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2005年8月17日 (水)

工作一科

昔は大手の企業ならばどこも中卒者を受け入れ、それを訓練するために養成所というものを持っていた。
国鉄も例外ではなく、中卒者に徹底的に鉄道の基礎を学習させ、鉄道員としての連帯意識を高めさせ、将来の現場の中枢になることを目指して、運営されていた。
けれども、世間一般では中学で社会に出る人は減ってきていて、その分、高卒の新卒者を受け入れていくようになっていく。
国鉄も例外ではなく、僕が入社したころには中卒者受け入れのシステムは工場にのみ残っていた。
それは昭和42年ごろから鉄道学園のシステムに組み入れられていて、工作一科生と呼ばれるようになっていた。

僕は昭和51年に高砂工場に採用され、鷹取工場構内にあった関西鉄道学園鷹取分所に入所した。
ここで3年間の基礎教育を受けて高砂工場に正式に配属されると言うわけだ。
国鉄は生活の面倒も見てくれた。
一人6万くらいだったと思うが、学資金というものを支給してくれた。
ただ、普段は寮で生活しているのであまりお金は使わない。
その分は天引きで貯金してもらうことも出来た。
3年になると正式に国鉄職員として採用されるので給料が支給された。

鉄道学園は基本的に全寮制だ。
共同生活をすることで連帯感を養い、鉄道マンとしての意識を高めるためだろうか・・
しかし・・工作一科の生徒達は所詮は高校生の年頃だ。
遊び盛りの少年達にブレーキなどは存在しない。

入寮したその日、いきなり、先輩の部屋に呼ばれた。
そして、いきなり殴られた。
意味などない。
ただ、そういうしきたりだったからだ。
鉄道員の子息なら、そう言ったこともある程度は理解していただろう・・だが、僕などは鉄道マンとの縁故はない。
殴られたことによる精神的ショックの方が大きかった。
いじめもあった。
弱いものはとにかく、先輩からも同級生からも殴られる。
ノイローゼになり、退学するものもいる。
それでも、僕のように逃げる場所のない人間は耐えるしかなかった。

肝心の授業は面白かった。
鉄道が好きでたまらない人間が鉄道のシステムを様々な角度から学んでいくのだ。
面白くないはずはない。
今思い返しても教科には「鉄道車両」「客貨車」「電気車」「内燃車」「工業計測」「製図」「機械工学」「電気工学」などがあって、それぞれに現場の第一線で智恵をめぐらせていた講師達が自身の体験を基に語るのだ。中には話しベタで、眠くて仕方のない授業もあるにはあったけれど・・
実習では最初の2年間は鉄工などの基礎を学んでいた。
やすりかけ、ハンマーうち、やがて精度の高い真鍮製品の仕上げ・・
これが3年目になると現実に鷹取工場の現場に出て、実際に作業をさせてもらうわけだ。

ただ、これだけでは高卒の資格は取れないので、近くの定時制高校に通った。
技術の授業は鉄道で学んでいるから免除され、一般教科だけを学びに行っていた。
1,2年の内はそれでも別に疲れも感じなかったけれど、3年で現場の仕事をするようになると疲労感は段違いに大きくなり、定時制高校へ通うのは苦しかったし、定時制は4年間通わなくてはいけないため、残りの1年は現場からの通学となった。
僕の場合、高砂工場からの通学は、疲れた身体には厳しく、よく電車の中で寝てしまい、そのまま大阪駅や新大阪駅まで行ってしまったことも何度もあった。

工作一科も2年になると後輩が出来、先輩達の鼻息はそれほど気にならなくなってきた。
スポーツが盛んで、ぼくも今では考えられないが陸上部に所属して、定時制高校に行かなくても良い日には鷹取から塩屋まで走って往復したり、須磨の背山を早朝に縦走したりしていた。
いじめは卒業するまで続いたけれども、それが還って友情を深めてもくれた。
それに、いじめをする側に居た者たちも現場に出ると人間がとても穏やかになり、友人としてはかけがえのない存在になっていった。
寮の部屋は6人部屋で、2段ベッドのある寝室と6人分の机がきれいに並べられている学習室とに分けられていた。
窓からは板宿あたりの町並みが良く見えた。

新規の設備投資が行なわれ、工作一科には立派な新寮と、3階建ての実習場がつくられた。
このころが最盛期だったのではないだろうか・・
新しい寮は4人部屋で、この寮が出来たときには、僕たちは3年になっていたこともあり、部屋は気のあった仲間同士で入ってもよいと言うことになった。
503号室に入った僕たちは、卒業後も友情を深めた。

卒業式は関西鉄道学園の吹田の本園で行なわれた。
先日の夜・・卒業前夜祭と称して僕たちは例外なく飲みふけった。
もちろん酒をである。
酒を飲んで大暴れし、喧嘩をするものもいた。
これは例年受け継がれた悪しき慣習でもあったわけだ。
僕も大酒を飲み、二日酔いで吐き気がするのを堪え、卒業式に臨んだ。
僕は当日、学園長から何か忘れたけれど表彰をしていただくことになっていて、学園長の前に出たけれど、うっぷと吐きそうになった息からは自分でもわかる酒の匂いがした。

卒業後すぐ、503号室の4人で山陰と九州への旅行をした。
松江から乗車した「さんべ5号」は20系で、空いている車内で一つのコンパートメントを寮に居た時の並び方で使った。
工作一科の話に花が咲いて、殆ど眠らなかったように思う。

JR化の前から工作一科は募集を中止していた。
大きな建物は余剰人員の教育センターに活用された。
けれども、あの震災だ。
思いで深い寮は2階部分がひしゃげたように潰れ、やがて解体された。
今、鷹取工場も既になく、そこは小学校になっている。

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コメント

工作一科・・懐かしいですね、私は工作一科ではありませんが元国鉄職員ですから国鉄の研修制度は知っています。採用研修では最も対象者の多い職員科(高卒採用時研修)、研究一科〜三科、運転一科、二科、工作一科、二科(工場高卒採用研修)・・と思います。採用研修で最も長いのが工作一科の3年間ですね!国鉄時代の同僚に工作一科卒が数人いたので、工作一科の実態も少しは知っています。国鉄の工場も全国にたくさんあって北は釧路・旭川・苗穂・土崎・盛岡・郡山・新津・大宮・大井・大船、北陸の松任、中部の名古屋工場、近畿では吹田、鷹取、高砂、山陰の後藤、四国の多度津、南は小倉と博総、新しいとこだと東北上越新幹線の仙総など記憶しています。(記憶がおぼろげで熊本局、大分局や鹿児島局の工場は記憶がありません。)名古屋工場の職員が浜松工場の工作一科卒といっていたので、どこの工場採用がどこの工作一科で研修するかよくわかりませんが、いずれにしても中卒で親元を離れてくるのだから大変だったと思います。私は工作系統ではないので、工場といっても盛岡・浜松・名古屋の3工場しかみたことがありません。幹総の浜松工場が一番印象はよかったですね懐かしい思い出です!train

国鉄20面相さま。ありがとうございます。国鉄の中で、工作系統は全く別物だったような気がします。工作に入れば一生工作・・それが民営化前後の混乱でかなり無茶苦茶になってしまい、僕の同期入社99人の内、工作に残っているのは数えるほどしかありません。車掌、運転士、電車区、本社、系列のホテル・・本当にばらばらになってしまいましたし、半分以上は退職してしまいました。工場としては、上げられたほかに、長野工場、五稜郭車両センター、新小岩車両センター、幡生工場、鹿児島車両センターもありましたね・・他にもあったかと思いますが・・浜松は工場としては非常に優秀だったように聞いています。

長野、幡生工場の出身者がいました。すっかり忘れています。車両センターもありましたが、各工場の分担は新幹線ぐらいしか見分けはつかないので車両センターの違いは知りません。五稜郭と新小岩というと、ともに五稜郭操車場、新小岩操車場という貨物操車場がありました。一般的に操車場や大規模貨物ターミナルには貨車区などが併設になっています。だからといって車両センター=貨物車両専用工場ということもないでしょうから、工場規模のちがいだったのでしょう。操車場等は工場合理化の前にS59年10月の貨物改正で、全面合理化され直通フレートライナーを基本的として多くの操車場か廃止されました。3大操車場の吹田操車場、稲沢駅、新鶴見操車場なども名ばかりとなってからすでに20年以上たっているので、今では「旧国鉄○○操車場跡地再開発」などの名称で、昔を思い出す程度です。国鉄時代は、駅の機能により名称が�操車場、�貨物ターミナル、�信号場、�駅というように名称が異なるので必ずしも操車場という名称ではなく、最も都心に近く有名なのは「汐留駅再開発」のようなものがあります。「こう」さんの近くにも、似たような再開発地域がありませんか?近畿では大きなものは吹田操車場跡地や、竜華操車場、中国だと岡山操車場、東広島駅などがあると思います。

貨物専用の工場はいくつかあったようです。新小岩や五稜郭もそうだったのではないでしょうか・・電車専用が大井工場と吹田工場、高砂はちょっと風変わりな客車・気動車の工場でした。鷹取の貨車職場も大きな職場で活気がありました。ホームページ本体に「国鉄高砂工場」コンテンツを作って、そこに、高砂をはじめ、鷹取、幡生などの内部撮影の写真が入っています。よろしければご覧下さい。http://www4.ocn.ne.jp/~e-maiko/MyPage/menu7.html国鉄跡地利用で神戸付近で最大のものは神戸港貨物駅跡の「神戸ハーバーランド」、鷹取工場跡地の団地、高砂工場跡地のサントリー・・そうそう大鉄局跡地の「ヨドバシカメラ」もありました。ちなみに、鷹取工場なきあと、鷹取操車場と鷹取機関区の用地はJR貨物「神戸貨物駅」になって、再生しているのが唯一の救いです。

こうさんでよろしいでしょうか? 鉄道学園工作一科で検索しましたらここにたどり着きました。こうさんは関西の学園出身なんですね。 自分は北海道の旭川車両センター配属で札幌苗穂にある北海道鉄道学園工作一科生です。実は先日、卒業してから20年以上会っていなかった同期と東京で飲む機会がありまして、妙にあの時代が懐かしく感じているこの頃です。学園での生活、どこも変わらなかったんですね。嫌な思い出でしたがこれだけの年数がたつと懐かしく感じるのも不思議な気がします。私の時代も先輩や同期内での暴力はありましたし、金銭的な事もありました。わかりますよね?自分は83年の卒業です。毎年工作科大会あったと思いますが、私の時代は国分寺と郡山に行きました。バドミントンでした。ひょっとするとすれ違った事があったかもしれませんね。それとも私より先輩かな?自分も写真が好きですし、もちろん鉄道車両も好きです(ただし昔の北海道にあった車両の知識しかありません)。学園時代は機械科で旭川に帰ってからは貨車・台車関係の仕事をしてました。いやぁ〜懐かしいなぁ〜またおじゃまさせてもらいます。

ほろきねぇねさん>ようこそおいでくださいました。懐かしいですね・・僕は79年の卒業ですから少し上になりますね・・今思えば無茶苦茶な養成所でしたね・・でも、不思議とその頃の同期生や先輩、後輩との縁が今も続いています。時々、同窓会もしますよ。あれだけ仲が悪かった同窓生が今や、一番心を許せる親友なのですから人生、面白いものです。しかし、国鉄改革で工作の道を進んでいるものはほんの僅かになりました。僕のように辞めたり、出向先にそのまま就職したり、運転や車掌、駅の仕事に変わった者もいます。本当に懐かしいですね。

私の元同僚で北海道の工作一科だと工作一科73年卒釧路工場(後の釧路車両センタ)がいます。62.4で苗穂工場で退職してしまったようです。工作科大会なんて初めて聞きました。何をやるんですか?開催地が郡山なら、工場があるので、わかるような気がしますが。なんで国分寺なんでしょう。国分寺市(泉町)には、中央鉄道学園、労働科学研究所、最寄駅は国立市ながら住所的には国分寺市光町の鉄道技術研究所、中央情報システム管理センター、東開工国立システム工事所がありました。他には中央学園の裏口付近に東京南局の野球部関係独身寮があったと思います。場所的には東京西局管轄なんですが?でも、いずれも工作関係とはなんのつながりも無いハズ??ちなみに、私は異動により国分寺市民も郡山市民も経験しています。

こうさん、はじめまして。なつかしく拝見させていただきました。私は最後の工作一科生(機械)です。郡山工場分所で学び、盛岡工場配属でした。正式配属1年(内燃機職場)で盛岡工場廃止が決定し、仙台工場(台車職場)への異動となりました。その後、国鉄民営化のおり、他企業の受け入れにより、同じ公社(○○○)に職を変えました。数年前、同期会があり、思い出の郡山にほぼ全員集合しました。(なつかしかったですね)国鉄20面相さん、はじめまして。工作科大会ですが、全国の工作一科が持ち回りで実施するスポーツ大会です。私が在学の時が最後で郡山で実施しました。あと、技能検定もあり、各分所から機械・電気各2名を選出し、技能を競う大会もありました。

takeさん>懐かしいですね。最後の一科生ですか・・盛岡も廃止されてしまったんですね・・高砂もそうですが、廃止される工場の人ほど、鉄道に残っている確立が少ないような気がします。工作一科って・・不思議な連帯感がありますね。僕も、多分、一生付き合っていくんだろうなって・・思います。今後ともよろしくです。

こうさん>さっそくの返事ありがとうございます。今の仕事で、何度目かの転勤で一緒になった方(仮にFさんとします)の親父さんが国鉄を退職されたかたで、よくよく聞くと、私と盛岡工場で同じ職場だったということがありました。(結構お世話になったかたでした)数年後、Fさんの親父さんが亡くなったとの訃報がとどき、葬儀に参列した際、受付には「国鉄盛岡工場 関係者」「○○○ 関係者」(今の会社)(Fさん関係)と二つあり、正直どちらで受付をするか迷いました。故人の友人代表からの別れの挨拶(当然私も知っている方)を聞いているうちに、当時の事が鮮明によみがえり、思わず涙を我慢することができませんでした。すみません。しめっぽい話になってしまって。こうさんのおっしゃるとおり、私も一生国鉄と工作一科とは付き合っていくのだと感じています。

僕も不思議に今の仕事でもかつての仲間と会うことも多く、人間の縁をしみじみと感じています。もしかしたら、工作一科は僕にとっては「原点」なのかもしれません。

takeさん> 盛岡工場だったのですか、工場の正門と道路をはさみ向かい側の独身寮に、いたのですか?朝の出勤時間に、パジャマとサンダル姿でタイムカードを押しにくる若手社員の記憶があります。(ほぼ毎日なので、なんじゃ、これは!!・・と思っていました)いまでは、盛岡工場は跡形もわからないようになっているみたいですね!私も、ちょっとだけ夕顔瀬町の盛岡第一寮に住んでいたことがあります。盛岡は寒いところですよね。本州の市街地では一番寒いと思います。ところで、盛岡はtakeさんの地元ですか?

>国鉄20面相さん盛岡は私の地元です。工場には自宅から通っていました。ですので、盛岡の寮にははいったことはありません。同期で盛岡以外のひとは、みな、正門向かいの独身寮に入寮していたので、時々遊びに行きました。今、盛岡工場を思い出させるものは、跡地に建ったビル(マリオス)4Fに、たしか鉄工職場の建屋に使用していたレンガ造りの壁(盛岡工場創設時の壁)が展示されています。http://www.jfp.co.jp/JFP_e/marios.htm

takeさん> 工場は鉄道管理局とも工事局とも、つながりが少ないから仕方がないですね、私は鉄道側なので、若い頃はお金も無いのに飲み歩き色々な寮や社宅に泊めてもらいました。当時の国鉄の寮や社宅は全国いたるところにたくさんありました。takeさんの近いところでは青森第一、第二、八戸、盛岡第一、盛岡のあと2つは忘れた。北上、一ノ関にも泊めてもらいました。盛岡市内の社宅だと新田町、中川町、厨川ぐらいです。東京付近は多すぎていえません。東京より南では・・、静岡石田寮、名古屋則武寮、大阪千里丘第一、第二寮ぐらいまで覚えています。当時は貧乏(金なし)、ヒマ有り、乗車券あり(乗車券無料)だから、あちこちへ、行けたのだと思います。また、当時のように色々なところに行ってみたいのですが、夢のまた夢です。

国鉄一家と言われた通り、国鉄ほど団結力があり巨大組織はなく、今後も出来ないと思います。柏原(大阪) 紀三井寺(和歌山) 吹田、天王寺と寮生活を経験しました。 特に関西鉄道学園運転二科(転二)吹田寮6人部屋での生活が一番印象に残っています。あの三段ベットの最上段で隣の人とはカーテン一枚だけ、いびき、歯ぎしり、寝言に悩まされ寮生活に慣れるまでが毎日が寝ぬれぬ夜でした。そして、なによりも辛かったのは、酒。私は下戸のためいつもの宴会では随分苦労しました。飲めない酒を飲まされ最後は○○を吐いていました。 しかし20年以上経った今では良き思い出で、多くの友人もでき10年以上会わなくても気楽に話せる仲間ばかりです。 国鉄は良かった、最高の人間集団であり、これ以上の良き思い出は私の人生で金輪際体験することはないと断言できます。

>国鉄20面相さん全国パスは私が採用になる前の年で廃止になってしまいました。工作一科時代は、月2回帰省パスが出たくらいですね。採用になってからは、管理局内パスは持っていましたが、結局在職中は旅行等で使用せずじまいでした。今の会社にうつった当時、1年半は国鉄からの派遣社員ということで、身分は国鉄職員のままでしたので、パスと割引書があったため、出張の時の旅費の計算がほかのひとと違うため、計算がめんどくさい(無料区間と割引分があるため)といわれたことを思い出しました。

実は・・・私は工作科を卒業した後、通信教育をやめて地元の夜間高校へ通いました。(お陰で高校生活5年)で、夜間高校でも修学旅行がありまして・・・管理局内パスと割引を使って、修学旅行へ行ってきましたよ。京都まで。ただし・・・クラスの仲間とは全車両、別車両でした。青森から乗った寝台列車ではクラスは当然寝台車でしたが、私はケチってグリーン車で上野まで来ました。

こうさん、はじめまして!関東鉄道学園(日進)で工作一科生として入学した猪木です!現在も「工作」です。まぁ〜最近当社内では「工作」「運転」と言う分け方は、しないことになっていますが、上の方では、この言葉が存在しているようです。実習は大宮工場で行いましたが、本配属は神奈川県にあった「橋本車両センター」です。車両の修繕は東名ハイウェイバス(だから組合も自動車でした)のみで、あとはエンジンやオイルダンパ・K弁等の部品の修繕を行う工場でした。S59年に廃止になり大船工場で拾ってもらいました。大船時代には、電機職場に配属になり関西向けでは、105系化改造、福知山用115系先頭車改造に携わりました。その後、設計業務に携わり、改造工事の設計等を行っていましたが、車両新造を行うことになり、107系・横浜線用205系・901系を製造し、その後、VVVFを始めとした新技術の勉強のため、伊丹の三菱電機に2ヶ月程行ってました。このとき阪神の武庫川に棲息してました!この後、品質管理関係に身を置き、電車区等の勤務を経験後、現在に至っています。仕事柄、工作一科時代の同期や先輩・後輩に会うことも多くありますが、やはりJR化の際に転職された方が多いため、人数は当時の四分の一ほどしか在籍していないと思います。また、お世話になった大船工場(鎌倉総合車両センター)も今年3月に機能廃止となり、寂しいかぎりです。やはり、他の学園と同様に「シメ」「金」等の問題はありました。私の場合は、金曜に入所だったので、一旦、自宅に帰って寮に戻った日曜の夜に「談話室」に集合でしたが...

国鉄20面相さん>takeさん>クハ111−52さん>国鉄の人間関係・・本当に強いものですね。僕もいまだに多くの友人たちと付き合いがありますし、年賀状に至っては大半の同期の方々とのやり取りが続いています。外部から見れば問題も多かったのですが、ある意味では究極の信頼関係が作られていたようにも思いますね。国鉄時代には国鉄だけでなく民鉄の方々ともたくさん、知り会いになり、今もお付き合いが続いています。鉄の道の人間関係はどこまでも続く壊れない関係なのかもしれません。(もっとも、そういう甘いことばかりでもないのも事実ではありますが)ほろきねぇねさん>面白いですね。みなと離れた車両で修学旅行・・鉄道好きは、寝てしまう寝台車より起きていられる座席車の方が好きだと言う・・僕などもそうですが・・安いだけでなく、列車の旅の味わいみたいなものが・・あるようにも思いますね。橋本さん>始めまして!!よろしくです。今も工作の道ですか。僕の友人たちは既に、工作を離れた人の方が多くなってしまいました。それぞれにドラマがあるあの国鉄分割民営でしたね。大船も廃止ですね。関西の鷹取と言い、名門が次々に消えていくのは淋しいものです。「談話室集合」懐かしいな・・なんで殴られるのか・・意味が分からなかったあの頃・・

こうさん>//「談話室集合」・・・なんで殴られるのか・・意味が分からなかったあの頃・・ //これは、あまりいい話ではないですね!私は工作ではないので、実態はしりませんが、聞くところによると「シメ」というのは、新人や転入組に、自箇所のやり方を教える・というより、無理やり力ずくで、体に思い知らせる。」という意味だと聞いた記憶がありますが、違っていますか?私の聞きづてでは、昔々昭和20年〜30年代の保線職場が近いと思います。でも仕事上です。仕事でミスをすると、口頭注意の前に手や足が先に出るということでした。他の職場と異なるのは、レールや枕木を持ち運んでいる時代で、やさしく見える「おじさん」でも平均的に腕力は、かなり強かったから殴られると、吹っ飛んだとか・・大変だったと聞いています。レールや枕木、保線用のバールを持ったことありますか?

国鉄20面相さん>学園時代は先輩には逆らえなかったですね。如何に弱そうな先輩でも、先輩にたてついたらあとが大変・・その分、自分達が先輩になると・・やりたい放題するのもいましたね。僕は、そういう風潮が嫌いで・・後輩にも君付けで呼んでいました。現場では殴るというのはまずなかったですね。先輩後輩は厳しかったですが、先輩が皆、優しかったですよ。工場は特に「ボーシン」が力を持っていて、ボーシンの言うことは助役より分会長より絶対でした。。

こうさん>ボーシン・・・国鉄以外の工場や現場では話に聞いたことはあります。国鉄の工場も同じしくみだったんですね!多分、昔の知り合いでも、工作出身者はそのようなことを話していたんだろえと思いますが、忘れてしまったと思います。ボーシンに対する国鉄での正式な職名(○○係、掛、検査長、○○主任・・・)はあったんですか??国鉄外の一般的な話では、管理的な立場(助役)の次ぐらいの相対的な地位にいて、直接の実作業はあまりしないけど、仕事分担や職場の流れを仕切ったり、手配している人・・という意味と伺っていますが、あたっていますか??

こんばんはデス。昨夜は、橋本車両センター時代の仲間が集まり、楽しい夜を過ごしてきました。急に企画したので、人数は少なかったですが久しぶりに、仲間の元気な顔を見て羽目をはずしてきました。一科の先輩や同期・後輩と近況について語り合ってきました。橋本車両センターが廃止になった時、橋本という場所から近い、鉄道総研に転勤した仲間が多く、当日も総研関係者が5名参加されていました。「シメ」や「金」ですが、代々続いていたようで、金については2年上の先輩の分を負担していた時もありました。私たちが2年になったときには、同期で何回か話し合いを行って「金」については、絶対に止めようと決めて、止めまることができましたが、1年同士の中で「金」問題が発生し、この問題の難しさを感じました。(当人の家まで行って話し合いを行い、最終的に辞めていただきましたが...)最近は、仕事でOM(大宮総合車両センター)に行く機会が多くあります。学園時代に実習をしていた工場なので、現場を歩く機会があるときは懐かしく思い出す場所もありますが、当時に実習していた大栄橋下の実習場もなくなり、裏門があった部分も、スポーツクラブになるなど、だいぶ変化しています。とはいえ、一科の知り合いが一番残っている職場なので、現場を歩けばあちこちで懐かしい顔に会えるのですが、ほとんどが会議なので...

国鉄20面相さん>ボーシンは工場の場合、現場で作業者の纏め役をする人・・もちろん、みずからも素晴らしい技術を持っていて、大工事のおりなど全力で作業をされる方が多かったように記憶しています。工場は当時、工作技術係、工作検査係、工作検査主任となっていて、若い衆は技術係、ある程度経験を積むと検査係、検査主任は現場では「作指・・旧職名工作指導係」と呼ばれていまして、この人が作業全体の指導役です。ボーシンは・・・高砂の場合、親方と呼ばれて絶大な権限がありました・・あくまでも慣例上ですが・・また、その権限だけのことは、ありましたねえ・・橋本さん>金の問題はなかったなあ・・その点は鷹取はきちっとしていたように思います。先輩も現場に行ってからは皆、優しくて、いろいろ相談に乗ってもらったりしました。シメは・・学園にいる間、ずっとありましたね。それも時代が変わっていく感じがしていました。段々、ソフトになっていくのですよ。その分、僕たちの後輩たちは、同期の繋がりも薄いような気もしています。僕の場合、高砂も高取も消えてしまい、残っているのは関西では吹田だけ・・淋しいですよね。仲間も車掌区や運転区、電車区、駅、本社、関連企業・・バラバラになってしまいました。網干総合車両所は鷹取の仲間が大半ですが、ここに遊びに行ったときは懐かしい顔ぶれで嬉しかったですよ。でも、建物が鷹取ではないのですよね・・

北海道、室蘭の近くに「輪西工場」というか「輪西貨車職場」てあったと思いますが。それと「ボーシン」という言葉ですが棒振(=棒を持って指図する)と誤解されているように思います。実はコレは船員の方の用語でボースンと言い、その意味は「甲板長」なんです。まあ意味合いはほとんど一緒ですがね。(^^;

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