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こう@電車おやじ

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2009年6月

2009年6月24日 (水)

岐阜の電車

美川憲一氏が歌う柳ヶ瀬ブルースは夜の町のイメージではある。
(ただし、この歌の原型は伊豆の長岡温泉を歌ったものだとされている)

岐阜の町は、いわば大人の町なのかもしれないなと、今の僕はぼんやりとそう考える。
実際に、カラオケハウスの歌詞のバックに流れる映像では、夜の柳ヶ瀬とその前を走る路面電車が登場するものがあり、この映像が流れると、僕などは歌どころではなくなってしまう。

Photo_11 岐阜の町は京都にも似て、道路は狭く、路面電車は肩身が狭そうに走っていた。
この町の中心部を貫く長良線は特に狭い道路を急カーブで走る路線で、車体の狭い小型の電車が走っていた。

僕は当時から戦国時代の歴史物には興味があり、斉藤道三が居城し、織田信長が天下取りの足がかりとした岐阜城を眺めながら走るこの路線は僕にとってお気に入りの路面電車でもあった。
もっとも、奥手な僕にとって、岐阜の色町に思いを馳せることは全く無く、岐阜=電車の町という印象だったから、名曲、「柳ヶ瀬ブルース」の世界を知ったのはずっとあとになってからではある。

「柳ヶ瀬ブルース」

雨の降る夜は 心もぬれる
まして一人じゃ なお淋し
憎い仕打ちと うらんでみても
戻っちゃこない あの人は
ああ柳ヶ瀬の 夜に泣いている

********

僕が岐阜の電車通いをはじめたのは昭和53年ごろからだろうか・・

Photo 夜の岐阜市内線を撮影した写真が出てきたので、見ていただこう。
これは新岐阜の交差点であり、まさに繁華街の路面電車という風情がたっぷりの時代だった。

岐阜には国鉄の保養所があり、ここに行くにも路面電車を使った。
なかなか日本的な良い宿で、国鉄の保養所と言えば、ここと、金沢、広島を良く使ったものだ。

岐阜の電車はすべて名鉄の路線だったが、大私鉄・名鉄とは思えないローカル風情たっぷりの情感が好きだった。
路面電車といっても、広島や長崎のように・・いやいや、廃止された神戸や大阪のように・・電停がきちんと整備されているわけでもなく、道路にペンキで囲いがしてあるだけのスリル満天の電停に古風極まりない車両・・

車両に関しては後に幾分改善されるのだけれど、路面電車の命ともいえる電停の整備は最後まで進まなかった。
それは新岐阜電停も同じことで、繁華街のど真ん中にロープで囲っただけの停留所で、非常に多くの乗客が並ぶさまはまさにここでしか見ることの出来ないものだった。
しかも、その電停からクラシカルな電車が「急行」の看板をつけてごろごろと走っていくのだから鉄道ファンにはたまらない。

もっとも、利用者にとっては危険極まりない雰囲気であり、不安に感じる人も多くいたはずだ。

ただ、美濃町線は当時、すでに新岐阜の各務原線乗り場の横から出ていて、ここから直通電車が走っていた。
ここには複電圧、クロスシート装備の魅力的な路面電車、モ600が常に入線していたが、初めてここから美濃へ行ったとき、野一色で乗換えをさせられ、その乗り換えた電車が普通の路面電車・・モ580あたりだったのだが、これがきつかった。
路面電車の車両、それも満員の車内に1時間・・いくら鉄道ファンでもしんどい。
その頃、歌手の野口五郎が歌う「私鉄沿線」が大ヒットし、野口五郎の生家を見にいく女性ファンでこの電車は活況を呈していた。

同じ路線で帰路はモ600・・クロスシートだとあんなに苦痛だった同じ距離がかえって快適に感じられたから不思議だ。

Photo_2 この路線に新型電車が投入された。
それも2種類である。
びっくりして乗りにいったが、ひとつはモ880連接車・・
如何にも正統派路面電車と言った雰囲気の連接車で、硬いFRPロングシートの上に一人分ずつ座布団を置いたような設計だったが、乗り心地は良く、かつてのモ680のような苦痛は感じなかった。
もうひとつは何と札幌からやってきたモ870で、これは徹明町と日野橋の間だけを30分ヘッドで結んでいた。

当時、名鉄は各路線を使いやすいように15分ヘッドの普通電車運転という方針を示していて、それがため、一部線区で急行の廃止なども行われたのだけれども、美濃町線はこのとき、一気に電車の本数が倍増して15分ヘッドになった。
Photo_3 美濃町線の中でも狭い生活道路に線路を敷いている上芥見付近のなんとも言えない時代を超越した雰囲気もまた、僕を頻繁に誘ってくれた。
生活道路で自転車やバイクと電車が併走するカットなど、よその鉄道では絶対に撮影できないものだったのだ。
しかも、そこを走る電車がこれまた、モ880とモ600という鉄道ファンにはたまらない組み合わせだったのだ。

Photo_4 また、徹明町始発の電車と新岐阜始発の電車が接続する野一色の停留所も面白かった。
片側のホームはホームと言うより、道路の路肩そのものである。
そこに札幌からのモ870が停車し、後ろに新岐阜からのモ880が並ぶ。
連接車が前後に並ぶのも異様だし、その横に馬面クロスシートのモ600が交換でやってくる。
美濃町線はまさに鉄道ファンにとっておもちゃ箱のような存在でもあった。

岐阜の電車で忘れてはならないのが揖斐線の存在だ。
岐阜駅前からクラシカルな急行電車・・これが新岐阜、徹明町を経由してやはり電停の安全地帯の無い道路上をごろごろと走り抜ける。
Photo_5 忠節橋を渡ると、如何にも郊外電車のターミナルといった風情の忠節駅で、ここから美濃町線とは違った、中堅都市の郊外電車の趣のある路線を快走・・
美濃町線が決して速くなかったのに対し、こちらはパラレルで飛ばす高速型の路線だった。
Photo_6 Photo_7 大正時代の雰囲気を残すモ510・モ520のクロスシートは一人がけもある快適さで、70キロほどの速度で走る爽快感は本線とはまた違った魅力があった。
美濃電気軌道が大正の終わりに製造した典型的なインターバン型電車だ。
モ510は鋼製で、丸窓が有名だったしモ520は最後まで木製で、外板に後半を貼っただけの「ニセスチール」だった。

Photo_8 直通の急行以外の線内列車は、旧名古屋鉄道(名岐の前身)初の鋼製車モ700や愛知電鉄の特急車だったク2300が、コンビを組んで走っていることが多かった。
この列車もまた、生まれは純然たる都市間輸送用でありながら、流れる月日とともにローカル風情満点の凸凹編成となり、僕らを楽しませてくれた。

Photo_10 昭和50年代には谷汲線も活況を呈していて、休日などには新岐阜からの直通の急行も運転されていた。
急行の中には新岐阜から忠節までモ510で、忠節乗り換え、ここから谷汲へ、モ700・ク2300の急行に連絡するものもあった。

急行は新型モ770登場のあと、停車駅を追加し、その分、普通電車の区間の短縮が行われた。
このころから揖斐・谷汲線の利用客の減少が著しかったのだろうか。

美濃町線のモ880よりさらにグレードアップした揖斐線モ770だけれども、揖斐線凋落期の登場だったこと、この電車によって置き換えられたモ510・モ520があまりにも魅力的だったことから、印象が薄い。

忠節の駅の雰囲気は広電西広島にも似ていたが、時代を超えて活況を呈する広電と違い、当時からすでにうらぶれた雰囲気は確かにあった。

この揖斐線を一緒にたずねた友人の中には鉄道趣味と大人の遊びを同じ岐阜で楽しむ粋人もいて、岐阜駅近くの悪所でサービスに励むお姐さんを相手に「揖斐線急行の最終は何時だったかな」と訪ねたと言う、武勇伝?も残っていて、それだけ鉄道ファンの中でも様々な嗜好を持つ人を集めた愉快な電車だったのかもしれない。
この友人と共に岐阜へ出かけたあるとき、昼食に「豆腐のステーキ」なるものを食べた。
関西人から見れば思わぬような食べ物の作り方をする岐阜や名古屋の飲食店であるけれど、この豆腐ステーキは軽く揚げた豆腐にソースを掛けて提供してくれたもので、おいしく感じた。

岐阜の電車は意外に速く姿を消してしまった。
新型車両の投入もなされていただけに、廃線はまさに寝耳に水ではあったが、時代に即応できない貧弱な停留所の設備などを思い返すとき、やはり・・これでは旅客の安全の確保など難しいだろうと考えてしまう。
その設備を上下分離で自治体が改善すればいいのかもしれないが、時代の進展の中で、ある程度鉄道の余裕のあるときに改善をしておかなかった名鉄にも非はあるだろう。
少なくとも、広電、長崎電軌、岡電などはある程度自力で設備を更新している。

揖斐線、美濃町線ともに、やりようによっては乗客を増やせただろうと思えるだけに残念ではある。

岐阜市内線長良線廃止・・1988年6月1日
美濃町線新関以北廃止・・1999年4月1日(同日より新関~関間開業)
谷汲線全線・揖斐線黒野~揖斐廃止・・2001年10月1日
美濃町線、揖斐線、田神線(美濃町線と各務原線の連絡線)、岐阜市内線残存区間の全廃・・2005年4月1日

「柳ヶ瀬ブルース」

二度と逢えない 人なのに
なぜか心が 又いたむ
忘れたいのに あの夢を
思い出させる この酒が
ああ柳ヶ瀬の 夜に泣いている

青い灯影に つぐ酒は
ほろり落とした エメラルド
もだえ身を焼く 火の鳥が
雨に打たれて 夜に泣く
ああ柳ヶ瀬の 夜に泣いている

2009年6月19日 (金)

特急「あいづ」・急行「ばんだい」

関西で生まれ育った僕にとって関東の、それも東北方面へ向かう列車は縁遠い存在だ。
けれど、その中にあっても僕と言う人間のルーツを探る上で、我が家の家系有縁の地を結ぶ列車があった。

それが特急「あいづ」であり急行「ばんだい」だ。

我が祖先は関東、下野の国で苗字帯刀を許された豪農だったそうだ。
なぜに名字帯刀を許されたかと言うと、今から400年ほど昔、土地の藩主に金を貸して、藩主がその金を返せなくなったことからその代償として名字帯刀を許されたと・・語り継がれている。

祖先の菩提寺は佐野市にあり、明治大正期に落ちぶれた我が家系の者は佐野を出て近くは赤城、足利へ、遠くは東京、福島、会津若松へ散ったという。
僕はその概略を知るだけで、僕には娘があるだけであり、財産などというものは全く無いのだから、さしもの旧家も神戸のニュータウンで途切れることはまず間違いがないだろう。

さて、話が逸れた。

その佐野の菩提寺へ行き、親族がいる会津若松へ寄る・・
それが関西に出てきた我が家系の者の勤めでもあったのだけれど、僕の家は貧しく、そう言う機会にも参加できないのは別に不思議でもなかった。
会津若松からは時々、大叔父夫婦が関西へやってきてくれた。

Photo 僕の父は生前、最期の年の冬に東京、会津を旅行している。
父は東京、本郷の生まれであり、死期を悟ったのか、貧乏な生活資金から工面して、有縁の土地と、そこに住む親族や友人たちに会いに行ったのだ。
帰宅した父はその頃から鉄道が好きだった僕に向かって「国鉄の特急は立派や!」と教えてくれた。
その特急こそ「あいづ」である。

だから、僕にとって特急「あいづ」は絵本で見た「こだま」や「月光」とは違う、現実の中にある列車であり、憧れた最初の列車でもある。

父が最後の旅行から帰宅してすぐ・・春休みに僕は弟と二人、佐野、会津若松へしばらく行くことになった。
父の転職がさまざまな事情で決まらず、社宅は期日までに出なければならず、転居が決まらぬものだから学校も決まらない。
まして僕は中学へ進学するそのタイミングだったものだから・・子供心に非常に不安だった。

その不安を少しでも落ち着かせようと言う親族一同の配慮か、それとも、大阪の親族宅では手に余るからか・・
僕と弟は突然、佐野、会津で何日かを過ごすことになったのだ。

上野駅から小山を経由して佐野へ向かう。
乗った列車はブルーの旧型客車、今思えばスハ43一党の編成であったのだろう。
一関行きという、聞きなれない行き先と、大幹線を堂々と走る旧型客車、カーブでは先頭のEF58が見える・・それは僕が始めて味わう関東の国鉄だった。

佐野の菩提寺に始めて詣で、そこに一泊し、翌日、会津若松へ向かった。
小山の駅で両毛線から乗り換えるのだが、腹が減って「駅弁を買って欲しい・・」そうねだる僕たちに、大叔父は「宇都宮の方が旨い」という。
小山駅で待っていた僕たちに、駅の案内放送は「全席指定のばんだい号・会津若松行き」と告げてくれるが、旧型の客車からなる古色蒼然たる列車だった。
今思えばオハ35どころか、スハ32、オハ61と行った車両までも連結した茶色一色の「急行」に、僕はちょっとたじろいだ。
関西ではこう言う列車はすでに存在しなくなっており、つまり、見たことのない、異質の列車と感じたからだ。

Photo_2 けれど、座席指定は満席とのことで、僕たちはその次にやってきた定期の急行「まつしま・ばんだい」に乗ることになった。
電車は新快速電車と同じような作りで、車内は非常に混んでいた。
あとで思えば、これが東北の急行型、455系電車である。
座れなかったが大叔父は「宇都宮で座れるだろう」と平然としている。
立っている乗客からも車掌氏が容赦なく急行料金を徴収しているのが新鮮に思えた。
関西で、京阪神の電車しか知らぬものには、急行料金などというシステムすら出会うことなどなどないからだ。

その宇都宮で少し長いこと停車した。
弁当も買ったし、座席にもありついた。

そこからは関西では見ることの出来ない大きな景色が広がる車窓、すれ違う列車のバラエティなど、鉄道ファンの卵たる僕は窓にかぶりつき一心に景色を見ていた。

急行列車らしい適度な速度で快走する。

けれど、郡山駅で「まつしま」と分かれ、一路単線区間を会津若松を目指して走るようになると風景は一変し、山岳地帯をそれでも電車は淡々と走るようになる。
駅でないところで行き違う信号所の存在もはじめて知った。

会津若松についたのはもう日が暮れていた。
それでも、機関区に憩う蒸気機関車や待機するラッセル車に、遠くへ来たことを実感したものだ。

4月なのに、その日から雪が降り始めた。
翌日はものすごい雪となる。
会津ははじめて訪れた僕たちを雪で歓待してくれたような気がした。

1週間ほどの滞在で会津から大阪へ帰ることになった。
もう学校は始まっているが、自分たちがどこに住んでどこの学校へ行くのか・・それすらも分からない不安を抱えて・・
大叔父は会津若松駅まで送ってくれて、上りの「ばんだい」に乗せてくれた。

小学校低学年の頃から鉄道を一人で利用して親戚回りと言う名の借金の用事に出かけていた僕である。
乗換えなどわけはなく、4時間半の列車の旅を楽しんでから、山手線、新幹線を乗り継ぐ。
新幹線ではジュースを買いたいけれど、冷水器の水で我慢した。
それより何より、明日からの不安よりも列車の旅が楽しい僕ではあった。
不安げについてきた弟の心中など察することは僕では無理だった。

特急「あいづ」に乗車できたのはずっとあとになってからだ。
大叔母が亡くなったとき、祖母と二人、関西から代表して会津若松まで行った。
列車の指定席がなかなか取れず、それならと、東北新幹線をあきらめ、上野からの「あいづ」の座席を取った。

もうすでに、「あいづ」は上野発最後の東北線特急になっていた。
名物だったクロ481の姿なく、単純な485系7両編成になっていた。

祖母は新幹線の速さを恨めしそうに見ていたが、僕は満足だった。
ずいぶんくたびれた485系ではあるけれど、座席は交換され、床には絨毯が敷かれていた。
走り出すと、かつて、この路線の「ひばり」に用務で乗車したときに感じたあの激しい横揺れは全く感じず、列車はさえぎる物がないかのような線路を一路、北上する。
時折、横の高架橋を緑色の新幹線が軽やかに追い越していく。

このときの旅行が僕が「あいづ」に乗車した最初で最後の旅行である。
葬式と、法要、そして数日の滞在を経て関西へ帰るとき、僕はまた、迷うことなく「あいづ」の切符を求めた。
往路では時間がかかることを面倒がっていた祖母が「この列車は、いい列車だね・・寛げるのがいいよ」と言ってくれた。

祖母との最後の旅行である。

筆者注・・記事内の写真は列車そのものを象徴しているだけで、当時の旅行とは関係がありません。撮影は上野駅で昭和52年ごろです。

なお、「あいづ」から「ひたち」へのヘッドマーク取替え作業画像を併せて掲載します。

Photo_3

2009年6月13日 (土)

京都市電

Photo_3

京都市電は日本最初の「電車」であり、観光地京都の風景に良く溶け込んでいた。
この電車が廃止されたのは昭和53年で、当時、僕は国鉄の学生・・養成工であり、小遣いもそれほど多くは取れなかったから、なかなか京都にいく費用を捻出するにも苦労したものだ。

それでも、昭和50年ごろから廃止までに何回となく足を運び、おっとりとした風情の電車を楽しんだ。

Photo_5 Photo_4 当時、七条や四条、元田中では市電と私鉄の平面クロスも見られたし、車の渋滞の少ない北大路では車体を激しく振ってかっ飛ばす市電を見ることも出来た。

市電を使うときは当初は決まって他の鉄道路線を結ぶときで、やがてそれが市電そのものが目的となって京都を訪れていた。
当時は私鉄と国鉄の間の運賃に差が無く、国鉄の京都駅も良く使ったものだ。

Photo_8 今の京都駅では一体どこに市電があったのか、思い起こすのも困難ではある。

Photo_6 Photo_9 夏の暑い日、北山の緑あふれる街中を快走する京都市電を思い起こすとき、今、なぜここに市電が無いのだろうと悔しくさえ感じる。
ゆったりとした町に必要なのは、その町に溶け込み、落ち着いた風景を演出する公共インフラだろう。
市電はその最たるものである。

Photo_10 なぜに、一部区間の地下化や自動車との分離を実現して現代にふさわしい路面電車に出来なかったか。
京都もまた神戸と同じく、路面電車活用には熱心だった。
それを潰したのは当時の運輸省である。

全国の公営路面電車は、当時の運輸省の政策によって姿を消していった。
路面電車を公営事業の赤字の元凶と決め付け、廃止する自治体に補助金まで出していたのだ。
この点では私鉄が運営する路面電車がやがて「LRT」という掛け声の中で、息を吹き返して言ったのと大きく異なる。

日本の政治屋は、都市交通の主軸がなんであろうと関係なく、つまりは、利権を得られる存在であるかどうかだけによって政治を運営するのだから、路面電車と言う交通機関で得られる利権は非常に少なかったということだろうか。
それが国際世論の高まりの中で、LRTが大きくもてはやされるようになると手のひらを返したかのように「環境にやさしい」などと称して路面電車を無理にでも見直そうという・・

今更、政治屋に見直されなくても路面電車はもともと優れた都市交通機関である。

今度は路面電車を作るために道路を掘り起こすことで政治屋はまた儲けを出そうとでもいうのか。
しかし、それにしても、路面電車は意思圧力の中にあって、廃止の道を取らなかった公営路面電車も存在し、鹿児島、熊本、函館、札幌にはどうか、長く先人の遺産を活用して欲しいと願うばかりだ。

路面電車は町の風景に溶け込んでいる。
無様で無遠慮な高速道路が町の風景を破壊しているのと大きな違いである。

Photo_11 Photo_12

それにしても、今、京都に市電・・特に北大路や東山に市電があればどんなに便利で、京都の魅力がどれだけ大きくなるかを、悔しい思いもあわせて時に感じている。