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2008年11月 2日 (日)

山陽電車の心象風景

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父が亡くなる直前、僕ら一家は大家族で山陽電車の別府駅に降り立った。
別府駅は別府鉄道をオーバークロスするために築堤上の高架駅になっていて、電車を降りた僕らの横を平行している山陽新幹線がパンタグラフからのスパークを激しく撒き散らしながら通過していった。
昭和48年の春のことだ。

どういうものか、僕のこの時代の心象風景・・その中の山陽電車といえば250型・・それも270以降の通称で270型と呼ばれる車両だ。
2ドア、長いロングシート、比較的新しい車体ながら釣り掛け駆動のかん高いモーターの音・・

父母はかつて神戸の湊川、新開地で暮らしていたことがあり、そこで出会ったということだが、そのせいか、しばらくの大阪暮らしではどうしても疎遠にならざるを得なかった新開地が近くなったのが嬉しいようだった。
父が別府で生きていたのは僅かに4ヶ月ほどにしか過ぎないけれども、その4ヶ月の間に何度も大家族を引き連れて新開地へ食事や買い物に出かけている。
そんなあるとき、僕らは父の旧友と偶然に再会する。
父は喜び、旧友を別府の自宅へそのまま招いた。

そのとき、やはり山陽電車の270型のさして明るくない車内で、父とその旧友がつり革にぶら下がりながら嬉しそうに話をしていたのを思い出す。
時刻はもう、深夜と呼べる時間帯で、当時は混んでいた山陽電車といえども、がらがらだったようは気がする。

僕と山陽電車との出会いは実はこのときではなく、母方の祖母が神戸電鉄の鵯越で住居を構えていたのだけれども、兵庫区の須佐野通・・今の大開駅近くに転居して、その家のすぐ近くを路面電車よろしく、ごろごろと大きな電車が走っていた風景を僅かに覚えている。
ただ、このときは270型ではなく、もっと古い・・たとえば100型あたりだったのではなかろうかと思う。

ツートンカラーではなく、黒ずんだ貨車のような雰囲気を覚えているからだ。

時代を少しさかのぼり、幼少時、大阪と神戸を行き来することの多かった父に連れられ、僕も何度も電車に乗った。
このあたりが今の鉄道趣味の原点になっていたのだろうけれど、大抵は阪神電車に乗せられていた。
阪神に乗ると元町で下車して港湾の仕事をしていた父の仕事関係の人のところへ行ったり、あるいは市電に乗って湊川まで足を運んだりしたものだ。
その元町駅ではホームの先にまだトンネルが続いていて、「なんで、ここからさき、線路がつながっていないのだろう」と思ったものだ。

あるとき、いつものように阪神の特急に乗っていると、父が元町になっても下車しようとしない。
「降りひんの?」
「このまま、山陽電車と線路がつながったんや」
というような会話をしたような気がする。

神戸高速に乗り入れた阪神の特急は新開地までで、向かいのホームには見たこともない格好の良い電車が停車していた。
高運転台、曲面ガラスの山陽電車3000系だ。
けれども、電車は異常に混雑していて、非常に蒸し暑かった。
この時代の関西の私鉄はどこも乗客があふれ、元気だった。

さて、話を元の時代・・昭和48年に戻すと、山陽電車は僕にとって日常の風景の中に溶け込んでいく。
友人と白浜海岸へ潮干狩りに行ったこと・・
あるいは、友人と話をしながらどんどん西へ歩いていって、結局、なけなしの小遣いをはたいて電車で帰宅しなければならなくなったこと・・
夏の緑の田んぼの中を疾走していたツートンカラーの電車・・

山陽電車といえば、この時代にはすでに3000系の黄金時代になっているのだけれど、別府駅が今もそうだけれど乗客が多いわりに特急の停車しない小駅であるからか・・
記憶の中の山陽電車はやはり、270型だ。
あるいは、同じ2ドアで子供には区別のつかなかった2000系かもしれない・・

さて、別府の町で父が亡くなり、僕らは社宅に住み続けることが出来なくなった。
そこで、国鉄の北側の田園地帯に引越しをするのだけれど、この時代、僕は山陽電車との日常的な接触をもてなくなってしまう。
けれども、少しずつ火がついた鉄道趣味は、自転車をこいで山陽電車を見に行くという、中学生には冒険とも言える行動を呼び起こしていった。

特急はすべて3000系で占められるものの、当時は旧型電車も多くが活躍していた時代だ。
見ていて飽きない、山陽電車がそこにあった。

そのころの山陽電車の特急は必ず3000系の4連で、線路状態が必ずしも良くなく、37kgレールの上を車体を大きく揺らしながら特急電車が突っ走っていた。
とはいっても、今の直通特急のように時速110キロが認められていたわけではなく、阪急・阪神の特急電車と伍して走れるはずの3000系は力を持て余していた。
時に、最高速度90キロのはずの特急が運転台の後ろで速度計を見ていると110キロ以上の高速で走っていることもあった。
国鉄の113系快速もたとえば加古川と東加古川の間で当時の認可速度を大きく上回る高速で突っ走っていたのだから、ある意味では鷹揚な時代だったのかもしれない。

さて、中学を卒業して国鉄に入ると、なんと寮のすぐ近くを山陽電車が走っていて、再び、日常の光景の中に山陽電車が溶け込むようになってきた。
中学時代に大好きだった片思いの女の子と、当時はまだ特急が通過していた板宿駅でばったり出会い、それ以後、彼女が下校する時刻に合わせて板宿駅をわざと使ったりもした。

けれども、この恋は必然的に実らず・・別の女の子と奇跡的にデートのチャンスがあったときも、高校生の年頃らしく山陽電車で出かけたものだから・・女の子の方を見ることも少なく、電車ばかり見ていた初心な自分があった。
会話は成り立たず、気持ちばかりが高ぶったデートは大失敗だった。
そのときの電車は3633号だったか・・

さて、10年勤めた国鉄を退職し、写真の仕事を神戸でするようになった僕は、一人暮らしの居住地を山陽電車の沿線、板宿に決めた。
ちょうど、僕が山陽電車で阪急六甲まで通勤を始めたそのとき、大幅なダイヤ改正があって、時速100キロに向上した特急が板宿駅に停車するようになった。
そのころ、朝の板宿駅は猛烈な人の波に埋もれるかのような雰囲気だった。
上下とも2~3分毎に来る電車で駅前の踏み切りは開かず、道路にあふれた人やクルマが踏切が開くと同時に嵐のように横断していく。
駅には押し込みの係員がいて、超満員の特急に乗客を無理やり押し込んでいく。
阪急・阪神へ向かうそれぞれの特急も板宿駅ですでに満員で、電車はいつも遅れていた。
雨が降ると降り始めには、3000系は空転が発生し、まともに加速も出来なくなる。
遅れはさらにひどく、時には六甲行き特急なのに三宮や高速神戸で運転打ち切りになることもあった。

今の余裕がある山陽電車の風景からは想像も出来ない時代だった。

そんなあるとき、新鋭5000系の特急6連運転が始まった。
それまでは押し込んでもらわないと乗車できなかった阪急六甲行きの特急に、板宿からでもすんなりと乗れてしかも大量の降車客があったあとのクロスシートに、ゆったり座れて通勤できるようになった。
僕にとってこの数年間がもっとも快適な通勤ルートだった時代だ。

国鉄・JRと並んで今も僕にとってもっとも身近な鉄道である山陽電車。
270型が釣り掛けの音をうならせて走っていた心象風景と、梅田へ直通する特急が高速で突っ走る今の姿はとても同じ鉄道だとは思えない。
けれど、今の仕事中にでもその姿を見ることの多い山陽電車・・
阪神の最新鋭車両が走るその姿が、ふっと、あの、ネイビーブルーとクリームイエローの2ドアの電車に見えるような錯覚も感じるのだ。

山陽電車にはまだまだ思い出もあるが、また別の機会に書いてみたいと思う。

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コメント

別府鉄道が最期の頃、大阪へ戻るのに別府から高速神戸経由で梅田まで乗車したことがありました。海沿いに快走する姿がとても新鮮に映ったことを思い出します。来春には阪神なんば線が開通して奈良から神戸まで一本で結ばれます。山電はやって来ないでしょうが、開通したらぜひ一度姫路まで通しで乗ってみようと思っています。

ユースケさん>
来年の阪神と近鉄の直通運転、楽しみですね!
再来年には山陽も加わるようで、そのときがまた楽しみです。

今も海沿いの景色は健在ですよ。
ぜひ、ゆっくりと乗車してみてくださいね。

先日上り直通特急に乗り、東垂水の手前辺りで雨がパラパラ降り始め、S字カーブを過ぎて加速を始めた途端に空転が起きたと思われました。3000系4連の特急でよく聞いていた音で懐かしく思いましたが、5000系6連でも同様に起きるのだなという感じでした。

yossy-yさん>

どんな車両でも空転は起きますね。
ただ、検知装置がついているのとついていないのとではかなりその頻度が変わるようです。
特に雨の降り始めが厳しいとのことでした。

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