フォトアルバム

プロフィール

フォトアルバム

こう@電車おやじ

小説サイトSTORY http://e-maiko.blog.ocn.ne.jp/story/ 鉄道掲示板 http://6551.teacup.com/kouzou/bbs プロhttp://pr.cgiboy.com/02653710/フィール

メイン | 2005年1月 »

2004年12月

2004年12月30日 (木)

冷房改造

Djuwcspn
鷹取工場で実習をしている時、電車職場に2ヶ月ほど配属されたことがあった。
当時、関西の国鉄電車は全てが吹田工場の所属で、鷹取工場の電車職場はまだ誕生したばかり、定期検査を持たず、冷房改造を専門の仕事としていた。
僕が配属されていた時はちょうど関東から転入してきた103系電車に冷房を取り付ける工事を進めていたときだった。
当時国鉄は山手線にATC導入準備をしていて、山手線の電車を改造するのではなく、阪和線などに山手線の電車を転出させ、山手線には新車を作るということをしていた。
この手法は国鉄のある間継続して行なわれ、例えば奈良、和歌山、桜井3線電化の時には、電化予算で常磐線に新車を投入し、余った中古車をほとんど手を入れずに新規電化線区に持ってくるという住民感情を全く無視した、あからさまに中央・・東京を優先する姿勢を平気で見せ付けていたものだ。

さて、103系の冷房改造だが、これが結構ワイルドで、手早い仕事だった。
骨組を強化新設する場所以外は天井を開いたりせず、化粧板の上に直接断熱材を貼り付け、外でこしらえたダクトを一気にタッピングネジでとめてしまうものだった。
飾り面にもさほど注意は払わず、それでも出来たばかりの職場で、意欲的な若い人が多く、現場ではそれなりに見栄えの向上を図ってはいた。
工期は非常に短く、その間に全般検査もするものだから、まさに粗製濫造・・
世の中は高度経済成長時代・・冷房化のピッチはどんどん早くなり、鷹取工場は誠実にそれに答えていた感じだ。
外板の歪とりは火薬を仕掛け一気に爆発させるすごいものだったけれど、仕上がりはきれいだった。
蒸気機関車を永年扱ってきた鷹取工場鉄工職場ここにありと思ったものだ。

103系は一般の人ならばよほど注意をして車内を見ないと冷房改造車か新車から冷房付だったかは分からない。
図面も新車だからといって、私鉄のように丁寧に仕上げられているわけではなかった。
阪急の冷房改造工事を見たとき、そのあまりにも丁寧な仕事振りに驚嘆したものだ。

電車職場での実習のあと、しばらくしてから僕は高砂工場旅客車職場に正式に配属になった。
鷹取での冷房改造とは、レベルが違う精密な改造工事に、しばらくは慣れることが出来ず「鷹取で手抜きを覚えてきよったな・・」先輩にそう言われて笑われたものだった。

2004年12月19日 (日)

列車の風格

2gvwnmrv
国鉄といえば、あまり良いイメージのない方も多いだろうけれども、列車の風格、あるいは品位という点、ではJRにないものがあったように思う。
車両はそれこそ、全国どこでも同じ形のものばかり走っていたし、その整備状態もよくないものもあったけれど、風格を感じたのは何故だろう?

例えば、四国へ連絡線で渡り、高松駅発の急行列車に乗ると鉄道唱歌のチャイムのあとに「青い国、四国へようこそおいでいただきました。この列車は○時○分高松駅発の急行・うわじま○号宇和島行きでございます」
と車内放送が始まる。
列車はそのころには加速をして、窓の外には操車場の風景が流れている・・車内は穏やかな雰囲気だ。
直角椅子のクロスシートは、ほぼ満席、乗客の誰もがこれから始まる旅の予感に胸を躍らせている。
質素で飾り気のない車内であるけれど、手入れは行き届き、車輪のリズムが心地よい。
車内放送は続いて、列車の編成の案内、各停車駅の案内、座席の譲り合いのお願い、最後に次の停車駅は坂出であること、降り口は左側であることを案内し、長い車内放送は終わる。
この車掌の声が、うるさくなく、穏やかで、歯切れがよく、およそ放送ということにかけては天下一品の声ではないかと思わせる出来なのだ。
列車は田園風景の中を時速80キロくらいで坦々と走る・・
キハ28系の最も心地よい速度でもある。

四国の列車に特急ができたのは昭和47年の新幹線岡山開業時だったと記憶している。特急が走り始めると、さらに接客のレベルが上がった。
上り特急では高松駅の手前で、ステレオ放送で「荒城の月」がかかり、ビックリしたこともあった。

四国の例を出すまでもないかもしれない。
当時の車掌区では接客のレベルアップを競い合ったそうだ。

関西においても、日本海や雷鳥等の特急列車はもとより、キハ28系や471系電車による急行列車でも、その風格は感じたものだ。
関東でも急行越前に乗車した時、ばんだい・まつしまに乗車したとき、列車の風格を感じたものだ。
通勤列車などではかなりゾンザイな車内放送をする車掌もいたけれど、こと優等列車に関しては教育もきちんとできていたし、車掌の誇りも高かったように思う。

こうしてみると国鉄の列車の風格というのはまさに現場の人たちが作り上げたもので、決して車両の設備やムードではなかった・・そう感じるのだ。
当時国鉄で最高峰の特急車両だった485系電車にしても、デザインや設備面では近鉄、小田急、東武といった私鉄特急車両に比べるとかなり見劣りがしたものだ。
急行用の車両に至っては、汽車そのもののつくりで、決して豪華ではなかった。
車両の面で劣る部分を、現場の人たちが作り上げていった・・思えばすごいことである。

国鉄のプライドがなくなった今、かつてのように、特急列車に魅力を感じなくなったのは、決して車両の見栄えではない。
車両のデザインは国鉄時代よりもはるかに洗練され、設備も豪華になった。
けれども、現場のプライドが薄れている・・そんな気がしてならない。

2004年12月10日 (金)

食堂車

V25ltqrf
国鉄にあって、JRにないか・・もしくは極めて少ないものに食堂車がある。
写真はキハ80系気動車のキシ80車内の様子。

僕自身、食堂車を仕事で修理したことはなかった。厳密に言うと、交通科学館のナシは触ったことがあるけれど・・これはガラスの交換をしただけだし、実際に走っている車両ではない。
当時の高砂工場では関西圏のブルートレインが中心だったので、食堂車の配置がなかったのだ。

その食堂車だけれど、実際の旅行では良く使った。
昭和50年代前半・・まだ電車特急にはほとんど、食堂車が連結されていた時代だ。
雷鳥、白鳥、ひばり、まつかぜ、やくも、
在来線の食堂車は日本食堂の営業が多く、ステンレスの食器が多かったけれども、車内で暖かいものが食べられるのは嬉しかった。
景色を眺め、暖かいものを食べることが出来て、お酒も飲めて、話も弾む食堂車・・
O君との北海道旅行の時の「白鳥」
先輩Tさんと、職場の忘年会へ行く時の「雷鳥」
そして「まつかぜ」に松江から小倉まで乗車した時・・
食堂車の思い出は尽きない。

元が貧乏性で、特急にはあまり乗らなかったけれど、特急に乗ると食堂車を使った。いわば、食堂車は特急料金と共に、旅行の贅沢として自分のなかにあったように思う。

東京へ組合の用事で行った帰り「ひかり」は混雑していて、指定はとれず、自由席は満席・・
僕はビュッフェに乗り込んで、新大阪まで立ち飲みで飲み続けた。
あてと言っても、簡単なサラダくらいしかなかったが、窓を流れる闇と光のコンビネーション、薄れゆく国鉄への思い・・いくら飲んだか、いくら支払ったか全く覚えていないけれど、今の列車では味わいたくても味わえないひと時ではあった。

今のJRに昼間運行する食堂車はない。
僅かに一部の寝台特急に申し訳程度に連結されているに過ぎない。僅かに・・九州の一部列車でビュッフェが営業されているけれど、思えば日本の鉄道はつまらなくなったものだ。
食って呑んで寝る・・こういう楽しみを出来なくなった鉄道に果たして未来はあるのか?

僕など、酒飲みだからか、列車に長時間乗車するとどうしても、何かリアクションが欲しくなる。
指定された座席を離れ、異空間の世界で酔いに身をまかせたくなる。
けれども今の列車ではその楽しみはほとんどありえない。
座席に座ると目的地まで、同じ座席のままだ。
窮屈で、息が詰まりそうになる。
自然に、車での移動が増えるのかもしれない・・クルマなら、サービスエリアで好きなものを食べて気分転換が出来る・・
もっとも・・呑む事は許されないけれど・・


2004年12月 8日 (水)

寝台車

Wqrssfth 夜行列車の没落が叫ばれて久しい。
僕は夜行と言えば、座席車を思い浮かべるたち・・つまり貧乏性なのだが、一般的には夜行列車=寝台列車になるだろうか・・
始めて寝台車に乗車したのは20系客車だった。
幅52センチの3段ベッドはお世辞にもゆったりしているとはいえなかったけれど、身体を完全に横に出来ること、20系独特の静かで、柔らかな乗り心地は走るホテルといわれていた栄光の時代を思い起こすのに十分だった。
その後、10系と呼ばれる軽量客車や24系、25型、14系にも乗車することが出来た。
僕の場合、基本的な国鉄の車両は仕事でいつも携わっており、それが為、寝台車にも妙な親近感があったものだ。
客車は静かで快適だった。
但し・・機関車による牽引のため、機関士の技量一つで停車、発車の衝撃が180度変わり、下手な機関士にあたると腹がたったっものだ。
自分が国労に所属していながら、下手は国労と決めていた感もある。そんなはずはないのだけれど・・
写真はオハネフ12の車内、寝台室の様子だ。
背もたれに見える部分を起こすと中段のベッドになる。

上段は20系などでは結構居心地の良い空間だが、この軽量客車ではクーラーの出っ張りがあり、窮屈に感じた。
このクーラーがまた、うるさい。
軽量客車グループの寝台車で好きだったのは通路側の大きな下降窓だ。窓を開けて、ホームにいる人との別れに、名残を惜しむ・・何ともおしゃれな設計があったものだが、下降窓はこれが為、この系列の客車の寿命を縮めてしまった。雨水が外部から侵入し鋼板の腐食を招いたのだ。
実際、工場の現場で室内の化粧板を外してみてみると、下降窓には侵入した雨水を抜くための水抜き穴がなく、これではくさるのも当たり前と思ったものだ。

新系列・・14系以後の車両はさすがに改善され、寝台の幅も70センチ、室内も近代的になった。
けれど、どういう訳か乗り心地は20系よりも硬く、一段落ちる感じだった。
20系が内装材の見えないところに木材を使っていたのに対し、14系以後はほぼ、全金属製になったからかもしれない。
25型はさすがにゆったりしていて、いくら乗っても乗り飽きない優れた寝台車だったけれど、いかんせん、寝台料金が高額で、しょっちゅう旅行に行く僕でも、しょっちゅう乗るわけには行かなかった。

いま・・サンライズやトワイライトの個室寝台が受けているという。
サンライズの場合、料金も普通の2段寝台と変わらず、リーズナブルな感さえある。
寝台車復活には、一刻も早く個室化が求められている・・そう感じるが、国鉄は分割されて各社それぞれの思惑があり、難しいという。
やはり国鉄は・・民営化はともかく、分割は間違いだったのではないだろうか・・寝台列車の没落を思うたび、そう実感するのだが・・


2004年12月 6日 (月)

関西気質

Rhj12jgx
新快速電車はいまや関西の鉄道を代表する列車に成長したけれど、その2代目の車両、153系を覚えておられる方もたくさんあるだろうと思う。
この車両、153系は元々が東海道線の急行用でデザイン的にもとても優れたものだったけれど、関西生え抜きの車両と関東からの転属車とでは大きな違いが一つあったことはあまり知られていないと思う。
153系はクハの正面、幌座がステンレスで出来ていて、もともとの設計はここが無塗装だったのだ。オレンジ色の正面に無塗装、輝く幌座は美しいものだったけれど、この部分は工場入場時で、塗装の際はマスキングをする必要があり、後年になって、多くの車両が他と同じ色に塗装されてしまっていた。
関西では吹田工場が担当していたけれど、この無塗装はブルーライナー色になってもそのまま貫かれた。けれども、残念ながら、ブルーライナーのグレーの部分とステンレスの無塗装とではほとんど色の差がわからず、目立ってはいなかった。
これは一つの例で、関西の頑固さと、関東の忙しさを良く表していたように思う。

前にも書いたナハ21の工事でも関東での施工車は営業に使える最小の工事で済ませていたのに対し、高砂では見栄えの向上が大切にされていたように思う。
サロンカーなにわVSサロンエクスプレス東京では、デザイン面で圧倒的に関東の勝ちに見えたけれど、丸妻の車掌室の外をわざわざ切妻に改造して見栄えの向上を図ってもいる。
12系のローカル改造でも当たり前のように改造車である痕跡を消す工夫もさせてもらえた。
阪急、阪神、京阪などはさすがに関西の私鉄で、改造もきれいだったし、古いクルマのコンディションもいつでも新車と変わらぬくらいに整えられてもいた。
国鉄の場合は同じ企業体なので、私鉄のような個性は本来出るはずも無かったけれども、そこはやはり関西人。
しっかりとこだわって、見栄えの良い車両を送り出す・・私鉄に負けてなるものかとの思いが良い仕事を生んでいたようにも思う。
スハ43などの旧型客車でも、その最晩年においてさえ、内張りのほとんどの張替えなども良くあった。屋根の張替えも結構頻繁に行なわれていた。
内装といえば、アルミデコラが出始めたころの飾り面だけが塗装仕上げだった車両でも、入場時にアルミデコラまでを塗りつぶすようなことはまずしなかった。
丁寧に飾り面だけを塗っていたのだ。

けれども、四国へ行ったときに見たキハ65、キハ26、DF50の美しさは、衝撃的だった。
「負けた・・」そう感じたものだった。

国鉄高砂工場

山陽電車荒井駅横の踏み切りは朝のラッシュ時には人と車であふれた。
電車から降りる人も多く、駅の北側に駅舎があったけれど、朝ラッシュ時だけ、地下道の中の改札口が開いて、ダイレクトに駅の南へも出られるようになっていた。
駅南の埋立地には三菱重工と、国鉄の二つの大きな事業所があって、そこでは二千人以上の人が働いていた。
かつて、昭和28年までは三菱重工、荒井駅の西側になる神戸製鋼も、その土地は国鉄のものだった。
国鉄高砂工場は軍工廠として建設されたため、車両工場としては広すぎ、効率的な車両修繕のために大改造され、余った土地が両社に売却されたのだ。
荒井駅から南へ、すぐに入れ替え線にぶつかり、歩道は線路に沿って国鉄の車両門へ、そこから南へ下がって国鉄の正門へ達していた。
車道は線路の下をくぐって、三菱重工正門前に達し、ここに交差点があって、右折してしばらく進むと国鉄前のロータリーだった。
自動車通勤している人は、乗っているクルマでどちらの従業員か分かった。
三菱の従業員は大半が三菱自工のクルマに乗っていたからだ。

国鉄の正門から入るとすぐ左手に守衛所があり、ここでタイムカードを押す仕組みになっていた。自家用車で通勤すると、一部は守衛所より内側に駐車場があったけれど、自動車通勤の増加に伴って、多くは守衛所外の駐車場を利用するようになっていた。
守衛所前の駐車場の奥には診療所があった。
内科、外科、何でも見てくれる便利なドクターがいたが、その分、ちょっとヤブだと言う噂だった。けがをしたときはいつもここでお世話になった。
自転車の場合、守衛所左脇に数百台は入れるかという大きな駐輪場があったが、ここは最後の頃には自家用車で来る人が多くなったから、かなり空いていた。
守衛所から直進すると、芝生を敷き詰めた、ゆったりした敷地に右手に本館事務所があった。通路は城内とは思えない、ゆったりした道幅だった。
本館の向かいは木機職場の材木場で、ここには大きな原木が沢山置かれていた。
木機職場の建屋は材木置き場を隔てた、ずっと南になった。大きな建屋だった。
この建物に、JNRマークと国鉄高砂工場の文字が大書きされ、遠くからも良く見えた。建物の脇には巨大な煙突が7本ほどあったように思う。
使っているのはそのうちの1本だけだった。
本館前の通路を進むと、車両の出車線に行き当たる。
何本もの線路と、その上にはいつもぴかぴかになった車両が置かれていた。
守衛所に戻って、駐輪場をすぎると、木造の更衣所、浴場があった。
浴場は古かったが、広くて気持ちが良かった。大きな湯船がいくつかあったように思う。更衣所の前は広いグランドだった。
更衣所の裏は草むらで、ここもスポーツクラブの練習場や畑などもあった。
更衣所の西に不思議な形の食堂があった。
柱がなく、広々とした建物で航空機の格納庫を改造したものだった。
広すぎたので、建物の半分は鷹取工場へ移築され、鷹取の工機職場になっていた。
食堂をすぎて、物資部と呼ばれるストアの前をすぎ、木機建屋と、材木置き場の間を抜けると、ようやく総合建屋につく。
ただっ広い大きな建物で、一つ屋根の下にいくつもの職場がはいっていた。
部品職場、鉄工職場、機械職場、一番奥のスパン2本分が車両線だった。
僕たちはほとんど、ここで仕事をしていた。
風が通らず、蒸し暑い作業場だった。建物の一番西外側に向いて作業詰所や、木造り作業場があった。事務所はこれらの二階だった。
外側には線路が2本走っていて、入場車両の回送と、試運転が行なわれていた。
線路の脇には簡単なコンクリートの塀があって、神戸製鋼との境を成していた。
ヒマなとき、ここから「おーーい」と叫ぶと、向こうからも「なんやあ」と、答えてくれたものだ。
総合建屋の南は入場、解体線、屋根作業場などで、その外側ではいつも入場待ちの車両が列を作っていた。線路に沿ってずっと外れまでいくと、廃車留置線だった。
留置線の南はぼうぼうたる草むらで、ちょっとした土手があって、ここから南を眺めると、三菱重工の埋立地が広がっていた。
その頃には、何もない埋立地だったけれど、はるか彼方、海に近いところで時折、自動車のようなもののテストをしているのが見えた。
うしろにおおきな風車のようなものをくっつけて走っているのが見えることもあった。
入場解体作業の折、夏など、南から気持ちの良い浜風が吹いてくるので、作業を一段落させて、入場待ちのクルマで涼をとることもあった。

50系客車

1ttu_lil
高砂に50系が入ってきたのは播但線の近代化用として姫路に配属になった車両が最初だった。
姫路に50系が入って1年ほどで工場職員の教習のため、数両が先行入場してきた。早速、皆であちこちをばらしてみる。
オハフ50の車体は両運転台の電車を思わせる前後に専用扉のついた乗務員室つきで、これは将来のプッシュブル運転用にも改造できると言われていたものだった。
窓枠はまったく113系電車の2000番台そのものだ。カーテンなども同じだと思うが、どういうわけか113系と違い、2段窓の上段は12系と同じく、下降する形となっている。
窓の下にテーブルはなく、このあたり、優等車ばかり扱ってきた高砂の人間は戸惑う。
シートも113系と同じ感じだが、シート背もたれの留め方は現場で好評な12系と同じ、簡単、且つしっかりしたものだったのでほっとした。
シートピッチは12系に慣れている目からは狭い。
けれどもスハフ42あたりと同じくらいだろうか?
冷房装置はなく、天井には扇風機と通常の通風器があるだけで見た目にはあっさりと見えた。
びっくりしたのはトイレの位置で、客室の外、デッキから入るようになっていた。ちょっと古い記憶だけれど、80系電車の作りに似ていた。
この作りはここに車掌が乗務するときはいいけれど、そうじゃないとき、トイレが不良高校生たちの溜まり場と化してしまう作りだった。
もともと、当時の国鉄が50系投入を急いだのは不良高校生対策があった。
彼らが旧型客車の手動ドアを開け放し、ひどいのになると出入り台から走行中に小便をしているものまでいたし、ドアを開け放してデッキでふざけあって、転落し、死傷する者が後を絶たなかったからだ。
せっかくの自動ドアの50系だけれど、ちょっとウィークポイントになりそうなのがこのトイレだなと思った。
客室の仕切りには大きな両開き式、アルミ製の引き戸がついた。車内はぐっと明るくなったけれど、なんで暖地向けのしかもラッシュ用車両にデッキ付2ドアなどを作ったのか・・いっそのこと、3ドア、デッキなしで作れば50系の寿命はもっと伸びたのではないだろうか?
天井裏をのぞいていた電気職場の人が「冷房の準備は?」と助役に尋ねている。
「配管の穴だけはあるやろ・・あとは何もなしや」助役が素っ気無く答える。
「しかし・・いずれ冷房が要るで」・・その改造のほうが手間やなあとその人はつぶやく。
客車の場合、冷房を付けようにも必ず、その電源の確保を考えなければならない。
エンジンをつけるだけの強度が台枠にあるのだろうか・・現場の人なら誰でも持つ疑問だ。
赤い車体は味気ないデザインながら、なかなか美しい。

オハ50、オハフ50に続いてマニ50、スユニ50も入ってきた。
こちらはブルーの車体だ。
車内に入って驚いたのは、床は、鋼板の上にロンテックスを一面に流し、アルミ製の荷擦れ木をその上にホップリベットで留めてあったのだが、荷擦れ木の下が腐食し、魚の腐ったような臭いが立ち込めていたことだった。
最初の全般検査で殆どの荷擦れ木を交換するというとんでもないことになった。
最初は魚のような塩分の多い、腐食しやすい荷物を積むからだろうかと思ったが、どうもそうではないらしい。魚は冷蔵貨車に積むものだし・・
結局、アルミと鋼の化学反応によるものだと分かり、あとになって、荷擦れ木をステンレス製のものに交換し始めたけれど、そのときはもう、荷物輸送の最後の頃、幾らもしないうちに、まだ新車のような車齢だったマニ50は廃車されてしまった。

50系は国鉄の最後の頃の新車で客車というものへの国鉄の思い込みがそのまま形になってしまったような車だった。
結局、時代の移り変わりを無視した設計になってしまい、現場では扱いやすく喜ばれたものの、冷房がない、出入り口が2箇所しかなく乗降に時間がかかる、そして、とどのつまりは旅客会社が機関車牽引列車を嫌ったことから、早くに姿を消してしまった。
けれども、もし、東北線あたりでEL牽引によるプッシュブル運転が実現していたら、ローカル区間の経営改善にも大きな力になっただろうにと思う。それだけの可能性は秘めていたように思う。

播但線は冷房化のためという理屈の元、まもなくキハ28系、ロングシート改造車に置き換えられてしまった。
不良高校生対策としても2ドア、デッキ付、クロスシートでは不十分だったわけだ。

高部先生

国鉄に採用された僕たちは、そのまま現場には配属にならずに鉄道学園の工作一科でしばらく学習することになっていた。
関西鉄道学園の場合、工作一科は鷹取工場の中にあった。
しばらくといっても期間は3年もあって、うち2年は現場には出ずにずっと基礎学習、最後の1年は現場を回りさまざまな実習というものだった。
これにはおまけがついていて、このままでは全員、中学校卒業の資格しか得られないことから、夜には新長田駅近くの定時制高校で普通の勉強もしていた・・ところが定時制は4年制で、残りの一年は関西在住者はその高校に自分で1年、通わなければならなかった。(地方のものはこのときに地元の学校へ転校手続きができた)

さて、その鉄道学園工作一科でずっと、僕のいたクラスを見つめてくださったのが高部先生だった。
先生は鷹取工場で内燃機職場の助役をしておられたそうだ。
戦後早くからディーゼルエンジンの専門家としてならした方だった。
厳しくも暖かい先生で、現場出身の講師にしては教育学にも精通しておられ、僕たち遊び盛りの悪ガキどもにとっては、侮れない先生だった。

ディーゼル車が心底、お好きなようでいつも、DD51のネクタイピンをしておられた。
キハ47登場の前には僕たちにも図面を見せて教えてくださったり、DD54を見たいと甘えれば、すぐ後輩のいる姫路機関区へ案内状を書いてくれたり・・鉄道ファンの先輩としても素敵な方だった。

学園での生活が残りわずかになったとき、東北方面へ修学旅行に行った。
このとき、往路には特急日本海に乗せてもらったが、この列車が新津付近で踏み切りに進入してきた自動車と衝突し運行不能になってしまった。
国鉄マンの責任感から、先頭の機関車を見に行った高部先生は故障箇所を的確に把握し、機関車のブレーキ装置を自ら修理して結局、2時間遅れで列車は走り出した。
僕たちの捨てられない思い出である。

僕は卒業後、高砂工場に配属になっていたので先生とお会いする機会がなくなってしまった。
高砂が廃止となって、鷹取へ戻ってきたときには先生は定年退職されたあとだった。

僕が鉄道を辞める決意をしたとき、一度だけ先生に電話をかけた。
思いがけず、高部先生は泣きながら止めてくれた。
国鉄退職を声に出して反対した人は先生だけだった。

舞子で仕事をするようになってから、大阪、高槻へ所用に出かけた。
なんだか無償に高部先生に会いたくなって、高槻駅に程近い先生のお宅に、突然、お邪魔させてもらった。
先生はたいそう喜んでくださり、その日は遅くまで昔話に花が咲いた。

翌年、先生が突然、亡くなったというお手紙を先生の奥様からいただいた。
先生が最後に何人か上げた教え子の中に僕の名前も入っていたそうだ。
すぐに飛んでいきたかったけれども、何も考えず、ただ高槻の近くに用事ができたとき・・僕が再び先生のおうちにお伺いしたとき、その日はまさしく先生の一周忌の日だった。

貨車職場

僕が国鉄に入社し、長い基礎教育のあと、最初に入った現場が鷹取工場の貨車職場だった。
身分はまだ見習いの準職員であくまでも実習ということで2ヶ月間に限られた。

配属されたのは下回り組で、主に2軸貨車の組み立て工事だった。
当時は貨物列車の全盛期といってもいい時代で、タクト方式という、一種の流れ作業を実施したこの職場では、1日に11両もの貨車の組立作業を実施していた。
40分ごとにクレーンが次の貨車を載せてやってくるから、その時間以内に工事は終わらなければならない。
国鉄が忙しく、民営化されるなど考えもしなかった頃だ。
2軸貨車が続くと同じ作業場に続いて持ってこられるので殺気立っていた。
ボギーがあると、台車はすでに完成品が出来ており、これをつなぐだけだから楽だった。
最高に神経を使う仕事は自連の高さ調整で、細かく、精密な仕事だったけれど、僕たち見習は見ているだけで、触らせてはもらえなかった。
僕たちの仕事は、二軸貨車をクレーンが下ろすときに車輪を手際よくはめ込み、その後、空制部品を取り付けるのだった。
このとき、割りコッタという大きな割ピンのようなものを使って部品を取り付けていくが、先輩方はハンマー一つでたった2回、打ち込むだけでコッタの先を正確に60度に開くことが出来た。
新米ではそうもいかず、一つ止めている間に、先輩一人が1両分すべてやってしまうという情けないような思いも感じた。
その間にも自連が取り付けられ、インパクトレンチの大きな音が響いていた。
一度に5人ほどが小さな貨車の下にもぐりこんであっという間に貨車の組み立ては完成する。
そして、空気ホースをつないで空気制動の試験があり、「制動!」「緩解!」と叫ぶ声がこだまする。
この叫ぶのもやらせてもらった。大きな建屋に自分の声が響くのは気持ちのいいものだった。
この職場は活気があり、現場の人たちも仕事を離れるととても親切で、忙しいが気持ちの良い職場だった。

高砂工場が廃止になると、僕たち客車担当の人間はほとんど、この貨車職場に入れられた。
貨車の両数が減っており、一日の仕事量も4〜5両と、かつての賑わいがうそのような閑散とした職場になっていた。
貨車職場は高砂の旅客車職場と統合され、客貨車職場になった。
それまで黒か茶色の貨車ばかりだった建物に最初に25型が入ったときは元々、鷹取にいた人たちは感嘆の声を上げていた。
実習でお世話になった方々とも再会し、また一緒にのみに行くようになった。

僕は国鉄の最初の仕事と最後の仕事をこの貨車職場の建屋で過ごしたことになる。

12系客車

Ip6tympq
12系は向かい合わせクロスシートの急行、波動用のニューフェイスだった。
車体長がそれまでの客車より長く、作りもしっかりしていてもちろん冷房もついた優秀なクルマだった。シートは向かい合わせではあっても、ゆったりとしていて、夜行などでは14系のリクライニングシートよりずっと楽だった。
その12系は国鉄も末期になると波動輸送そのものが減り、急行列車の特急格上げなどで活躍すべき場所が減っていった。
当時、国鉄はジョイフルトレインと呼ばれる団体用の特別車両を拵えて波動輸送そのものを増やしていく戦略を取っていた。
このタネ車が、多くは12系だった。
また、それでも余剰となる車をローカル区間の冷房化率向上の為に小改造して転用することにもなった。

*竜華お座敷

今の「ワカ座」だ。それまでのスロ62あたりを改造したお座敷車が時代に合わなくなって、それでも「なにわ」の前後には宮原所属のクルマをリニューアルしたのだが、竜華には新たに1編成作り上げることになった。
それまでも他局では12系のお座敷車を作っていたけれど高砂では少しイメージを変えることにした。
具体的には障子を引き違いにして、窓がなるべく全開に近い状態で使えるように・・天井は作り替えて照明なども和風に1から設計し直したりと言うことだった。
この経験は後の「みやび」で更に生きることになる。

僕はこのクルマの改造では客室の工事をさせてもらった。
気になることが一つだけある。
アスベストだ。
客室の暖房機を片側の窓に寄せたテーブルの中に仕込んだが、この断熱材としてガラス繊維を貼るスペースがなく、石綿・・アスベストを車体鋼板の内側に張り付けたのだ。
この点は後に鷹取で行った再改造工事で改良され、石綿は全部撤去されたらしい。
けれども・・それまでの数年・・アスベストの粉は暖房の空気と共に客室に入っていたのは事実であり、今思えば恐いことではある。
もっとも、板状のアスベストの表面が崩れて粉末が拡散されるのはよほどの事がない限りありえないだろうから、乗客がこれを吸い込むと言うことはまずなかったのだろうが・・

*12系ローカル

鷹取移動前後に手がけた仕事がこれだった。
山陰線のローカル列車の冷房化のためだった。
改造工事は客室の前後車端窓2枚分をロングシートにして、ここに吊手をつけ、さらに車掌室にホームから直接出入りできるよう乗務員ドアを作るものだった。
ゆったりしたシートピッチ、明るい冷暖房完備のデラックスなローカル列車が出来上がる。
僕はこの1両目からさせてもらった。
12系と同じように当時、471系電車などでも似たような改造工事をしていて各工場の特徴の出る工事でもあった。
僕は車端の座席を撤去したあとの化粧板は1枚物にして改造と言うことが一般の乗客に分からないように気をつけた。
けれども他の工場では座席枠から下の部分だけの張り替えにとどめていた。
別にそれでもいいのだが、はじめからそういう作りになっていないので化粧板の継ぎ目位置が高すぎるきらいがあった。
地図枠が元の場所に収まる為、このネジ穴だけを利用し、あとはすべて新たにネジ穴を空けてとめ直した。こうすることで工程が大きく短縮される。
さらの吊手の取り付けも治具を作って一気に立ち上げ、あとは一人で仕事が出来るようにした。僕たちのチームでは3人で1両の工事を車掌室付きで3日、中間車で2日で仕上げてしまっていた。
その頃、酒の席で僕は先輩に言われた。
「俺はおまえが恐い」
どう言う意味なのですか?・・12系の改造工事でそう思ったそうだ。
でも、僕は鉄道を退社する気になりつつある時だった。

その12系に山陰線で乗車した。いや、乗車しに行った。
ちょうど僕が工事をしたクルマだった。
僕は雪の山陰線、12系普通列車の中でひたすら酒を呑んだ。
雪と酒の味しか覚えていない。