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2006年12月

2006年12月 5日 (火)

四国の国鉄

Ao8pimmy
(写真は通勤列車に使われるスハ44・・多度津にて)

関西鉄道学園工作1科には、吹田、鷹取、高砂、後藤、多度津の各工場に採用が決まっている中学卒業生達が集められた。
このうち、関西3工場と山陰の米子市にある後藤工場に配属されたものは退職者などを除けば、その多くがJR西日本の社員になったわけではあるけれど、四国の多度津に配属されたものは、大半がJR四国の社員となった。

で・・僕には多くの四国の友人があるわけであり、自分で旅行が出来るようになると、四国への旅行が他の何処へ行くよりも多くなったのも必然的な事だと思っている。

さて、僕が最初に四国へ行ったのは昭和51年の夏頃だと思う。
ちょうど盆休みで、はじめての一泊旅行に四国の友人宅を選んだのだ。

加古川駅から夜行臨時急行「鷲羽51号」に乗車・・
盆とあって、定期急行の「鷲羽」の指定券は取れず、臨時列車の指定券が取れたのだ。
けれども、列車は167系修学旅行用の編成で、冷房はなく、窓を開け放しての旅行となった。
冷房はないものの、167系の上段の窓を全開して走る夜行はなかなか涼しく、また、ダイレクトにレールジョイントが車内に響き、なかなか、味わいのある旅の始まりでもあった。
更に言えば、修学旅行用車両としての活躍をまだ行っていた当時、各座席ボックスには大型のテーブルが設置されていて、これにうずくまり、学校の生徒が昼寝をするような格好で行けたのだから・・自由席もある定期急行よりは全席指定でもあり、快適だったかもしれない。

宇野駅に列車が到着すると、乗客達はいっせいに宇高連絡船桟橋へ走る。
けれども、定期急行のあとだから、とても同じ船に乗り込めないからか・・臨時列車でやってきた乗客達は早朝3時ごろの臨時便をあてがわれる事になった。
多分、讃岐丸だったと思う。

初めて乗船する国鉄連絡船の客室は、ゆったりした向かい合わせのクロスシートが窓側につき、その他は進行方向を向いた、ちょうど国鉄特急のような座席が並んでいた。
更に座席の通路側には折畳式の補助椅子まであって、乗船した大半の乗客が座れるようになっていた。

連絡船では僕は窓側に座る幸運を得たけれど、窓から見える夜の海は真っ暗で・・ただ、船内の明かりで船室内がガラスに反射されて見えるだけの味気なさで、高松までの1時間弱は長く感じた。

高松駅には接続される臨時急行がきちんと運行されていて、乗客をそちらへ誘導していた。
はじめて見る高松駅は大きく、風格のある感じで、ディーゼルの排気が駅全体を覆っていた。
僕は、この時、24時間営業だった駅のうどんを食べたように覚えている。

多度津までしか行かない僕は、急行が2本並んで停車して賑やかなホームではなく、隣の静かなホームに向かったが、そこには旧型客車を何両もDF50が牽引する普通列車(通過駅が結構あるので、各駅停車とはいわなかったように思う)がひっそりと停車していた。
明け方の、高松駅は一種独特の雰囲気だったのを昨日の事の用に覚えている。

近代化から乗り遅れているように見える四国の鉄道だが、国鉄は全国に先駆けて四国の完全無煙化を昭和45年には達成・・
まだ、首都圏や関西圏でも蒸気機関車が走り回っていたころだ。
早くから電気式ディーゼル機関車DF50を投入し、貨客の牽引に使うとともに、優等列車は一足先に気動車とされ、四国の4つの幹線にはキハ28、58による急行列車のネットワークが出来ていた。
国鉄の他の地域では長編成の列車を本数を少なく運転していたのに対し、四国の予讃、土讃、高徳の各本線では2両から6両編成の短い急行列車がほぼ60分ヘッドで運転されていた。
これは四国全島をひとつの総局で管理していたから出来る事だったのだろう。

当時は昭和47年に運転開始された四国初の特急列車・・「しおかぜ」「南風」がその急行ネットワークに割り込むように入っていたけれど、当時の特急は格別な列車と言う意識がまだ残っていて、この特急は坂出にも丸亀にも・・一部は多度津すら通過すると言う、今では考えられない列車だった。
ただ、当時、全国的には特急に食堂車は当たり前の時代・・
四国の特急に食堂車が連結されなかったのは、やはり、四国が本州よりは格下に見られていたからだろうか・・
(国鉄は運転時間が短いからと説明していたが、当時、高松から松山・高知へは3時間ほどの時代・・
特急は更にその先まで足を伸ばすので、「ひばり」「とき」にも食堂車のあった時代、この言い訳は通らないと思う)

特急はまだまだ高嶺の花・・
急行こそが四国の都市間連絡の主役・・
高速道路もひとつもなく、国鉄の急行は四国各地を結ぶ主役であったのだ。
キハ28,58は美しく整備され、時には増結用に使われるキハ26も小粋なバンパーを前面につけて美しく磨かれて活躍していた。
いや、急行だけではない。
普通列車の主役のキハ20も、本州では汚れが目立つ事が多かったけれど、四国のものはいつ見ても美しく、キハ20だけの4連などと言った編成美も加えて、僕たちの目を引いた。
更には旅客列車の一部や貨物列車を牽引するDF50は鎧戸もいつも美しく磨かれ、ベストコンディションで使われていたように見えた。
そうそう、客車も忘れてはならない・・
スハ43やオハ46も、美しく整備されていた。
中にはラッシュ対策で車端部をロングシートにして吊革をつけたものまであったけれども、その改造も丁寧で、嫌悪感を催すようなものではなかったし、まれには特急用都落ちのスハ44系の風格あふれる姿も見る事が出来たのだ。

四国の鉄道も国鉄末期には特急中心になってしまった。
それでも、急行時代の短編成、フリークエントサービスの伝統は受け継がれ、今でも土讃線の特急などは2連で突っ走る場合もある。

ただ・・高速道路の相次ぐ完成と、近代化の進まない鉄道とではやはり勝負において、不利なのは見えていて、このあたり、JR四国が世界に先駆けて振り子式気動車を使った高速運転に踏み切り、この結果、国鉄が最末期に投入した新車キハ185系や国鉄時代のキハ181など、早々と幹線筋から姿を消したのは的確な判断だったのだろう。

四国総局は国鉄改革の際、ほとんどの職員をそのまま採用し、人員合理化をしなくてはどうにもならなかった他のJR各社と際立った対象を見せた。
それは国鉄時代、既に充分合理的な感覚に基づいて経営していた先見の明が生んだ良い部分ではあるけれど、国鉄の方針で無煙化以後の近代化が遅れた分、今のJR四国には厳しい事だろう・・

四国では既に国鉄型の車両は脇役的存在であり、次々に投入される独創的な車両を見るにつけ、国鉄四国総局の良い部分をしっかり継承しているように・・僕には見える。
厳しい競争に晒されてはいるが、その中で、しっかりと今のスタンスを貫き、長い良い伝統を受継いでいって欲しいものだ。