほどによく揺れ、同じ近鉄で当時の新鋭、12200系あたりとは比べるべくもない感じだった。
雰囲気的には国鉄の80系気動車に似ていると感じたが、車内の造作も国鉄特急よりはうんと良く出来ていて、なのに、なぜそう感じたか不思議だ。

乗車したのは名古屋からのノンストップ特急で、連接車3両編成ながら、非常に空いていたような印象がある。
後年の「URBAN LINER」の繁盛ぶりとは比べられない。

C そのVISTAⅡが快走している写真である。
場所は京都線の新祝園あたり・・
今では考えられないような風景ではないだろうか。

6573 VISTAⅡが最後の活躍をしていたころ、近鉄はなかなか面白かった。
名古屋線四日市での急行電車、6421系・・当時の名古屋線急行は特急格下げ車の宝庫だった。
2200新旧、2250、6431といった名車が3ドア化されて走っていた。
これももっと撮影しておくのだったなぁ・・

229 その四日市駅から出ていた軽便線・・
内部・八王子線も、大きなパンダグラフ、手動ドア、荷物室のついた電車・・等々昭和初期の軽便鉄道の雰囲気を良く残してくれていた。

こちらもこの撮影のあとに近代化されて、雰囲気が変った。
新しい雰囲気も好きだけれど、やはり、昭和初期の面影を残すかつての雰囲気・・これももっと撮影しておくのだったと悔やんでいる。

近鉄は私鉄としては最長距離を走るだけに、そこを走る電車も時代の最先端を行く名車が多い。
今のURBAN LINERも素晴らしいが、かつての2200系時代から、VISTAの時代、そして大量輸送時代にデラックス化を推し進めた12000系列の時代・・
あるいは通勤電車でも、日本最初の大型電車・大鉄デニ500、なんとも優雅な伊勢電モハニ211、大きな窓が印象的な吉野デハ201、戦後の流線型、シュリーレンの香りを色濃く出した800系、両開き4ドア・一段下降窓の高加速電車6800系・・
まさに日本の鉄道技術の粋がここに集まっているという感じを受ける。
けれども、これらの歴史的な車両は1両も、今、見ることは出来ない。

同じ関西の大手である阪急が、古い車両をきちんと手入れしながら保管しているのと大きな違いだ。
あやめ池遊園には大軌の1型が保管されていたはずだが、遊園地の閉鎖後、あの車両はどこへ行ってしまったのだろう。

いやいや、何より、日本の鉄道史に金字塔を打ち立てた10100系VISTAⅡ・・これがどこにもないと言うのはどうしたことか・・
ちょっとドライな社風に悲しくもなる。

2009年7月 5日 (日)

可部線ロクサンと太田川橋梁

可部線はかの大日本軌道が敷設した軽便鉄道をその元とした古い鉄道だ。
古いと言うのは現在残っている電化区間の話で、可部以北、三段峡までの区間は国鉄が建設した比較的新しい路線である。

国鉄はすでに昭和43年に可部以北、当時の終点だった加計までの区間を廃止するつもりでいたようだが、我田引鉄の時代、翌年には三段峡までの延長が完成してかえってその傷口を広げてしまう。

Photo この路線は私鉄としては最後の所有者、広浜鉄道が夢を描いた山陰側、浜田までの幹線鉄道として戦前、戦後の2回、延長が計画され、いずれも中止されている。
戦後に三段峡まで開業した延長はまさにこの夢の一部実現でもあったけれど、途中で工事が終了しては山の中を終点とした単なるローカル線に過ぎなくなってしまう。

さて、電車が大好きな僕にとって、可部線の魅力はまさに可部以南の電化区間にあり、気動車が走る可部以北には一度だけ乗車したのみで終わってしまった。

Photo_2 可部線に走っていた電車だが、これまた、関西ではあれほど嫌っていたロクサン・・72系電車で、4ドア、ロングシートの、一部に更新車があるもののほとんどは古色蒼然とした雰囲気で、その電車をわざわざ広島へ見にいく・・鉄道ファンとはおかしなものだと自分でも呆れた。

編成は2連もしくは4連で、4連のものは、やはりふっと大都市ロクサンの風格を感じさせてくれた。

国鉄の路線とは思えぬカーブの多さ、駅間距離の短さ、駅の粗末さ・・
そういう地方私鉄の香りが、またなんとも大都市用に設計されたはずのロクサンとよく似合い、ある意味では如何にも大都市の支線風の風情が感じられるから不思議だ。

ロクサン電車最後の楽園だった可部線にはわざと集めたかのようなロクサン=72系電車の色々な形態がそろい、それもまたファンをひきつける要因だった。

Photo_3 可部線の上八木駅と安芸中島駅の間に、太田川にかかる橋梁があって、ここは周囲の雰囲気も良く、僕を何度もひきつけてくれた。
望遠レンズで狙うと、ロクサン電車は周囲の緑の中に見事に調和して、自分では良い絵柄になったと満足もしていた。
Photo_4 電車の塗装が黄緑を主体としたもので、山手線に近いはずなのだが、同じような塗装の電車でも、緑豊かな場所で見ることでこんなにもローカル色たっぷりの風情を醸し出せるのだから不思議だ。
Photo_5 その頃、可部線は現在のようなフリークエンシーの高い線区ではなく、電車はロクサンでも運転ヘッドは30分から1時間と言う有様で、撮影の合間は間延びし、それがまた、気持ちをゆったりさせてくれ、如何にも休日であることを実感させてくれたものだ。

なぜか小学生の集団と会うこともあり、彼らもまた良い被写体になってくれたものだし、列車の撮影の合間に河原で寝転んでいると、周囲のなんとなく緊張感を覚える山並みの向こうから芸備線列車の走行音が聞こえてきたりしたものだ。
そう言えば、ここは戦国時代に毛利元就とそのライバルたちが活躍した戦跡でもあるのだ。
緊張感を覚える山の形はそのまま、戦国期の城砦のあった場所だろう。

当時、岡山以西の山陽路は、福塩線に70系のスマートなセミクロス、宇部線には40系の関西国電を思わせる活躍が見られることもあり、旧型国電が好きな鉄道ファンにはたまらない地域でもあった。
今、国鉄時代の115系、103系が競演する地域として知られるけど、重厚な旧型国電に比べると安っぽさは否めないかもしれない。

さて、ロクサンが可部線を去って一度だけ、僕はこの橋梁を訪れた。
当時、付き合っていた女性と散歩をする場所として、観光地ずれしておらず、ロクサンが去ったことで鉄道ファンもいない太田川橋梁を選んだのだ。

薄曇の日。
安芸中島駅を降りて川を渡り、そして何時間も河原を行ったり来たりして、お互い話をするでもなく、すでに彼女と僕との関係が終わりに近づいていた頃でもあり、ただ、並んで歩くことに時間を費やした。
やがて、僕らは河原の護岸に寝転んだ。
さわやかな風、川のせせらぎ、芸備線列車の音・・
いつしか、僕らはその場で寝入ってしまった。

寒さを感じ、目を明けた僕が見た先を、可部線に投入された角ばった電車、123形がゆっくり走っていた。
ロクサンが生きていれば・・なぜか彼女との間も上手く行くような気がしたものだ。
横を見ると、件の彼女はすやすやと気持ちよさそうに眠っていた。

今も脳裏に残る鮮やかな映像である。