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こう@電車おやじ

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2005年7月

2005年7月31日 (日)

ブルートレイン

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国鉄末期、SLに替わって人気が出てきたのが寝台特急・・いわゆるブルートレインだった。
20系から始まり、14系、24系と続いた進化は24系25形100番台や14系15形でほぼ完成したカタチになった。
寝台は3段から2段に、ベッドの幅が52センチから70センチに・・
けれども皮肉にも寝台列車の車両が、良くなっていくと、今度は高速道路が整備され、夜行高速バスが台頭し始めた。
国鉄は急行を無理やり特急に格上げし、料金収入の増加を図った。
例えば房総地区で表定速度60キロに満たない特急が登場すると、国鉄は「特急とは速度だけでなく、列車の風格や接客設備など、あらゆるサービスを含めて考えた上での国鉄による最高のサービスである・・」
つまり、急行165系の固定シートが183系のリクライニングになると特急だと言うわけだ。
寝台列車にも同じことが言えた。
人気のあった夜行急行「音戸」を20系が余っているからと特急に格上げし「安芸」が登場・・やがて25形の増備に伴い、車両を入れ替え・・
見た目は10系寝台から20系をへて最新の車両になり、立派になったけれども、急行から特急へ、3段寝台から2段寝台へ・・料金は確実に上がって行った。
恐ろしい国鉄自体の大幅な値上げも何度もあった。
夜行列車の最大のセールスポイントは時間と費用の有効活用にあるはずで、この点、無理やりにデラックス化していった国鉄の戦略は大失敗だったわけだ。
新幹線の延長や、在来線昼行特急のスピードアップ・・
例えばかつて夜行列車で行くのが普通だと思えた大阪と米子の間や、大阪と富山、東京と新潟、そう言った区間では夜行列車の存在意義はどんどん薄れていった。
いや、夜行の乗り物の存在意義はまだあるのだ。
けれども、時間はともかく、費用で新幹線を上回る特急寝台料金など、誰が喜んで払えるだろうか?
何故、夜行料金と言うセット価格を設定し、料金を上げないで済むシステムを考案できなかったのか・・国鉄独特の怠惰な姿勢は寝台特急の現状に表れている。
結局、夜行本来の存在意義は、今や完全に高速バスにとって変わられたと見て間違いがないだろう。

話を戻して、高砂時代のブルートレイン用の客車たちは生き生きしていた。
まだ寝台特急の凋落なぞ考えることも出来ない時代だ。
国鉄はテレビコマーシャルで印象的な夜行列車の映像を流し「星のマークの寝台特急」を強くアピールしたけれど、夜行列車受難は始まっていた。
森山運輸大臣は「夜行列車全廃論」を提唱・・いくら頑張っても高価な寝台特急の乗客は増えはしなかった。
高砂に来る寝台車は20系と25形ばかりだった。
20系はその頃には急行用にされ、銀河・だいせんなどに使われていたが、新系列特急用車両の格下げ使用はありえないと思っていたファンには驚きだった。
けれども、ナハ21はともかく、ナハネやナロネの老朽化は激しかった。
25形はさすがに当時の最新型で、仕事そのものも楽で、手がかからない車両だったけれど、まさかそれから四半世紀・・こんなにこき使うことになるとは誰も思わなかっただろう・・

ブルートレインの仕事は胸をはってしたものだ。
元々美しい車両が高砂の出車線では新車並の輝きを取り戻す。
深く、艶のあるブルー・・ステンレスシルバーや白の誇り高い帯・・
磨きぬかれたガラス、張り替え、もしくは洗浄された寝台・・汚れのないカーテン・・
心無いマニアに盗まれ、仮の物をつけている銘板類も新品を取り付け、客室のドアチェックも静かに、緩やかにドアが閉じるように調整される。
ゴム類は殆ど新品になり、何よりそのゴム本来のねずみ色がひときわ映える。
僕自身も旧型客車への趣味的な思いはともかく、仕事としてはブルートレインの車両を手がけることの方が嬉しかった。
仕事の楽さもあったけれど、何より誇り高く感じたものだ。
誰も皆、僅かの微調整も嫌がらずにした。
高砂の誇り・・それは客車なら間違いなく20系や25・15形、気動車ならキハ181・80系・・
それでも、どちらかと言うと電車に幹線筋を譲り、落ち目になりつつあった気動車よりは、ブルトレ人気の客車の方が高砂の看板に思えたのは、僕が客車担当だったからだろうか・・

国鉄を辞め、写真の仕事が忙しくなってくると、所用が出来ても何日も休むことは出来なくなってきた。
そこでちょっと遠方へ行く際は夜行利用になるのだが、ここ数年、僕はずっと、高速バスを愛用している。
寝台特急に乗りたいのは山々だけれど、高価な料金はとても僕のような鉄道ファンを自認するものでも、到底受け入れることは出来ないからだ。


2005年7月21日 (木)

国労と高砂工場

僕がいた時代の国鉄高砂工場は、管理職以外の職員はすべて国鉄労働組合(国労)に所属していた。
他の職場では鉄道労働組合(鉄労)の組合員もおり、当然、国労一本では何事も組織を動かすことも出来ず、先鋭化した組合といえども、それなりに対話を模索しないとやっていけない部分もあった。
高砂工場の場合、工場の囲いの中で国鉄本体ではありえないユニオンショップ制を導入しているのと同じことだった。

これは、上手く機能すれば組合員の要求なども単純にまとめることも出来、団体交渉なども非常にスムーズに運ぶのであるけれども、上に立つ役員の意識一つでは只単に、組合役員が自らの保身のためだけに組合員を自由に、それも他の組合からの批判なしに使える、彼らにとって便利な組織になってしまう。

残念ながら、高砂にはその気配はあった。
高砂工場支部を形成した組合の力は強く、それを批判することさえ憚られる空気は確かに存在した。
もちろん、現場の分会役員には組合の立場や存在意義を真面目に考えている人たちも大勢いた。
だから、そう言う分会役員の下にいれば多少のことは分会で飲み込んでくれるけれども、やはり何処の世界にもある極端な組織主義者が分会役員だったりすると・・それはもう、組合批判=村八分という恐ろしい制裁が待っているのだった。

極端な例が選挙活動だ。
組合には、当時、共産党、公明党支持者も少数ながらいたけれども、彼らは持論を展開することは出来なかった。活動はあくまでも地下でなければならない。
地元の高砂市・加古川市などの市議会や県議会選挙では社会党推薦候補の選挙活動に全力をあげる・・それも、選挙事務所に組合員を休暇で貼り付けさせ、徹底した選挙活動を繰り広げる。
その候補者が国労出身者だったりすると、その運動は激烈を極める・・
(どういう風に激烈を極めたかはここではかけない。その点はお察し願いたい)
加古川・高砂あたりは今もそうだけれど、当時はもっとムラ社会の名残が強烈に残っていた。
住んでいる地域によっては集落内部からの候補を支援したい人もいたけれど、その運動をすることが組合役員に見つかると、必ずあとで組合事務所に呼ばれる。
そこで散々お説教をされ、それでも言うことを訊かない者は、村八分になってしまう。
仕事は与えられない・・残業もつかない・・技術者として最低の屈辱が待っているのだ。

もちろん、当局側は仕事を与えようとするが、それをすると組合への介入だといって当局に詰め寄るシーンもあった。

さて・・高砂工場廃止が囁かれる頃、地元から衆議院議員に立候補したNという男がいた。
彼は僕にとっては職場や鉄道養成所の先輩にあたり、分会、支部、地本、総評役員を歴任した労働運動一筋の男だった。
組合は彼を組織内候補として全面的に支持し、組合員に過酷な選挙活動をさせる指令を出した。
選挙活動の内容は、これもここでは書くまい。
Nは見事に当選し、国会議員になった。
けれどもすぐに解散があって、2度目の選挙がやってきた。
「私の目の黒いうちは高砂工場は廃止させない!」
彼は当選し、まもなく高砂工場は廃止された。

高砂工場に居た職員の大半が鷹取工場に移る・・鷹取工場の労働者達は戸惑っていた。
元々鷹取というところは神戸の街中にあり、組合の締め付けもきつくはなかった。そこへ高砂から大量の国労組合員の流入である。
選挙などの支援活動も一時は高砂並になった。
けれども鷹取工場には少ないとはいえ、ライバル「鉄労」の存在もあった。
元から鷹取工場にいた人たちは坦々としていた。

国鉄の分割民営化が避けられない情勢になったとき、国労はまさかの大崩壊を始めた。
そのときに受け皿になったのが「鉄労」だった。
けれども、国労本体は何も間違ったことを言っていないし、運動の目指す方向は正しかったと僕は思っている。
国労組合員たちの中で、腹を決めて国労に残った人たちは、純粋に国労の考え方を自らの人生の指針として受け止めている人が多かった。
かつては高砂などでは国労が自らを批判した組合員に弾圧を加えたが、歴史は反転し、今度は国労に残った者達に当局側から様々な嫌がらせがされるようになっていった。
このとき、国労高砂でふんぞり返っていた労働貴族達はさっさと逃げ出し、国鉄から離れ、あるいは反対側の組合にさっさともぐりこんだりした。
現場の純粋な活動家や、国労本来の路線を愛して止まぬ者たちは、考えられないような嫌がらせを受けた。
例えば、貨物輸送の大合理化や、輸送近代化で発生した大量の廃車群・・
これの解体作業には国労組合員を当てたし、昇級試験を受けるには国労の脱退が条件だ、などといわれたりした。廃止される職場から、次の職場への配置転換が決まっても、国労組合員であるが為に取り消された例も聞いている。
民営化で発生する大量の余剰人員対策で、国鉄・JRは、多くの副業を始めたが、なれない手つきで、うどんをこねたり、パンを焼いたりしている人たちの多くが本来現場の第一線にあるべき国労組合員だった。

国労はしぶとく今も生きている。
より純粋な、国労本来の理想を今も保ち続けて存在している。

国労を裏切り、政治権力に取り入った高砂工場組織内候補のN議員は、無節操な野合政権「村山内閣」で労働大臣にまで上り詰めた。
彼の目は黒かったが、高砂工場はそのときには更地になってしまっていた。

僕は国鉄を辞め、神戸の写真館での長い修業を経て、大阪のホテルに仕事で通うようになった。
通い始めてすぐに、僕は一旦、京橋駅で電車を降り、ホームのうどん屋で朝食をとることが多くなった。
自宅を出る時刻が早朝であることが多く、仕事は深夜に及び、自宅を出るときには朝食を摂れるほど腹が減っていないことが多かった。
通勤で1時間半を費やすとようやく腹の虫がなるのだ。
あるとき、いつものように「月見うどん」を注文して、それを出してくれたうどん屋のおじさんの白い調理用白衣には国労のバッジが誇らしげに輝いているのを見つけた。
環状線の電車の音、人の波の脇にあるうどん屋のスタンドで、涙が出た。

2005年7月 7日 (木)

新幹線戯言

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新幹線はカンシンセン・・僕の父親の口癖だった。
父いわく、面白みがないそうだ。
「僕が国鉄総裁やったら、新幹線の線路にD51を走らせてやる・・」
父の最後の引越し先は、加古川市の別府だった。
山陽電車の別府駅の高架とも築堤ともつかぬ奇妙なムードの駅に降りたとき、僕たちのすぐ横を新幹線が派手にパンタと架線をスパークさせて突っ切っていった。
そのときも、父は同じことを言った。

新幹線・・最初の0系・・(当初は系列の呼び名はなかった・・あとで100系ができたときに初代を0系と呼ぶようになった)・・この車両は頑丈だけがとりえの、およそお洒落と言うには程遠いつくりだったように思う。
世界最高峰の高速列車なのに、車内の造りは質素だった。
165系あたりと同じ色調の壁面、ダクトが飛び出した天井、転換するだけのシート・・
ようやく新幹線にリクライニングシートが出来たころ、国鉄は必死に自らを建て直そうとしていたように思う。
食堂車を組み込み、サービスの原点に帰ろうとし、それはある程度功を奏する。
けれども、新幹線の繁栄の陰で、地方の路線は線区によってはどんどん経営が悪化していった。

姫新線、因美線、木次線、山口線、播但線・・これらの線区では車や高速バスに押され、急行列車の廃止や減便が相次いだ。
特急化などという生易しいものではなく、山口線や播但線では特急はそのまま残ったが急行は全部廃止されてしまったし、木次線や姫新線に至っては、かつて比較的多く走っていた急行列車が消えた後、普通列車だけの閑散線区になってしまった。
いつ廃止されてもおかしくない現状は、まさに読者の方々がご存知の通りだ。

こう言った、亜幹線や地方線の優等列車の廃止は高砂工場の成績にも微妙な影響を与えていった。
このあとの、夜行列車の大減便時代、気動車特急の大半が電車化される時代・・すでに国鉄末期において、高砂工場の廃止は止むを得なかったと言うことか・・
けれども工場当事者達は、懸命に近代工場への脱皮を図っていた。
建屋内部にトラバーサーを設け、固定編成の客車や特急気動車を流れ作業で出来るように改修工事は続いていたのだ。

新幹線の時代になって、それでもそう言った車両の仕事があると信じていた高砂工場はまさに井の中の蛙・・鉄道を広い視点で見ることが出来なかったわけだ。
浜松工場は、早い時期に新幹線単能工場への脱皮を図った。
伝統的な、名門工場が在来線を切り捨て、新幹線だけを扱うようにした・・これは鉄道の将来を見据えた見事な軌跡だったと思う。

新幹線の成功はうわべだけを見れば鉄道という斜陽産業の大逆転の軌跡だ。
けれども、鉄道全般を助けたわけではない。
在来線の改良はあるレベルで止まってしまい、高速バスには早々と白旗を揚げ、成功に気を良くしたバス会社は高速道路網の延長とともに次々と新しい路線を開設、鉄道の重要な顧客だった夜行列車や亜幹線の急行列車の乗客は、そのまま高速バスに流れていってしまった。
もしも、新幹線という選択肢がなければどうなっただろう・・
鉄道の斜陽化は防げなかったのは確かだろうが、それでも必死で夜行列車や亜幹線急行列車の改善に努めていたのではないだろうか・・
それに新幹線が出来てなければ、建設費の償還に苦しむこともなかったわけだ。
ということは・・新幹線は、ある意味では在来鉄道の首を絞めた元凶と言えるかもしれない。

長崎新幹線や、北海道新幹線が話題になっているけれど、それでは、それが出来た後、並行する在来線はどうなるのだろう・・
幹線輸送と言う儲かる仕事を無くした在来線がローカル輸送だけで機能できるだろうか?
東海道・山陽線ならもともと人口が多い地域だから、ローカル輸送と言ってもある程度まとまった数はありうるけれど、毎時1〜2本程度の特急が走る区間に複線の新幹線を建設して、新幹線・在来線ともに健全な経営が出来るのだろうか・・
小学生が考えてもわかる理屈だと思うけれど・・