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こう@電車おやじ

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2008年9月

2008年9月26日 (金)

戦争の証人・・オエ70

Emaiko_76 高砂工場には時折、業務用の風変わりな車両が入場することがあった。
業務用の車両には製造の予算をかけられないから余剰車両を改造することが多く、結果として基本型からはみ出た特異な車両が生き残っている姿を見ることも出来るわけだ。

その中にいくらなんでも客車としての出自ではないことが一目で分かる車両が存在した。
短い車体、二段の大きな窓・・どうみても17メートル級国電にしか見えない車両・・
彼らは実はかの第二次大戦の際の空襲で焼けただれ、戦後の混乱期を乗り切るために応急復旧された電車の成れの果てなのだ。
当時は「焼け電」と呼ばれ、車庫や工場の隅で積み上げられていたらしい。

ものがない時代、電車として復旧するには部品も確保できない。
それよりも、客車として箱と台車だけ使えるようにすれば蒸気機関車で牽引してでも貨車代用よりははるかにましな「客車」が出来上がる。
当時、使えるものなら貨車でさえも人間を運ぶ客車として重用された時代である。
一刻も早く、一両でも多くの客車が必要だった時代・・

それでも、たとえば戦前の関西で急行電車として活躍したモハ52流線型電車などは、関係者の思い入れもあってか、奇跡的に電車として復旧されるのだけれども、大量に被災した多くの車両たちはとにかく使えるようにと・・それだけを優先して焼けた車体の骨組みを使って粗末な客車に再生されたわけだ。
それはかつてのスマートな外観を知っているものから見ればいかにも無様で無残なものに見えただろう。
けれどもまた、その無残な外観の車両が戦後輸送に大活躍したのだ。

戦災復旧客車の形式はオハ70をはじめとした70番台の形式がつけられたけれども、一応、現場での作業の都合から17メートル級と20メートル級、それに3軸ボギーの優等車を出自とした車両とに分けられている。
前二者ではその車両の出自は関係なく、客車、電車、気動車が種車の車両が混在していた。
しかし、電車、気動車は明らかに客車とは形態が異なるので、それらを出自とした車両は簡単に見分けが付く。

これら、簡易復旧とも言える車両たちは、戦後も落ち着き、きちんとした標準形式が量産されるようになると第一線から退き、やがて荷物車や郵便車への改造がなされ、さらにそれらも立派で使いやすい専用車両が登場すると、今度は車庫の片隅で業務用の職用車や救援資材を積み込んだ救援車としてそれこそ第4の人生を送るようになっていくのだ。
たとえば、本来なら大都会の通勤用として華々しく活躍した電車が戦争によりその運命を変えられ、無様な姿をさらして黙々と縁の下の力持ち的な仕事ばかりするようになったと・・そう考えても良いかもしれない。
それは何も彼らの出来が悪かったわけではないのだ。
あくまでも戦争という時代の犠牲になったということだ。

鉄道は米軍による空襲の標的になった。
けれども、軍事物資を積んだ貨物列車ならともかく、民間人が普段に使う電車や客車を破壊し、その中にいる乗客を殺傷する・・それは国家間の戦争の行為として許されるものだろうか?
米国は今、テロとの戦争を掲げて相変わらずあちらこちらで物騒な軍隊を活躍させているけれども、米国がかの第二次戦争で行った、民間人が乗車する列車への空襲は・・今のテロとどこが違うのだろうか。
簡易復旧されたこれら戦災復旧車両・・それらが空襲で被災したとき、その車内でも多くの人が死傷したこともあっただろう。

無様な姿に改造され、それでも業務用車両となったことが幸いして生き残った戦災電車、客車たちは如実にこのことを物語っていたように思う。
残念なのは、これら車両がすでに平成の現代には存在しないことで、無様な姿を残しておくこともまた、戦争の愚かさを後の世に伝えただろうにとも思うのだ。

2008年9月20日 (土)

想いの背景は広電

Emaiko_31 僕には文章を書きなぐる癖があり、これもまた趣味のひとつであると言えなくもないけれども、それが高じて小説などをネット上に出してしまうのだから他人様から見れば恥知らずな人間なのかもしれない。

さて、さらに恥の上塗りをしようかというようなこの度ののテーマであるわけだが、すでに小説サイト「STORY・・小さな物語」でも関連する二篇・・「御幸橋」・「阪神御影」を発表しているので、お暇のある方は合わせてご一読いただければとも思う。

国鉄時代、無欠勤の報償として与えられる精勤乗車証は非常に便利なもので、特急列車には乗車できないものの、急行以下の列車には乗り放題、国鉄全線が有効という今では考えられないような従業員への福利厚生の一環だった。
その乗車証は一月に2回に分けて申請することが出来、それこそどこにでも行けるけれども、実際には連続した有給休暇の取得が3日程度が限度で、九州の端や北海道、東北へ行くには物理的に無理があった。

そうなると、やはり片道数時間程度の距離がもっとも手ごろで、特に私鉄と路面電車が大好きな僕は、名古屋、高松、岡山、広島などがもっとも手ごろな訪問先になっていくのは自然なことだ。

その中で、広島・・

最初に訪問したとき、広島の町は大雨で、当時は路面電車の見直しなんて世論もほとんど巻き上がらず、一私企業が必死で路面電車を維持していた・・そのころだ。
雨の中を走ってきた2500型の連接車の明るい塗装、そしてほぼ原型のまま活躍する神戸や大阪の市電・・それらを見て僕はすっかりこの巨大な路線網を持つ路面電車が好きなってしまったものだ。

僕の出生の地は神戸市の湊川だ。
自宅だったバラック建てのアパートを出て、数十メートルも歩けば神戸市電がにぎやかに走る湊川公園前の繁華街だった。
だから、僕の鉄道趣味の原点はまさに神戸の市電なのだ。

Emaiko_158

その神戸の市電が最初に広島を訪問したときにはほぼ、そのままの姿で走っていた。
正面の菱形の警戒色だけが、神戸にはなかったものだけれども、それでも深みのある緑色のツートン・・(決して今の神戸市営地下鉄の緑とは違うのだ)、大きな窓、車内の凝った灯具・・
小学校へ入る頃まで日常使っていた電車を思い出し、涙が出そうになったものだ。

それ以後、広島へは何度も訪れた。
何度訪れても広島の電車は新鮮で、町の雰囲気とよく似合い、ぼくにとって大好きな場所となったものだ。

さて、鉄道を退職する前、ある女性と出会った。
三宮の、当時流行していたお立ち台のある居酒屋で、職場仲間と飲みに来ていた僕らのグループの隣の席に座った同じ年頃の女の子たちのグループ・・その中の一人が件の女性だ。

何年かの友達付き合いのあと、僕にとって、なくてはならぬ人となった彼女だが、それはあくまでも一方的な片思いのこと。
決して「カノジョ」と呼べる存在ではなかった。
その彼女が、あるとき、広島へ転勤、転居する決意を固める。
元は広島の人だから、それは不自然ではないけれども、彼女はどちらかといえば備後地方の出身で広島には知る人もないはずだった。

電車に乗って広島に行けば旅行も出来るし、路面電車も見れる。
まして、大好きな女性に会うことも出来る。
すでに鉄道を退職し、阪急六甲のスタジオで修行中だった僕にとって広島への旅行代金は決して安いものではなかったけれども、そこは独身の気軽さ、月に1度か2度は広島を訪問するようになった。
平和記念公園のすぐ近くが彼女の職場で、僕はいつも平和祈念館のピロティで本を読みながら内心どきどきしながら彼女の仕事が終わるのを待ったものだ。

そこからたいていは紙屋町か八丁堀の居酒屋をはしごしたり、お茶を飲んだり、映画を見たり・・お決まりのデートを重ねていたけれども、そのバックには必ず路面電車があの独特の騒音を撒き散らしながら走っていたものだ。

時には路面電車に乗って宮島などへ散歩に出かけたりもした。
福岡から来た3000型電車が幅を利かせていた時代・・
広くはない連接車の車内で、時折すれ違う電車に目を見張り、まったく電車に興味を持たない彼女に必死で電車の話をしたこともあった。

何が大事で、何の目的で広島を訪れたのかわからなかった頃・・
彼女のアパートはこれまた皆実町6丁目の路線が分岐するそのすぐ傍にあり、近くのファミリーレストランの大きな窓の向こうにはいつも電車が走っていた。

この頃になると神戸から来た電車もかなり使い勝手が良いように改造されていたし、立派な冷房装置を屋根に載せた電車もあった。
京都や福岡、北九州、それにドルトムントからの電車もそれまでの電車に混じって走るようになった。
さらには新型のスマートな電車が走り始め、世の中は路面電車の見直しへの世論が高まりだすようになっていた。

印象に残っているのは皆実町近くの御幸橋・・
この橋の架け替えで路面電車が前後を含め専用軌道を走っていたこと・・
このおかげで運行時間が数分は延びていたはずで、せっかちだったのか、彼女は「路面電車、嫌い」と言っていた。
だから、自宅から数分でいける職場までミニバイクで通勤していたようだ。

結局、僕が彼女に会うために広島へ通ったのは2年ほどで、その後、彼女は神戸のもといた職場に復帰をした。
そして、僕はまもなく、彼女をあきらめなければならなくなってしまった。

広島へはその後は行っていない。
行きたいとも思う。
さらに近代的になった広電の姿をじっくり眺め、純粋に電車を見るための訪問としたい。
あれからまもなく20年。
想いは心の中で熟成され、心地の良い思い出と変わっていく。
今ならもう、広島で電車を見ても、素直に楽しめると思うのだ。

2008年9月16日 (火)

郵便車無駄話

Emaiko_135 僕が高砂工場に配属された当時、高砂で盛んに行われていたのが郵便車の冷房改造工事だった。
これは、スロ62などの冷房改造で得たノウハウを元に、方法はまったくそのまま・・旧型客車の冷房改造工事のスタンダードとも言える工事だった。

まず、客車の屋根部分を雨どいの部分から切り取り、そこへ別に工作しておいた冷房装置を搭載できる屋根を取り付けるというもの・・
言葉では簡単だけれど、実際にはそんな大きな工作物を置くスペースもないので新しい屋根はいくつにも分割されていて、現車あわせが結構大変で、そこは熟練の技術者でないとなかなかうまく行かない。
しかも普通の客車と異なり、車内はいくつもの部屋に分割されている。

僕ら上回り担当の持ち場はこの屋根が取り付けられてからで、今度は内装の整備とAU13型クーラーの取り付けとなるのだ。
この間に、床下では発電エンジンの取り付けとそれに伴う配線、配管の変更工事が行われる。

まっさらの天井が決して新しくはない車内と組み合わされるとなんだかおかしな雰囲気でもある。
しかも、区分室などの照明を蛍光灯に変更しないので、まっさら、真っ白の天井になぜか白熱灯が付くというおかしな味わいも出てくる。

郵便車は車内で仕分け作業を行うので冷房はどうしても欲しかっただろう。
扇風機では郵便物が飛ぶので大きな送風機も設けてあった。

これら郵便車は荷物車や客車との合造車以外は基本的に国鉄の所有ではなく、郵政省の所有だったから材料関係者などは気を使った。
部品ひとつとっても、国鉄の予算のものではないのだ。
同じことが私鉄の気動車や機関車にも言えるけれども、あちらは民間企業、必要経費は請求すればよいと言うだけのことか・・

さて、オユ10の後継車両としてスユ16が完成した。
つくりの基本がオユ10の場合、ナハ10などの軽量客車なのだけれど、スユ16は12系客車だ。
いかにも近代的で軽快な感覚の車両で、現場でも好感を持って迎え入れられた。

けれど・・
国鉄の郵便輸送も突然、終了してしまう。
新車同然のスユ16、改造が終わったばかりのオユ10もともに廃車留置されることになってしまう。
「あらゆる部品は国鉄所有のものとは別に処分するように」
まだまだ使える部品の山を目の前にして上からのお達しが来る。
しかし、いくらなんでももったいない・・

錠前や窓ガラス、窓枠など使えそうな部品を外し、材料庫にしまってしまう。
同じ時期に製造された一般客車に使えるものがすごく多いのだ。
中には、こっそりとキハのクーラーを古い製品から郵便車の真新しいものに取り替えた猛者も居る。
「もったいない」その気持ちは作業者として当然だったと思うのだ。
(同じことがキハ80などの廃車のさいに、状態の良い廃車体と状態の悪い入場車と車体丸ごと交換というような・・今でしか書けないようなことにもいえるのだけれど)

オユ10の冷房改造工事といえば・・まだ駆け出しの頃・・
作業で汚れた車掌室内の天井を掃除するために、強烈なシンナーでふき取り掃除していたときのこと・・
なんだか酔っ払ったような気分になってきた。
密閉された車掌室で大量のシンナーを吸ったから軽い中毒症状になったわけだ。

足元もおぼつかなく、ふらふらしていると・・上司から呼び止められ・・
「お前の今日の作業はここまで!風呂に入って酔いを醒ませ」と一喝されてしまった。
早風呂の許可をもらい入浴・・
酔いがさめて次に襲ってきたのは猛烈な頭痛・・
有機溶剤の怖さを知った日でもあった。、

2008年9月 7日 (日)

阪急6300系

Emaiko_146 子供の頃からの僕にとって阪急電車と言えば神戸線だ。
だから、京都線の特急が神戸線とは違う電車で運行されているのを知ったのは鉄道雑誌を買えるようになってからだ。

阪急神戸線は当時から電車の変化の少ない路線で、旧型車が普通電車にやってくることはあっても、特急はすべて2000系以後の電車で占められていたし、普通電車にやってくる旧型車もその数はすでに少なかった。
その阪急の、あの独特のマルーン・・そしてその色に映える銀色の縁取りの下降窓・・当時関西で随一だった走りっぷり・・
変化の少ない路線ではあったけれども、子供心に魅力を感じたものだ。

さて、鉄道雑誌を買うようになり、コンパクトカメラも手に入れて電車を見に歩くようになった僕は、京都線特急電車の存在を知り、梅田駅のホームで2800系電車を驚愕の思いで見つめることになる。
それは神戸線と同じ顔、色をした電車が2ドアクロスシートで入線して来る姿だった。

2800系は阪急独特のスタイルを手堅く2ドアにまとめたような均整の取れたデザインだった。
車内は扉間に転換クロスが並び、車端部はロングシート・・
当時、京阪、南海、山陽など関西の私鉄に多かった座席配置だ。
窓は国鉄グリーン車のごとく2連の下降窓で、サイドビューもなかなかかっこよく感じたものだ。

さて、京阪に新車、3000系が入ると阪急2800系は悪くはないものの・・見劣りがするように感じられる。
京阪の・・まるで長距離特急のような上質の作りはさしもの阪急2800系をも陳腐化させてしまったかのようだった。

阪急は2800系を他のどの系列より先に冷房化し、対抗する。
けれども、新車には新車で対抗ということか・・
京都線にはさらに驚愕の新車が投入されることになる。

昭和50年、阪急は15年ぶりに電車のフロントマスクを変更した新デザインを発表。
神戸線にはチョッパ制御の2200系、そして京都線に投入されたのが阪急初のツートンカラー、屋根周りを白く塗装した新型特急車6300系だ。
この車両を新聞報道で知った僕は運転開始後、すぐに見に行った。
ツートンカラーもいかにも特別な車両のようで、しかもマルーンが白い屋根によって余計に際立って見え、車体端に寄った両開きドア、ずらりと並んだ2800系譲りの2連の下降窓・・
車内に目を転じると、長い扉間に並んだ転換クロスは阪急独特のあのゴルデンオリーブのモケットを段折にし、クリーム色の枕カバーが清潔感をあふれさせてくれる。
妻部には窓がなく、一面に阪急の特徴である木目の化粧板が貼り付けられ、そこには補助いすも用意されていた。
車内のイメージは国鉄の特急車やグリーン車をはるかに上回り、上質で格調の高い雰囲気となった。

走り出すと当時は梅田と河原町の間を38分で結んだ時代・・
十三と大宮の間では30分を切り、その走りっぷりは新快速にも負けなかった。
そして、高速で走っても快適なS形ミンデン台車の、軽やかな乗り心地・・
当時、新快速はいまだ153系の時代だ。
インテリアでも乗り心地でも阪急の敵ではない。

僕はすっかりこの電車の虜になってしまった。
見てよし、乗ってよし・・
単に京都へ行くだけではなく、できればもっと遠くまで走らせてやりたいと思ったものだ。

いかにも私鉄らしい軽快さと、京都を強く前面に押し出した内装の京阪3000系に対し、阪急6300系は阪急らしい伝統をかたくなに守りながら阪急としてのステータスを京都線特急に集約したような対極にあり、重厚さが大きな魅力だったから・・僕の京都詣では往復で阪急・京阪を使い分けたものだ。

やがて、私鉄の攻勢に悲鳴を上げた国鉄が国鉄としては破格の117系電車を新快速に投入・・
三つ巴の乗客の奪い合いが始まったけれども、国鉄=JR新快速が堂々と私鉄を凌駕するようになるのはJR221系以後の話だ。

阪急・京阪とも京都行きの特急は京阪間はノンストップだった。
京阪は京橋と七条の間、阪急は十三と大宮の間・・いずれも30分前後がノンストップで、だからこそ、他の車両と異なる上質のインテリアも受け入れられたのだろう。
特に両開きドアながらドアを車端に寄せた阪急6300系は、途中駅の乗降にはどうしても難があり、京阪間ノンストップが大前提のデザインであったことが伺える。
この点では、阪急2800系と同じく、2ドアながらもドアを車体中心に寄せた京阪3000系やJR117系はラッシュにおいてもある程度までは対応できるのであり、そういった意味で阪急6300系は運用の汎用さにおいては厳しい面があるのもまた事実だ。

Emaiko_30 けれども時代は変わり、国鉄がJRとなり、真剣に地域輸送を考えていくようになると状況は変化をしていく。
新快速電車は117系の時代は短く、3ドア、転換クロスと言う新しい行き方の221系電車に変わっていく。
途中駅の停車も3ドアなら難なくこなし、ラッシュ輸送にも威力を見せ付ける。
阪急京都線特急は少しでも沿線乗客を取り込むために高槻駅停車を実現したけれども、あとを追うようにJRもまた高槻に新快速を停車。
しかも、117系に比し高性能化された221系電車は停車駅を増やしても所要時間は変わらないというおまけまでつく。
さらに最高速度を向上させ、ラッシュ対策を施した223系電車はその増備も急ピッチで、まさに京阪神の主役と言う印象になっていく。

より一層の乗客の取り込み、あるいは沿線乗客の逸走を防ぐために阪急も京阪も特急の停車駅を増やしていかざるを得ない。
JRはかつての国鉄ではなく、優れたインフラを活用して地域輸送の主役たらんとする巨大な私鉄だ。
新快速の乗客は増え続け、平行私鉄の乗客は減少が著しくなる。

途中停車駅が増えると6300系はその特徴的な車体デザインであるがゆえに、多客時など定時運行が難しくなる。
JRとは違い余裕時分がしっかりある阪急であるとは言っても、それにも限界がある。
結局、阪急にとって、JRと同じく3ドア転換クロスの特急電車が必要になっていくのだけれども、阪急はバブル崩壊とそのあとの大震災での被害からしばらく難しい経営が続いてしまう。
計画された新型特急電車はなかなか日の目を見ず、6300系が必死に乗客を裁いていく状況が続いていく。

やっとの思いで、3ドア、転換クロス、間接照明を持つ9300系車両が京都線に登場・・
思えば震災直後に登場した神戸線の新車以後、10年ぶりの新車であったわけだ。
この間に阪急電車を作り続けた「アルナ工機」は事業を縮小・・原則電車の製造から撤退してしまった。
6300系は一気に増備されて先輩2800系を特急の座から引き摺り下ろしたけれど、9300系の増備は今のところそれほど早いピッチではなく、今しばらくは6300系も京都線特急者として活躍するだろう。
ただし、2800系が急行用として再起したようにはいかない。
運用を離脱した6300系はすでに廃車が始まっている。

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6300系は製造からすでに30年を超えている。
電車の寿命が長い関西においては決して長寿というわけではないが、特急車両として走り回ったその走行距離は相当なものになっているだろう。
一般的に走行距離が伸びれば車両の寿命は短くなる。
それでも、僕らは阪急の台所事情に助けらながらではあるけれど、まだしばらくはこの格調高い電車を見ることが出来る。
もっとも、乗客から見れば乗り降りのしにくい電車は一日も早く新しい3ドアの電車に取り替えてもらいたいだろうし、会社も早くそうしたいのが本音だろう。

出来れば可能な限り、この電車を眺めに行き、あのスタイルを堪能したいと僕は願っている。