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2005年6月

2005年6月30日 (木)

アスベスト

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最近のニュースで大手メーカーであるクボタが、過去のアスベストの被害について亡くなった方に弔慰金を支払うということが報道されていた。
クボタいわく「企業の社会的責任」なるほどと思う。
で・・このニュースに僕が反応するのは、僕が国鉄に在籍中、アスベストはごく普通に作業の中で使われていたからなのだ。
例えば、高温のエンジン近くを走る空気や水の配管、あるいは寒冷地対策としての凍りつきを防止するため、あるいは座席の下に置かれた暖房器具と座席布地の接触を避けるため、あるいはガラス繊維が使えない狭い場所での保温、防熱のため・・現場ではアスベストはごく普通の材料であり、誰も危険など考えず、僕自身もマスクも、防護服も着用することすらなく使っていた。
古い気動車などは、内張りと外板の間、ガラス繊維よりは遥かに断熱効果の高いアスベストを全面に吹き付けてあったし、僕が工事をした車両でも、和歌山にあるお座敷客車の改良前、最初の改造工事では室内のテーブルに仕込まれた暖房装置と車体の側構の間が狭く、そこには通常のガラス繊維ではなく、アスベストをびっしりと張り込んだものだ。。
車掌室の座席の下には必ずアスベストがあった。
アスベストは、石綿とか石綿板(せきめんばん)と呼ばれ、便利なもので重宝した。
厚み1センチに満たない板でも、高熱をほぼ完全にシャットアウトしてくれる。
通常、車両に使われる遮熱材であるガラス繊維は、取り扱いこそ簡便ながら、厚みが必要で、しかもカットなどすると、そこから出てきた繊維が身体に張り付いて痒く、現場の嫌われ者だった。
その点、、アスベストは取り扱いが容易で(容易に見えていただけなのだけれど)、板状、布状、吹き付けも出来るものもあり、作業への応用性も高かった。

アスベストに強烈な発癌性があることを知った、現場経験者は報道されている方々の苦しみが他人事には思えないだろう・・僕もそうなのだ。

さて、完全にアスベストがなくなったわけではない。
最も深刻なのが鉄道車両のブレーキ・・もともとブレーキシューは鋳鉄で作られていた。
けれども、鋳鉄は磨耗が早く、不経済であるばかりではなく、空中に飛散した鉄粉はやがて錆びて、そこら中を汚す。
かつては鉄道線路のそばと言えば、どこも鉄錆色で汚れていたのはこの為なのだ。
アスベストを含んだレジンシューの場合、磨耗には大変強く、鉄粉の飛散もない。
もちろん、レジンシューといえど、磨耗によって粉塵が飛散するが、鉄ではないので錆びず、あたりを汚すこともない。
けれども、沿線にアスベストの粉を少量ながらも撒き散らしているのではあるけれども・・

話を車両の耐熱材としてのアスベストに戻そう・・時代が違うとはいえ、研究が進まねば分からないこととはいえ、それを大量に使っていた国鉄、その国鉄を引き継いだJRも責任がないとは言い切れないと思う。
果たして鉄道車両から完全にアスベストは除去されたのだろうか?
パイプの断熱材や、エンジン取り付け部、あるいは内張りと外板の間、あるいは電熱方暖房機と床の間の、あるいは同じように暖房機と座席の間の、アスベストは本当に除去されたのだろうか?
僕は・・未だそう言うことが達成されているはずはないと見込んでいる。
車両が古くなって、廃車されるとき、初めて除去されるものもたくさんあるだろうと思う。

欧州ではアスベストの危険性から、現在では完全禁止の方向に近づいている。
けれども日本では未だ、管理さえすれば安全との意味不明な役所の判断が効き、未だに根絶には程遠い。
確かに見える部分からの鉄道車両のアスベストは殆どなくなったように思う。
けれども、完全に禁止できないのはなぜか?
このあたり、日本流の官僚とメーカーの癒着が国民の健康より優先するという恐ろしい慣例が現れているようにも思うのだが・・

2005年6月20日 (月)

国鉄と私鉄・・主に内装の話

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国鉄と私鉄・・主に内装の話

僕が国鉄に在職していた当時、国鉄の車両はそれまでの国鉄型から、少しづつ変化をしている時期でもあった。
国鉄の車両といえば、頑丈で無骨・・それは、103系などの通勤電車には如実に現れていたし、本来、旅の楽しさをデザインに反映させなければならないはずの特急列車も例外ではなかったように思う。
それが昭和40年代後半、1970年代になってから少し変わり始めていた。
航空機の台頭、高速道路網の延長・・そして私鉄による技術やデザインの進化は、国鉄技術陣にも少なからず影響を与えた。
だから・・僕が入社した当時の国鉄の車両はそれまでの現場での扱いやすさ一辺倒から、外に目を向け、デザインにも、アコモデーションにも気を使い始めた。
新幹線の座席がリクライニングシートになり、寝台特急に2段寝台が登場したのもこのころだ。
14系客車や183系電車、381系電車などもリクライニングシートになったが、どうもこういう事をすると、すぐにどこかを省略する癖があるのが国鉄・・特急の座席からテーブルが消え、弁当を置く場所がなくなってしまった。
381系に至っては窓框についたテーブル代わりの出っ張りすら消えたのだから、何をするかと言うところだろうか・・
それでもまだ、特急用は変化の兆しが形になりつつあったのだから、良しとしよう。
通勤用の電車は長いこと、103系、113系を始め、115,415系と言った詰め込み形の無骨な車両が時代遅れもものともせず、作り続けられていく・・
ようやく、若干の改良が行なわれ、113系などではシートのピッチが少し広がったけれど、何を考えたか座席の座面を下げたものだからかえって窮屈になった。
このころ、私鉄電車は国鉄を遥かに追い越した彼方を走っていた。
システムでもチョッパ制御は当たり前で、空気バネを使った乗り心地の良い電車はデザイン的にも優れ、僕たちは悔しい思いをしたものだ。
山陽電車でも3000系車両のきめの細かな化粧板や、冷房車の平天井、赤い床の流れるような模様の入ったデザイン、阪急では2000系から進んできた阪急スタイルがほぼ5000系で完成し、新たな時代へ入る前のころ・・木目の化粧板を使った室内、化粧板や飾り面を止めるビスは乗客には見えないように工夫され、ミンデン台車の乗り心地、下降窓の密閉による静かな室内・・これを同じ地域内で103系で迎え撃つのだから・・まるで冗談だと思ったものだ。
そのころの103系といえば、冷房車も冷房改造車もほとんど同じ見つけの室内で、クーラーのダクトは出っ張り、剥き出しの蛍光灯は、台座をつけてダクトの横に並び、そこら中、ビスの頭は丸見えで、およそインテリアデザインをまともに考えたとは思えない電車だった。
それでも冷房つきになると同時に、なぜか出入り口付近にはなかった蛍光灯が追加されて明るくなった。
乗り心地は不思議と乗客が増えるほどよくなり、昼間に乗ると暴れ馬の如く揺れまくる・・ラッシュ時には意外に揺れず・・人間を荷物か何かと同じように考えていたのだろうか・・
揺れる時には窓も扉もがたがたと音を立て、ブレーキをかければドスンという音とともに、いきなり減速する・・
それでも、頑丈な電車は数々の事故でも原形をとどめぬほどには大破もせず、乗り心地は最悪でも安全な電車だったのかも知れない。

話を私鉄に戻そう・・国鉄から見た私鉄は当時の最先端に見えた。
僕の上司のM氏は、阪急の室内をじっくり研究し、今後の手本は阪急とすべしとの論文を発表して、それが結構、局の上層部に受けた。
結果的にサロンカーなにわ建造の際、阪急式のビスの見えない室内を実現することになったものだ・・

改革を受け入れる下地は出来つつあった・・
特急から始まった変化が、通勤車両にも応用される・・それは必然的な流れだったように思う。
そして、それは153系急行型電車を置き換えるときに少し前に進んだ。

153系電車は東海道線で新幹線がまだ開通する前に特急「こだま」などを補完して活躍した電車だが、1970年代後半、関東での急行「伊豆」、広島地区での快速電車、そして、関西での新快速に使われていたものを置き換えることになった。
このとき、関西に投入されたのが117系電車で、これは、技術的には165系などの延長線上にあって目新しいものではなかったけれど、外観デザイン、室内のデザインに国鉄の挑戦が盛り込まれていた。
国鉄近郊型で始めての平天井、カバーのついた蛍光灯、ゆったりした転換式のクロスシートはそれまでの普通車のシートはブルーと言う常識を打ち破って、茶色のモケット張りにレザーのカバーまでついた。
ねじ類はほとんど目立たないように隠されたが、頭隠して尻隠さず・・悲しいかな外付けユニット窓の周囲には多くのネジが存在を誇っていた。
床はグレーから茶色になった・・ドアの内張りもステンレスから化粧板に変わった。
Hゴムは全面的に廃止され、外観もシャープになった・・

しかし・・哀しいかな、先に阪急が投入した6300系、京阪が投入した3000系のいずれにも、勝ったとは言いがたい内装だった。
一番最初の営業運転がマスコミも集めて、鳴り物入りで行なわれた。僕はその運転に一日付き合ってみた。これはあくまでも、一乗客としてだ・・
その僕と、その日、夕方に出会った吹田工場の先輩が、自慢してこう言った。
「どや!ええ電車やろ!」
阪急・京阪を見慣れた目には、とてもその言葉に頷くわけに行かず「あかんで・・もうちょっとや・・」そう答えるしかなかった。
それでも、117系は国鉄がそれまでの通勤電車に抱いていた全てのしがらみを捨て去り、一生懸命に作り上げた電車には違いがなかった。

やがて、東京で先に走っていた201系が関西にも投入されることになった。
平天井、ワンタッチで開けられる窓・・けれども蛍光灯にカバーはなく、ようやくシステムで私鉄に近づいたものの、関西民鉄各社には遅れをとったままだった。

時代は変わって、JR西日本は徹底的に私鉄を意識した。
ダイヤでも、運賃でも、そして電車の性能やデザインでも・・
いつのまにか、JR西日本の電車は私鉄と肩を並べ、バブルの後遺症で経営に苦しむ私鉄を尻目に、部分的にではあるけれど私鉄を追い抜いた。
221系から始まった新生JRの車両たちは、美しく、機能的で、高性能だ。
けれども・・あの大事故を起こしてしまった・・JR西日本の保安設備が私鉄よりはるかに劣っていたことが俄かにクローズアップされてしまった。

経営に苦しみながらもライバルの私鉄各社は、最新式の保安装置をしっかりと備えていたのだ。
所詮・・国鉄・JRが意識した私鉄のやり方は、目に見える、うわべだけのことだったのだ。

2005年6月 2日 (木)

体質

国鉄には独特の臭いがあった。
体質と言うのだろうか・・男達の汗や、車両の油、蒸気の臭いとは別の臭い・・
精神的な臭い・・そしてそれは現場のあちらこちらで見られた。

ぼくは車両畑の人間だったから、話は主に車両の話になる。だから国鉄全部の話ではないけれど、車両というものは鉄路の華だ。ここで見たことはそのまま国鉄と言う世界を凝縮していると考えて差し支えないだろう。

例えば関西魂のところで書いた153系電車の幌枠・・
これはオレンジの車体にステンレスが映える美しい設計だったけれども、これを維持するのには塗装工程での洗い出しと、マスキングが必要になる。
面倒なのだ。時間もない。そのまま塗ってしまって何の問題があろう・・
現場ではこう言う声が出たのではないだろうか・・
例えば20系客車のナハネフ23の後部ドア・・これもステンレスだ。
高砂ではきちんと洗って、マスキングをしてあくまでももとの通りにして出場させていたけれど、これを塗ってしまった工場もあった。
ひどいところになると・・20系客車の窓止めゴム・・
グレーのゴムがダークブルーの車体に映えて、20系の美しさの一つの象徴でもある。
けれども、ゴムが空気に触れる部分が多く、劣化が早い。固定窓でゴムを交換するにもガラス全てを外す作業が必要になる・・関西の工場にいた僕らでは考えられないことだったけれど、ゴムを車体と同じペンキで塗装してしまっている車両を何両も見た。
要は早く出場させればいいのだ。何のために早く作業しなければならないかは、そのときの都合によるだろう。
工程が詰まっているのかもしれない。
あるいは只単に面倒なのかもしれない。けれども、俺達労働者は時間一杯まで作業したのだ!
そんな声が聞こえないか?
あるいは・・走ればいいんだよ・・おまえたちは適当に上手にやれよ・・
そんな幹部職員の亡霊が見えないか?

まだゴム類なら直接安全にはかかわらないだろうし、マスキングの手抜きで事故はありえないだろう。
けれども、車体そのものならどうだろうか・・
鷹取で転属してきた103系を冷房改造する際、入場検査が驚いていたのが「ガムテープ」だった。
ハンマーで車体の隅を叩くと、分厚いパテがはがれ、ハンマーが車体に食い込む。見ると、ガムテープを貼ってその上にパテを塗ってある。
あるいはやはり転属してきたキハ35で、高砂の入場検査がやはりガムテープを貼って、その上にパテを埋めているのを見つける。
鉄板を使っている場合もある。
鉄板の腐食は本来、その部分を切り取り、きちんと形どおりの新しい鉄板を当て、電気溶接しなければならない。
キロ28やオハネフ12などではいたるところ、腐った部分の上に鉄板を当て、その周囲を電気溶接してあり、当然、鉄板の厚みの分だけの浮きが出るのをパテで埋めていることが良くあった。
腐った上に鉄板を乗せているだけだから、腐食の進行は止められない。

鉄工の担当者と塗装の担当者が・・あるいは工場上層部が手抜きを理解していないと出来ないことだ。

では高砂では手抜きはなかったか?
軽微なものはいくらでもあった。
ましてや老朽化が進んだ10系寝台車や、戦時設計のオハ35、走り尽くし、痛みきったキハ80などの車両では基本は押さえても、どうにもならない部分も確かにあった。
また、どうせ永いこと使うわけではないだろうからと、ごまかすことなどは良くあった。
最大のものはキロ28だったかオハネフ12だったか・・全面パチあて・・時間もない、車両の寿命もない、予算もない・・端から端まで鉄板を車体腰板の上に乗せて、電接したものを見たこともある。
腰板を外すと、そこには恐らく腐食した骨組みが現れるだろう・・梁と呼ばれる骨組みや台枠まで補修していたのでは新車と同じことになってしまう。

考えれば、危ない車両を何時までも使っていたものだ。
(キロについてはこのあと、更新が決まり、下降窓を廃する大工事が行なわれた)

国鉄の体質と言えば、やはり「俺達は仕事を一生懸命しているのだ。だからこれでよいではないか」と言う言葉に尽きるように思う。
やることさえやっておれば・・それがやがて末期には、仕事にさえ出ていれば・・そう言う風潮がなかったとは言えない。
酒を飲んで仕事をしたり、明らかに見える手抜きを公然と行なったり、したくないものは下請けに出してしまったり・・
だから、何かが起こると誰も自分の責任だとは思わない。
上からの指示、下の責任、労働者の権利・・適当にごまかして答えろよ・・その風潮。
DD54の大失敗の責任は、メーカーか、機関区か、工場か、投入を決めた本社か、車両設計事務所か、それともドイツのメーカーか・・
歴史に残る大散財の責任で誰かが失脚したと言う話はいまだ聞かない。
あるいは巨大な貨物の中継基地・・ヤードはすぐに無用の長物と成り果てたが、これの責任を誰かがとったと言う話も聞かない。

組合も当局も、極端に言えば、根は同じ。国鉄一家という、まったりした世界に頭まで浸かっていた・・のかもしれない・・
でも、国鉄魂とか、鉄道魂という言葉もあって、素晴らしい人もたくさん居たのではあるけれど・・

JR西日本の福知山線での大事故で、当初、自分達より他に責任があるかの様な発言を繰り返したのも、その体質・・国鉄の中の嫌な臭い・・がまたぞろ戻ってきたからではないか・・
そういえば、国鉄が昭和41年にATS設置を終えたそのATSに、速度照査機能をつけさせなかったのは、当時の組合だったと言う声もある。
密かな声だけど、内緒でスピード違反を繰り返していた国鉄らしい・・ありえる話だと、僕などは感じたけれど・・
(運輸省は昭和42年に全国の民鉄に対し通達11号で、速度照査式ATSの設置を義務つけたが、国鉄には何も言わなかった)