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こう@電車おやじ

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2005年9月

2005年9月27日 (火)

鉄道ファンと国鉄

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国鉄部内には大勢の鉄道ファンがいた。
鉄道ファンからみれば、鉄道職員というのは鉄道を好きであって欲しいと思うのだけれど、仕事しては好きであっても、全く鉄道の詳しいことに興味のない人が大半であって、それでも、普通の会社よりは遥かに鉄道の好きな人が多いのは当然といえば当然かもしれない。
JR化後、部内の鉄道ファンたちはやや肩身の狭い状態から救われた部分もあった。

国鉄時代の象徴的な風景といえば、何よりも労使の対立とそれに伴うストライキや遵法闘争というわけの分からない闘争・・利用者を争議に巻き込み、それでも己らが正しいと公言して憚らない不遜な職員達の態度だろうか・・
白墨で大きな落書きをされた電車は、いくら部内の鉄道ファンであっても見るに耐えない存在だったし、自分達の仕出かしたストライキにより、その自分達が通勤に困るまさに天に唾する状態は、鉄道ファンならずとも国鉄職員の情けない思いを湧き出させるに充分だった。
組合は現場の意見など聞かず、現場から意見を言っても「反動分子」の一言で片付けられ、本気でマルクス革命が出来ると信じ込んで、何故か生活の糧である電車を停める矛盾に、国鉄職員たちは現場では気がついていても、口に出せない、丸でどこかの共産国家か宗教団体のような状況が続いていた。

それでも、鉄道ファンの本能は密かに、あるいは人によっては堂々と動き出し「組合が否定する機関車を撮影するのか!」と言われても、そ知らぬ風を装い、次の公休にはまた線路際にカメラを持って立つ猛者もいた。
仕事柄、知識だけは一般のファンの及ぶところではなく、しかも人脈という得がたいものをもっている。
一般のファンの入れない機関区へも堂々と入り、堂々と正面から機関車を撮影できる・・それは部内の鉄道ファンの特権でもあった。
また、移動も精勤パスを使って自由に鉄道を利用でき、特急も新幹線も半額で乗ることが出来たから、鉄道ファンにとってこれほどの居心地の良い職場はないはずだった。
けれども、国鉄改革では鉄道が好きで好きで堪らないはずの多くの鉄道ファンが辞めていった。
僕もそのうちの一人だが、やはり鉄道に幻滅し、それでも鉄道を好きでありたいと願い、いやなものを見ないためと言って辞めていった人が多かった。

一般の鉄道ファンは国鉄にとっては有難くも迷惑でもあるお客だった。
沿線で写真を撮影したり、列車に乗車して楽しむ分には国鉄にとっては有難いお客だったろう・・
けれども、例えばブルトレブームの中で、トイレの中から方向幕を盗んだり、車両のプレートを盗んだりされることが非常に多く、沿線での撮影でも複線の線路の反対側に堂々と入り込んで撮影するなどの無茶も多くなっていた。
駅で列車の愛称板を変更する作業の際にも、ホームにいるファンから「他の列車の看板を出して!」とせがまれると、それでも駅の係員などは要求にこたえて様々な隠れた愛称を出してくれていたけれど、それも程度というものがあるだろう・・
あるときなど、折角、駅員が、要求にこたえて愛称板をめくっているのにお望みの愛称がなかったらしく「ちぇ!これだけかよ」と悪態をつくファンを見たこともある。
鉄道職員は乗客のために存在するのであって、眺める人のために居るのではないと言う原則を、時折忘れているファンもあるようだった。

機関区への無断立ち入りも問題になっていた。
機関区などは、結構、間口が広い・・もちろん許可がないと一般のファンは入れないし、許可を得た場合は助役が付き添いヘルメットを被ることになる。
心無いファンは職員の目を盗んで機関区に入り込み、お目当ての車両を撮影・・撮影だけならまだいいが、時には車両の部品類を盗むものもいた。
運転中の列車の窓から手を出し、サボ受けに差し込まれているサボを取り外すなどは頻発しすぎ、現場ではサボを購入することも出来なく、手書きのボール紙を差し込んで運行するようなこともよくあった。
修学旅行などで団体貸切状態ではファンの跳梁跋扈は当時は当たり前で、25形客車などは、全銘板が盗難、あるいは破損などという見るに耐えないものもあった。
ドライバーを持って乗り込み、寝台車のテーブルを外してしまう・・あるいは、14系客車などのカーテンまでも外してしまう・・
国鉄にとって、ファンの存在は有難くも悩みの種であったことは否めない。

それでも、当時、僕は地方へ旅行すると国鉄職員であることは隠すようにしていたのだが、小さな現場の職員が、車庫の外からもの欲しそうに車両を眺めている僕に気を使ってくれ、中へ入れてくれ、存分に撮影させてくれたことも、一度や二度ではなかった。
僕などもそうだったけれど、現場の人たちは、やはり鉄道に誇りを持っていて、その鉄道を見にきてくれる人があることが嬉しくて堪らなかったのだ。

僕は国鉄を退職したあと、一般の鉄道ファンとしてかつての仲間達がいる職場へ、イベントなどにも出かけることがあった。
友人や先輩、後輩達はどの時でも僕の顔を見ると嬉しそうに近づいてくれ、ピンと背筋を伸ばして説明してくれたりした。

今も、鉄道ファンという存在は鉄道にとってことのほか有難く、そしてちょっと厄介なお客であることには変わりはない。
また、JRや各私鉄部内の鉄道ファンたちのお陰で、少しは貴重な車両が保管されたり、ファンにとっての楽しいイベントが出来るのであるわけだし、鉄道を愛するその心が、他社よりも良い車両を作り、他社よりも便利な鉄道になっていく原動力になっているとすれば、嬉しいことではある。

2005年9月12日 (月)

24系25形

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僕が高砂工場に配属になった頃、高砂のホープはまさにこのクルマだった。
高砂には24系そのものの配置は無く、20系からいきなり25形になっていた。

25形はそれまでの3段寝台を2段にした画期的な車両で、車内はそれまでになくゆったりしていた。
寝台は最初は上段がシリンダーによる可動式で、少しでも座席にしたときに快適になるように作られていたけれど、100番台からは若干上段の設置位置を上方に変更して完全に固定化された。
下段には普通の座席布団と同じつくりの、バネでクッションを支えるしっかりしたものが使われているけれど、上段はいわゆるマットレスで、入れ替えも簡単で柔らかいものだ。
0番台では、窓の作業をするときは寝台を上のほうに押し上げ、ピンの位置にドラーバーを差し込んで固定する必要があった。
ところが、シリンダーの中のガスが抜けているものがたまにあって、上段寝台を持ち上げるのに大汗をかかねばならないこともあった。
本来、シリンダーにガスを入れるべきなのだが、ガスが無くても電動で動くのと、固定した状態で使われることが殆どなのとで、そのまま出場させていた。
寝台の窓側、テーブルに上段へのアルミはしごが固定されている。
20系と異なり、折りたたんで小さく出来るように設計され、眺望が改善されていた。

窓は側構の厚みが少なく、そのため、カーテンのレールが非常に細く、そのレールを固定するビスが、3ミリの小さなもので、このネジがよく折れ、対処に困った思い出もある。
この車両は新潟鉄工と富士重工製が殆どだったけれど、どういう訳か新潟鉄工製のものは、この窓の造作が雑で、ネジが折れることが多かった。
富士重工製は丁寧に作られていて、部品の取り付け、取り外しもとても楽だった。

窓は見た目は20系とは違う感じだけれど、実際のガラスは同じ寸法で、共通部品だった。
但し、100番台の寝台側は、寝台の固定化により、窓を上下に小さくしたものに変更されていた。
窓ガラスは復装ガラスだが、このガラスが走行の揺れや経年劣化で密閉が崩れ、中に空気が入り込み、曇ってしまうことが多かった。
これの取替えは20系に比べると造作が単純で、仕事は楽だった。
その分、窓回りは20系と異なり全面的に金属で出来ていたから、遮音性はやや劣っていたような気がする。
また、窓の押さえゴムは露出面が少なく、従って劣化も少なく20系のように頻繁に交換することはなかった。

出入台は12系と同じ折り戸で、何故か、一時期の国鉄特急・急行用客車・気動車はこれに統一されていた。
北海道へ送り込む改造車はこの折り戸を引き戸に変更し、ドアレールにヒーターをつけて凍結防止対策の工事をしたけれど、この種車は14系だったと思う。
出入台から室内に入るところには軽い開き戸があり、ドアチェックにより静かに、自然に閉じるようになっていた。
20系や10系の場合、また14系もそうだが、暖房機のカバーを取り外し、暖房機を取り出し、点検補修・・カバーもそのまま専門の職場に送って洗浄することになっていたけれど、僕がいた時代には25形のみは大きめの6ミリネジを外してやれば蝶番でカバーが簡単に開き、暖房機を取り出せるつくりになっていたので、カバーは取り付けたまま、現車で軽く洗浄するだけだった。

洗面所の洗面台は20系の3個に対して2個になっていた。
これは定員を少しでも確保するために、洗面所の面積を小さくしたことと、やはり定員の減少により少なくしても差し支えないだろうとの判断からだった。
トイレの扉は一つは普通の引き戸だが、もう一つは向きを変えて、折り戸にしてあった。
これも少しでもスペースを稼ぐためのデザインだったけれど、この折り戸の錠が、よく効かなくなった。
折り戸は錠のある前半分を外して、部品を整備してくれる部品職場へ送っていた。
20系はクーラーが床下にあって、そのため洗面所の空間が大変に広く、大きく感じたものだが、25形ではクーラーは洗面所と出入台の屋根上についたため、洗面所はいささか天井も低く、窮屈な感じがした。

25形は、高砂の誇りのような車両だった。
ステンレスの飾り帯は、きれいに磨かれ、20系の3本線とはまた違う高級感があった。
やがて、15形も入場してくるようになり、さらに、一時期「きたぐに」に14系が使われたことから、14系も入るようになってきた。
この頃が高砂の最盛期だろうか・・
最盛期からの転落はあっという間だった。
鷹取工場へ移動後、貨車職場の建屋に入場した25形はちょっと場違いな感じがしたものだ。

僕が高砂に配属されたのが昭和54年だ。
その頃、20系で最も古いクルマは昭和33年製だったように思う。
その古い20系や、その前の10系の保守には手を焼いた思い出がある。
ところが、25形は今も健在だ。
よく考えてみると、30年以上も使われているわけで、すでに20系の車齢を超えてしまっている。
あの車両たち、現場の方々は保守に手を焼いているのではないだろうか・・
そう思う。
だから、寝台特急の廃止で廃車になる車両が多いと聞いても、なるほどと納得するものはあるのだが、残りの車両はいつまで使い続けられるのだろうか・・
要らぬことながら、気になることではある。

2005年9月 1日 (木)

スハ43

旧型急行用客車・・僕が高砂に居た頃、スハ43、スハフ42、オハ46、オハ47などは、こう呼ばれることもあった。
オールクロスシート、トイレ、洗面所つきの落ち着いた車内は急行用というに相応しく、天井が高いので夏に乗車しても意外に過ごしやすかった。

これらの車両・・車体に関しては、それ以前のオハ35あたりとは大きく違うところはなかったけれども、オハ35が車体端に若干の絞込みがあるのに対し、まっすぐ直線で、上から見るときれいな長方形の形をしているのが特徴でもあった。
車体鋼体はオハ35一党の一部車両が、粗悪な材料を使っていたためか腐食の補修に苦心したのに対し、厚み2.3ミリの鋼板は丈夫で、出入り口付近をのぞけば、殆ど補修の必要がない頑丈なつくりだった。
出入り口は鋼板製の開き戸で、大抵の場合、窓はHゴム支持されていた。
出入台と便所・洗面所のしきりに木製の引き戸があり、更に便所・洗面所と客室の間にも木製の引き戸があった。
車内に入ると、向かい合わせのクロスシートがずらりと並んでいて、スハ43では左右で11組だったように思う。
座席はオハ35とは異なり、背もたれが上下2段に分割され、下のほうには傾斜がつけられていて、乗客が少しでも快適に座れる工夫もしてあった。
一部の未更新の車両では、背もたれ上部にはモケットがなく、ニス塗りだったように思う。
座席のモケットは国鉄普通車標準のブルーだった。
座席背もたれの通路側には枕を兼ねた手すり状のものがつけられていた。

窓は幅1100ミリの大窓で、5ミリ厚のガラスを木枠に埋め込んだものだった。
窓の組み立ては工場木造場で行なわれ、釘などは一切表に出すことがないよう、木枠の中に埋め込んであった。
幅1100ミリで、厚み5ミリのガラスを入れた窓は重く、そのままでは開閉に難があるので、左右の窓柱上部に釣り合いバネを取り付け、これで窓を開ける際、少しでも軽くなるような工夫もされていた。
(窓構造は基本的にオハ35と同じ)
窓の左右には乗客からは見えないが、フェルトが貼り込んであった。
このフェルトは窓がガタつかないよう、隙間風がないように小さな釘でしっかり止めてあった。
リフターも、窓止め棒(金当てとも呼んだ)も真鍮製で、リフターは工場入場の都度外され、洗浄、調整された。具合の悪いものはこの段階で新品になった。
カーテンはオハ35の遮光性の高い物と異なり、サランのやわらかいものが使われた車両が多かった。
カーテンのほかに網戸があったが、これは蒸気機関車の廃止に伴い、撤去されていた。
カーテンカバーは鋼製だったけれど、これも更新車ではアルミ製になっていた。
荷棚は、まさに網棚で、ハンモック状の網は入場の都度洗濯・修繕されていたが、これを取り付ける際は車体全長分を一度に作業せねばならず、このときだけは上回りで他の仕事をしていた人も含めて、網通し、張り込み、取り付けの作業をしていたものだ。
天井には二列になった室内灯、これは殆ど丸型の蛍光灯となっていたけれど、まれに白熱灯の車両も残っていた。
天井中央部には整風器があって、鋳鉄製のごついつくりで、落ちてきたら大変なので、しっかりした大きなネジで止めてあった。
整風器の開閉レバーも軽く動くように調整していったものだ。
もともとスハ43一党の内装はベニヤ板にニスを塗り木目を生かしたものだったけれど、大半の車両はベージュ系の内装に変えられていた。
色調は153系電車と同じものだったけれど、材質はハードボードだ。
ベニヤ板なら強度もしっかりあるが、ハードボードの欠点は強度があまりないことで、暴れん坊の乗客がけりを入れたりすると簡単に割れてしまう。
だからよく痛んでいて、これの交換には座席を外さねばならず、難しくはないが、大袈裟な感じになるので好きではなかった。
窓わきには小さなテーブルとその下に灰皿がつけられていた。
テーブルも12系あたりと同じものだけれど、木製で上部には梨地模様のアルミデコラ、周囲にはアルミの飾り面がついた。(12系後期ではこれは全金属製になる)
小さな栓抜きもつけられていた。

床にはリノリュームが張られていたが、その下は普通の木の床だ。
米松の床材が木製床の車両と同じように使われていた。
床のつくりはオハ35と大差はなく、頑丈な鋼鉄製の台枠の上に大きな木製の根太を取り付け、この根太に床板を鉄ネジで止めてあった。
根太は殆ど角材の状態で現場の材料庫にあった。
高砂の場合、巨大な製材所を部内に持っていたから、こう言う材料の調達は簡単だったけれども、取り付け加工には熟練の大工の技術が必要だった。
根太は鉄製のボルトで台枠に固定する・・このボルトはすぐに錆びて全く抜けなくなる。
取り外す時はボルトの頭を、ガスバーナーで飛ばしてやらなければならない・・

屋根はオハ46を除けば木製が大半だった。
側樋も屋根布もオハ35のように車端を絞ってないので、工作は楽だった。
ただ、高砂では屋根布の張り込み作業は大半が外注化されていて、僕たちが張替えをすることは少なかった。
屋根布は小石や砂をコールタールとともに敷き詰めたもので、木製の屋根に熱いアスファルトを塗りこみ、車両全長分を張り込んでいくのだ。

スハ43はとても好きな車両だ。
仕事でも12系や25形と並んで最も良く接したクルマだけれど、何故か高砂での在場時の写真を撮影していない。それだけ、ごく普通に接したクルマだということだ。
営業列車で乗ると、台車の、なんともいえない重厚感触れる乗り心地・・落ち着いた車内のムード、ハイネケンスのセレナーデのオルゴール・・
時代は変化し、車両は変わったけれど、あれほど完成度の高い車両を僕は未だに見つけることが出来ない。
客車列車の顔そのものだったスハ43一党への、追慕の念・・それはまさしく客車列車そのものへの思い
かもしれない。