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こう@電車おやじ

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2008年8月

2008年8月26日 (火)

マイテ492

僕は小学校のほとんどを大阪ですごした。
特に小学校4年までは途中一時的に転校はあっても、大阪・港区の築港小学校に通学していた。
住んでいたところは今、天保山の観光地となっているあたりだ。

僕が鉄道を好きなものだから、父親はよく、すぐ近くの弁天町、交通科学館に連れて行ってくれたものだ。
SLと言われても普段、蒸気機関車など目にすることのない都会暮らし・・
今のようにディーゼル機関車が保存されているわけでもない交通科学館の展示車両は僕にとっては遠い国の夢の車両ばかりだった。
唯一、101系電車の実物大の前頭部の模型があり、これに親近感を覚えた。

その交通科学館で当時、必ず中に入って遊んだのが展望車・・マイテ492だ。
当時は、一緒に展示されている寝台車や食堂車も含め出入りは自由で、父親の写真を撮ってもらったものだ。

この展望車は昭和13年の製造で、戦前は「富士」、戦後は「はと」に使われていた車両だ。
本当は2重屋根構造のマイテ39あたりが保存されればムードもまた違ったのだろうが、当時の国鉄は今のJRのように車両に寛容ではなく、不要なものは即廃車していたらか、このマイテ49が残っただけでも奇跡的なことだったのだろう。
高砂工場の先輩諸氏が「展望車の廃車はもったいないと思った」と聞かされたものだ。

さて、僕が長じて高砂工場に入ると、旅客車職場に配置になったのだけれども、その職場のイレギュラー的な仕事に「交通科学館の車両整備」もあった。
毎年、10月14日の鉄道記念日前の交通科学館の定休日に、何回かに分けて車両の手入れをするのだ。
それぞれの工場や職場で持ち場が決まっていて、僕らは当然、客車の整備だった。
展望車が特急列車に連結されていた時代の、重厚な3両の客車や20系の食堂車も僕らの仕事だ。
この頃になると貴重な車両の内部はなかなか見学できない・・ようになっていたけれども、鉄道記念日には公開するということだった。

いずれの客車も結構痛みが激しく、特に目に見えない床材などは厳しい状況だった。
かのマイテ492も例外ではなく、根太の腐食、それ以前に根太を支える根太受けの鋼板も腐食していた。
しかし、ここにはジャッキはないし、材料の搬送も難しい・・
結局、床下から腐食した部分を切り継ぎするしかなく、「一度、工場に入場させたいな」と仲間と語り合ったことだ。

さて、そのマイテ492だが、JR西日本が誕生、その究極のイベント用として車籍を復活・・
鷹取工場に入場させて大掛かりな整備工事を行うことになった。
この時期には僕はすでに退職しており、友人のO氏による写真で入場時の姿をお目にかけよう。

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工事の内容は第一は営業車両として難燃化が目的で、その次は旧式の空気調和装置が使えないことから簡単な冷房化が主になったそうだ。
床の腐食部分をすべて整備した後、床下に鋼板を張り詰めた。
また、一般用の冷房装置の室外機を床下に設置し、室内機を区分室に取り付けたそうだ。

JR西日本には国鉄から引き継いだ「サロンカーなにわ」(バックナンバー参照ください)もあるが、やはり、本物の展望車に実際に乗車できるのは大きなインパクトになると考えたのだろう。
その活躍ぶりは嬉しい限りだ。

ただ、僕はまだ、マイテ49には乗車していない。
いつかどこかで乗車できないかとも思うけれども、なかなか難しそうだ。

2008年8月21日 (木)

鴨川の京阪電車

Emaiko_69 神戸と大阪に縁の深い僕にとって、大阪淀屋橋から京都三条へ向かう京阪電車は「日常」とは切り離された存在だった。
だから、初めて京阪特急に乗車したのも、祖母に連れられ、墓参りに行ったときで、そのときはお盆ということもあり、折角初めて乗車した3000系特急で座ることが出来なかった。

京都市内に入り、鴨川の川面に光る陽光を珍しいなと思って眺めたものだ。

カメラを手に入れて鉄道趣味が本格化すると、あの京阪の鴨川沿いを走る姿がなんとも楽しくて、それこそしょっちゅう出かけたものだ。 
当時はまだ京都市電が走っていた時代であり、七条、五条では市電と京阪本線がクロスする姿も見られたし、東山三条では京津線と市電の平面クロスもあった。

三条の駅は、鴨川からの川風の心地よい開放感あふれる駅で、京阪本線のホームは4線・・本線普通が一番川より(西より)の4番線だったと思う。
本線急行がその隣の3番線で、ホームをはさんで2番線が特急電車の乗り場・・
面白いことに特急電車が入線している時は、特急は車両両側のドアを開き、この車内を通って急行や普通に乗換えが出来るようになっていた。
特急がいないときはホームに階段があり、線路を横断して急行のホームにいけた。

いずれも行き止まりのホームだが4番線がややホームが短く、宇治行きの電車が主に停車していたように思う。

これら本線のホームと向き合うように京津線の小さなホームがあった。
そして本線と京津線のあいだは今で言うエキナカの店が並ぶコンコースでここでよく食事を摂ったものだ。

三条と七条の間が、鴨川を走る区間で、大阪から特急で京都に向かうと京橋からはノンストップで、国鉄のガードをくぐって七条に停車すると鴨川のゆったりした流れが車窓に広がり、「京都へ来た」という実感がわいてくるのだった。

京阪の本社は大阪にあるけれども、どういうわけか京阪電車といえば京都の電車としてのイメージが強い。
どことなくおっとりしたデザインの電車・・
特急はもちろん、普通や急行電車も車内は一種独特の雰囲気で、特急の赤と橙のツートン、急行や普通の緑の濃淡の車体の色も含め、他の大手私鉄にない「雅やかさ」を大いに感じたものだ。

鴨川の対岸から京阪電車を撮影すると、いかにも京都の電車と言う感じになる。
電車が通過すると鴨が舞う。
その電車の速度も決して高くはない。
京都に行きながらほとんど観光らしい観光もせず、ひたすら京阪電車と、市電や叡山電車、嵐山電車を眺めていた。
市電が廃止されると魅力の一端はなくなってしまったけれども、それでも、足繁く京都に通った。

ライバル阪急の6300系もまた魅力あふれる電車で、国鉄のパスを持っていながら往復で京阪、阪急を分けて使ったものだ。

今、京阪の京都市内は地下線である。
そこに京都らしい情緒は存在しないが、それは時代の進展の中でやむをえないだろう。
それより、叡山電車と京阪本線がつながったことや、のろのろ運転を強いられていた京津線が地下鉄に乗り入れていることは素直に歓迎している。

今秋、京阪の中之島線が開業する。
京阪は淀屋橋以外にもうひとつのターミナルを得ることになる。
僕にとって苦渋の思い出のある中之島・巨大ホテルの真下から発車できるようになる。

電車から川面の車窓を見ることは難しくなり、わずかに天満橋駅近くで大川の風景が見れるだけだが、それでも京阪のターミナルは川のすぐそばにある。
川と縁の深い・・京阪電車の雅やかさは今後も失われずに進んでいってほしいと願う。

2008年8月17日 (日)

貨車なのか客車なのか

Emaiko_6 高砂工場では僕は旅客車職場にいて、そのうちの客車上回り組だったから普段の仕事は客車の修繕や改造だった。
たまに、動車組(気動車担当)の応援で気動車を触ることはあっても、機関車や貨車を触ることはなかった。

ところが、高砂時代の例外がある。
貨車であるはずのワキ8000だ。
代表的な国鉄貨車ワム80000を前後に大きくしたようなこの系列はなぜか旅客車職場の担当だった。

この貨車は、どこから見ても貨車で、だからこそ貨車の形式がついているのだろうけれど、運用では荷物列車に連結され、EF58などの旅客機関車に牽引されていた。
つまり、運用では完全に客車なのだ。
貨車の巨大ヤードで突放を受けることもなく、SGの蒸気漂う駅のホームで他の客車に混じって異彩を放っていたのだ。

主に新聞輸送などパレット専用の車両だった。
(小口パレット輸送には「あそ・くにさき」などに連結されていた一般型の荷物車、マニ37などもある)

後に、マニ44という客車が登場する。
これまた、すごい車両で・・
外観も中身もワキ8000そのもの・・
車掌室とその反対側に出入り台がついていて、けれども出入り台からは荷物室には入れない。
出入り台は幅1メートルほどの細長い空間で、ただそれだけである。
単に入れ替え作業のためだけの出入り台なのだ。

これら、ワキ8000やマニ44の上回り作業と言えば、大きな開き戸の調整が中心だ。
アルミ製のドアをてこで持ち上げ、大きなマイナスネジを大きなドライバーで外し、シーリング剤をはがしてその中の車輪を交換するのだ。
巨大なドアだが、作業は簡単で、一人ででもできた。

あとは車内の床にネジ止めされている銘板の取替えや補充などくらいか・・

高砂には貨車職場もあったが、客車と同じ運用のものは客車として扱っていたのだろうか。

鷹取工場への編入のさい、鷹取の貨車職場と高砂の旅客車職場が合併して客貨車職場ができたとき、客車貨車の矛盾を乗り越えて、これらパレット輸送用の車両はここに入場できるようになるはずだった。
だが、高砂廃止と時を同じくして国鉄の荷物輸送は終焉を告げた。
つまり、かれら、客車か貨車か・・その中間の車両たちは、鷹取工場客貨車職場に入場できないで・・まだ赤子のような車令で廃車の憂き目にあったのだ。

2008年8月13日 (水)

流線型雑感

日本で言えば大正時代の後期から世界的に鉄道車両における流線型がブームになってくる。
ヨーロッパでは当時すでに時速160キロに及ぶ流線型気動車が存在していた。
日本の国鉄もまた、世界の流行に乗る形で流線型車両の開発に乗り出す。

けれども、狭軌で線路状態のよくない日本では、最高速度は120キロ程度が限界で、流行に乗ってつくられた流線型車両もまた、その持てる空力特性を発揮することもなかった。

国鉄はC53やC55、モハ52やキハ44000といった流線型車両を完成させたが、工作に手間がかかり、かつ、空力特性もさほど向上するはずのない日本の線路条件では流線型車両は不便だけが多いと言うのも頷ける。
国鉄に限らず、私鉄でも先進的な会社では流線型車両を登場させている。

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有名なところでは愛知電鉄や名岐鉄道、それに京阪と言うところだろうか。
東横の場合、わざわざ流線型の気動車を大都市の電化路線に投入もしている。

時代は1935年前後、大正デモクラシーの平和は短い終わりを告げ、日本はまた戦争の中に突入していくその寸前の時代である。
鉄道車両が実用一点張りから流麗なデザインを採用し、乗客や沿線住民へアピールをしていく・・そこにはつかの間の平和の春の輝きがあったのかもしれない。

ただ、南満州鉄道において、流線型の機関車や客車、気動車が作られていくのだけれども、これとて、設計者は決して軍用の用途に考えたものではなかろう。
鉄道の健全な発展の方向へ(南満州鉄道の存在が必ずしも健全なものではないにしろ)進んでいく、その必然性から生まれたものであるだろうし、欧州並みの高速運転が可能な大陸の鉄道では流線型デザインも大きな意義があったのかもしれない。

話を日本国内に戻すと、戦前の日本の鉄道程度の速度では流線型はその保守に不便が多く、結果として戦時輸送へ突き進む鉄道において、それ以上の発展をすることはなかった。
また、流線型にあらずとも、参宮急行や新京阪、阪神急行、阪和など関西の先進的な鉄道においては箱型でありながら十分な高速運転も実施されているのだ。

国鉄が関西地区に投入した先駆的な流線型電車、モハ52は、2次車からあとの増備はなされず、工作の容易な半流線型の「合いの子」の登場となっていくし、それもやがて戦時体制が深まるにつれ、本来の使用法から逸脱していってしまう。
世は国家を挙げて非常事態になっていく。

鉄道が敢えて流線型を作っている間、世間はまだ平和な風が吹いていると言うことなのではなかろうか。
あるいはその平和が頂点に達した、いわば一種のバブル的な時代なのだろうか。

僕はこのブログ初期の頃に書いたように、自分で旅行が出来るようになってすぐに流線型、モハ52を見に行っている。

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この車両の走行シーンを実際に見て、実際に乗車したのはきわめて幸運なことだったのかもしれない。
けれども、日本の鉄道が歩んだ苦難の道を思うとき、改造の痕跡が目立つ傷まみれのモハ52の車体が何かを物語っているかのように思えてならないのだ。

今、日本の鉄道は流線型花盛りである。
500系や700系、N700系、E2系、E3系と言った新幹線電車はもとより、四国の8000系、九州の881系・・かつての「未来の鉄道」というイメージから飛び出してきたような流線型電車が走り回っている。
私鉄においても、小田急や近鉄の特急電車はすばらしいデザインの流線型だ。

どうか、この状態が戦前の流線型時代の再来ではないことを、切に祈りたい。
この流線型が脇役に追いやられ、必要最小限のデザイン、無骨な造りの車両が出回り始めたら・・
またきな臭くなりそうな予感がするのだ。

しかし、JR西日本あたりの・・特急気動車の平面顔は・・僕を少しだけ不安にさせてもいるけれど。。

2008年8月 7日 (木)

181系電車への憧れ

00230044 僕が生まれて、物心ついた頃、国鉄のスターはまさしく「こだま型」電車だった。
新幹線が開業し、メインルートであった東海道から姿を消した「こだま型」151系電車は、それでも山陽路を頻繁に走り、当時、国鉄線路の近くに住んでいた僕の目に触れることも多かった。
ただし、その頃の庶民にとって国鉄の特急はまさに高嶺の花で、しかも、地方に田舎を持たない我が家にとっては国鉄特急に乗車するなど、考えることも出来なかった。

つまり、見るだけのスターである。

加古川市に転居してからは山陽本線で485系の「しおじ」などを見る機会が多くなってきたが、用事のない場所へ電車で行くわけにも行かず、ボンネット型の特急電車は、やはり見るだけだった。

子供の目でもクハ481の正面の赤髭がすごく不満で、髭のない特急電車を探したけれど、結局、もう見ることは出来なかった。
これはあとで、「しおじ」に使っていた151系改め181系がすべて撤退し、関東へ転出して代わりに直流区間の山陽本線内での運転も交直流の485系に置き換えられていたのだと知ったけれども、髭のない、そしてなぜかスマートに見える181系への思いは募るばかりだった。

結局、大垣夜行に乗って東京への旅行を敢行するまで、僕は181系電車との再開は果たせなかった。

上野駅でようやく再開を果たした181系「こだま型」電車だけれど、ひげの代わりに赤帯が描かれた先頭部になっていた。
ひげを見慣れた目からはこれはこれでスマートに思え、また、なぜか車体全体も485系より引き締まって見えて、感動を新たにしたものだ。
屋根の上のヘッドライトは撤去されていたが、これもこれでスマートに思えた。

僕は上野駅で飽くことなく「とき」を眺め続けた。
当時、「あさま」「あずさ」も181系で運転されていたと思うが、なぜか記憶もなければネガもない。
181系を見るなら「とき」だと思い続けていたのかもしれない。

国鉄の文字だけのヘッドマークだが、「とき」は格別だった。
ひらがなで大書された「とき」の文字の下に小さく「朱鷲」と漢字で書かれ、その下にローマ字があった。
国鉄特急のヘッドマークが絵入りになる前、わずかでも変化をつけていたのは、「とき」だけだったのではないだろうか。
(「つばめ」が151系の頃、わずかにデザイン処理されていたようだけど、もちろん、僕の世代では見たことがない)

さて、181系は低重心構造で、しかも乗降口にステップがなく、これが車体をスマートに見せている。
このことは後に、「とき」食堂車を廃止して新車のグリーン車を組み込んだときに、グリーン車は485系への転用を考えてステップつきで485系の車体断面で製作されたために編成にアンバランスが生じ、編成美を崩したことからでもよく分かると思う。

この点が、ある意味ではローカル区間への乗り入れ、ホーム高さの低い線区への入線も考慮しなければならない 他の特急車両と違う部分だろうか。
いずれにせよ、上野駅で眺め続けた181系は非常にスマートで貫禄十分だった。

残念ながら、僕はこの系列に乗車したことがない。
乗車した友人によればスマートさとは裏腹のひどい揺れで閉口したそうだ。
揺れてもいいから、一度は乗ってみたかったな・・
幼児の頃からの憧れの電車だっただけに、その思いは今もある。

ただ、嬉しいことにこの電車のクハのトップナンバーが地元神戸の川崎重工で保存されている。
そこは僕が幼少期を過ごした場所のすぐ近くでもある。