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2005年4月

2005年4月19日 (火)

高砂線

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国鉄高砂工場の生命線だった高砂線・・・昭和59年、12月に廃止されてしまった路線だ。
大正2年、播州鉄道によって加古川線の支線として開業・・播州鉄道は日本毛織始め、沿線の繊維業界などが出資した私鉄だったが、播丹鉄道となったあと、戦時に国鉄に買収されてしまう。
私鉄時代には積極経営、戦前にして気動車保有車両数日本一の先進的な鉄道だったそうだ。

けれども国鉄の仲間になってからは、国鉄ローカル線の悪しき経営法に改められ、列車本数は少なく、速度は遅く、自家用車が普及する時代になると、存在意義を大きく低下させてしまった。
国鉄改革に際し、第一次廃止特定地方交通線となり、あえなく廃止されてしまった。

加古川駅4番乗り場が高砂線の定位置だった。
山陽線よりは短く、ホームの高さも低い。
ホームの東よりには小さな売店があって、最初は蕎麦等もあったように思う。
この売店の横から構内踏切があって、北口につながっていた。

高砂線には大体、気動車2両の編成が使われていて、廃止前には主にキハ35かキハ20だったように思う。
この2形式の混結が、僕の心の中に残る高砂線の姿のような気もする。
キハ20はクロスシートが深く、座ると快適だったけれど、初期の車両は台車が悪く、元々良くない線路で、ダイレクトにレールジョイントのショックが伝わってきたものだ。
キハ35や30は、外観は阪神電車みたいで都会的だったけれど、車内は103系電車を粗末にしたみたいで、こちらもあまり好きではなかった。
つまり、車両面での魅力は乏しい、地味な路線だったわけだ。
運転本数は毎時1本以下で、それも運転ヘッドが一定せず、非常に使いづらかった。

さて、加古川駅を発車すると、住宅の裏手を加古川線と別線の複線で通過する。加古川線と築堤を上がりながら分岐し単線になり、そのまま築堤を上がりながら大きく右へカーブ、山陽本線をオーバークロスする。
そのあとはゆっくりと地平に降りて、住宅が増え始めた田圃、加古川市役所の立派な建物が見えると大きなポプラだったかの樹に囲まれた野口駅だ。
昼間なら、ここで必ず別府鉄道と連絡しする。
別府鉄道もキハ2やキハ3の頃は粗末に見えたが、片上鉄道からやってきたキハ101になると少し立派になり、結構多くの乗客が乗り換えていたように思う。
野口駅で空いた列車は、別府鉄道の気動車と併走しながら、相手方の線路が大きくカーブして去ってゆくのを眺め、こちらは田んぼの中を直線でゆっくりと進む。
鬱蒼とした森の中に目を凝らすと保存されたC11が見える・・播磨の名刹、鶴林寺とその周辺の公園で、由緒ある寺院の建物も見え隠れする。
同名の駅はホームと小さな上屋だけのいかにも私鉄のローカル線といった駅だ。
この駅を出ると小さな踏切を超え、国道250号バイパス・・通称明姫幹線をアンダークロスする。
当時はまだ片側1車線の道で、将来のためにオーバークロスする橋脚は道路の拡幅が出来るように準備されていた。
最も、この道路が完成したときには高砂線はなく、廃止後の道路との立体交差として使われたのだけれど・・
余談ついでに、この道路が別府鉄道野口線を越える部分は、後で拡幅された部分のみ地上に建設され、橋脚の半分が今も橋げたを載せることなく宙を睨んでいる。

高砂線はそのまま速度をあまり上げず、ゆっくりと進む。
そろそろ住宅が増え始めた田園地帯・・山陽新幹線の下をくぐり、右にカーブしながら山陽電鉄線をくぐるとすぐに尾上駅だ。
尾上駅はかつては交換設備のあった駅で、山陽電車の駅も国鉄駅の横にあったそうだ。
高砂線から見える山陽電車は立派で、都会的だ。
尾上駅を出ると築堤を降りた山陽電車と併走するけれど、すぐに山陽電車の尾上の松駅の裏を抜け、並んで踏切を超え、ゆっくりと左にカーブしながら築堤を上ると加古川橋梁だ。
山陽の鉄橋も随分傷んでいたけれど、こちらはそれ以上で、怖いような鉄橋を徐行して通過してゆく。
時折、横を山陽電車が走ることもある。遠くには山手に新幹線、浜手は国道の橋を経て、海が見える。
橋を渡るとゆっくりと高砂の町に入り、踏切を超え、商店の裏に入るとそこが高砂北口駅で、山陽電車との接続駅だ。けれども、ホームと簡単な上屋だけの、建物に囲まれた不思議な空間だった。
発車すると商店街の中の踏切を超え、当時、出来始めた大きなショッピングセンターの横を通過し、いかにも下町といった風情の街中を抜けるとやや広くなって、そこだけは風格のある高砂駅に着く。ここまで加古川駅から僅か6.3kmしかない。
駅前からはアーケードの商店街が伸びているけれど、当時は山陽電車駅前のショッピングセンターに客をとられ、寂れはじめていた・・
気動車が走るのはここまでで、ここから、次の駅、高砂港駅間では貨物列車だけの営業だった。
ここはまさに播磨臨海工業地域の中心部で、貨物の引込み線が、蛸の足の如く伸びていて、その一つが国鉄工場への線路だったわけだ。
国鉄高砂工場には日に一度、貨物の定期列車が往復していた。この列車に工場への入出場車両をつなげて送っていたのだ。

高砂線は旅客の始発と終着駅がどちらも中規模の都市で、沿線にも住宅は多かった。
国鉄の商売次第ではもっと乗客を獲得できたはずの路線だ。
最も高砂工場の存続問題以外にも、加古川橋梁の架け替えの問題、山陽本線加古川駅の高架化の問題も複雑に絡み合い、最終的に廃止が決まってしまった。
僕は、当時、加古川市の市長や議員各氏、国会の運輸委員長当てに、高砂線は橋梁架け替えの不要な尾上以北のみ存続させ、山陽電車との接続を良くすれば採算は合うという意見書を提出したけれど、もちろん省みられることはなかった。

同じ第一次廃止対象線のうちで、九州の甘木線が福岡近郊の立地を生かし、西鉄急行電車との接続を図る大規模な増発で息を吹き返したのを見て、あまりの無念さに呆然とした覚えがある。
別府鉄道も一足先に廃止され、高砂線なきあと、代替で走り始めた路線バスはすでに風前の灯の状態で、高砂・加古川という播磨の中堅都市間の移動は自家用車しかない現状は、この地域が観光で立とうにも、どうにもならなくなってしまっているだけに、返す返すも残念ではある。

2005年4月 2日 (土)

DD54

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僕が鉄道に入社した頃、鉄道マニアでなくてもそのスタイルにしびれ、憧れるディーゼル機関車があった。
DD54だ。
ドイツ国鉄の技術を使ったといわれ、デザインも日本離れしたスマートな外観。
この機関車は、大型のエンジンを1台、車体中央に載せた箱型の機関車で、ディーゼル機関車といえば、凸型と相場が決まっていた中にあって、近代的な外観は異彩を放っていた。
箱型のディーゼル機関車といえば、四国や紀州、九州を走っていたDF50があったけれども、やはり最新のデザインで飾られたDD54は特別な存在だったように思う。
けれども、この機関車は現場の嫌われ者だった。
鷹取工場ではエンジンの組み立て、調整にきめの細かい、複雑な作業が必要で、この点、純国産エンジンを2台搭載して出力を上げたDD51のほうがはるかに扱いやすかった。

DD54は幾度かその欠陥による事故を起こし、運転関係でも嫌われていた。
事故の中には本来の欠陥とともに、この機関車への不慣れからなる、運転、保守現場での手違いもあったようだけれど、結果としてあまりにも多くの故障から、現場によっては先鋭化する労働運動の槍玉に上がって、経理上認められる最小の寿命を過ぎたものから「老朽廃車」扱いになり、早々と姿を消してしまった。
けれどもこれで、メーカーの責任を追及したという話も聞かない・・国鉄末期に国鉄の無駄使いの一つとしてマスコミが少し騒いだけれど、肝心の本質の追及はなされず、優秀なはずの画期的な高出力機関車は消えてしまった。

ただ・・いかに欠陥機関車であろうと、少年達の憧れの的であることに違いはなく、なんとかこの機関車をじっくり見たいと国鉄マンの玉子たちが願うのもある意味、当然だった。
僕たちの指導教官である高部先生は、その思いを聞いてくださり、姫路機関区に紹介の労をとってくださった。
姫路機関区では、2両のDD54が身体を休めていた。
窓回りがステンレス製でカッコのいい11号機と、窓回りがHゴムで止めてあり、ちょっと見た目にはドイツ本国の機関車のイメージに近い33号機だった。
僕たちは正式に機関区を訪問し、きちんと助役さんからDD54についての講義を受け、それから、機関区の中でじっくりと現車を見せてもらった。
晴れた空の下で見るDD54はカッコよく、間近に見ると尚更にカッコよく、僕たちは充分満足した。

今・・技術遺産の形でDD5433が交通科学館にて保存されている。
自分が親しんだ機関車が保存されるのはとても嬉しいことだ・・けれども、もしもこの機関車が欠陥車であったのなら、技術遺産としての価値はないのではないか??
そんなことも考えてしまう。
もしかしたら・・やはり現場での取り扱いがあの事故多発の原因だったのだろうか??
当時の組合運動の理不尽さも思うにつけ、なんとなくそう思ってしまうこの頃ではある。