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2007年2月

2007年2月23日 (金)

餘部橋梁

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雪の残る山々をバックに餘部橋梁を行く特急列車。


かつて、鉄道が旅行手段の主役であった頃、山陰本線には今よりもっとたくさんの優等列車が走っていた。
僕が知っている頃には大半は気動車による特急や急行で、夜行列車だけが客車列車だった。

昔・・昭和30年代までの時刻表を見ると、山陰本線と北陸本線とでは、列車の本数などにも大差がないように見えるけれども、いまや、山陰本線・・特に城崎から鳥取までや萩から幡生までの区間などは完全にローカル線区に成り下がってしまった感すらある。

ローカル線と化した兵庫県北辺を走る区間のうちのハイライトがまさに餘部橋梁だ。
かつて、この路線が幹線らしく、多くの優等列車でにぎわった頃には、この橋梁を一日に何度もこれら優等列車が走り、それは眺めていてまさに列車への憧れを感じさせる光景ではあったのだけれども、今ではここを通過する優等列車は日に2往復だけという淋しさ、それも編成両数も普段は4両というわびしさだ。

今や、関西と鳥取を結ぶ列車は第三セクター「智頭急行」線を経由し、最高速度130キロで突っ走る振り子特急「スーパーはくと」は7往復に達しているし、米子や松江へは新幹線岡山開業後に一躍脚光を浴びた伯備線特急「やくも」がほぼ一時間毎に運転され、新幹線「のぞみ」と合わせて山陰への時間距離を大きく短縮している。

これらの結果、餘部橋梁を通過する優等列車は日に2往復の播但線特急「はまかぜ」だけになってしまったわけだ。
山陰本線も城崎までは電化もされ、新大阪や京都から特急列車が頻繁に走るようになったけれど、それはこの橋梁まではやってこない。
かつて、特急「まつかぜ」「はまかぜ」「いなば」「あさしお」「出雲」、急行「白兎」「但馬」「丹後」「丹波」「だいせん」といった列車が堂々と通過した頃から考えると今の餘部橋梁を走るのは2両編成のワンマン気動車が中心で、見ているものには隔世の感すらある。
いや、普通列車ですらかつては長編成の客車列車が中心だったのだ。

餘部橋梁の歴史は明治にさかのぼるほど古く、メンテナンスに気が抜けない鋼鉄製の橋梁をずっと維持管理してきた先人たちの努力には頭が下がる。
この路線は日本の経済や人々の生活にはなくてはならぬものであったのだ。

宮本輝という作家の「海岸列車」にはこの橋梁をはさんだ城崎から鳥取までの区間がずっとそのバックにあるのだが、餘部橋梁を含むこの区間の素晴らしさは、言うまでもなく、海と山、漁村の風情が織り成す車窓は四季折々に乗客の目を楽しませてくれる。

僕は、この区間をことのほか好きで、中でも餘部橋梁は撮影の題材としては本当に素晴らしく、昭和50年代には魅力的な列車が多く走っていたこともあり、何度も通いつづけた。
また、列車に乗ってここを通過するのも楽しみで、冬などは暖かな旧型客車の窓辺に、サッポロビールの缶を並べ、するめなどを齧りながら、ただ、それだけのための日帰り旅行も何度もしている。
(当時、なぜか、福知山鉄道管理局の駅では構内売店で売られるビールの大半が「サッポロ」ブランドだった)

駅を訪ねると、地元の方々がこの駅を大切に去れている様子も窺い知ることが出来、僕自身、いつも橋の下のお店で休憩していたものだ。
餘部の集落の方々も、たまにやってくる鉄道ファンにはとても親切だった。

橋はどのアングルから撮影しても美しく、そこを走る列車は幹線らしい風格に満ちていた。
特急のキハ181やキハ80、急行のキハ28,58・・普通列車ですらもあの堂々としたDD51が牽引するオハ35やスハ43・・長編成の貨物列車も、その姿を見ることが出来た。

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真冬の餘部橋梁を通過する急行列車。


昭和61年、12月28日・・国鉄の解体のわずか3ヶ月前だ。
こともあろうに、この橋梁で大事故が起きた。
あの、お座敷客車「みやび」の転落事故だ。
大好きな橋梁で、しかも自分がその工事を担当した車両が強風にあおられて、自分がいつも御世話になっていた方々を押しつぶしたのだ。
残骸と化した「みやび」はやはり残骸と化した良く見知っている建物を押しつぶしている・・そんな映像が繰り返しテレビや新聞で報道された。

僕の衝撃は大きく、以後はしばらく橋梁に立ち寄れない精神状態となった。

後でわかった話だが、転落した「みやび」を大鉄局から借りて運行していたのは福知山局の営業だった。
「お買いもの列車」という触れ込みで、香住港などで年末の買い出しを呼びかけたらしいが、その乗客の大半は実は鉄道関係者やその家族だった。
本当なら強風で停止させたはずの「お買い物列車」は、だから、そういう「都合」で無理やり運行されたのではないかと・・僕は見ている。
残念ながらこういう「みやび」運行のバックを報道するメディアはごく少数だったように思う。

やがて、僕は餘部橋梁での撮影を再開した。
そのときはもう、国鉄職員ではなくなっていたが、行くたびにここで祈りを捧げるようになった。
そして、祈りを捧げてから、本来なら平和で、のどかで、それでいて素晴らしい絵になるこの場所を愛しつづけることもまた、ここで亡くなった方々への僕なりの供養であると信じたからだ。

餘部橋梁はまもなく架け替えの工事が始まる。
地元では観光資源として古い橋梁を保存する意向だという。

けれども、観光だけをクローズアップするのではなく、鉄道の安全をしっかり後世へ伝えるため・・そう言う面もしっかり意義付けをして欲しいと願うのは僕だけではないだろう。

やがて、橋梁の架け替えが終了すれば、この路線にまた優等列車が戻ってくるであろうことも祈りながら・・