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こう@電車おやじ

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2004年12月 6日 (月)

12系客車

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12系は向かい合わせクロスシートの急行、波動用のニューフェイスだった。
車体長がそれまでの客車より長く、作りもしっかりしていてもちろん冷房もついた優秀なクルマだった。シートは向かい合わせではあっても、ゆったりとしていて、夜行などでは14系のリクライニングシートよりずっと楽だった。
その12系は国鉄も末期になると波動輸送そのものが減り、急行列車の特急格上げなどで活躍すべき場所が減っていった。
当時、国鉄はジョイフルトレインと呼ばれる団体用の特別車両を拵えて波動輸送そのものを増やしていく戦略を取っていた。
このタネ車が、多くは12系だった。
また、それでも余剰となる車をローカル区間の冷房化率向上の為に小改造して転用することにもなった。

*竜華お座敷

今の「ワカ座」だ。それまでのスロ62あたりを改造したお座敷車が時代に合わなくなって、それでも「なにわ」の前後には宮原所属のクルマをリニューアルしたのだが、竜華には新たに1編成作り上げることになった。
それまでも他局では12系のお座敷車を作っていたけれど高砂では少しイメージを変えることにした。
具体的には障子を引き違いにして、窓がなるべく全開に近い状態で使えるように・・天井は作り替えて照明なども和風に1から設計し直したりと言うことだった。
この経験は後の「みやび」で更に生きることになる。

僕はこのクルマの改造では客室の工事をさせてもらった。
気になることが一つだけある。
アスベストだ。
客室の暖房機を片側の窓に寄せたテーブルの中に仕込んだが、この断熱材としてガラス繊維を貼るスペースがなく、石綿・・アスベストを車体鋼板の内側に張り付けたのだ。
この点は後に鷹取で行った再改造工事で改良され、石綿は全部撤去されたらしい。
けれども・・それまでの数年・・アスベストの粉は暖房の空気と共に客室に入っていたのは事実であり、今思えば恐いことではある。
もっとも、板状のアスベストの表面が崩れて粉末が拡散されるのはよほどの事がない限りありえないだろうから、乗客がこれを吸い込むと言うことはまずなかったのだろうが・・

*12系ローカル

鷹取移動前後に手がけた仕事がこれだった。
山陰線のローカル列車の冷房化のためだった。
改造工事は客室の前後車端窓2枚分をロングシートにして、ここに吊手をつけ、さらに車掌室にホームから直接出入りできるよう乗務員ドアを作るものだった。
ゆったりしたシートピッチ、明るい冷暖房完備のデラックスなローカル列車が出来上がる。
僕はこの1両目からさせてもらった。
12系と同じように当時、471系電車などでも似たような改造工事をしていて各工場の特徴の出る工事でもあった。
僕は車端の座席を撤去したあとの化粧板は1枚物にして改造と言うことが一般の乗客に分からないように気をつけた。
けれども他の工場では座席枠から下の部分だけの張り替えにとどめていた。
別にそれでもいいのだが、はじめからそういう作りになっていないので化粧板の継ぎ目位置が高すぎるきらいがあった。
地図枠が元の場所に収まる為、このネジ穴だけを利用し、あとはすべて新たにネジ穴を空けてとめ直した。こうすることで工程が大きく短縮される。
さらの吊手の取り付けも治具を作って一気に立ち上げ、あとは一人で仕事が出来るようにした。僕たちのチームでは3人で1両の工事を車掌室付きで3日、中間車で2日で仕上げてしまっていた。
その頃、酒の席で僕は先輩に言われた。
「俺はおまえが恐い」
どう言う意味なのですか?・・12系の改造工事でそう思ったそうだ。
でも、僕は鉄道を退社する気になりつつある時だった。

その12系に山陰線で乗車した。いや、乗車しに行った。
ちょうど僕が工事をしたクルマだった。
僕は雪の山陰線、12系普通列車の中でひたすら酒を呑んだ。
雪と酒の味しか覚えていない。

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コメント

こうさん、はじめまして。天リウ12系お座敷には、はっきりした思い出があり懐かしさのあまりコメントしたくなりました。天リウに12系お座敷がいた当時、私は学生でしたが天鉄局で乙種臨時雇用員をしていました。主に阪和線のいくつかの駅で列車扱や客扱の作業ダイヤをもらって一交勤務をしていました。定年退職の近い駅長がその人脈や人柄・営業努力の結果、駅主催のお座敷列車の旅が実現しました。ふだんEF58は「はやたま」で通過してゆくのを見送るだけでしたが、この日はお座敷臨を牽引するEF58が堺市駅に停車し、多くのお客とともに普段の制服をスーツに替えて添乗する駅長を見送ったものです。駅長はなぜか白い手袋をしており「おっ行ってくるわ。」と嬉しげに手をあげて乗り込んでいったのが印象に残っています。末期の国鉄は乙種臨時雇用員を確保することもできなくなり私も解雇され、同じ頃すでに退職された駅長が亡くなったと聞きました。その後、近ツリで添乗員のアルバイトをするようになりました。主催旅行の多くはバスツアーでしたが、たまたま天リウお座敷臨旅行に添乗する機会がありました。跳ね上げている畳を通路にセットしたりカラオケのセットをしたりなどと添乗員は乗客と異なり車輌間を移動することが多いため6両を靴を脱いだりはいたりして往復するうちに靴下が真っ黒になったものでした。国鉄への就職を考えていましたが、国鉄はすでに採用を停止しておりJR発足の日には別の会社の入社式に出席していました。あの天リウのお座敷は、もうなくなってしまったようですね。

阪鉄車輌さん>始めまして。天リウのお座敷は和歌山へ移り「ワカ座」としてしばし健在であったと思います。今もあるのかな・・一度、鷹取工場で大規模な再改造工事を受けています。国鉄改革はある意味、鉄道を真に愛する人を鉄道から遠ざけてしまったとも言えると思います。そう思うと、あの数年が残念でなりません。

こうさん、コメントありがとうござました。初めて阪和線で12系お座敷客扱いをしたのが確か1982年か83年だったと思うので当時の配置表を調べてみました。竜華にオロ12 813/814/815/816, スロフ12 807,808が配置されていたのできっとこれですね。私は分割民営化の前後で遠ざけられたのかもしれませんね。鉄道とは関係ないIT関係の会社で20年ほどになりますが、今思うと趣味と仕事が重ならなかったことで逆に鉄道趣味が長続きしたのかもしれないと思いました。乙臨のころ車内忘れ物捜索依頼などで使った鉄電のなれのはて、ソフトバンクテレコムの方とネットワーク関係の仕事で打ち合わせをしたことがありました。懐かしいような不思議な気持ちになったものでした。こうさん、これからも国鉄にまつわるエピソードをお願いいたします。

阪鉄車輌さん>

お返事が遅くなり、申し訳ありません。

僕自身も国鉄・JRから離れることで趣味としての鉄道が今も続いているのだと実感しています。
趣味である以上、アマチュアでありたいです。
今、JR駅前を拠点に時には駅員さんと打ち合わせしながら仕事をしています。
不思議な縁を感じますよ。

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