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こう@電車おやじ

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2005年8月17日 (水)

工作一科

昔は大手の企業ならばどこも中卒者を受け入れ、それを訓練するために養成所というものを持っていた。
国鉄も例外ではなく、中卒者に徹底的に鉄道の基礎を学習させ、鉄道員としての連帯意識を高めさせ、将来の現場の中枢になることを目指して、運営されていた。
けれども、世間一般では中学で社会に出る人は減ってきていて、その分、高卒の新卒者を受け入れていくようになっていく。
国鉄も例外ではなく、僕が入社したころには中卒者受け入れのシステムは工場にのみ残っていた。
それは昭和42年ごろから鉄道学園のシステムに組み入れられていて、工作一科生と呼ばれるようになっていた。

僕は昭和51年に高砂工場に採用され、鷹取工場構内にあった関西鉄道学園鷹取分所に入所した。
ここで3年間の基礎教育を受けて高砂工場に正式に配属されると言うわけだ。
国鉄は生活の面倒も見てくれた。
一人6万くらいだったと思うが、学資金というものを支給してくれた。
ただ、普段は寮で生活しているのであまりお金は使わない。
その分は天引きで貯金してもらうことも出来た。
3年になると正式に国鉄職員として採用されるので給料が支給された。

鉄道学園は基本的に全寮制だ。
共同生活をすることで連帯感を養い、鉄道マンとしての意識を高めるためだろうか・・
しかし・・工作一科の生徒達は所詮は高校生の年頃だ。
遊び盛りの少年達にブレーキなどは存在しない。

入寮したその日、いきなり、先輩の部屋に呼ばれた。
そして、いきなり殴られた。
意味などない。
ただ、そういうしきたりだったからだ。
鉄道員の子息なら、そう言ったこともある程度は理解していただろう・・だが、僕などは鉄道マンとの縁故はない。
殴られたことによる精神的ショックの方が大きかった。
いじめもあった。
弱いものはとにかく、先輩からも同級生からも殴られる。
ノイローゼになり、退学するものもいる。
それでも、僕のように逃げる場所のない人間は耐えるしかなかった。

肝心の授業は面白かった。
鉄道が好きでたまらない人間が鉄道のシステムを様々な角度から学んでいくのだ。
面白くないはずはない。
今思い返しても教科には「鉄道車両」「客貨車」「電気車」「内燃車」「工業計測」「製図」「機械工学」「電気工学」などがあって、それぞれに現場の第一線で智恵をめぐらせていた講師達が自身の体験を基に語るのだ。中には話しベタで、眠くて仕方のない授業もあるにはあったけれど・・
実習では最初の2年間は鉄工などの基礎を学んでいた。
やすりかけ、ハンマーうち、やがて精度の高い真鍮製品の仕上げ・・
これが3年目になると現実に鷹取工場の現場に出て、実際に作業をさせてもらうわけだ。

ただ、これだけでは高卒の資格は取れないので、近くの定時制高校に通った。
技術の授業は鉄道で学んでいるから免除され、一般教科だけを学びに行っていた。
1,2年の内はそれでも別に疲れも感じなかったけれど、3年で現場の仕事をするようになると疲労感は段違いに大きくなり、定時制高校へ通うのは苦しかったし、定時制は4年間通わなくてはいけないため、残りの1年は現場からの通学となった。
僕の場合、高砂工場からの通学は、疲れた身体には厳しく、よく電車の中で寝てしまい、そのまま大阪駅や新大阪駅まで行ってしまったことも何度もあった。

工作一科も2年になると後輩が出来、先輩達の鼻息はそれほど気にならなくなってきた。
スポーツが盛んで、ぼくも今では考えられないが陸上部に所属して、定時制高校に行かなくても良い日には鷹取から塩屋まで走って往復したり、須磨の背山を早朝に縦走したりしていた。
いじめは卒業するまで続いたけれども、それが還って友情を深めてもくれた。
それに、いじめをする側に居た者たちも現場に出ると人間がとても穏やかになり、友人としてはかけがえのない存在になっていった。
寮の部屋は6人部屋で、2段ベッドのある寝室と6人分の机がきれいに並べられている学習室とに分けられていた。
窓からは板宿あたりの町並みが良く見えた。

新規の設備投資が行なわれ、工作一科には立派な新寮と、3階建ての実習場がつくられた。
このころが最盛期だったのではないだろうか・・
新しい寮は4人部屋で、この寮が出来たときには、僕たちは3年になっていたこともあり、部屋は気のあった仲間同士で入ってもよいと言うことになった。
503号室に入った僕たちは、卒業後も友情を深めた。

卒業式は関西鉄道学園の吹田の本園で行なわれた。
先日の夜・・卒業前夜祭と称して僕たちは例外なく飲みふけった。
もちろん酒をである。
酒を飲んで大暴れし、喧嘩をするものもいた。
これは例年受け継がれた悪しき慣習でもあったわけだ。
僕も大酒を飲み、二日酔いで吐き気がするのを堪え、卒業式に臨んだ。
僕は当日、学園長から何か忘れたけれど表彰をしていただくことになっていて、学園長の前に出たけれど、うっぷと吐きそうになった息からは自分でもわかる酒の匂いがした。

卒業後すぐ、503号室の4人で山陰と九州への旅行をした。
松江から乗車した「さんべ5号」は20系で、空いている車内で一つのコンパートメントを寮に居た時の並び方で使った。
工作一科の話に花が咲いて、殆ど眠らなかったように思う。

JR化の前から工作一科は募集を中止していた。
大きな建物は余剰人員の教育センターに活用された。
けれども、あの震災だ。
思いで深い寮は2階部分がひしゃげたように潰れ、やがて解体された。
今、鷹取工場も既になく、そこは小学校になっている。

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コメント

googleっていたら工作一科がヒットしました。私はS54入学組です。とても懐かしいです。九州では、小倉(地元のもの)幡生、広島、鹿児島の連中が鳳志寮に全員入寮してましたね。私は鹿児島が実家だったので、金曜日の夜行(急行かいもん)に乗って月曜の7:50着で2週間に1度帰省してました。青春の真っ盛りだったので、頭はリーゼント、バイクはKAWASAKI Z400FXを3ケツでブイブイ言わせていた頃が懐かしいです。父兄召喚歴4回でした。ある時、35歳でこの世を去ったダチの葬儀に皆が駆けつけてくれて、血より濃い結束を感じました。現在は、農水省に勤務していて、今年の4月に新居を構えたんだけど因果応報で大宮工場のすぐ近くで、娘の中学は養成所跡地に建っています。是非、メール等連絡下さい。ヨロシク・・・

オハ352395名マイさん>お返事漏れが見つかりました。ゴメンナサイ。それも1年以上ですね。お詫びします。

畠中 昭二さん>懐かしいですね。僕は昭和51年の入学組です。54年と言えば、そろそろ最終の入学でしょうか。僕も突っ張っていたかな・・でも、時折する同窓会では本当に皆が仲が良いですよ。後程メールを差し上げますね。

自分は、昭和50年代、2回受験して不合格になりました。当時、国鉄に知り合いがいて、国鉄の工作一科の募集がある旨 聞き 大船工に受験票を取りに行き受験したものです。結果、2年連続不合格となりました。その後、大手民鉄の工務部に入社しましたが、中途退職しました。 国鉄工作一科の名前が懐かしいものです。

こうさん,お久し振りです。押入からなっぱ服を引っ張り出して,着てみました。細1号。昭和55年製でした。取り敢えず普通に着れた自分に嬉しいです。

フナ工失敗さん>苦い思いでですね。僕もまた、工作一科入学から丸10年で国鉄を退職し、写真の道を進むも・・昨年からタクシーの仕事をしています。 ほろきねぇねさん>普通に当時の服が着られると言うのは・・大変なことですね。僕はもう、当時の制服は持っていないです。とっておけば良かったなぁ

懐かしいですねー、私も北海道鉄道学園工作一科 79年電気課卒でした。怖かったですよねー先輩方・・・北海道は4人部屋で3年が1人2年が1人1年が2人で一室で3年は天皇・2年は平民・1年は奴隷と言われていましたが・・・・・年月がたつと苦しい事が変に懐かしいですよね。私は内燃機職場(苗穂工場)にはいぞくされました。今はまったく別の仕事をしてますが 青春でしたねー

なつかしさん>

はじめまして。
不思議なもので、歳をとるとあの苦痛が良い思い出になってくるのですよね。。
先輩方も今はとても優しく、人間の温かみを感じています。

こう@電車おやじさん>

はじめまして。
ありがとうございます。本当に人生っておもしろおかしいばかりじゃ、だめなんですよねー 齢50を迎えんとし高校一年生の息子もあの工作一科の私の年になりこれから苦しくて悲しくて辞めたくなったり いろいろあるんだろうな・・・と思うと感慨一塩です。時間を戻せるなら戻ってみたいものです。

なつかしさん>

僕の娘も高校2年生・・
あのころの年頃になりました。

親はあの当時、どう思っていたんだろうな・・
そう思いながら時々工作一科が夢にも出てきます。

こうさん>
本当ですよね
入学式が終わり、寮を後に手を振りながら帰っていった父はすでに亡く、心配だったろうな・・・
でも、貧乏だった我が家にとっては、入学費なし、食費ゼロ、制服代なし、寮代ただ・・おまけに月付60,000の奨学金まで、更に高校まで出してもらい卒業後は国鉄職員としての就職先までも用意されているというのはかなり親からしてみれば有難かったかも・・・・・^^
今年、公立高校に入った息子でさえ250,000入学時にかかりましたもんね~。これから3年間、その後大学・・考えたくないですよね!

なつかしさん>

わが娘などは私学に入学したものだから・・
大変です。。。

本当に国鉄の工作一科・・ありがたかったです。。

はじめまして、僕も工作一科卒業生です。
僕は新小岩車両センター採用で、関東鉄道学園の本園で学びました。
他学園の工作一科も同じなんですね。
今は鉄道から離れた仕事をしていますので、
あの頃が懐かしく感じます。

デリカさん>

貨車を中心としたホームページ、いいですね!!

関西では鷹取が中心でしたね。
僕らは高砂で採用されて鷹取で3年を過ごしました。

今後ともよろしくお願いいたします。

日立の専修学校を検索していたら、専修学校つながりで工作一科がヒットしました。文章を読んで懐かしくなりました。私は関東鉄道学園11回生です。大宮、新小岩、橋本、新津、卒業から30年以上たち皆元気に過ごしているだろうかと気になります。10年に一度くらい「ひがし」(社内報)に同級生が出ていたり、NHK放送の新車製作の溶接(鋼体接合)リーダーの名前に驚いたりしました。ここは関東鉄道学園出身は2人だけですが、郡山の11回生が沢山います。デリカさんも11回生だと思います。体に気をつけてお過ごしください。

200系新幹線さん>

いらっしゃいませ!
僕は関西学園の10回生でした。

高砂の廃止もあって、結構、卒業生はばらばらになってしまいました。
僕をはじめ、半分以上が退職し、現場に残ったものも、全く畑違いの仕事をしている人が多いです。
でも、工作一科の繋がりは一生ものだと思っています。

今後ともよろしくお願いします。

こうさん。ちょっと、この場所をお借りします。
200系新幹線さん、デリカです。
関東鉄道学園第11回工作一科だったんですね。
まだ、ポッポ屋現役なのでしょうか。
オイラの居た、新小岩車セ組の同期は全滅です。
一昨年、大宮のイベントでK君と久々に会いました。
EF63のカットモデル前で案内係をやっていましたよ。
「貨車の独り言」http://jnr-delica.web.infoseek.co.jp/というHPを公開していますので、
よかったら、御連絡頂けますか??

こうさん、ココをお借りして、ありがとうございました。

S53年度 関東鉄道学園大井分所 工作一科入学の駒蔵といいます。
大船工場に願書を提出、学科試験や適性検査、新宿の鉄道病院で身体検査を経て、なんとか合格させてもらいました。
ここは、比較的国鉄職員の子弟が多く、
都内や神奈川出身者が多く見受けられました。
品川区役所脇の都道下に学校と寮があり、
上級生1名と同期生3名の4人部屋、たった1年違いなのに奴隷と王様の関係でしたが、
実習や授業は面白く、同窓生も気の合う奴らが多かったので
それなりに楽しい生活だったと記憶しています。
寮を出て、御料庫を見つつ工場の風呂へ通ったことは、
今でもしっかり覚えています。
外泊日も制服(動輪マーク付)で、
乗車証を貸与され実家に帰った記憶があります。

大井町も当時と様変わりし、学校も閉鎖され
立寄る事も少なくなりましたが、
良い思い出の詰まった場所です!

駒蔵さん>

はじめまして!
昭和53年度ということは私より2年後の入学ですね。
ワタシの関西学園では、部屋は1年生だけで構成されましたが、にらみをきかすように3年生の先輩ノ部屋がその真ん中に配置されていて、とても怖かったですね。。

卒業後、現場でお付き合いするととてもいい人たちばかりでした。

あのなかで居たこと、今の自分にかなりの影響があるように思います。
人間関係に恐れなくなったことかな・・
またよろしくお願いします。

皆様 こんにちは。
国鉄に関する技能者養成の研究論文を書きたいですが、資料はなかなか見つけません。何か推薦していただければありがたいです。

ショウさん>

資料というものは見たことがないのですが、例えば鷹取や大宮の社内報、嵯峨野観光鉄道保存の「若鷹号」、大宮の鉄博収蔵品、それと養成所用に作られた国鉄部内の教科書などがどこかで見つかればと思うのですが。

今のJR主要工場の幹部にもまだ養成所出身の方もおられますよ。

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