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2006年4月

2006年4月11日 (火)

新快速電車

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新快速という命名は上手くしたものだと感心する。
国鉄としては「特別」にこだわらなかった点、今でも一種の゙ブランドとして生き続けているのを見ると,なるほどと思うものもある。
元は、なかなか相手にすらして貰えない関西私鉄各社への国鉄としての対向意識の表れだったし、その列車の成長には時間もかかったけれど、今のJR西日本のブランドの中でも最強のイメージを持つブランドだ。
関西に住んでいる人なら大半の人が「新快速は早い!」と知っているし、その列車が琵琶湖畔から赤穂浪士の故郷まで貫いていることも充分、認知されている。

さて、その新快速電車だが、最初は横須賀色113系電車による60分ヘッドの運行だった。
最初は昭和45年10月1日、万博輸送も終了したダイヤ改正で、京都・西明石間に日中のみ、運行したのが始まりで、京阪間は33分、阪神間25分を要していた。
その頃、関西私鉄では梅田・三宮間を阪急・阪神ともに28分、梅田・京都河原町では阪急が38分、淀屋橋・三条間では京阪が45分、難波・和歌山市間では南海が54分で走破していた。
阪神間は阪急・阪神ともに25分で結んだ実績がありながら、列車編成長の増大や、ATS導入による速度制限で若干落としていたのが実情だった。
私鉄各社は当時、スピードもさることながら、車両の設備の面では国鉄をはるかに凌駕していた。
阪急京都線には名車2800系、京阪はこれまた風雅な1900系(3000系もこの頃登場)・・阪急神戸線は木目調の内装に下降窓を持つ新鋭車両が大勢を占め、阪神は早々と完全新性能化を達成していた。
国鉄は快速には113系が入ったものの、未だ各駅停車の72系や51系も健在で、私鉄に比べると近代化の遅れを感じさせるものだった。

国鉄は戦前戦後には私鉄と同じ所要時間で運行した実績を持っていたし、線形は最も良かったから高速列車を走らせる環境は整っていたが、当時はまだ東海道新幹線しかなかった時代、貨物列車の運行も多く、長距離の特急や急行も多数走っていて、これら長距離列車を優先せざるを得ない事情もあった。
けれども、山陽新幹線の工事は進んでいたし、岡山までは2年後には開通することになるわけで、国鉄として車両や線路の有効活用を考えていたのも確かかもしれない。
ただし、113系で運行開始した新快速電車はさして評判になることもなかった。
60分ヘッドなら当たり前だ。

新快速の成長を決定つけたのが昭和47年3月15日の新幹線の岡山開業に伴うダイヤ改正だった。
このとき、それまで東海道・山陽線で急行列車として使われていた153系電車6両編成を塗装も新たに「ブルーライナー」の愛称の元、新快速として日中15分ヘッドの大増発を行った。
運転区間も草津・姫路間に伸び、朝夕には、これらに使う153系は12連で快速にも運用されるようになった。(一部クハには165系の車両もあった)
スピードアップも行われ、京都・大阪間は29分・・複々線の列車線には貨物列車がうごめく時代とあって、電車線走行となったものの、国鉄部内のダイヤ上では「急行列車」扱いの、まさに特別な列車となった。
同じダイヤ改正で、元の新快速車両・・横須賀色の113系はブルーライナー塗装となって阪和線に転出・・
阪和線でも鳳のみ停車の新快速が天王寺・和歌山間45分で走破し始めた。

僕が東海道・山陽線の新快速に接するようになったのは昭和48年、加古川に転居をしたときからで、それは、153系新快速の運転が開始され、その評判が人々の口に上るようになった頃でもあった。
デッキつき、クロスシート、洗面所とトイレが各車両につき、屋根には当時としては破格の冷房装置・・新快速はこれで成長を約束されたかに見えた。
ラッシュ時に走らないとは言うものの、評判は良く、ダイヤ改正のたびに増発や延長が行われる列車となった。
153系の乗り心地は非常に良く、車内も静かで、一種独特の気品を備えていた。
ただ、昭和33年製造の古い車両もたくさん混ざっていて、やはり時の経過による傷みも隠せない部分もあった。
大阪・三ノ宮間では、先行列車がつかえる事が多く、特に芦屋駅で普通列車を追い抜くまではとろとろとした走りだったけれども、それでも定時走行できていたのだから余裕時分はたっぷり取っていたのだろうと思う。

その新快速の成長がある日を境にぴたりと止まってしまう・・
昭和51年秋・・・国鉄は運賃を50%以上、上げる改訂を実施・・
これによって京阪神での運賃は私鉄と逆転・・一気に差がついてしまい、運賃計算の特例も設けられたものの焼け石に水・・新快速は大手私鉄との競合区間では空気を運ぶ有様となった。
唯一、中小私鉄である山陽には優位を保っていたものの、姫路・明石方面から大阪へ向かう乗客は、三ノ宮で大挙して阪急・阪神に乗りかえる有様・・
日中の三ノ宮駅上りホームは人気がなくなってしまった。
この頃、僕は国鉄に入ったばかりで、将来への不安は非常に大きなものがあった。
平行交通機関の運賃を無視した全国一律の設定は、特に関西の、競争の激しい地域では受け入れられるはずがなかったのだ。

乗客は少なくても列車は走る。
車両は自然に老朽化していく・・
153系の老朽化は著しく、ついに置き換え用の車両が作られることになった。
ラッシュ時に使いにくいデッキを廃止、トイレも6両編成で1箇所のみ、そして両開きドアと転換クロスシートを持ち、車体をシックなベージュとブラウンに塗装した流線型に近い形状の新型車両・・117系は昭和55年1月に走り始めた。
この時期、153系は全面的に置き換えの対象となり、関東は急行「伊豆」を特急「踊り子」に格上げするための特急用185系・・窓が開閉でき、転換クロスシートの不思議な特急車両だった。
山陽地区には117系のデザインを踏襲し、115系の足回りを組み合わせた115系3000番台となったが、僕としてはやはり、117系に最も国鉄の力が入っているように思えたものだ。
(転換クロス、2ドア両開きの車両としては九州のキハ66・67が先に出来ていた)
僕はこの117系新快速の1番電車に乗りこんで、国鉄の意気込みを見ようと思い、丸1日、同じ電車で京阪神・・姫路までを行ったり来たりした。
線路の問題か、細かな揺れが多く、荷物棚が音を立てて揺れることが気になった。
座席のピッチは広く、転換式とは言ってもドア横と車端は固定シートだったが、この部分のピッチを若干広く取っている良心的な設計(向かい合わせで使うことが多くなる座席だからか・・)決して洗練されているとは言いがたいが天井蛍光灯にはカバーまでついた。
ブラウンの座席にはクリーム色のカバーもつき、国鉄の大判振る舞いを実感できた。
そして、この電車こそ、おつむの硬い国鉄が一生懸命に作り上げた地域限定の電車だと思った。
平行私鉄を意識し、ゆったりとした転換クロスシートを採用した新車の評判はすこぶる良かったけれど、相変わらず肝心の京阪神間では空いている事が多かった。

JR化直前、新快速はそれまでの複々線区間の電車線の運行から列車線の運行へと変わった。
これによりスピードアップも実現・・待望のラッシュ時にも運転されるようになった。
新快速はようやく少しずつ、評価が高まってきた。
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新快速は国鉄大阪鉄道管理局の奮闘の証でもある。
最初は余剰車両の活用から始まったことに違いはないが、それがしっかり市民権を得ていくさまは私鉄各社にとっては脅威以外の何物でもなかっただろうと思う。
乗客の増加に伴い停車駅も増えてきたし、本数も増えていった。
停車駅が増えても、所要時間が伸びることはなく、それがまた人気を博するようになっていく・・

JR化後、民鉄各社が数度の運賃値上げを実施しても、JRは消費税転嫁分以外は実質値上げをしなかったため、運賃の差が少なくなってきた。
新生JR西日本はこの新快速を表看板に関西の自社ネットワークを「アーバン・ネットワーク」と呼び、イメージアップを図っていき、この戦略は大成功した。
車両も117系後継の221系・・これが人気を呼ぶようになり、新快速は長年の6両編成から8両編成に進化した。
さらに、最高速度を110キロから115キロ、120キロ、130キロと引き上げていき、完全に私鉄を突き放しているのが現状だ。
今年、初めて安全面での問題からスピードダウンをしたけれど、新快速に取っては大きなイメージダウンにはならないのではないかと思う。

思えば153系がくたびれた車体に厚化粧のブルーライナーとなって走っていたころから30数年が過ぎようとしている。
頻発、長編成で高速運転を行う223系新快速を見るとき、まさに時の流れというものを、そして、この列車を運転開始した当時の国鉄マンたちの先見の明を思って余りある。