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2009年1月

2009年1月14日 (水)

飯田線を旅したとき

昭和57年秋、僕は友人と飯田線に端から端まで乗車してみようと・・大阪駅22時20分発の急行列車「ちくま5号」の自由席に乗り込んだ。
この列車は・・12系だったか、167系電車だったか・・記憶にないけれども、当時、季節臨で走っていた167系電車を好んで使ったような気がしているから・・多分、167系電車だったのではなかろうか・・

さて、この列車を翌朝、松本で下車、ここでしばらく待って新宿行きの「アルプス2号」に乗り換えた。
こちらは165系電車であることは間違いがない。
当時はまだ、こういった急行乗り継ぎの旅行が出来たものだ。

辰野駅6時28分発、普通電車226M・・
たぶん旧型電車だったのではないか・・
この頃の飯田線はいわゆる「旧型電車王国」から少し進んだ状態で、豊川あたりで走っていたモハ52はすでになく、骨董品のような私鉄買収電気機関車も姿を消していて、貨物列車はED62がその可愛らしい姿で、ちょこまかと走っていて、急行「伊那路」に165系が投入され、それによって80系電車が玉突き式に普通電車に格下げされ・・そして各地で余剰になった80系電車の300番台ばかりを集めて戦前型の旧型電車の置き換えが始まったところ・・だった。
モハ52なくとも、古武士のようなクモハユニや半流モハ53も健在だし、80系や165系も十分魅力的な電車で、まだまだ飯田線全体が魅力にあふれていたように思う。

しかも、沿線は南アルプスを望み、渓谷に沿って・・あるいは雄大な盆地の景色を眺めながら走るところでもあり、ぜひ一度、全線区の完乗を果たしたかったのだ。
さて、早朝から下島、高遠原、山吹。伊那田島で下車しながら撮影・・
といっても、電車の本数はせいぜい1時間に1度で、一度下車して撮影すると、1時間半から2時間は次の目的地へ行く電車に乗れない・・そこがまた、ゆったりした時間を味わうのに良かった部分でもある。

Dsc_0261iida165
山吹で撮影した165系の急行「伊那」・・山吹という地目がまた雰囲気に似合っていたように思う。

Dsc_0260iidaniden 伊那田島での2連の荷物電車。
こういった小荷物輸送をまだまだ国鉄が中心になって行っていた時代だ。

乗る電車は急行以外はすべてツリカケ式だ。
速度は低く、駅間距離は短い。
カーブは多く、次の駅まですぐ近くなのに、電車は谷を大きく回りこんで遠回りをする。
低いモーターの音が勾配に挑むとなおさらに低くなる。

電車の大半は窮屈なクロスシートだが、それがまた旅情を誘う・・

飯田線の歴史は古く、国鉄の基準外にあるような急カーブ、急勾配の存在も、その生い立ちに由来する。
飯田線は1897年に豊橋(現船町)と豊川の間に開業した豊川鉄道、1909年に辰野と伊那松島との間に開業した伊那電車軌道、1923年に長篠と三河川合の間を開業した鳳来寺鉄道、それに1932年に天竜峡と門島の間を開業した三信鉄道の4社がその出自だ。
この4社は路線を延ばし、蒸気鉄道だったところは電化し、やがて1937年に三信鉄道最後の区間、小和田と大嵐の間の開業で全線がつながった。
4社合わせて総延長200キロ近い電化鉄道は当時としては日本で唯一の存在であり、非常に革新的な鉄道だったわけだ。
もっとも、当時最先端を行く参宮急行のような高速タイプの路線ではない。
いわば、生活臭の漂うローカル電車でありながらこれほどの長距離路線が存在していたのだから驚異的だ。

伊那谷は、もともと、現在の中央線沿線・・木曾谷に比べて人口が多く、中央線建設の際にはこちらへ路線を敷こうという運動もあったという。
けれども、豊橋回りがどうしても名古屋へは遠回りになることなどから中央線は木曾谷経由で建設され、結果として伊那谷の人たちは自力で電化鉄道の敷設をしなければならなかった。
特に伊那電車軌道・・のちに軌道を地方鉄道に変更し伊那電気鉄道に改称・・の建設した区間は人口は稠密ながらも複雑な伊那谷の地形に、線路はカーブを余儀なくされ、急勾配が連続し、運転速度は低くなってしまったのは当時の民間の力では如何ともし難かったのだろう。

国鉄は1943年に伊那谷の鉄道4社をまとめて買収・・
本来、ローカル線であるはずの鉄道で、当時の幹線鉄道の国家買収対象には当たらないと思うのだが、中央線のバイパスルートとしてか。この鉄道は国家に買収され、国鉄飯田線として再出発することになる。
このとき、豊川鉄道と愛知電気鉄道に間に交わされていた豊橋駅乗り入れ路線の共用が国鉄にも引き継がれ、今のJR東海と名古屋鉄道の路線共用につながっているから面白い。

国鉄に引き継がれてから、国鉄はダム建設に伴う一部路線の移設などは行ったものの、伊那谷北部の急カーブ、急勾配区間の路線改良はならず、急行列車が走ってもその表定速度は低く、一時的に長野県内特急の設定も模索したりはしたものの、実現には至らず、165系の改装による「新急行」も永くは続かず、高速道路の開通により走り始めた高速バスに主役の座を取って代わられ、いまはまた、元通りのローカル輸送に徹する飯田線の姿がある。

さて、飯田線撮影と完乗の旅行では飯田駅近くのビジネスホテルに宿を取った。
立派な商店街もある比較的大きな町だが、夜9時になるとほとんどの店が閉まってしまうのには驚いた。
なんとも、品行方正な教育県・・長野県らしいなあと・・思ったものだが、同じ長野県でも松本市などは当時から新宿とつながっていることもあってか、華やかな街並みなのと対照的にも感じたものだ。

翌朝は飯田6時44分、急行「伊那2号」で一気に南下した。
飯田線の急行列車にも乗りたかったのだ。
早朝なのに、車内はビジネスマン風の客で比較的にぎわっていたように思う。
浦川で追越する普通列車に乗り換え・・
早瀬駅で下車し、天竜川に架かる鉄橋の近くでしばらく撮影を楽しんだ。

Dsc_0259iida80
鉄橋を渡る80系電車だ。

2時間ほど撮影を楽しんだ後、東上まで・・普通電車1時間半ほどの旅だ。
旧型電車はかなり混雑していたように思う。

Dsc_0263iidaed62
東上で撮影したED62

Dsc_0262iidakyugata

それから同じくモハ53組み込みの普通電車。

ここから豊橋までは20分少々の距離だ。
80系電車は乗ったときから混雑していて、それは豊橋に着くまで混雑の度合いを深めながら・・電車は走っていく。
豊川から南はローカル線というイメージはなく、電車はいかにも通勤線区といった雰囲気にになり、名鉄と共用する複線区間でパノラマカーとすれ違いながら豊橋を目指す。

今も、飯田線には魅力を感じる。
電車だけでなく、沿線の景色や雰囲気にもあのときに味わったものが残っているような気がする。
一度、仕事で高速バスで伊那谷を通過したことがあった。
景色はまさしくあの旅行で味わった当時のままだった。

でも、JR東海はこの線区でも国鉄時代の電車を淘汰して新型に入れ替えるという方向性を打ち出している。
時代の流れであるし、JR東海の在来線電車は決して嫌いではないから、それはそれで良いことなのだろうが、僕としては少し、寂しい感じがする。
国鉄時代の電車が走っているうちに、もう一度、飯田線に乗りに行きたいけれど、それは叶わぬ夢だろうなとも思う。