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2006年2月

2006年2月25日 (土)

加古川線の旅

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加古川線の旅(昭和50年ごろ)
加古川線は加古川駅の北のホーム・・4番、5番から発車していた。
本線のホームとの間には何本もの留置線があり、ここでは貨物列車が待機していたり、工場入場前の車両を留置していたりすることもあった。
加古川駅は全体に戦前の急行停車駅の風格を持った駅で、桜島駅由来といわれるピンクの木造駅舎は風格に満ち、待合室はいつも賑わっていた。
加古川線は高砂線と共に本線からの乗換え客のための独自の待合室をホーム端に持っていて、ここの売店では弁当も売っていたし、そばのスタンドもあった。
ホーム端から踏み切りを介して駅北口への通路があり、この北口への通路として加古川線のホームを歩く乗客も少なくはなかった。

加古川線のホームは汽車のホームそのままの造りで、本線に比べて低く、なんとなくローカルなムードを漂わせていた。
加古川線、高砂線はこの駅が始終発ではあるけれど、線路は更に駅の西方に伸びて、加古川の土手との間に小さな車両基地があって、そこが、この路線で働く気動車たちの住処でもあった。これが、「加古川気動車区」・・略称で大カコと表記されていたのだが、当時はキハ20、キハ25、キハ30、キハ35、キハ36たち、国鉄ローカル色のツートンカラーの地味な気動車ばかりだった。
その中で、全30数両のうちの僅か3両・・全国的に見ても貴重なキハユニ15・・湘南型2枚窓の郵便荷物合造車だけは、ふっと、渋さ好みのファンの視線を浴びてはいた。

加古川線は加古川駅発車時点では日に30往復以上の列車が走り、これは当時の国鉄ローカル線としては異例だった。編成も2両か3両・・ラッシュ時に6両編成があったもののそれきりで、短編成、頻発運行は後にあちらこちらのローカル線で実施されることになる・・その先鞭をつけていたけれど、それもそのはず、この線区は元は私鉄「播丹鉄道」で、戦前にすでに気動車による頻発運転を実施していた経緯があった。

加古川駅を発車した列車は、複線に作られた線路を東へ進み、大きくカーブ・・高砂線と分かれ、単線になって、田圃や住宅の中を走り始める。
加古川バイパスをくぐり抜け、郊外の風景の中を快走すると日岡駅だ。
ここは駅員配置の交換駅で、ここでの交換は結構頻繁に行われていた。
列車は郊外の風景を走り、キハ20の初期型ならば座席のゆったり感とうらはらの、いささか尻にこたえる振動を味わいながら、キハ35ならば粗末なロングシートながらも、急行型のような快適な乗り心地・・大抵はこの2系列が併結で走ることが多く、どっちに乗ろうか、真剣に悩んだものだ。
数少ないキハ20系列の後期型ならば台車も改善され、乗り心地も飛躍的に良くなっていたから、迷うことなくそれに乗りこんだものだったが・・
神野は、大きな団地の中心で、多くの乗客はここで下車する・・
厄神までの、ほぼ30分毎の頻発運転は実はこの駅のためにあった。
団地を過ぎ、更にローカルムードが濃くなった沿線は春になると霞がかかり、レンゲや菜の花が咲き誇り、夏になると緑濃い稲の絨毯、秋になると黄金色の実りの絨毯が楽しめる。
厄神駅は古い駅舎で三木線の分岐する重要な駅だ。
ホームは3番まであり、1時間に一度ほどの列車は加古川から三木へ直通する。
残りの列車の大半がここから先の加古川線へ歩みを進めるのだ。
駅員が転轍機を操作する光景が日常的に見られる。
列車はゆるくカーブして加古川橋梁を渡る・・
ここは夕景の名所でもある。
一度、台風で橋脚が流され、厄神と粟生の間がバス連絡になったことがあった。
あとで造られた部分は、そこだけトラス橋となり、今に至っている。

加古川の西側に移った路線は、わざわざ町から離れて走るような印象になる。
小野、社といった沿線の街の中心は川の東側にあるのに、線路が西側を走る・・これでは乗らないでと言っているのようなものだが、播丹鉄道開業時に蒸気機関車の煙害を沿線の町が嫌ったと言う話もまことしやかに囁かれている。
市場、小野町という、町外れの雰囲気の駅を過ぎ、時折迫る丘陵を越え、列車は川に沿って走る。
粟生は神戸電鉄の始発駅で、北条線の分岐駅だ。
神戸電鉄は田舎の片隅のようなこの始発駅に30分ごとに神戸、新開地から列車を走らせていた。
加古川線の気動車から見ると、3両編成、グレーと朱色の電車はスマートに、都会的に見える。
北条線へは日に4本の加古川線からの直通列車がある。
毎時1回の加古川線列車がつくと、北条線や神戸電鉄の乗換えで駅は一時的に賑わうけれど、それが済むと、静かな田舎の駅に戻る。

加古川線はここからしばらく、西側に青野ヶ原の低い丘を眺めながら、田圃の中を快走する。
青野ヶ原、河合西を過ぎると社町だ。
ひなびた駅ばかり続いたあとで、この駅を見ると、乗降も多く、いかにも街の中心と言った感じに見える。
けれども街の中心はこの駅からはるか東方・・3キロほどの地点になり、そこには神姫バスの三宮行きの急行バスが頻繁に走っていた。
つまり、加古川線に乗るのは、町の西に方に住んでいる人だけで、その人たちは神戸へ行くには粟生で神戸電鉄に乗り換えてしまう・・
気動車は、やや山が迫り、また加古川が近くに見える線路を快走する・・
社町ほどではないにしろ乗降の比較的多い滝野、ひなびたムード満点の滝を過ぎると野村につく。
加古川線はここから更に福知山線の谷川までの区間を含めてそう呼ぶのだが、当時の列車は西脇を目指していたから、大半はそのまま鍛冶屋線に乗り入れ、西脇、更に鍛冶屋まで走っていた。
で、この文章も西脇までとなる・・つまり、播州人にとって、加古川線とは加古川と西脇を結ぶ鉄道であると言う認識だからだ。
野村の駅自体もすでの町の中にあり、列車はここからは住宅の裏手を進むようになる。
谷川への路線がきつく右にカーブして、鉄橋へ向かうのを見送り、いくつかの踏切を超えると構内が広く気動車が滞留している西脇駅だ。
乗客の大半はここで下車する。
昭和50年当時、西脇駅で下車する乗客は決して少ない数ではなかったと思う。
駅前には商店街が開け、駅の横から神姫バスが発着していて、神戸や大阪と結ぶ直通のハイウェイバスもここから走っていた。
西脇駅は木造平屋の駅舎ながら、みどりの窓口もあり、いつも人で賑わっていた。
当時は谷川方面から野村で進路を変え、西脇まで直通する列車も数本は存在していた。
また、鍛冶屋線もここから鍛冶屋までの間、乗客は少なくはなかった。

加古川線の支線は高砂、三木、北条の各線が第一次廃止対象線に選ばれ、高砂線は廃止、三木、北条線は第3セクターでの運営を継続することになった。
けれども第3次廃止対象線に選ばれた鍛冶屋線が、肝心の西脇駅諸共、廃止されてしまう。
第3次線で経営が成り立たないと判断されたものが第1次線で成り立つはずはない。
加古川線そのものは電化され、新型電車も走るようになたけれど、三木線、北条線の廃止が取り沙汰されている昨今、逆に良くぞここまで持ちこたえたなあと言うのが、実感でもある。

地味な線区であるが故にファンからの熱い視線を浴びることもなく、けれども、JR西日本はこの線区の将来を考え、電化を実施した。
列車の速度は上がり、近代的にはなったけれども、西脇市の中心部へも行けない電車がはたして、これからさき、どこまで経営を改善できるか・・心もとない気がする。
せめて、用地は残っているのだから、かつての野村、今の西脇市駅から本来の西脇までは線路を復活させることも考えても良いのではないだろうか・・
あるいは神戸電鉄と電気設備が揃ったことで、神戸電鉄から乗り入れてもらい、西脇市から新開地行きの急行電車でも出せないか・・
加古川線気動車の、地味な走りを思い浮かべながら、僕の夢は膨らむけれど、それは難しいことなのだろう・・

2006年2月 2日 (木)

485系電車

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485系(481,483.489系総称)電車

私鉄の看板電車を出した後では、国鉄のスターを出さざるをえない。
意外に僕自身、撮影していない系列でもあるのだが、それでも、殆どの列車はネガの箱のどこかに眠っているはず・・
で・・出だしの画像はちょっと映りが良くないけれど、富山地方鉄道を撮影に行ったついでに撮影した489系「白山」で我慢頂こう・・(失礼!)

この系列は国鉄から蒸気機関車がなくなると、それを追うように人気が出てきた系列で、特に山陽新幹線博多開業直前の岡山駅や倉敷駅、大阪駅は鉄道少年たちで溢れていた。
当時、国鉄の在来線での看板列車と言えば、20系、24系、14系のブルートレインと、この特急電車であったことは間違いがない。
ここで言う485系は鹿児島線・北陸線用の交流60ヘルツ対応481系、常磐・東北線用で誕生した交流50ヘルツ対応483系と、それを両用にした485系、さらに信越線でのEF63との協調運転用489系を含めたものであることをご理解頂いた上で書き進めたいと思う。

489系以外はT車の設計は変わっておらず、そう言う意味では481系と総称するほうが正確かもしれないけれど、一般的には485系と呼ばれていた。
僕が、憧れの列車・・485系の特急に始めて乗車したのは「ひばり」だったように思う。
昭和53年当時の「ひばり」は、まさに国鉄のスターだったけれど、走り出すと時折激しい揺れに見まわれ、必ずしも乗り心地が良い列車には思えなかった。
これはあとで、当時の東北線の軌道が整備が追いつかない状態だったのが原因と分かったけれど、485系と僕との出会いは必ずしも、良い出会いではなかったわけだ。
次に乗車したのが「雷鳥」もしくは「白鳥」になると思う。
湖西線や北陸線での力を持て余したようなまったりした走りっぷりは、「ひばり」とは逆に国鉄特急としてのイメージが良くない・・ことになったのだが、当時の雷鳥はそれでも国鉄随一の表定速度を誇っていたのだから、今と比べると隔世の感がある。
485系初期の車両はデザインも内装も181系に似ていた。
似ていたと言うよりも、車体高さ以外は181系そのものだったように思う。
ただ、内装は181系後期の車両がそうであるように、不燃化されてアルミデコラが多用されていた。

初期の車両の特徴は、先頭車のボンネットデザインが何よりだろうけれど、屋根の上のきのこ型クーラー、そして室内に目を転じると、凝ったつくりの窓の吹き寄せデザインが上げられる。
カーテンは横引きで、そのカーテンを止めるのに通常のカーテン止めを用いず、吹き寄せ部をやや突き出させ、この内側にはめ込む形を取っていた。
アルミデコラは角を曲げてデザインすることは出来ないから、これはアルミ板を焼き付け塗装処理していた。
「雷鳥」の車両などはこの部分の美しさが最後まで保たれていたように思うけれども、「ひばり」など東日本に在籍した車両では、焼付け塗装の角が削れ、地色が剥き出しになり、その上からタッチペイント処理したような車両も多かった。
座席は回転クロスシートで、背もたれは2座席分がひとつのキハ80などと同じタイプだったけれど、実は座席布団が座席ごとに分けてあり、キハ80と似ていながらやや座り心地が良い感じがしたものだ。
キハ80の天井板は20系客車や10系客車と同じ穴のあいたボードだったけれども、485系ではアルミデコラ処理されていて、この点でも電車のほうが何故か上等な内装になるのが不思議だった。

200番台の車両・・これは、きのこ型クーラーからAU13に変わり、正面デザインが貫通型と呼ばれる分割併合の出来る形に変わったものだったけれど、趣味的にはつまらなく感じたものだ。
スピード感もなく、ただ、箱型の上の運転台を載せただけのデザインは子供たちには不評で、現場においても折角貫通型にしながら、分割併合する列車は随分後まで現れず、冬の隙間風が運転士さんを苦しめた。
また、何故か座席の寸法が変わったようで、肘掛位置が低く、長時間乗車すると肩がこる気がした。
けれども、山陽線で唯一残った昼行特急「しおじ」はこの貫通型の先頭車が来ることが多く、どう言うわけかボンネット型の先頭車に比べ見劣りがしたものだ。
同じ貫通型も寝台電車の583系だと格好良く見えたものだから、人間の目はあてにならない。
貫通型「しおじ」に背を向けた子供が583系「月光」をカッコが良いというのだ。

北海道での短距離の特急電車運転開始にあたって、1500番台が製造されたが、このとき以後、本州の車両も非貫通型になった。
貫通型をそのまま扉を埋めたようなデザインだったが、デザインのラインが柔らかく、全体に上品な雰囲気で、これは人気を集めた。
北海道での特急「いしかり」は労働争議のはてにようやく運行開始されたものの、何故か直流機器を持ち、本州向けと比べても僅かに耐雪構造を強化しただけの杜撰な設計は大失敗を招き、北海道から485系を引き上げさせ、代わりに今も走る781系を量産する羽目になったのは良く知られた国鉄の失敗のひとつだ。
僕が写真を撮り始めた当時、北海道向けの車両が「白鳥」に使われていて、異彩を放っていたことを覚えている。

非貫通型になってから座席も改善され、普通車は14系客車と同じく簡易リクライニングシートになり、これもまた、後に更に改善されていった。
MT54モーターの性能も眼一杯使いきるようにダイヤが作られるようになり、同じ485系でも国鉄時代と比べると、大阪と金沢の間など4時間程度かかっていたものが3時間弱へと、随分スピードアップもされているし、今や時速130キロ運転は当たり前、青函トンネルと北越急行線で時速140キロの実績まで出来た。
国鉄はこの系列の設計最高速度を時速160キロとしていたけれど、まさにそれを使いきるかのような活躍ぶりだ。

けれども、この系列はJRになってから製造されることはなく、一番新しい車両でも製造後25年程度にまでなってきてしまった。
昨今では東日本ではこの系列のリニューアルも進み、東武鉄道との直通運転にもリニューアル車が使われると言う。
JR西日本ではまもなく「雷鳥」も新型車両に置き換わると言う。
残るは直流化改造された「北近畿」系統の列車のみとなる。

485系(狭義)489系は電化区間ならどこへでも乗り入れができる車両で、実際に旭川から鹿児島まで、四国や千葉や静岡などの太平洋側の一部、それに山梨県、奈良県などを除けば全国の主要駅で見ることが出来た485系電車・・
かつては食堂車や時には2両のグリーン車を連結していた「雷鳥」や「ひばり」といった優等列車・・
まさに国鉄のスターと言うにふさわしい活躍ぶりであったと思う。
僕自身も何度も乗車した「雷鳥」「白鳥」の旅の思い出・・特に食堂車でのゆったりとしたひとときは、忘れがたい思い出でもあるし、「かもめ」での後に売り出すことになる歌手との出会いや、既に東北線唯一の特急になっていた「あいづ」に今は亡き祖母と乗車した思い出、新製車両で編成された「加越」の静かで快適な乗り心地の思い出など、この系列の記憶は枚挙に暇がなく・・そうそう、国鉄の現場の方々と最初にバカ騒ぎに出かけたのも「雷鳥」だったなどと思いながらこれを書いている。
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つい数年前、僕は修学旅行の添乗カメラマンとして、信州からの帰途、長野駅からの夜行貸切臨時列車に乗った。
なんとクハ489−1を含む涙が出るような7両編成で、古くても車内はきれいに整備され、旅行疲れですっかりおとなしく眠りこけて静かになっている生徒の中で、ひとり、雪の降りしきる北陸線の夜を楽しんでいた。
貨物列車の速度にあわせているのか、とにかく素晴らしいばかりの走りっぷりで、しみじみとこの系列の良さを味わうことの喜びを噛み締めたものだった。