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2006年10月

2006年10月 3日 (火)

北海道へ行ったとき

Suwhegmb
(札幌市内を行く「おおぞら」)
僕が始めて北海道に行ったのは、多分、昭和57年頃ではないかと思う。
蒸気機関車は実用的には完全に姿を消し、石勝線が開業するという直前だった。
季節は秋のはじめ・・どうしてこの時期まで行けなかったかというと、国鉄の現場に入ったばかりの「若い衆」ではなかなか3日以上の連続した休みを取ることが難しかったというのが、最大の理由だった。

さて、初めての北海道だけれど、僕は親友のO君と路面電車や地方の私鉄を見に行くのが当時の旅行の「目的」だったから、行き先も札幌と函館の路面電車をメインに、青森県内の津軽鉄道、弘南鉄道、南部縦貫鉄道、十和田観光電鉄までも日程に組み入れる強行軍で、実際に北海道にいたのは2日半だけだった。
(その癖、当時まだ走っていた三菱大夕張の鉄道を見に行っていないのだから、今思えば不思議だ)

大阪から特急「白鳥」でひたすら北を目指した。
いくら電車好きでも、日中の1000キロを突っ走る在来線電車には飽きてしまう。
ましてや、乗車した電車は、当時ですら傷みも目立つモハ485の200番台車で、座席のリクライニングもなく、肘掛けは取り付け位置が下のほう過ぎて、肘を掛けるとかえって肩が凝る代物だった。

最初は食堂車で少し時間を潰したけれども、当時の食堂車はいつも混んでいた。
白鳥も例外ではなく、長居が出来る雰囲気ではなく、自分の座席で長時間過ごすしかない。
しかも、座席指定席はずっと混んでいて、前後の席に余裕が出来ることもなかった。

この時、ラジオを持参していて、沿線のラジオ局がゲストに招いた国鉄マン歌手「伊藤敏博」さんのことを初めて知ったのは、思いもよらない収穫ではあったのだけれど・・

夕食に二度目の食堂車へ行ったが、やはり混んでいて、待たされた挙げ句、料理はなかなか来ないし、料理を運ぶウェイトレスが、熱々の汁を友人にかけてしまうというおまけまでついた。

とにかく、国鉄の長距離列車はどこへ行く列車でも混んでいた・・時代だった。

秋田あたりからは日も暮れ、激しい揺れと、真っ暗なだけの車窓・・
そして、ようやく青森に到着した僕らを待っていてくれたのは、青函連絡船の長い行列だった。

連絡船は定員制だったけれど、列の前方は先に到着した「はつかり」の乗客ばかりで「白鳥」の乗客は後方に並ぶしかない。
ようやく乗船しても、座席も座敷も満席で、僕らはロビーの片隅のソファにようやく腰掛けることが出来た。
確か、十和田丸だったと思う。

出航しても、出入り口のガラス窓の向こうには何も見えず、寛ぐどころか、ひどく居心地の悪いソファでは、眠ることもままならず、いや、やがて、あの青函連絡船の巨体がまさにローリングという言葉通りの激しい揺れが、多くの乗客たちの船酔いを誘う。
僕は、港の育ちで船には慣れているので、酔うことはなかったが、まんじりとも出来ない夜・・
初めての青函連絡船は決して良い印象ではなかった。

さて、夜も明けやらぬ函館駅には、同じホームの両側に二つの列車が停車していた。
右が「おおぞら」左が「北海」だったと思う。
僕たちは何故か倶知安回りの「北海」を選んでいた。
もしかしたら「おおぞら」の指定席が満席だったからかもしれない。

キハ80の車内に入り、腰をかけて、驚いた。
キハ80には、前の座席の背面から小さなテーブルが出ているのだけれど、このテーブルに沿線のホテルの宣伝が入れてあった。
座席はクッションがいかれた感じで、堅く、座りごこちは良くない。
窓は密閉が侵されて曇りかかっている。

半ばがっかりしたような気持ちで、発車を待ったのだけれど、これが走り始めるとビックリするくらい速いのだ。
キハ80の性能を目一杯使うような力走ぶりで、ようやく夜が明け始めた車窓から見える駒ケ岳の雄姿と共に、北海道の第一印象は忘れられないものになった。

この時の2日半の滞在では北海道の鉄道をじっくり見るということは叶わなかったけれど、それでも、時間を見つけて新しく開業した千歳空港駅を見に行ったり、そこでキハ40単行で行なわれていた石勝線の試運転を見る事も出来た。

この時に乗車しているのは函館線は滝川まで、室蘭線が岩見沢から苫小牧、千歳線、札沼線は新十津川までの全線だったように思う。
そうした中、キハ22、711系電車、オハ61あたりの客車が印象に残っている。
窓の作りが、本州で見るよりも頑丈そうで、窓の内側にもう一枚の窓があるのが驚きだった。
なるほど、これが二重窓か・・と妙な感心をしたことを覚えている。
当時は北海道の国鉄車両は、大概がデッキ付きだったこともあり、車内の雰囲気も本州で見る急行型に近く、そういう意味では羨ましくも思えたものだ。

また、北海道の列車は、たいていは結構速く、そのスピードでも驚いた。
キハ80はガタガタだったけれど、キハ59や711系電車、それにキハ22は乗り心地も良く感じた。

今思えば、この時の旅行で、青森県の私鉄に時間を割かず、もう少し北海道の鉄道を見るべきだったと、悔やみもするけれど、当時の僕自身の趣味の方向性があらぬ方向を向いていたのだから致し方ない。
そう言えば、定山渓鉄道の線路跡を探したりということにも時間をかけたように思う。

さて、札幌で一泊しただけで夜行急行「すずらん」で函館へ向かうのだけれど、この時の車両は高砂で改造した14系座席車だった。
乗車したとき、軽く冷房も入っていたのに、函館で下車したときには外のほうがはるかに気温が低く、車内は暖房が効いていたのかと・・これもまた忘れられない思い出だ。

北海道の鉄道には、この数年後、リベンジをかけることになる。
国鉄退職後初めて、純粋に乗客として、長距離旅行をしたのが北海道だった。
この時は、一旦決めた写真の道でもなかなかうまく行かず、言わば無職の状態での精神的にきつい旅行だったのだけれど、そこは無職の気軽さ・・およそ2週間に渡って、道内を歩き回った。

車両の変化激しく、既にキハ80は走っていなかった。
僕は周遊券で、新型183系気動車に何度も乗車し、さらに凄みをかけた北海道の列車のスピードと、おおらかな風景を存分に楽しんだのだけれど、この時にはもう、「白鳥」も青函連絡船も混んではいなかったし、倶知安回りの特急列車はなくなってしまっていた。

その後は所用と仕事で何度か北海道を訪れている。
けれども、いつも往復とも航空機だ。
航空機が大嫌いな僕が、それでも航空機を使わねばならないほど、僕らは忙しいし、それだけ航空機が手ごろに、便利になったということか・・
つまり、僕は、いまだに青函トンネルを列車で走ったことがないのだ。