フォトアルバム

プロフィール

フォトアルバム

こう@電車おやじ

小説サイトSTORY http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story/ 鉄道掲示板 http://6551.teacup.com/kouzou/bbs プロhttp://pr.cgiboy.com/02653710/フィール

« 新幹線戯言 | メイン | ブルートレイン »

2005年7月21日 (木)

国労と高砂工場

僕がいた時代の国鉄高砂工場は、管理職以外の職員はすべて国鉄労働組合(国労)に所属していた。
他の職場では鉄道労働組合(鉄労)の組合員もおり、当然、国労一本では何事も組織を動かすことも出来ず、先鋭化した組合といえども、それなりに対話を模索しないとやっていけない部分もあった。
高砂工場の場合、工場の囲いの中で国鉄本体ではありえないユニオンショップ制を導入しているのと同じことだった。

これは、上手く機能すれば組合員の要求なども単純にまとめることも出来、団体交渉なども非常にスムーズに運ぶのであるけれども、上に立つ役員の意識一つでは只単に、組合役員が自らの保身のためだけに組合員を自由に、それも他の組合からの批判なしに使える、彼らにとって便利な組織になってしまう。

残念ながら、高砂にはその気配はあった。
高砂工場支部を形成した組合の力は強く、それを批判することさえ憚られる空気は確かに存在した。
もちろん、現場の分会役員には組合の立場や存在意義を真面目に考えている人たちも大勢いた。
だから、そう言う分会役員の下にいれば多少のことは分会で飲み込んでくれるけれども、やはり何処の世界にもある極端な組織主義者が分会役員だったりすると・・それはもう、組合批判=村八分という恐ろしい制裁が待っているのだった。

極端な例が選挙活動だ。
組合には、当時、共産党、公明党支持者も少数ながらいたけれども、彼らは持論を展開することは出来なかった。活動はあくまでも地下でなければならない。
地元の高砂市・加古川市などの市議会や県議会選挙では社会党推薦候補の選挙活動に全力をあげる・・それも、選挙事務所に組合員を休暇で貼り付けさせ、徹底した選挙活動を繰り広げる。
その候補者が国労出身者だったりすると、その運動は激烈を極める・・
(どういう風に激烈を極めたかはここではかけない。その点はお察し願いたい)
加古川・高砂あたりは今もそうだけれど、当時はもっとムラ社会の名残が強烈に残っていた。
住んでいる地域によっては集落内部からの候補を支援したい人もいたけれど、その運動をすることが組合役員に見つかると、必ずあとで組合事務所に呼ばれる。
そこで散々お説教をされ、それでも言うことを訊かない者は、村八分になってしまう。
仕事は与えられない・・残業もつかない・・技術者として最低の屈辱が待っているのだ。

もちろん、当局側は仕事を与えようとするが、それをすると組合への介入だといって当局に詰め寄るシーンもあった。

さて・・高砂工場廃止が囁かれる頃、地元から衆議院議員に立候補したNという男がいた。
彼は僕にとっては職場や鉄道養成所の先輩にあたり、分会、支部、地本、総評役員を歴任した労働運動一筋の男だった。
組合は彼を組織内候補として全面的に支持し、組合員に過酷な選挙活動をさせる指令を出した。
選挙活動の内容は、これもここでは書くまい。
Nは見事に当選し、国会議員になった。
けれどもすぐに解散があって、2度目の選挙がやってきた。
「私の目の黒いうちは高砂工場は廃止させない!」
彼は当選し、まもなく高砂工場は廃止された。

高砂工場に居た職員の大半が鷹取工場に移る・・鷹取工場の労働者達は戸惑っていた。
元々鷹取というところは神戸の街中にあり、組合の締め付けもきつくはなかった。そこへ高砂から大量の国労組合員の流入である。
選挙などの支援活動も一時は高砂並になった。
けれども鷹取工場には少ないとはいえ、ライバル「鉄労」の存在もあった。
元から鷹取工場にいた人たちは坦々としていた。

国鉄の分割民営化が避けられない情勢になったとき、国労はまさかの大崩壊を始めた。
そのときに受け皿になったのが「鉄労」だった。
けれども、国労本体は何も間違ったことを言っていないし、運動の目指す方向は正しかったと僕は思っている。
国労組合員たちの中で、腹を決めて国労に残った人たちは、純粋に国労の考え方を自らの人生の指針として受け止めている人が多かった。
かつては高砂などでは国労が自らを批判した組合員に弾圧を加えたが、歴史は反転し、今度は国労に残った者達に当局側から様々な嫌がらせがされるようになっていった。
このとき、国労高砂でふんぞり返っていた労働貴族達はさっさと逃げ出し、国鉄から離れ、あるいは反対側の組合にさっさともぐりこんだりした。
現場の純粋な活動家や、国労本来の路線を愛して止まぬ者たちは、考えられないような嫌がらせを受けた。
例えば、貨物輸送の大合理化や、輸送近代化で発生した大量の廃車群・・
これの解体作業には国労組合員を当てたし、昇級試験を受けるには国労の脱退が条件だ、などといわれたりした。廃止される職場から、次の職場への配置転換が決まっても、国労組合員であるが為に取り消された例も聞いている。
民営化で発生する大量の余剰人員対策で、国鉄・JRは、多くの副業を始めたが、なれない手つきで、うどんをこねたり、パンを焼いたりしている人たちの多くが本来現場の第一線にあるべき国労組合員だった。

国労はしぶとく今も生きている。
より純粋な、国労本来の理想を今も保ち続けて存在している。

国労を裏切り、政治権力に取り入った高砂工場組織内候補のN議員は、無節操な野合政権「村山内閣」で労働大臣にまで上り詰めた。
彼の目は黒かったが、高砂工場はそのときには更地になってしまっていた。

僕は国鉄を辞め、神戸の写真館での長い修業を経て、大阪のホテルに仕事で通うようになった。
通い始めてすぐに、僕は一旦、京橋駅で電車を降り、ホームのうどん屋で朝食をとることが多くなった。
自宅を出る時刻が早朝であることが多く、仕事は深夜に及び、自宅を出るときには朝食を摂れるほど腹が減っていないことが多かった。
通勤で1時間半を費やすとようやく腹の虫がなるのだ。
あるとき、いつものように「月見うどん」を注文して、それを出してくれたうどん屋のおじさんの白い調理用白衣には国労のバッジが誇らしげに輝いているのを見つけた。
環状線の電車の音、人の波の脇にあるうどん屋のスタンドで、涙が出た。

トラックバック

このページのトラックバックURL:
http://app.blog.eonet.jp/t/trackback/351371/14451089

国労と高砂工場を参照しているブログ:

» 左派と右派 (Make Your Peace)
昔々の左派、右派

実は、ロシアで「右翼」といえば「共産主義者」のことです。
本来の左派はあらゆる個人主義者、右派はあらゆる体制主義者のことです。

左派 vs 右派
= { 自由主義者, 民主主義者, 資本主義者 } vs { 国家主義者, 民族主義者, 共産主義者 }
戦前の右翼であり、日本最初のイスラム教学者でもあった大川周明が、
レーニン政権の正当性を認知したのは偶然ではありませんでした。


戦後の左派、右派

左派運動の衰退にはあまたの理由がありますが、最大の理由は、
左派運動と共産主義が不健全な癒着状態にあったことです。

戦後の日本では、右... [続きを読む]

» 国鉄末期 ((徒然なる鉄)国鉄があった時代blog版)
国鉄末期には、多くの運転職場や、鉄道工場の統廃合などで、人員の過剰が生じlてしまった。
国鉄当局では、これらの人々を余剰人員と言った言い方をしていたが、実体は現場の組合活動家を中心に狙った組織的攻撃とも取れた。
 実際、30代、40代の現役かつベテラン運転士が本来の職務を解かれ、直営うどん店などで働いているのは正直辛いものがあった。

 彼らの胸の名札には、「元機関士」と言った文字が刻み込まれていた。
 彼らの精一杯の自己主張なのであろう、その反面ベテラン運転士をはずした職場では確実に運転におけるミスが目立つようになり、また工場では技術の伝承が出来なくなってしまった。

 その弊害は、旧型客車の修復作業などがJR東日本などでは出来なくなってしまった。
 適当な時期にきちんとした伝承が出来なかったことはあきらかであった。

 国鉄改革は何だったのであろうか。今回の福知山線事故を例に挙げるまでもなく、本来ストップをかけられる組織などを潰してしまったことのつけが今回の事故の遠因といえる。
国労が正しかったとはいえないし、現在の主張も全く全て賛同すると言うわけではないが、少なくとも御用組合では結果的に雇用は守れないし、第一チェック機能が働かないと思う。
 これは、JRに限らず、郵政公社も同じだと思うのだがいかがであろうか?

困る前に、もう一度組合運動のあり方など考えてみてはいかがであろうか? [続きを読む]

コメント

私は国労に関しては良い印象はありません。まだ国労の勢力が強かった昭和50年代後半。国労員に対しては恨みがいっぱいです。まだ学生だった私が規則をいろいろ勉強して少しでも安い旅行をしようと励んでいました。駅員や車掌は「周遊券でこんなにタダ乗りしやかって」なんて嫌味を何度言われた事か。関西を旅行中に「奈良線電化反対 国労」なんて看板を見ました。この看板一つでどれだけ国労が世間から離れた存在という事がよく解りました。

YAMAさま。確かにそう言う部分はあります。自分たちが実はサービス業であることを理解できず、乗客もイデオロギーのために存在しているかのような錯覚を持った労働貴族達が大勢居ました。彼らは自分たちは組合員証で私鉄やバスにも勝手にただ乗りしておきながら、乗客へのサービスは考えなかった。それが国鉄民営化に際して、国民の理解や同情を得られなかった大きな要因であると思っています。

ブログを拝見しました。国鉄末期(昭和50年代後半〜60年代初頭)、私は中学〜大学生でしたが、子供の私から見ても当時の国鉄はめちゃめちゃでした。 企画ものの切符を買うとき、駅員から「そんな切符はないだろう」と馬鹿にするような顔つきをされ、一生懸命説明しても無視されたこともありますし、駅員に乗り換え案内を頼んでも答えてくれない、スト権スト、遵法闘争等という名前の下にストは毎年行われ、挙句の果てに公共物である列車に自分たちの主張を殴り書きです。 私は客を客と思っていない雰囲気に戸惑い、鉄道への憧れと現実とのギャップに子供ながら苦しんだものでした。 カラ出張とか、ポカ休などというものがあることを知ったのはずっと後のことでしたが、さもありなんと思いました。 就職後、職場の組合から国労組合員を支援する運動に参加しようといわれましたが、私は断りました。 すべてが国労のせいとは言いませんが、JRになり、国労が崩壊してからサービスが良くなったことは明らかです。筆者は国労幹部を批判しておられますが、乗客を軽視するという体質を、最後まで内部からの改善出来なかったわけで、その点は責任を痛感していただきたいと思います。

JR発足時に社長クラスになった国鉄改革の責任者たちは、若い中間管理職の時代に相当国労にいじめられたのでしょうね。私怨で国鉄改革をしていたわけではないと思いますが、国労に対してかなり厳しかった事は事実です。国民もまた数々報道される職場=組合の堕落を見てこんな物は解体した方が良いと思ったのでしょう。とどめは、出口りんぺい機関士による名古屋駅での特急紀伊の酔っぱらい追突事故。出区前の点呼を労働強化と言って実施しなかった異常さ。国労の「選挙で社会党が勝てば国労は安泰」と言うとても現実離れした思想。マル生の時とは違い今度は朝日も毎日も助けてはくれなかった。いくら左の新聞でも国労をかばったら社運にも関わる状態でしょう。まあ、国民全体が小金持ちになって何不自由なく暮らせる社会では御用組合には疑問を感じるが、赤旗振って闘う事の意味が無くなってきている。国労が表舞台から消えたのも時代の流れ。崩壊すべく崩壊したのでしょう。こうさんは責任を取って国鉄を退職したと有るが、あなた一人の脱会でみんなが雪崩のように脱会したわけでは無いので、責任をとって退職する事は無かったと思います。

僕自身は国労の基本的な考え方には賛成していました。国家的インフラである鉄道を民間経営にし、利潤を追求するようになるとどうしても、斬ってはならないものが斬られて行きます。ただ、当時の国労幹部への反省を強く求めたわけです。それは運動の進め方が自らの権力を保持するためであるとしか見えなかったためです。しかし、それは同時に、真剣に鉄道を守ろうとしている友人達への裏切り行為でもあったわけです。じっくり考えた末、国労脱退、そののち退職と言う形をとったわけですね。このあたりは当時の空気と言うか、職場の雰囲気を本当に分かっている人でないと理解していただけないのではとも思っています。

コメントを投稿