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2005年5月

2005年5月20日 (金)

廃車解体

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国鉄の車両はメーカーで生まれ、工場で廃車解体される・・こう言う一生をたどるものが多い。
廃車になる車両はその理由は基本的には老朽化だけれど、そうではないものもあるようだった。

車両というものは標準型として決定されたものほど寿命が長い・・異端児的な試作車両や、意欲的な高性能車両ほど寿命が短いように思う。
これは何も国鉄に限ったことではなく、私鉄においても同じことが言えるだろう・・

DD54は大馬力エンジンを一基搭載、DLとは思えないスマートなデザインだったけれども、現場はまず、取り扱いの煩雑さに泣き、故障の多さを嘆いた。
工場とて同じで、鷹取工場にあった最新式の大型エンジンの組み立て設備は立派だったけれども、調整には名人芸を要求された部分もあったそうだ。
DD54は、一応、老朽化ということで早くに姿を消した。
けれども老朽などしていないことは誰が見ても分かる・・鉄道車両としては新車のような車齢で廃車になってしまった。
同じ時期、大量に増備された標準型機関車DD51は未だに全国の非電化区間を走っているから、標準形式になれた車両とそうではない車両の運命はかほどに違うのかと今もって思うこともある。

設計が悪く、まだ新しいのに・・車体がもたず、古いクルマよりもうんと早く廃車になってしまう車両もある。
10系と呼ばれる軽量客車群だ。
鋼板を薄くし、軽やかなデザインとともに、一世を風靡したけれど、華やかな時期は短かった。
寝台車や優等車両では冷房化工事の際にどうしても車体鋼体に無理をさせることになり、それが寿命を短くしたという人もある。
また、水抜きなどの設計上の不備もあった。
10系客車は、その前に登場したスハ43や戦時のオハ35よりも早くに消えてしまった。

用途廃止で廃車になる場合もある。
食堂車や郵便荷物車など、時代の変遷についていけず、まだまだ新しい車両なのに捨てられてしまう運命をたどるものもあった。

廃車が決まると、車両は工場へ送られ、解体の順番を待つことになる。
中には工場職員が惜しんで、手をつけず、しばらくそのまま生き残るものもある。
キハ81は廃車として入場してきた。
すでに何両かは処分されたあと、最後の2両がやってきた。
解体するつもりで、現場の材料係は他の車両に使えそうな部品を外していた。
けれども解体の順番が長いこと回ってこず、そのうちに、いきなり保存車両として送られることになった。
危ないものだ。
国鉄気動車特急黎明期の貴重な技術遺産は、かろうじて守られた。

形式や系列で廃車が進んでいるとき、全般検査で入場してきた車両が、線区の実情もあるのだろうが状態不良で、補修に耐えない、もしくは補修に多額の費用を要するようなとき、解体予定の同型車両で、状態の良いものがあれば差し替えることもまれに行なわれていた。

郵便車は郵政省の保有だ。
郵便のシステム変更で郵便車が用途廃止になった時、スユ16など、まだ新しく、オユ10にしてもクーラーを取り付けてまだ間がない・・
本来は郵政省のものは完全に廃棄してしまわねばならなかったけれど、やはり現場ではもったいない・・気持ちが強かった。
一部はこっそりと部品を補修用にまわしていたけれど、大半はそのまま解体してしまった。
今思えばもったいないことではある。

廃車解体の作業は単純だが、暑く、精神的な充実感のない仕事だ。
ほとんどは外注化され、業者の方が下請けで引き受けていた。
けれども国鉄末期、国労いじめはこう言う場所でも行なわれた。
国労で頑張り続ける職員を廃車解体要員として、工場の隅に貼り付け、監視つきで作業をさせたのだ。
あけてもくれても、ガスの火花だけの仕事・・それも工場らしい充実したものではなく、自然に気分も荒廃していく・・
その嫌がらせを受けても、国労に残った男たちの意地は尊敬に値する。

高砂工場は廃止前に大量の廃車を入場させた。
高砂線もなく、線路が切られた工場で、選抜?された男たちの汗には涙が混じっていた・・
廃車解体作業場は、国鉄の末期には国鉄の暗い部分・・影の部分でもあったのだ。

2005年5月 3日 (火)

事故

事故・・尼崎事故に寄せて

国鉄の歴史は事故の歴史だったといっても過言ではない。
歴史に残る大事故を上げてみると、関東大震災での海中転落事故、安治川口駅でのガソリンカー脱線転覆事故、桜木町での63型電車火災事故、八高線での2度の脱線大破事故、鶴見事故、三河島事故、北陸トンネル火災事故、そして国鉄最後を大事故で締めくくってしまった餘部橋梁転落事故・・

大事故が起こるたびに、国鉄は同じ事故を起こさないために改良にも勤めてきた。
ガソリンカー転覆脱線事故では、発火点の低いガソリンは出来るだけ燃料として使うことを避け、戦後はディーゼルカーからのスタートとなったし、63型の火災事故は粗製濫造の63型電車を、少しでもまともな形に改造するきっかけとなった。

八高線の脱線大破事故では旧式の木造車体を鋼製車体に造りかえることのスピードアップにつながったし、鶴見事故などからは貨車の脱線対策が進められた。
そして北陸トンネルの火災事故からは車両の難燃化が一層進められた。

対策が進むと事故はその隙間を狙って起こるような気がする。
システムの改良が出来ると安心しきった人間によるミスが大事故を招いているようにも思う。
そこへ車両の高性能化、軌道の改良が進むと今度は高速運転への慣れのようなものが出来、そこに悪魔が忍び寄る。
労使協調が崩壊し、おかしなムードの職場で、乱れた規律が事故を生むこともある。
システムはどんどん新しく、事故の件数そのものは減っているのに、一旦事故が起こると考えられないような大事故になる・・
国鉄はまさにそのジレンマにあったと言えないだろうか・・

幸か不幸か、僕が高砂に在籍していた時代は事故の非常に少ない時代だった。
だから高砂での事故復旧作業をすることは少なかったし、事故車両を見ることは自体がほとんどなかった。
和歌山線だったかで、高校生が客車内で乱闘騒ぎを起こし、気の毒にもオハ35が室内を徹底的に破壊され、無残な姿で入場してきたことはあったけれど・・

寝台特急「富士」が西明石駅に突っ込んだ頃、国鉄はまさに断末魔のような事故多発時代に入ってしまった。EF65は制限70キロのポイントを高速で通過したけれど、あとに続く客者たちはあまりにも軽すぎた。
連結器が外れ、浮いた車体はそのままホームに激突、24系客車数両が大きく車体を抉り取られ、廃車の憂き目にあった。
不幸中の幸いか、寝台車であるがゆえ、車体の片方は通路で、抉り取られた部分はこの通路部がほとんどだったから、乗客に死者は出なかった。
しかし、ばらばらに解体された客車の内張りには血がべったりと張り付いていたし、なんとか補修で使えるようにと入場した車両からは独特の臭いがしたものだ。
このときはすでに高砂は廃止された後で、車両の残骸は鷹取工場に運び込まれ、工場のグランドの一角に無残な姿をさらしていた。
事故は、酒気帯びの機関士が、居眠り運転に入ってしまい、本来の路線ではない電車線走行のために徐行を要する区間であることを失念して、そのまま最高速度で突っ込んでしまったものだった。
本来なら、この時点で速度照査式ATSの導入が今のように叫ばれても良かったはずだが、当時は国鉄内部の弛みとしての問題点ばかり強調された。
同じような事故は名古屋駅での寝台特急「紀伊」への連結失敗・・というようなことでも起こっている。
当時、すでに民鉄では速度照査式ATSやATCは当たり前の装備になっていた。
国鉄解体前夜にすでに今回の福知山線事故の端緒は見えているといっては過言だろうか?

国鉄はJRになっても同じ体質を持っている。
それは過去の過失から何も学ばないということかもしれない。
問題点の多くを出そうとせず、目に見える一番近くの問題だけが全てだと捉え、その事故のときのほかの要員が実は将来事故を起こす要因だと気がつかない。
今回の福知山線事故でも、ATS以外の問題点、その全てを見つめないとまた同じことが起こるような気がしてならない。
例えばダイヤの余裕時分、最高認可速度と実際のダイヤ上の最高速度、車両の車体幅の問題・・何よりおかしな労使感覚・・そして教育カリキュラムの見直し・・

西明石事故からそれほど日もたたないすぐあとに、再び、鷹取工場のさして広くないグランドが、事故の残骸の置き場になろうとは誰が思ったことだろう・・
そう、あの「みやび」転落事故の残骸がここに運びこまれたのだ。