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2006年3月

2006年3月18日 (土)

国鉄鷹取工場

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僕が始めて鷹取工場の中に入ったのは16歳のとき・・工作一科への入学が決まったときだ。
その頃の鷹取工場は機関車、貨車とエンジンや制輪子の集中工場だったように思う。
僕は物心ついたときからの電車ファンだったけれど、残念ながら鷹取工場には最初は電車の姿はなかった。

当時は工場東の正門を入ると、右手にクラシカルな本場事務所があり、その前はちょっとしたロータリーだった。
脇にはいつも、当時は静態保存されていた「義経」が鎮座していた。
本場の建物の前には官設鉄道神戸工場由来とされる鋳鉄製の水入れのようなものが保管されていた。
その向こうはちょっとしたグランド、グランド脇の線路上に時折冷房改造工事のための電車が停めてある事もあった。
当時は103系と113系の冷房改造工事の時期で、赤帯の113系を見かけることもあった。
グラウンドは高砂に比べると狭いのは致し方ないとしても、大事故の際には事故車両がここに運びこまれ、見るも無残な車両の残骸が積み重なっていることもあった。
このグランドは工場が操業している時間帯は鉄道学園が体育の授業で使っていた。

本場裏が食堂・更衣所と鉄道学園で、5階建ての建物2棟があった。
鉄道学園の前には養成工のための実習用機関車「若鷹号」が保存されていた。
鉄道学園の前が鉄鋼職場・・自動連結器がたくさん並んでいたり、図面に合せて自動で鉄板を切断できる機械など、鉄道マン自作の自慢の機械もあった。
グランドの北側・・電機職場・・各種電機部品の解体、洗浄、組み立てをしていた。
その北が機関車主棟で、この職場は広くて天井も高かったけれど、いつも埃が舞うような感じだった。
中にはいつも機関車が入っていて、それも僕の時代にはEF58やEF60、DD51あたりが多かったように思う。
機関車はどれも疲れはて、汚れきって工場に入ってきていた。
機関車と言う車両はやはり重量感もあるし、見ていても迫力もある・・
客車や気動車が大建屋の中心である高砂の華奢で華やかな雰囲気から比べると、鷹取はいかにも男性的で武骨ではあった。
汚れて入場した車両も、工場を出るときはぴかぴかの新車のような姿になる。
これを見るのもまた楽しいものだ。

工場北には巨大な鋳物職場・・
国鉄は部内で制輪子を自主生産していたが、鷹取工場はその集約工場のひとつだった。
ローラーコンベアが職場のなかを回り、国鉄マンたちはおよそ国鉄の仕事とは思えない劣悪な環境で頑張っていた。
高温、塵埃、騒音・・その全てがここにあった。

グランド突き当たりは内燃機職場・・
巨大な機関車用のエンジンを解体、洗浄、組み立て、検査をする。
関西では機関車のエンジンは鷹取、気動車のエンジンは高砂で検査、修繕を行っていた。
これもまた、高砂の小型エンジンと比べると雲泥の差で、真っ黒なエンジンを解体する作業場では国鉄マンは油にまみれ、作業は豪快で始めてみたときは自分にこんなことが出来るか、一瞬ひるんだものだ。
組み立て作業は精密を極め、とくにDD54のエンジンは細かな微調整が必要で、熟練工の多い鷹取と言えど、難儀をしていた。
検査は実際にエンジンを駆動させ、各種データを取るもので、密閉された建物の中で、検査室は完全防音とされ、ここでは豪快さとは打って変わったインテリジェンスな雰囲気・・

内燃機職場の後ろには新鋭の電車職場・・
ここは増え続ける電車に吹田工場ひとつでは対応できず、主に冷房改造などをするために作られた職場で、若い人が多いフレッシュな雰囲気だった。
豪快な職場が多い鷹取にあって、ここだけは私鉄の工場のようなさっぱりした感じだった。
特に私鉄臭漂うレッドライナーやブルーライナー塗装の電車が良く入っていたから尚更かもしれない。

内燃機職場の南は台車職場などを経て貨車職場だ。
このブログのごく始めの方に書いたけれど、僕は国鉄生活の最初と最後をここで過ごした・・思い出の場所でもある。
貨車は流れ作業で、タクト方式と言われる45分ごとにクレーンで貨車の場所を変えて行くやり方で、僕が最初に見た頃は日に11両・・最盛期には日に13両もの貨車を毎日出場させていた。
この建物が高砂工場廃止後の客車の検査修繕にも使われ、その頃は「客貨車職場」になっていた。

グランドの南、最初は食堂や更衣所はここにあったが、後に冷房つきの立派な建物が本場の裏に出来た。
このあたりは部品職場や工機職場、輸送職場が並んでいた。
その中に1箇所、人だけが通過できる門があって、ここで鷹取駅への地下通路と繋がっていた。
広い操車場を地下の長いトンネルでくぐりぬけると、鷹取駅のプラットフォームの端っこに出た。
ホームの一番大阪よりにこの通路があったから、鷹取工場への通勤者は皆、電車の一番大阪よりの車両に乗車して、通勤することが多かった。
国鉄がマスコミに叩かれ続けた頃、毎朝、多くの職員が一度に下車するものだから、批判があった。
「国鉄マンが同じところにたくさん乗車するのは駄目だ」というものだった。
批判するときはどんなことでも批判できるものだと呆れもしたが、そのうち、鷹取工場自体の人員がどんどん減少し、やがて、まったく目立たなくなった。
最盛期には1600人・・高砂との統合時には一時的に2000人にもなった工場職員は末期には数百人にまで減っていたと言う・・

鷹取工場の食堂は立派な3階建てだった。
1,2階が更衣所、3階は食堂・・食堂は定食メニューも数種類あり、他にうどん、そば、ラーメン、カレーもあったし、隅には喫茶室も設けられていた。
別に職員でなくても工場の敷地内にいる人なら誰でもここで食事をすることが出来た。
食堂の端には舞台もあって、レクリエーションも行われるし、組合の大会も行われた。
鷹取は高砂のように国労一本ではなかったから、高砂ほどの組合の激しさはなかったように思う。

工場のちょっと広い場所や高い場所からは工場の名になった鷹取山が良く見えた。
僕は今でも、鷹取工場のグラウンドから鷹取山を見ている夢を見ることがある。
僕にとってはほろ苦く、暖かく、忘れられない場所であることは確かだけれど、今はもう、その場所はそこには存在しない。
あるのはまったく新しい町並みだけだ。
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