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2005年2月

2005年2月20日 (日)

国鉄の原風景

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僕にとって、国鉄というものが頭の中に入ったのはいつ頃のことなのだろうか?
僕は神戸・湊川で生まれたから、そこで神戸市電や神戸電鉄が鉄道というものの原風景になったことは確かだ。
小学校に入る前、僕たち家族は引越しをした。その場所は今でも僕や弟が「線路の家」と呼ぶ臨港線の線路脇にあった。
不思議な場所で、線路からでないとそのアパートに入ることが出来ない。線路には日に二度、夜中の2時と昼の2時に不恰好なディーゼル機関車が長い貨車を牽いてやってくるだけで、昼の列車にさえ、気をつければ生活に支障はなかった。
けれども、この鉄道を僕自身は国鉄としては認識していなかった気がする。
記憶の中に出てくる国鉄は、時折、父親が手土産代わりに買ってくれた神戸駅の駅弁から始まり、その国鉄の列車、電車ということになると東海道線を走っていた80系電車や72系電車になるように思う。
どういうものか、当時の僕たち一家は湊川商店街と同じ割合で灘区の水道筋や葺合区の春日野道へ出かけていた。
そのあたりへ行くためだろうか・・茶色の普通電車の印象が一番強い。
乗ってすぐに、天井と床を結ぶポールが立っていて、国電に乗るということはこのポールで遊ぶことが出来ると同義語だった。
しかし、僕は国鉄よりは私鉄を使っていた記憶の方が強い。
父も母も、私鉄・・特に阪神や山陽を好んで使っていたように思う。
不思議と私鉄や地下鉄沿線を転々とする生活が続いた。
天王寺駅近くに親戚がいて、小さな喫茶店を経営していたのだが、ここへ行く時、父に連れられて関西線の線路際を歩いていた。その時だ・・蒸気機関車が何両もの客車を連ねて走ってきた。
僕が始めて蒸気機関車というものを見た瞬間だった。

南海沿線に転居して、天王寺へ用事があるとき、どういうものか、父は羽衣支線を使って鳳から阪和線に乗車するルートばかり使っていた。
今思えば、南海の天王寺支線や新今宮からの環状線など、ルートはいくらでもあったと思うのだが、僕の記憶では鳳からの阪和線だった。
羽衣支線も阪和線も72系電車が幅を利かせていた。
この線の電車は東海道の茶色と違って、一種独特の朱色に塗られていたが、子供心にもきれいだとは思わなかったものだ。
当時の南海は昇圧工事の前で、旧型電車はほとんど姿を消していたし、その旧型電車も乗ってしまうと、とてもきれいに整備されていた。
阪和線の旧型国電はまさにおんぼろで、案外、父はこのおんぼろが好きだったのかもしれない。
阪和線には70系の快速電車もあって、こちらは掃き溜めの鶴のように見えた。どういうものかこの快速には乗ったことがなかった。

さて、おぼろげな記憶の次にでてくるのは山陽線を走る113系電車だ。
加古川市へ引越しをして、父の旧友が独立している姫路市に行った帰り、御着駅から113系電車に乗った。
車内のクロスシートが立派に見えて、窓の大きさが気に入った。
父は嬉しそうに窓を開け、肘を窓のヘリにかけて風を受けていた。

その父はそれからいくらも経たずに曽根駅近くの病院で亡くなった。
父が亡くなったその日、僕は病院の建物の脇で、山陽線を走る電車を見ていた。
夏の、深い緑の田圃の向こうを快速電車がたくさんの車両を連ねて走っていた。
病室では泣かなかった僕だけど、電車を見てはじめて泣いた。

今年、まもなく、その場所に新しい駅が出来る。
父が亡くなって、30星霜、ひめじ別所駅に降り立つのもよいことかもしれない・・そう思う。

2005年2月 5日 (土)

客車鈍行

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ブルートレイン、SL観光列車も客車列車だけれど、やはり、旧型客車を何両も連ねた普通列車こそが客車の風情を最もよく現していると思う。
かつては急行列車などもほとんどが客車列車だったけれど、僕の世代ではもはや旧型客車の急行は数えるほどしかなくて、それでも乗りたくてわざわざ、東京からの帰途に北陸線を回って「越前」に乗ったりはしたものの、昭和50年ごろ、客車の風情を味わうにはまだまだ関西は客車王国のような雰囲気があって、手軽に味わえたものだ。
特に福知山、山陰両線は客車列車の宝庫で、夜行普通「山陰」をはじめ、ほとんどの列車が短距離の一部列車以外は客車で運行されていた。
僕の場合は、福知山線が客車を味わう最高の場所だった。
当時の福知山線は客車による各駅停車がほぼ90分ヘッドで運行され、間に気動車の快速列車が日に数本入っていたと思う。
大阪、尼崎でもこの状況で、宝塚からでも大阪まで40〜50分かかっていたのだから、三田方面から客車列車で大阪へ向かう乗客は大半が宝塚で阪急に乗り換えていた。
今思えば隔世の感がある。
けれど、その客車列車もみな、同じように見えても実は所属区で整備状態や配置車両に大きな違いがあり、このあたりは鉄道マニアで、鉄道員たるものの強みというか、好んで宮原区所属のスハ43を中心とした列車に乗っていた。
ブルーの急行用車両で揃った列車は、整備状態もよく、編成も6〜7連と長く、ゆったり楽しめるのだったけれど、運用のほとんどが篠山口以南だったので、これより北側へ行く時は使えなかった。
これに比べると福知山所属の列車はオハ35が多く、車体も傷んでいて、編成も4連が多く、いつも込んでいたように思う。
宮原のスハ43中心の列車でよく使ったのが大阪駅を10時過ぎに出る篠山口行きだった。
これに乗って、武田尾で降りて、夕方4時頃まで、のんびりと渓谷で列車の撮影をするのが楽しみだった。
当時、この路線の優等列車は昼行はキハ82の特急「まつかぜ」2本とキハ58の急行「だいせん」「たんば」だけだった。
バラエティには欠けていたけれど、いずれも好きな列車で、しかも間に来る普通列車が旧型客車をDD51が牽引する素晴らしさだった。
ここはよい撮影地だった。
春、夏、秋、冬・・それぞれに趣があり、駅の腕木式信号機とともに、大阪からこんなに近い場所で存分に鉄道と自然のハーモニーを楽しめたのだった。
客車列車は加速こそ鈍いものの、走り出すと結構早く、大阪駅と尼崎駅の間では東海道線上を90キロ以上の高速で突っ走り、スハ43の軟らかい乗り心地を楽しめた。
福知山線に入ると、単線のローカル幹線を存分に味わいながら、車軸発電機のなんともまったりとした音を聞きながら、夏ならば窓を全開し、冬ならば暖房の暖かさをありがたいと感じ、しばし時を忘れることができたものだ。

時間に余裕があるときは、播但線経由で山陰線に乗りに行った。
冬の山陰線を蒸気暖房の湯気をそこらに漂わせた風格ある客車列車は、いつも暖かく、いつも質素で、けれども鉄道の威厳に満ちていた。
豊岡や城崎の駅そばの湯気、長靴でホームにじっと列車を待つ地元の方々・・やがて入線する風格あるディーゼル機関車と連なる客車・・・これ以上の旅行の風情が、どこにあっただろう・・
僕たちは客車列車を失うと同時に、旅情をも失ってしまったように思える。