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こう@電車おやじ

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2008年7月

2008年7月28日 (月)

パノラマの頃

Emaiko_142 名鉄に初めて出かけたのは昭和50年の春、中学校を卒業したクラスメイトたちと当時は珍しかった卒業旅行に出かけたときだ。
鉄道ファンの卵らしく、往復や現地の移動で使う電車には何より気を使い、往路は国鉄の快速電車、復路は近鉄の名阪特急を選んだ。
けれども、この旅行では行った先が犬山線沿線の明治村だったこともあり、名鉄の看板列車、7000系には乗車できず、座席指定券まで購入してやってきた電車が7700系だった。
当時、7700系は出来たばかりで、そういう意味では新車に乗れて快適で・・よかったのだろうが、僕たち鉄道ファンの卵にとって名鉄と言えばあの、7000系、7500系のパノラマカーであることに違いはなかった。
その7000系は旅行の途中、新名古屋近くの駐車場から許可を得て俯瞰撮影させてもらい、それはそれで満足した。

名鉄は昭和30年代からなぜかクロスシートの電車ばかり作り続けていた。
かのパノラマカーもその一環であり、特急だけでなく急行はもちろん、各駅停車にもごく普通にやってくる電車だった。

そのパノラマカー乗車へのリベンジは意外に早く、国鉄の鉄道学園入学時の最初の個人旅行での訪問先が名鉄であり、当時モハ52の走っていた飯田線南部だった。

さて、やっと乗車できた新名古屋からの豊橋行き座席指定特急、7000系はそのすばらしい外観とは裏腹のすさまじい走り、乗り心地だった。
全車両が電動車の7000系は走り始めるとすさまじいばかりの加速と台車のガチャガチャとした音、そして小刻みな揺れ・・
転換式のシートは狭く粗末で、関西で京阪や南海のクッションのよいシートに慣れているものからはそれだけでもカルチャーショックだった。 
車内は粗末で、窓にも天井にもそこら中に広告があり、その電車がこれまた考えられないような高速で突っ走っていく・・

中京競馬の開催日で、たまたま、レースの終わったあとだったのか、大勢の観戦客が臨時停車した駅から乗ってきたのだが、ここぞとばかりに車掌が特急券を売りさばいていく様子が珍しかった。

このあと、名鉄には何度も出かけることになる。
目的はもちろん、かのパノラマ、7000系だったけれども、沿線で撮影してくるとやってくる旧型電車にもすっかりほれ込んでしまう。
さらに、岐阜付近での美濃町線、市内線、揖斐線にも他にない魅力を感じ、足繁く通うようになる。
当時の名鉄は全線で転換式クロスシートをスタンダードにしたかったようで、美濃町線にはモ600という複電圧のクロスシート電車、揖斐線にはモ500,510という大正の香り残す半円形電車に転換式シートを備えた魅力的な電車が走っていた。

Emaiko_5

この名鉄のサービス精神がおかしくなってきたのは豊田新線開業の際に100系と言うロングシート、4ドアの新車を投入した頃からではなかったか・・
それでも、非冷房5000系の置き換えに5700系や5300系を作っていた頃はまだ、サービス精神の余韻は残っていたように思う。
6000系をロングシート化し、本線にロングシートの電車をごく普通に投入するようになった名鉄は、徐々にごく普通の大手私鉄になっていくように感じられた。
ローカル線区を大幅に廃止、岐阜地区の個性豊かな電車たちのいっせいに姿を消してしまった。
特急ですら前面展望をまったく考えない電車を作り始め、「パノラマ」の名を過去に法ミリ去ろうとしているかのような名鉄に僕は今、興味をもてないでいる。

小田急がいったん廃止を決めた連接特急車を復活させたり、近鉄が今もビスタの名を大事にしているのとは違う傲慢さを名鉄経営陣に感じるのは僕だけだろうか。

鉄道は大なり小なり「夢」の部分が利用者に大きなインパクトを与える商売だと思う。
だからこそ、阪急は今も独自路線を貫いているのだろうし、京阪は各家庭にテレビのある時代にテレビ電車を運行している。
その「夢」を切り捨て、せっかく育て上げた「パノラマ」の商標を惜しげもなく捨てる名鉄に将来はあるのだろうか。
パノラマに歓声を上げた子供たちが空港連絡特急に同じように歓声を上げるだろうか・・
難しいような気がしてならない。

2008年7月14日 (月)

別府鉄道との出会い。

Bahukiha2koukasita_3 僕の一家が父親の仕事の失敗から加古川市へ転居したのは昭和48年の春だった。
当時、山陽電車の別府駅は盛り土の上にあり、粗末な駅舎と構内踏み切りを有する今の姿からは想像もできないようなローカル膳とした駅舎だった。

たぶん、270型あたりだったろう電車からホームに降りると、いきなりホームの横を新幹線の白と青の車体がパンタグラフからスパークをまき散らしながらすっ飛んでいった。

最初は気づかなかったのだがその別府駅を何度か利用するうちに、ホームの下を単線の線路が通っていることに気がついた。
単線の線路なら大阪市内ではそこら中にあった貨物引込み線で見ているから、別に珍しくもなかったけれども、あるとき、その線路を小さな気動車がゆっくり通っていくのを見かけてしまった。

こうなると、すでに鉄道オタクの素質十分な僕にはもう我慢がならない。

線路を伝ってその鉄道がどういう鉄道なのか知りたくなった。
買ってもらった加古川市の地図によるとその線路が「別府鉄道」というものであるらしいことがわかった。
しかも、僕が見た線路が「野口線」、別にもう1本、「土山線」があって、それぞれ国鉄に接続している。

親に黙って歩いて別府港の駅へ見に行った。

そこにはなんとも可愛い気動車と客車、たくさんの貨車、古めかしいディーゼル機関車があって、機関車は入れ替え作業をしていた。
小さいが風格ある駅舎で恐る恐る駅員に聞いてみた。
「乗りたいのですけれど」
駅員はなぜかちょっと怖い雰囲気で「次の列車は30分後や」といってくれた。

その30分で構内をいろいろ見て回った。
当時、子供が線路に入っても危険なことさえしなければあまりお咎めはなかった・・そういう時代だった。
いかにも西部劇に出てきそうな客車があった。
あとで、それが相模鉄道創業時の客車の生き残りだと知ったのだが、当時はそんなことは知る由もない。
あれに乗れるのか・・そう期待したけれど、やがてホームに横付けされたのはピンクの気動車「キハ2」だった。

けれども、この気動車も十分刺激的で、車体の前後の荷台、油引きのしてある床、そして、走り出すと自動車のようにクラッチを操作するその運転・・
気動車は数人の乗客を乗せて走り出す。
各駅でそれなりの乗降もあり、田んぼの中を快走する。
乗り心地は船のようで、スピードはそれほど出ていないのだろうがエンジンの音は目いっぱいだ。
車掌さんは、ちょっと怖い雰囲気だった。

10分ちょっとでもう終点の野口についた。
乗客の大半はここで接続する国鉄の気動車に乗り換える。
僕は、国鉄の列車を見送ったのだがそのとき、車掌さんが声をかけてくれた。
「ボク、どこいくのん」
「「また折り返して帰ります」
「折り返しは1時間後やで、歩いたほうが早いのんとちがうか」

もしかしたら山陽電車の尾上の松駅の場所を教えてもらったのかもしれない。
僕の記憶では帰路は山陽電車に乗ったことになっているからだ。

注記:

「国鉄の思い出」ブログからの移設作業は現在、eoネットさんのほうで作業中です。少しの間、お待ちください。