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2009年5月

2009年5月29日 (金)

キハユニ15

Photo 昭和51年の車輌配置表によると、全国でキハユニ15は7両存在し、うち3両が加古川気動車区に配置され、1両が岡山気動車区に配置されていたから、高砂工場は全数の半分以上を担当していたことになる。
といっても、僕は客車の担当だったからキハユニ15は、たまに入場して来ても物珍しく眺めるだけだった。

岡山にいたのが1で、これは客車形の1段窓、正面貫通型。
加古川の3両のうち、3は湘南マスクだが、窓周りを別の鉄板で被ったような形で、側窓は客車形の1段窓の特徴的な外観だった。
加古川の6と9は湘南窓、80系電車のようなHゴム支持で、側窓は2段だが、上段窓はHゴム固定の「バス窓」タイプだった。

他の3両は浜田と水戸に配置されていたようだ。

この気動車は、戦後の電気式気動車で、一応の成功を収めたものの、当時の技術ではどうしても機関や電動機などの軽量化が難しく、その割りに出力が上がらず、結果として液体変速機を使った液体式気動車に主役を譲ることになっただけではなく、後に液体式に改造、さらに車内設備があまりにも貧弱だったことから郵便荷物車などへ改造された生き残りだった。
当時の加古川線は、基本的にキハ20・30・35が中心で、列車はこれらが大半だったけれども、その中にあって、キハユニ15の風変わりな雰囲気はある意味アイドル的存在だった。

Photo_2 外観の湘南マスクの愛らしさ、さらに、車内へ入れば背の低い、ピッチの狭い小さなクロスシーとはこれまた可愛らしく、乗車距離の短い加古川線では、不評には繋がらなかったようだ。

まだまだ、国鉄の荷物輸送が隆盛を極めていたころ、加古川線でも無人駅は少なく、荷物の取り扱い駅は多かった。
学生さんの下校時間帯、通常なら2両の列車が、たとえ半車とはいえ、キハユニの入った編成ならば、それだけのゆとりも期待でき、通学の学生さんに喜ばれる存在でもあった。

ただ、実際の乗車は台車が良くなく、すわり心地も含めて乗り心地は良いとは言えず、西脇などへ行きたいときには出来ればキハ20の方がありがたかった。
台車はキハ10やキハ20初期車のころまで、枕バネに防震ゴムを使った粗末な物で、レールのつなぎ目にはショックがモロに客室へ伝わるひどさだった。
キハ20の場合には座席が良いことで、その台車のひどさも我慢できる部分が確かにあった。

それでも、今思えば、あのころの加古川線は元気だったと思う。
枝線の廃止など考えられもせず、大勢の乗客で賑わっていた。
Photo_4 駅は活気にあふれ、西脇、野村、粟生と言った駅では列車発着のたびに今では考えられないほどの乗客が行き来したものだ。

Photo_3 気動車のエンジンの音、排気、人の群れ・・
その中にあって、ホームの端でいつも駅員や荷物係の作業が進められていた可愛い気動車・・
もはや、記憶の中だけにしか存在しない、昭和の鉄道風景がそこに確かにあった。

高砂工場廃止の前に、キハユニは岡山の1号も入れて3両とも解体のために入場して来た。

けれど、僕は彼らの最後を見届けず、鷹取へ先に転勤してしまった。

夏の暑い日、内装のペンキの匂いが残るキハユニの窓を明けて播州平野を眺めたあのころはもう、ふた昔以上の過去になってしまった。

2009年5月15日 (金)

北陸鉄道を見に行った頃

北陸、石川県一円に壮大な鉄道網を持っていた北陸鉄道の存在は知っていても、あるいは北陸線を走る列車から眺めることはあっても、実際に北陸鉄道を見るための旅行が出来たのはずいぶん後になってからだと思う。
タイミング的には北陸鉄道が驚くほど多くの路線を一気に廃止した時期の後であり、残っている路線は少なくなってはいたけれども、およそスマートとはいえない真っ赤とクリームの派手な塗り分けの電車が行き来している姿に、興味を募らせていたものだ。

さて、僕の北陸鉄道探訪は、昭和54年ごろの小松線を皮切りに始まる。

小松線を訪れたとき、同じ小松から出ていた魅力的なナローゲージ、非電化の尾小屋鉄道は廃止された後で、小松はひっそりとしていた。
確か地下道で駅の裏側へ回りこむと、そこに古風な駅舎があったように思う。
電車はほぼ1時間ごと、停車している電車は長い年月を走り続けてきたであろう古強者と言った印象だった。

ただ、走り出しても、ずっとシリースで運転しているような感じで、重々しく、速度が出せない・・
しかも軌道状態が非常に悪化しているようで、揺れも相当なものだった。
不思議なことにまだ車掌さんが乗車していた印象があるから、廃止を前提として経費を掛けないようにしていた頃なのかもしれない。

沿線風景は牧歌的な田園地帯そのもので、車窓から見る限り線路に平行して道路が走っていて、いつバスに転換されておかしくないような印象を受けた。

終点の鵜川遊泉寺には何も無く、一緒に下車した乗客もおらず・・僕は1本道を今来た方向へ歩き始めた。
Emaiko_17komatuline 途中に小さな鉄橋があって、この写真はそこで撮影したものだ。

軽海という不思議な名前の駅があって、そう言えば、同じ駅名が岐阜県にあったなと思いながら・・あばら家のような駅舎で僕は小松に帰る電車を待った。
当時はまだ存在していた僕の地元の別府鉄道を思い起こさせるような、時の流れからはみ出たような不思議な鉄道だった。

金名線・石川線は金沢のホテルに宿泊して翌朝、決意も新たに向かうことにした。
というのは、当時、すでに加賀一宮から先、白山下への区間では、電車は朝夕しか走っておらず、始発に乗車しないとどうしても白山下まで行って写真を撮影して折り返すなどということが出来なかったからだ。
野町の駅も金沢市民では無い僕には便の悪い土地にあるように思えた。

早朝、ようやく明けた頃だったと記憶しているが、北陸線で西金沢へ行き、ここから白山下を目指した。
やってきた電車はこれまた如何にも古強者といった風情で、けれども、小松線とは異なり、パラレルをつめて快調に飛ばしている感じを受けた。
軌道状態も小松線とは比べるべくも無く、なるほど、この路線は中堅都市である金沢の郊外路線として整備されつつあることを実感する。

速度は大きな鉄橋を渡るときには落ちたように感じたが、日中の電車運行が休止されている加賀一宮から先も変らず出ていたように記憶している。
整備された道路の横を古い電車が飛ばす・・
乗客は最初こそ数人あったものの、加賀一宮で僕以外の乗客がいなくなってしまった。
けれど、その先で老婦人が乗車され、結局、終点までこの女性と二人だけだった。

Emaiko_39hakusansita 白山下駅は結構広い用地があり、線路が遠く見える白山に向かって行くような形で途切れていた。
ここから本気で名古屋まで線路を伸ばすつもりだったのかと、僕はこの鉄道を開業した大正の人たちの心意気に恐れをなした。
それほど、眼前の白山は巨大だった。

この駅で降りても成すことも無く、結局、ひとつ前の駅まで歩くことにした。
三ツ屋野という、これまた情緒たっぷりの駅名だったが、簡単な上屋があったかどうか・・
とにかくバス停のような駅だったように思う。

金沢への帰路も電車は単行で、加賀一宮までは乗客は無かった。
この鉄道・・加賀一宮と終点の白山下の間の区間は後に水害により橋梁が危険な状態となり、それでも修理をしていったん復旧、すぐまた別の橋梁が傷んでいることが分かって、休止・・廃止されてしまうのだけれども、多くの鉄道路線を容赦なく切り捨てた北陸鉄道にしては、廃止まで迷いに迷った形跡すらあるのが不思議だ。

浅野川線は、今は金沢駅前の地下駅から立派な冷房つきステンレスカーが出ている路線に変貌しているそうだが、当時の浅野川線はなんとも古風ないでたちだった。
クラシックな北鉄金沢駅を出た電車は石川線ほどには速度を出さなかったけれども、乗客が多く、車掌氏が忙しそうに歩き回っていた。
その頃は急行列車なるものがあり、駅を半分ほど飛ばして運転されていた。
軌道状態は悪くは無く、大都市の私鉄支線を思わせるような雰囲気だった。
電車はほとんど単行で、今、すべての電車が2連で運行されているそうだから、感慨深いものがある。

Emaiko_111asanogawaline 内灘駅で並んだ電車の面構えはなかなかに味わい深く、周辺の活気も手伝って、この鉄道が金名線や小松線とはあきらかにその立ち位置が異なる元気さを持っていることを感じた。

素人考えでは、北陸鉄道が守ろうとしているように見えた金名線はすでに鉄道の使命を終え、逆に過去に廃止した、加賀温泉郷を巡る加南線には大きな将来性があると見えてしまったのだが、それはやはり部外者の勝手な意見だったのだろう。
今現在、存続し、近代化が進められている浅野川線と石川線にしても、その経営規模は大手私鉄の支線と比べても到底そのレベルにあるとは思えないが、鉄道というものが未来にも必ず必要な交通機関であると認識されるためにも、どうか永く奮闘して欲しいと願っている。