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2007年12月

2007年12月22日 (土)

大阪駅

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回送の雷鳥が8番線に、DD54牽引の福知山線普通列車が9番線到着している様子。

今、大阪駅は新時代への脱皮へ向けた大改造工事中だ。
駅は単なる鉄道の乗り場としてではなく、それ自体が集客力のある商業ゾーンとして変化していく。

これは何も今に始まった事ではなく、かの小林一三が阪急梅田駅に百貨店を併設し、ターミナルデパートと言うものを世に問うてからの流れの中にあるわけだけれど、国鉄時代、一部の民衆駅(天王寺・姫路・豊橋など)を除けば、やはり駅は駅であり、駅そのものが目的地になりうるような思考はなかったと言って良いかもしれない。

それが変わり始めたのが東京駅の八重洲口だろうし、大阪駅のアクティ大阪だろう。

そのアクティ大阪が出来る以前・・つまり前代の大阪駅は都会の真ん中にありながら、駅としてだけの機能を持った巨大なターミナルだった。

途中で建設がストップしたと言われる駅舎は、これが日本第二の大都市の駅かと思うほどそっけなく、味気のない建物だったように思う。

それでも少ないながら今で言う「駅ナカ」の店もあり、電車に乗る事だけを目的にした僕らファンにはそういう店が有り難かった。
例えば、中央口から地下に降りてすぐの「八百富写真機店」・・
中古カメラの名店と言うのがいかにも場末の雰囲気を醸し出していたように思うし、乗り換えの合間にここで様々なカメラを眺めるのもまた楽しみだった。

このカメラ店は場所を中央口のメインストリートからやや東に移して今も盛業中だ。
ただ、やはり当時の梅田地下街へ入るメインストリートにドンと陳列ケースを並べていた時代が、ある意味ではここが大阪と言う土地柄を表しているようにも思えたものだ。

そのカメラ店からやや下がったところ・・
「新大阪グリル」と言う洋食屋があり、ここには良く食事に入ったものだ。
レストランなどと言う横文字が似つかわしくない庶民的なお店で、食器類もステンレスだったのではなかろうか・・
「ポークステーキ」や「ポークカツ」など、僕らの小遣いでちょっとした贅沢気分を味わう事の出来る店だったように思う。
その雰囲気は列車食堂をまるごと地下に持ってきたと言う感じだったか・・

その頃の列車食堂もまた、決して特別な存在ではなく、庶民的な大衆レストランのムードそのものだった。

大阪駅の構内は基本的には素っ気無い造りだった。
今のようにどこを歩いても人で溢れていると言う感じもなく、所々、エアポケットのように存在する広漠な空間があったのを思い出す。

先日まで駅北側に存在していた飲食店街のビルは、駅母屋が建て代わった頃に出来たのではなかろうか・・
1階の日本食堂は少し高く、従業員も横柄だった。
僕はいつも、2階のラーメン店か、うどん店を使っていたし、まれに3階の従業員食堂を使う事もあった。

事務的で威圧的な「みどりの窓口」、もの憂げな改札係、どこからともなく漂う小便の匂い。
国鉄の巨大ターミナルは、名古屋や上野も含め同じような印象だったようにも思う。
そう言えば、西口の荷物扱い所などはそこを用事で訪れる人以外は立ち入る事もない場末の雰囲気だったと言えば失礼だろうが、何だかターミナル駅とは思えない雰囲気だった。

国鉄の高架駅は階段の段差が適度で、踊り場も広く、連続して長い階段を一気に登るような設計にはなっていなかった。
これは、神戸や三ノ宮も同じで、エレベーターやエスカレーターが一般的でない時代の良心的な設計だったと思う。
ところが、今、JRが行っている「改良」工事では折角の国鉄の良い部分を潰してしまい、エスカレーターの横の階段は健常者でないと使えないほどの長く、急なものになってしまっている。
エスカレーターがあるから階段は補助的な役割だと考えているのだろうが、これでは緊急時など、お年寄りには辛い設計ではある。

大阪駅のホームは「環状1番2番」と1番から11番まで存在し、後に環状1番は「環状内回り」環状2番は「環状外回り」と改められた。
福知山線発車が主に「1番」「2番」、山陽線発車が「3番」「4番」、神戸方面電車が「5番」「6番」、京都方面電車が「7番」「8番」、福知山線到着と東海道・北陸線方面が「9番」「10番」、北陸線始発が「11番」と分けられていた。
これらのうち、実際に昼間、旅客で賑わうのは環状線と4,5,6,7番、それに11番線だけだった。
当時の福知山線は2時間ごとくらいの特急・急行に、90分ヘッドに近い状態の客車普通ばかりだったから、今の賑わいからは想像も出来ないくらい、ホームは閑散としていた。
ラッシュ時に福知山線列車で立ち客が出るのを滅多に見ないほどだったと思う。

11番線は鉄道ファンが羨望の眼差しで見る485系特急「雷鳥」や急行「ゆのくに」「立山」が出るホームで、ここはさすがに、たくさんの長距離旅客が大きな荷物を持って列車を俟っている・・ターミナル駅本来のムードを醸し出していた。
けれども、SLブームが去ったあとの「特急」「ブルトレ」ブームではこのホームに少年ファンが溢れ、結局、国鉄当局はこの羨望の11番ホームを「列車利用者以外立ち入り禁止」にしてしまった。

今では考えられない事だが、当時は線路に降りて列車を撮影するファンも大勢いたのだ・・安全対策や列車利用者へのサービスの上からもやむを得ない処置だっただろう。

今、大阪駅はどのホームも人で溢れている。
ホームの数をこれまでより二つも減らして、その分を商業施設に変える工事も行われている。
民営化されたJRは旅客の利便よりはテナント賃貸料のほうが良いというわけか・・
いくら日中は空いているホームとはいえ、ラッシュ時には全てがフル稼動していたのに、それを減らすと言う事は、乗客の動線を捻じ曲げ、かつ、ダイヤの異常時などに列車ダイヤの復元力を失う結果にならないか・・

あるいは、階段を直線化し、踊り場等をなくす工事も、結局はその余ったスペースに商業施設を持ち込みたいからだろうけれど、これでは乗客の安全より、あるいは輸送使命よりも商売が大事だと・・そうJRが考えていると捉えられても仕方がないのではないだろうか・・

国鉄は不器用で無愛想だったけれど、少なくとも、そのあたりの発想はしっかりしていたように思うのだが。