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2007年1月

2007年1月23日 (火)

湘南電車一考

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湘南電車・・国鉄が戦後、長距離輸送に始めて電車を使うことになり、それまでの客車の思想を多く盛り込んで登場させたのが80系電車だ。
最初は半流線形非貫通の3枚窓で、貫通路がなく何か間の抜けた感じのデザインだった。
それが、設計の改良で正面2枚窓、それに傾斜をつけて鼻筋を通した所謂「湘南タイプ」が登場した事で、大きなフィーバーを巻き起こす事になる。

国鉄にとって80系電車はその外観よりも用途にまったく新しい思想を組み込んで作り上げた意義のある電車だ。
長距離輸送は客車の時代・・
片道2時間ほどもかかる東海道線の沼津までを客車から電車に置き換え、スピードアップと増発、機関車を不要にした事による大幅な合理化を達成したのだからそれは当然だろう。
だからか、大阪の交通科学博物館には80系の1号車・・クハ86001とモハ80001がきれいに整備されて保管されている。

僕はこの80系電車の保存には不満がある。
初代80系の3枚窓は少数派だ。
80系・・湘南電車と言えば大フィーバーした流線形2枚窓であり、こちらの保存が何故出来なかったのだろうかと悔しくさえある。

国鉄には一大事件だった電車による長距離輸送だが、同じ国鉄でも関西では既に戦前から42系による100キロ近い長距離運転が高速で行われていたし、私鉄に目をやれば大軌と、その子会社の参宮急行による上本町ー宇治山田間の130キロに及ぶ高速運転も実現していた。
国鉄42系は2ドア、クロスシート、これを改良した流線形モハ52の名は今も不滅だ。
参宮急行は2ドア、クロスシートの2200系一党が6連の長大編成で皇紀2600年の伊勢へ突っ走っていた。

つまり、電車による高速、長距離輸送は戦前に既に確立された技術であったわけだ。

80系電車は、接客設備を客車並みとしたため、ドアが車端に寄り、向かい合わせのクロスシートを中心とした設計になったけれども、当時からラッシュ輸送への考慮もあり、座席寸法は戦前の51系並み、同じ時期に登場したスハ43一党とは大きく見劣りのするものだった。
また、ドア位置の問題があり、ラッシュが激化すると到底対応できなくなる。

横須賀線には80系の走行装置と51系の車体、それに80系の正面を持った70系も登場すると、東海道線で使う80系はラッシュには不向きと思われるようになるのも致し方のない事だっただろう。
それでいて、スハ43のようにゆったりした座席ではない。
長距離運用と言いながら座席は狭く、窮屈だったから2時間以上の乗車には適していなかった。

結局、長距離用としては改良型の200番台、さらに全金属製の300番台が出て、これによって準急や急行にも進出していくけれども、所詮ラッシュ用途も考慮した中途半端な設計では長く使い続ける事も出来なくなっていく。

新性能化で東海道線は真っ先に111系が投入され、80系は都落ちを始める。
運用線区は電化区間の西進、北進とともに変化していき、急行や準急も後輩の新性能153系に取って代られていく。
こうなると、80系はその車内設備ゆえにローカル区間でしか使う事が出来なくなっていく。

車両としての評価とは別に、80系をさらに忘れられないものにしたのは、あの流線形正面2枚窓のデザインだ。
国鉄でも電気式気動車や電気機関車、ディーゼル機関車にそのデザインは引き継がれ、EF58はファンの人気も高い大傑作となったけれども、デザインを作り上げた国鉄部内では新型電車以降、このデザインは見向きもされなくなる。
電車特急を別にすれば、国鉄の電車、気動車は分割併合が可能な貫通型デザインを上手に処理したものに代わってしまった。
153系電車や80系気動車の流麗なデザインはすでに湘南型2枚窓を必要としなくなってしまったのだ。

ところが、私鉄で大ブームが起きる。
関東の私鉄はどこも2枚窓の電車を争うように作り始めたし、地方私鉄でも最新型はほとんどが湘南型マスクになった時期もあった。
関西私鉄でもこのデザインは南海や阪神で使われたけれども、関東ほどには広まらなかった。
個性を尊重する関西人ゆえの感覚だろうか・・

関東私鉄では京王や西武など、近年まで湘南型マスクやそこから進化した前面形状の電車を作り続けているし、京王の井の頭線用の新車など今も、湘南型マスクの面影が感じられて興味深い。

ただ、やはり私鉄として丸まま、このデザインを採用する事に抵抗があったのか、京浜急行や名鉄、近鉄では自社の味わいを持たせた個性的な顔つきも登場した。

僕個人の感格では湘南型マスクのデザインで、洗練されていると感じるのは国鉄70系300番台、国鉄のEF58、南海の11001系、阪神3011系、それに夕張鉄道の気動車だ。
特に南海と阪神は湘南マスクに近代感覚を折り込み、見事な車両になっていたと思う。
残念ながら両社ともそのスタイルを拝む事は出来ないが、南海の11001系を短くした感じの高野線急行用21001系が大井川鉄道と一畑電鉄に譲渡されて走っているので、面影だけは感じ取る事が出来る。
国鉄70系300番台は湘南型マスクが横須賀色とあいまって、清楚で上品なイメージの電車だった。
出来れば、先頭車両1両は残しておいて欲しかった。
Lfkedogu 福塩線府中電車区の70系


西武鉄道は湘南型マスクの左右の窓を繋げ、細いピラーを間に入れたデザインとなり、同社101系では黄色の車体カラーとあいまって近代的で好ましい感覚になっていたけれども、101系の増備車からやや趣が変わり、あまり好きではないデザインになってしまった。
(このあたりは個人的感覚だからご勘弁いただきたい)

考えれば、国鉄が世に問うた80系電車はその用途にあっては必ずしも成功とは言い難いけれども、デザインが爆発的に普及した事・・たぶん、国鉄でも意外だったと思うのだが、そのデザイン面での功績は非常に大きなものがあると思う。
僕は客車担当だったから80系電車を工場で触る事はまったくなかった。
ただ、一度だけ、実習中にEF58のナンバーを交換する仕事をさせてもらった事がある。
運転台機器の中に頭を突っ込み、半ば手探りでナンバーを交換したのは今となっては懐かしい思い出だ。

80系電車の晩年・・
昭和52年頃から数年・・
僕は山陽本線の姫路・岡山間に乗車する事が多かった。
この区間は大半の列車が80系で運転されていて、当時は快速列車まであった。
高速でも流れるように走る80系は非常に快適だったけれど、同じダイヤで115系に置き換わった後・・115系が力を持て余し、とろとろと走る様子に、なるほど、つりかけ式とカルダン駆動の差を実感したものだ。
時代は既に80系を必要としなくなっていた。

2007年1月 5日 (金)

旧型客車雑感

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Mphzp7m5 上が梅小路の現車、下が高砂工場におけるオハ35



昨今では「旧客」と呼ばれ、ファンに根強い人気のある旧型客車だけれど、どのあたりまでの客車を言うのだろう・・
国鉄部内では新系列客車とは20系以後の客車を言うのだけれど、20系の登場後も作りつづけた10番台の軽量客車は、これはどう見てもそれまでの客車とシステム的に大きな違いは見当たらず、旧型客車の範疇に入れてもいいと思う。
とすると、一時的には新系列の20系客車と旧型客車が混在して製造されていたことになる。

で、その旧型客車だけれども、スハ32までのシリーズと、広窓になってからのオハ35以降のシリーズでは窓構造などに変化もあり、ここではオハ35以降の一般型客車について・・雑感を書いていきたいと思う。

これら客車は所謂半鋼製車体であり、台枠や梁、柱などと、外板以外は木製であるのが大半だった。
国鉄はどうも全鋼製車体には消極的で、すでに関西の民鉄では大型全鋼製車体を持った新京阪デイ100や阪急920が量産されていたけれども、我関せずというわけか・・
全鋼製もしくは全金属製車体は新系列電車にならないと実現していない。

10番台の軽量客車は基本的に全鋼製であるのだけれど、内装関係に金属以外のものが多用されていた。
壁面や天井板は「ハードボード」といわれる代物で、見栄えはアルミデコラのような美しさではあったけれど強度面では明らかに不足を感じていたし、北陸トンネル事故の際にこのハードボードから出る有害ガスが多くの人に致命的な被害を与えたのは良く知られるところだ。

スハ43一党までの旧型客車の内装材は基本的にベニヤ板であり、天井も塗り天井だった。
これら旧型客車を近代化する際、やはりハードボードが全面的に使われた。
当時は客車のみならず、気動車にもハードボードが使われたけれど、なぜ、電車の場合はアルミデコラになったのか・・
僕にはいまいち、理解できない。
20系客車も初期のものはハードボードだったが、後の増備車からはアルミデコラに改善されている。

また、旧型客車を改装したスロ81系お座敷客車では、内装材は全面的にアルミデコラに変更されている。

旧型客車の窓構造は幅1100ミリ、の広窓・・それに厚さ5ミリの頑丈なガラス・・
これでは普通の人は窓を上下させることが出来ないくらい、重いものだったから、釣り合いバネが窓柱の奥に組み込んであった。
窓と柱の間には隙間が無ければ窓は上下に動かせないが、隙間が大きいと風が入り込んで防寒や、煙害の問題になってしまう。
そこで、窓の木枠の外側、柱と接する辺にフェルトを打ち付けてあった。
こうすることで、窓の寸法を補正することが出来る。
窓は釣り合いバネのおかげで軽く上下し、しかも隙間風は入り込まない・・
思えば旧型客車は、旅行者のことを第一義に考えた非常に良く出来た設計だったのではないか。

扉は単純な内開きの手動だ。
錠があるものの、走行中に自由に開閉も出来る・・
旧型客車を国鉄が放逐したその最大の問題点がこの手動扉だった。
客車は、国鉄末期には第一線の幹線筋の優等列車からは消えていったけれど、幹線や亜幹線のローカル輸送では、特に朝夕の輸送力列車などにはまだまだ使われていた。
地方都市では最大の顧客は通学の高校生たちだ。
彼等の中には悪ふざけをし、手動の扉を開け放して喜ぶものもいたし、そういった高校生たちの転落事故が頻発した。
旧型客車の手動扉を自動式に改造するのは至難の技だ。
車体構造上、12系あたりの折り戸を持ってくるしか方法は無いだろうし、それにしても大工事になってしまう。
それよりはコストを下げた新型客車を作ったほうがイメージも良くなるし、管理もしやすいだろう・・
こうして客車はその使命を終えつつあったにもかかわらず、新型50系の登場と相成った。

何故に昭和も30年代になってからでさえ、手動扉の車両を作りつづけたか・・
電車・気動車は自動が当たり前の時代にだ・・
国鉄というところの頭の硬さ、古さを僕は客車の手動扉に見る思いがする。

反面、国鉄末期に残った旧型客車の大半が、急行用として使える設備であったために、ほぼ全車両にトイレ、洗面所が設けられていたのは、今考えると驚嘆に値する。
出入り台の扉が手動である以上、出来るだけ乗客に出入り台を通過させないよう、設計するのは当然ではあったろうけれど、昨今の近郊電車のトイレの少なさを思うとき、客車の設計思想の良い面を懐かしくも思う。

設計思想といえば座席の作り・・
特に、背もたれの腰部に傾斜をつけたスハ43一党の座席は非常に良く出来ていたと思う。
オリジナルでは上半分はベニヤ板をニス処理したものだったけれども、体質改善工事で上半分もモケット貼りになり、姿勢を正すとかえって寛げる、良い設計になったと思う。
シートピッチは現在の旅客から見るとやや狭く感じるが、こればかりは窓が固定される以上、やむをえないと思う。
窓下にテーブルがつく前には、座席背もたれの通路がわに、座席骨組みを利用した栓抜きが設けられていた。
この栓抜きは、今のような缶飲料全盛からは考えられないけれど、当時は販売される飲料の大半が瓶詰めの時代・・良いアイディアだったのだろう。
もっとも、窓下の小テーブル設置後はこのテーブル下に栓抜きが設置されたから、座席の栓抜きは用を成さなくなったけれど・・
小テーブルの栓抜きは12系でも設けられていた。
なぜか、特急用の14系では栓抜きの設置は無く、このあたりも、国鉄設計の面白さを垣間見ることが出来る。

先にも書いたけれど旧型客車の鋼体以外は木で出来ている。
床も天井も、そして大半の車両の屋根もだ。
床や屋根の補修や構築には大工仕事の知識や技能が欠かせないし、今の鉄道工場ではそれら技術は失われて久しい・・

せめて町の大工に依頼できれば床の補修は難なく出来るだろうけれど、問題は屋根だ。
屋根の構造そのものは床に比べれば単純で、これの工事は今の鉄道工場でも可能だと思うが、最大の難点である木製屋根の屋根布・・これはもはや、現在ではどうにもならないのかもしれない。

そこで提案だが、旧型客車の動態保存に際しては屋根などは現在出来うる可能な状態で補修できないだろうか・・
たとえば、一部電車の屋根に使っているイボ付のリノリュームを茶系統に塗装して貼りこむとか・・
あるいは少々大工事になるけれど鋼板屋根に改造するとか・・

そうでないといずれ、現在保存されている旧型客車は屋根が抜け落ちてしまうのではないか・・

あるいは、窓も木製枠にこだわらず、アルミ製の窓枠を使いながら内外を塗装するだけでもかなり現車の実感に近くなるように思うのだが、文化財という観点からは確かに難しいものがあるだろう。
しかし、動態保存の場合は、やはり実際に運行できることが最大のポイントであるのだし、このあたり、あまりに厳しく考えると結局は運行が出来ない状況になってしまうと思う。

僕にとって旧型客車を代表するものはやはり、スハ43とオハ35・・・それらの一党だ。
旧型客車には僕の青春時代の、可笑しさや哀しさ、とめどない思い出がともに詰まっている。

僕は今、写真屋だけれども、昨年の夏、お客が持ってこられたフィルムを現像していて、そのフィルムには梅小路の機関車が写っていたのだけれど、そのバックに、旧型客車が写りこんでいるのを見た。
心がざわめき、なんとしても、自分の目で確かめたい・・
数ヶ月して年末にようやく時間を得、梅小路機関車館へ行った。

オハ4613とオハフ3348の2両が、蒸気機関車に連結された状態でおいてあった。
遠くから見ると、いろいろな思いが脳裏を過り、涙が出そうになる。
近くへ寄ると、2両の客車は多少の塗装の痛みはあるものの、しっかりした風貌のままで、頬ずりしたいような気持ちになる。
けれども、無情な立ち入り禁止のロープは、客車の一歩手前にあり、僕はここから先には行くことが出来なかった。
窓を見ると、高砂工場でよく扱っていた「樹脂窓」が幾分か混ざっているようだ。
けれども、この位置からではそれを確かめることは出来ない・・
そして、気になる車内の様子も・・窓にはカーテンが下ろされ、見ることが出来ない。

それでも、僕は、この2両の客車に会えたことを素直に喜んだ。
彼等とわかれて何年になるのだろうと数えながら・・