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2005年11月

2005年11月26日 (土)

オハ64

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全国で高砂の受け持ち分しか存在しなかった希少な形式である。
オハ64とオハフ64があり、5両か6両編成で両端にオハフをつけて和田岬線を往復していた。
所属は鷹取機関区、DD13が単機で牽引するものだからもとよりスピードは出ない・・
この客車はオハ61をこの路線専用に改造したもので、非常に明確な主張のある車両でもあった。
それは・・とにかく、詰め込める車両・・
車内は荷物車かと見まがうばかりにただっぴろい空間・・ホームが片側にしかないので片側にのみ中央にキハ35よろしく外吊り扉を設け、この扉の向かい側にのみ数人分の簡単なロングシートがあった。
それ以外はすべて立ち席で、つり革が車体の端から端まで通され、窓にも手すりがつけられていた。
床は荷物車の荷擦木がないものと考えればそれでよく、米松の床材が横手方向に並んでいるだけ・・通路部分はその向きが長手方向になっていた。

この車両の床材は磨耗が激しく、工場入場の度にかなりの数を交換しなければならなかったけれど、座席も何もないつくりなので床板の交換だけで良く、作業は手早く、楽だった。
水回りも全て撤去されているので、根太などが腐食することも少なく、旧型客車の中では一番作業の楽な車両だったように思う。
ラッシュ用だし、その乗客数も半端なものではないので、先述の床板もそうだが、吊り輪やつり革も傷みが激しく、交換はかなりあったように記憶している。

外吊り扉は高砂工場自家製で、これは大先輩で学園講師まで勤められた鉄工職場助役氏のアイデアだったそうだ。
ただ、錠が、過酷な使われ方をするためか良く傷み、この調整にも気を使った。

窓は全て普通の客車と同じように、キチンと解体、補修、取り付け、調整をおこなったし、屋根回りの補修も通常の客車並にきちんとしていた。
一度、側樋を交換するとき、親方が「時速100キロくらいで走ることは考えなアカン・・しっかりとト止めんとな・・」といって聞かせてくれた。
すぐに逆らう不良部下の僕は「和田岬線で100キロは出ないやろ」とのたまい、大目玉を食らった思い出もある。
和田岬線から離れて走ることがあれば、それは山陽本線を走ることになり、高速で牽引されることも想定しないといけないのは、もちろんだ。

僕は退職直前にも、一度オハ64を受け持った。
気持ちの通じる仲間達と簡単に床板を交換し、車内を整備した後、上司に言われた。
「お前がおらんようになったら、だれが64(ろくよん)を修理するんや」
僕は上司の諦めたような顔を見ながら、「さあ・・しらん・・」とだけ答えた。

和田岬線は、まもなく気動車のキハ35に変わった。
出力が大きすぎるので、一部の車両はエンジンを外し、キクハなる形式が登場したけれども、エンジン1つでは発電量が足らず、バッテリーの充電のため、機関区で夜通しエンジンを動かすという不細工なことになったと、友人が嘆いていた。
その気動車の時代は短く、阪神淡路大震災で鷹取機関区からの連絡線が急遽電化され、結局、和田岬線自体も電化されることになった。

いま、和田岬線には専用の103系電車が走っている。
和田岬線の連絡線部分は、現在ではもっぱら運転士の訓練用として使われているようで、103系電車も、そのための任も兼ねている。
僕は、鷹取からの連絡線の途中にある新長田駅にホームを作り、新長田と和田岬の間を兵庫でスイッチバックさせて日中も運行すれば活性化が出来て良いのではないかと思うけれども、川崎重工からの引込み線をも兼ねており、それは難しいのかもしれない。

オハ64を牽引するディーゼル機関車の排気を、ホームに溢れる乗客たちを、手動ドアにぶら下がる乗客たちを思い出すにつけ、時代が変わったと・・実感する。